トップページ > 北山研ヒストリー> 宇都宮時代 三年め 1.3 宇都宮三年め 宇大3年目には、卒論生が3人ついた。福岡誠くん、藤田崇くん(現新日鉄)および松元昭一郎くん(現大成建設)である。さらにM2の江藤君が那須塩原の五洋建設技術研究所でRC立体柱梁部分架構試験体に二方向載荷する実験を行うことになって、私も自分の研究室を持ったかのような忙しさであった。都立大学の芳村学先生と津村浩三先生(現弘前大学)とが那須の技研にテニスしに遊びにおいでになったのもこの頃である。 宇大工学部の脇には雷鳴寮という名前の学生寄宿舎があって、私についた小嶋千洋くんを始め、福岡君や材料研に進んだ中村成春くん(現在は宇大材料研の准教授)も寮の一員であった。雷鳴寮は、とにかく現代とは思えないバンカラな雰囲気を色濃く残していた、貴重な遺産?であった。 さて研究のほうであるが、松元君はM2の江藤君とともに那須で実験することにして、残りの福岡君と藤田君とは例によって東大工学部の11号館地下2階で実験することになった。福岡君には上述した科研費によるパネル実験を担当してもらい、藤田君には青研修士課程の李祥浩(い さんほ)さんとともに高強度材料を用いたRC柱梁部分架構実験を実施してもらった。 この年(1990年)、私は青山博之先生から工学博士(東京大学)の学位を授与された。そしていつの頃だったか忘れたが千葉大学の野口博先生から助手として来ないか、とのお誘いをいただいた。私が青研のM1だった頃、野口先生がトロンロ大学へ一年間出掛けることになって、野口研の卒論生(栗栖浩一郎くん[現大林組])を青研で面倒見ることになり、その直接の担当が私だった、という縁があった。その後も野口先生からFEM解析についてご教示いただき、そのプログラムもご提供いただいたり、1987年にはニュージーランドの三国セミナーにご一緒させていただいたりしたこともあり、野口先生には大いにお世話になっていた。
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