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このページは北山老人が日常で遭遇したちょっとした出来事や愚感などを思いのままに書き散らかすコーナーでございます。このコーナーは十八年めとなりました。長年に渡ってお付き合いくださる皆さまにはいつも感謝しております。
なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。あいつもついにボケたか(って、いつものことですけど)っていう諦めに似た境地でご笑覧いただければこれに勝る幸せはございません。
お正月が明けた今日から2026年版を掲載します。更新は例によって不定期ですが、ご了承のほどをお願いいたします(2026年1月5日)。
亡国か天国か (2026年2月9日)
一夜が明けて選挙結果が確定しました。事前の予想を上回って自民党が地滑り的大勝利に至ったようでして単独で316議席を獲得し、維新を加えた与党としては352議席になりました。ありゃ〜、ため息しか出て来んわなあ。
朝日新聞ネット版より
それに対して立憲民主党と公明党とが合同して結党した中道改革連合は大敗し、これまでの議席数の1/3にも満たない49議席しか獲れませんでした。同じように中道を唱えてはいても一方は宗教がらみなので、これまで立憲民主党を支持した層が一気に離れたということでしょうか。かく言うわたくしも比例代表では中道には投票しなかったくらいですから推して知るべしでしょう。それとは反対に新興のチームみらいは比例区のみの当選でしたが11議席を獲得して躍進した、と言われています。
事前の調査では若い年齢層ほど自民党を支持しているそうです。それはいわゆる高市人気に引きずられるところはありそうですが、これまでにこの政党がやってきたことをほとんど理解していないのではないかと危惧します。日本の将来は若い人たちに委ねられるわけですから、その当事者たちが日本の歴史を知らないということは大変に危険なことと思いますし心配になります。
これで自民党はもうやりたい放題できるということになりました。国民の選択ですから唯々諾々と従うほかはありませんが、これが天国へと至るのか、はたまた亡国への道を転がり落ちるのか…。これまでの歴史を思い返せば後者のほうが近いのではないかと畏れておりますが、そうならないことを祈るばかりでございます。でも戦争になったら真っ先に徴兵されるのは若者であって(現在の日本を牛耳っている)老人たちではないことを若者たちはちゃんと認識しているのだろうか…。
雪の投票 (2026年2月8日)
朝起きるとそこは一面の銀世界でした。久しぶりに東京でも雪が積もりました。ただ幸いなことにそれほど積もることはなく、お昼過ぎには降りやみました。道路の雪もほとんどなかったのでおやつどきに衆議院議員選挙の投票に行って来ました。投票所はいつもの地域センターです(したの写真のかまぼこ屋根の建物)。梅村青山研究室の先輩である河村壮一さん(元大成建設技研所長)がこのすぐそばにお住まいなので、ここに来るといつもお元気かなあって思います。
わが選挙区には自民、中道および参政党の三人が立候補しました。自民と中道(もとは立憲)とは昔からの因縁の対決でお二人とも地元出身者ですが、参政党の方は知らないひとです。迂生は権力には与しませんし、右寄り保守も嫌いなので選択は必然的に決まってしまいます。比例代表のほうは新興のエンジニア党に入れておきました。
こんなに雪が積もった日の投票は何年ぶりでしょうか…。全国的に大雪のようなので投票率は下がりそうです。それがどのような結果をもたらすのか興味津々ですが、自民党の圧勝だけは避けてほしいと願っています。

春の使者と今年は増えた図面 (2026年2月4日)
昨日は節分でしたが、ついに春の使者がやって参りました、花粉ちゃんです。明けがたに鼻が無性に詰まって目が覚め、くしゃみを連発して花粉の本格的な到来を知りました。これからしばらく、つらい季節が続くかと思うと憂鬱です。近くの農地では蝋梅が咲いていますからもう春はすぐそこという感じで嬉しいのですが、花粉ちゃんだけはご免蒙りたいものでございます。
きょうの立春には卒業設計の採点があります。ことしも国際交流会館の交流スペースでの開催になりました。今年度の卒業設計は何をやっているのか、何を言っているのか全然分からないという作品はほぼなくて、まずまずの出来ではないかと思います。15名の図面枚数の平均は8.6枚でしたので、そのことが例年よりもよい評価になって表れたのかとも考えます。そのせいかわたくしの採点作業にも力が入ったようでして、ことしは一時間半ほどの時間を要しました。
今年度の作品群には若者らしい情熱の発露なんかもあったりして、そういう発表は迂生は好きで個人的には評価します。でもそれは卒業設計としては成り立たないんじゃなかろうかと思いました。当該の学生さんにはそのことをもちろん伝えました。建築としての作品の出来栄えと個人的な好き嫌いとは全く別ですからね。
ところでこの国際交流会館は本学南大沢キャンパス内に幾つかある高橋てい一さんの作品のひとつで、北面のガラス・ブロックのファサードとガラスの螺旋階段とが美しい建物です。暖かい季節には前面の芝生の緑が綺麗に映えてこの建物を引き立ててくれます(今は芝生は枯れて薄茶色になっていますが)。
ところがこの芝生の空地は数年後には姿を消す運命となりました。新設される国際関係学部の建物がここに建設されることになったからです。この辺りはキャンパス内でもとても景観のよい場所ですし、そんなことをするとこのガラスのファサードが見渡せなくなって魅力半減ですので、それはやめて欲しいというのがわが建築学科の意見でした。でも、キャンパス内にもう場所がないらしくてあっさり却下されたようです。
そういう無粋な要求によって美しい景観などはあっという間に消えて無くなるかと思うと本当に残念に思います。ただし景観をぶち壊すその新棟が完成するのは迂生が本学を退職したあとのことなので、その悲しい姿を見ないで済むことはよかったかもね。
実験室の師匠とねじり鉢巻 (2026年1月28日)
大寒を過ぎましたがとても寒い日々が続いております。日本海側では大雪で難儀されているかと思いますが、関東平野では乾燥した天気のために水不足だそうで、それはそれで困ります。
迂生の研究室の学生部屋に山積みされた実験写真ですが、整理を続けて来て少しづつですが片付いて来ました。そのなかに師匠・青山博之先生が本学の実験室にお出でになったときの写真があったので披露します。
これは面取りしたコンクリート角柱にガラス繊維シートを巻き立てて耐震補強したときの圧縮特性を高剛性試験機によって検証するという実験で1997年のことです。青山先生をヘッドとして、当時横浜国大助教授だった前田匡樹さんと迂生(本学助教授)とが兵隊?になって実験等を分担した研究でした。わが社の実験担当は助手・小山明男さんと大学院生・豊田浩一さんです。
したの写真では試験機にセットされた試験体が中央にありますが、そのすぐ左後ろが師匠で、左端は迂生、試験体の右側でのぞき込んでいるのが前田さんです。もう三十年も前のことですから皆さんお若いですね。
上の写真の中央で腕組みされているのが師匠・青山先生です。皆で実験グラフやデータを写したCRT(当時はブラウン管なのでやたらとでかい!)を見つめているらしく、座ってマウスを触っている豊田くんのすぐ左後ろが小山助手、その左が迂生です。青山先生の左後ろで顎に手を当てて沈思黙考?しているのが前田さんですね。誰が撮影したのか分かりませんがその場の真剣な雰囲気がよく出ているいい写真です。ちなみに左端でカメラを抱えているのは多分、前田研の大学院生だった堀さんだと思います。豊田さんの右後ろのスーツ姿は堀江研の小杉さんかな。
誰もヘルメットをかぶっていないのは現代ではアウトですが、当時の大学ではフツーだったかな(と、言い訳している)。測定したデータの全数値をプリンターで出力して保存していたことをこの写真で思い出しました。今にして思えばその記録用紙は捨てるだけなのですが、デジタルデータの紛失や誤消去を心配してこうしていたのでしょうね。
ところでこの写真を載せたわけは別にあって、それは師匠が実験室を訪れるのは非常に珍しかったからです。わたくしが青山研究室の学生だった頃には実験ばっかりやっておりましたが、そういう現場に青山先生がお出ましになられた記憶はありません。それは青山先生が非常にお忙しかったことが一番の理由でしょうが、研究室内の研究実務は全て小谷俊介助教授が取り仕切っておいでだったこともあったかと思います。小谷先生が実験室に来てひび割れ書きをしてくださったことは以前に書きました。
そんなわけで、青山先生がわざわざ八王子の南大沢くんだりまでお出でになり実験をご覧になってくださったのは、迂生にとっては青天の霹靂であり、甚だありがたいことだったのです。
ちなみにわたくしは自身で研究室を主宰するようになっても実験大好き人間は変わらず、学生諸君とできるだけ実験を共にするようにして来ました。したの写真も発掘したものですが、本学の機械・建築実験棟で鉄筋にゲージ貼りをしているところらしく研究室のメンバーに混じって迂生も一緒に作業をしています。灰色の作業着でねじり鉢巻をしている後ろ姿のヤツです、あははっ。頭に赤いバンダナを巻いた黒Tシャツは実験担当のM2田島祐之さん、中央はD1森田真司さん、左端の手拭い被りは卒論生・万造寺学さんです。1999年のことでした(岸田慎司さんが助手に着任する直前だと思う)。

せわしない週末 (2026年1月26日)
この週末はあわただしく過ぎて行き、休んだ気がしませんでした。もっともあと一年ちょっとで毎日が日曜日になって四六時中休んでいられるので、こんな贅沢?も今だけかもね、あははっ。
さてその週末ですが、家人の具合が悪くなって病院に連れてゆくことから始まりました。そうこうしているうちに、わが社の学生諸君から卒論・修論の梗概を添削するように求める依頼がどんどんとメール添付で送られてきました。週末明けの本日お昼が提出締め切りなのでまあそうなるだろうな、とチラッと予想はしていましたが、今年度の学生諸君は皆さん真面目みたいで迂生の予想通りになったのは嬉しい誤算でした。
毎年この時期に梗概〆切はやってきますが、わたくしのチェックを一度も受けずに提出するという剛の者も過去には結構いましたので、ことしのメンバーはみんな偉いなあと思ったくらいです。ということで真夜中までずっと添削を続けました。卒論梗概は二枚なのでまだいいのですが、修論梗概は六枚なのでかなり大変です。途中から、修正した部分は赤字で示すようにお願いしたのでその労力はかなり軽減できましたが、それでも延べ12編にわたって添削を繰り返しました。
梗概をこんなに見たのは何年ぶりかなあ。でもこれで今年度のメンバー諸君は豊作の部類に入るような気がしてきました、そのことは素直に嬉しいです。
添削の合間に大相撲初場所をテレビ観戦しましたが、新大関・安青錦が優勝したのにはやっぱり驚きます。それがまだ二十一歳というのだから、大学だったら三年生とか四年生ということになり驚きはいや増します、すごいですね。横綱の豊昇龍にはいつも期待しているのですが、もうちょっと自信を持って相撲を取ればいいのにって思います。来場所以降の奮起を待っています。
ナルシストの首相が衆議院を解散して、その選挙が明日公示されます。解散表明の記者会見ではご自身のお名前「高市早苗」をフルネームで六回も連呼したっていうから、自己愛の過剰ぶりが分かろうというものです。しかしその背後にはなんだか軍靴の響きがひたひたと押し寄せつつあるように感じられて怖いです。
でも結局のところ決めるのは市井の民草です。約九十年前に日中戦争が勃発しやがて米英との戦争に突入したのも国民がそれを熱狂的に支持したからでした。その歴史を正しく認識して今回の選挙に臨んでほしいとわたくしは考えますが、どうですかね…。消費税廃止などという耳当たりのよいフレーズに迷わされると亡国への道はすぐそこにあるように感じますけど、大丈夫だろうか。
写真 南京陥落祝賀の提灯行列(1937年12月、西宮市) 西宮市のサイトより
この冬最強の寒さ (2026年1月23日)
けさはこの冬一番の冷え込みになったそうで、東京都心でも氷点下2度まで下がったそうです。ということは八王子市南大沢では多分、マイナス6度くらいだったろうと想像します、おおさぶっ。朝に渡った野川でも川面にうっすら氷が張っておりました、おお寒っ。
先日書いたように明日から始まる大学入学共通テストの追試験が本学南大沢キャンパスで実施されます。その準備のために今日は授業がないみたいでキャンパス内は閑散としていました。写真のような立て看板は初めて見たな。

さて本学建築学科では今年度の高木学科長・多幾山幹事の差配によって卒論・修論の梗概提出が来週早々にセットされました。例年よりも提出が一週間ほど遅くなって、そのぶん学生諸君は執筆に打ち込める?はずでして、わが社でも該当する五名の諸君が梗概に取り組んでいます。彼らから急に梗概チェックのメールが来たりするので、わたくしもなんだか慌ただしい気分に浸っております。でも梗概を書くのは君たちなんだから、そこんとこよろしく。
お昼ご飯を食べながらパソコンでラジコを聴くことが多いのですが、突然、えも言われぬ心地よい唄声が流れてきました。えっこれってなんだろうと思って見ると、それはフランク永井さんが歌う『ウーマン』という曲でした(例えばこちら)。イントロの鐘やらサクソフォンからしてゴージャスなのですが、ものすごい低音の唄声が絶妙に揺らぎながら進行してゆくのがやたらと気持ちいいんですよ。フランク永井なんて(いっちゃ悪いですが)聞いたことが全くなかったのでかなり驚きました。
で、調べてみると『ウーマン』は1982年発表で作ったのはなんと山下達郎でした、いやあ、またもや驚いたなあ。さすが達郎だけあって素晴らしい音楽に仕上がっていました。この曲が発表された当時わたくしはNiagara Triangle Vol.2(大滝詠一、佐野元春、杉真理)なんかを聴いていた頃でして、フランク永井は眼中の外のさらにまた外でしたな…というか彼はムード歌謡っていうイメージしかなかったから。 いやあ、世の中、知らないことだらけですな。
ちなみに『ウーマンWoman』というとジョン・レノンが真っ先に思い浮かぶでしょうが、迂生は中西圭三の同名異曲が入ったCDを持っています。どちらもいい曲ですよね。
めずらしいこと (2026年1月19日)
この週末に日本全国で大学入学共通テストが実施されました。新聞に掲載された国語の問題をチラッと見たら、遠藤周作の小説が題材になっていました(「影に対して」という表題で、わたくしは読んだことがなかったけど)。わたくし以前の世代にとっては遠藤周作は馴染みの人気作家でしょうが、現代の若者にとっては遠藤周作って誰?という認識でしょうね。狐狸庵先生なんて言っても知らんだろうな、きっと。わたくし自身は『沈黙』と『海と毒薬』とは高校生のときに読みましたし、支倉常長を描いた『侍』とか『キリストの誕生』や遺作となった『深い河』も読みました。
ところでこの大学入学共通テスト(大昔は共通一次試験)ですが、迂生が大学教員になって以来、自分の勤める大学は必ずその試験会場になってきたのですが、今回初めて試験会場になりませんでした。そんなこともあるのだと知ってびっくりしました。ただしその代わりに今週末にある追試験の会場に選定されました。でも追試験を受ける方は少数ですから、南大沢キャンパス内の一部の教室だけを使って試験が行われるようです。長い大学教員生活のなかではこんな珍しいこともあるのかと思ってここに記した次第です。皆さんの大学ではいかがでしょうか。
写真 冬の東京都立大学 南大沢キャンパス(2024年12月撮影)
懐かしの900番 (2026年1月16日)
シューベルトのピアノ曲900番が懐かしくなって…という話しではありません。昨年暮れに代官山に行きましたが、お日和もよかったので帰りぎわに東大駒場キャンパスにフラっと立ち寄ってみました。駒場キャンパスに踏み込むのは2013年4月に師匠・小谷俊介先生の古希のお祝いをここのファカルティ・ハウスで執り行って以来です。
京王井の頭線の駒場東大前駅で下車して改札左手の階段を降りると目の前に駒場キャンパスの正門があります。正門前には立て看板がたくさんありましたが、それらが結構秩序だって並んでいるのにちょっと目を引かれました。どれも綺麗にデザインされていて、昔の「造反有利!」みたいな赤字の絶叫調の立て看は皆無です(構内には少し見かけましたが)。
さて、正門を入ってすぐ左手に懐かしい建物が今も残っていました。それが上の写真の900番教室です。駒場キャンパスの敷地は元は旧制第一高等学校のそれでしたので、この建物も当初は一高の講堂として1938(昭和13)年に建てられました。設計は内田祥三[うちだ・よしかず]先生です。長年、建築学を勉強して来た今になって見ると内田ゴシックと言われるように重厚な佇まいを感じますが、教養学部の学生として迂生がこの900番教室で授業を受けていた当時は、なんだか薄暗くて陰気な感じの建物だなという感想ばかりが残っています。
この教室は当初は講堂だったようにかなり広いことからマスプロの授業に使われていて、わたくしは似田貝香門先生の「社会学」をここで受けました。授業内容などは全く憶えていないのですが、飄々としてちょっと軽めの授業スタイルや先生のお名前が変わっていること(「にたがい」なんて苗字は聞いたことがなかったし、「かもん」という下のお名前は昔のお侍か、はたまた英語か?)と、似田貝先生が当時は山梨大学の先生だったことが妙に印象に残っていました。
こちらは大学に入ったばかりで新宿区のアパートから駒場キャンパスに通ったのですが、この先生はわざわざ山梨から駒場まではるばる通っているのかっていう(今思えば世間知らずな)ちょっとした驚きがあったのかも知れません。山梨大学の先生がどうして駒場で教えているのだろう、という疑問もありましたね。東大なんだから教えるのも東大の先生だろっていう純粋無垢な感覚だったのでしょうか。
こんなことを思い出しながら似田貝先生のことをネットでリサーチすると(もうホント便利な世の中になったな)、先生は東京学芸大学教育学部を卒業されて東大大学院に進み、その後1973年に山梨大学の専任講師になったあと、1989年に東大文学部助教授に着任されたのち教授になり、東大副学長も務めていました。なるほど、この方はわれわれの先輩で実は優秀なかただったんだなあ…、っていうことをいま知りました。なお似田貝先生は残念ながら2023年2月に80歳で他界されていました。
900番教室からこんな記憶が海馬の奥から紡ぎ出されましたが、この日はたまたま何かのセミナーがこれからあるらしく扉が開いていて、現役の東大生に混じってこの教室に入ることができました。それがしたの写真ですが、何だか知らんけどやたらに小綺麗になっているじゃないですか!って、もう驚いたな。白い内装に白い机椅子が並べられたせいかやたらに明るいですし、広々として清潔感が漂っていました。これは迂生が憶えている埃っぽくて薄暗かったものの懐かしい900番教室とは全然異なっていました。まああれから半世紀近く経ったのだから当たり前か…(いつものフレーズです)。
900番教室の裏側を撮ったのが上の写真です。この教室にアクセスするのはふつうは表側ですから、この裏側には全く記憶がございません(悪辣な政治家みたい、あははっ)。でも、三角形状の屋根がちょっと前に飛び出したこのデザインは本郷キャンパスにもたくさん見られるモチーフですよね。
この裏側からちょっと西に歩くと懐かしいグラウンドが今もありました。当時は土面でしたが、人工芝になっていました。大学入学当初にサッカーをやろうと思って駒場キャンパスをうろうろとしていたらこのグラウンドに辿り着きました。でもここでやっていたのはグラウンド・ホッケーだったのです。皆さんには馴染みがないでしょうが、Jの字形の木製スティックを持って走り回りながら野球の球くらいのゴム製球を打つやつです。野球とは全く違っていて、どちらかといえばサッカーに近いかな?
「なんだサッカーじゃないな、これは」って思ってグラウンドから立ち去ろうとしたとき、そこでホッケーの練習をしていた先輩から「サッカーもホッケーもおんなじだから一緒にやろうよ」って(無茶苦茶な理屈ですけど)オルグされました。ということでそれから数ヶ月間はホッケー部員でした。この話しは何度も書きましたが、ホッケー部は東大運動会に所属する正式の部活動でなおかつ当時は大学ホッケーリーグの第一部に所属していたのです。
そんなバリバリの体育会系なのに、とにかくその練習方法はゆるいというか「合理的」でした。東大で研究されている最新の体育理論に基づくということで、疲れたら休んでいいし水もいくら飲んでも構いません。さらにそこでホッケーをやっていた先輩たちが誰ひとりとして偉そうに威張ったりしないのですよ。リベラルというか紳士的というか、少なくとも迂生が高校サッカー部で体験した上級生への隷属みたいな雰囲気は皆無で、そこに魅かれましたね。
グラウンド・ホッケーは高校までにやったことのある経験者がほとんどいない、というのがひとつの特徴でして、誰もが入部した当初は初心者なのでそれがフラットな関係性を作り出していたのかも知れません。ただし東京学芸大学附属高校にはホッケー部があったそうで、そこから来た同級生は最初からレギュラー並みの腕前でした。
ホッケー部にはいろいろな学部の先輩がいて、そういう人たちと話すのは楽しかったですね。迂生は東京生まれの東京育ちでしたから、地方出身のひとと親しく話すようになったのも大学入学後でした。地方出身で経済学部の先輩と仲よくなって一緒にビリヤードをしたり、百人町のアパートに来てもらったりしました。伊達さんという方でしたが今はどうしているのかなあ、エリートとして活躍されたのでしょうね。
あるときホッケー部の総会をやるので部のOBの人たちに電話で案内をすることになりました(今のようにメールはないのだ)。そのときわたくしに割り当てられたOBのひとりに小場春夫[こば・はるお]さんがいました。この方は1937(昭和12)年に東大建築学科を卒業されて当時は安藤建設にお勤めだったと記憶しますが、なによりも詩人・立原道造の親友として立原道造全集に収載された書簡にたくさん登場する方だったのです。
わたくしは高校生のときから立原道造全集に触れていたので、小場春夫さんはわたくしの中ではちょっとした有名人でした。そのお名前を見て驚きましたし、その方がホッケー部に所属していたことは初めて知りました。それでご自宅に電話を差し上げてお話しをしましたが、柔らかい物腰で話しをされる方でした。その総会にはわたくしは具合が悪くて行けませんでしたので、小場さんに直接お会いすることはできませんでした。小場さんからともに過ごした立原道造の思い出を伺えなかったことを今でも残念に思っています。
話しをもとに戻して、その当時は駒場キャンパス内には学生寮(コマ寮と呼んでいたような気がする)があって、そこの一室がホッケー部の部室でした。ガッチリとした鉄筋コンクリート三階建てくらいの建物で壁が多かったせいかこちらも薄暗くてひんやりとしていたような気がします。そこでよく徹夜で麻雀をやりました。そうすると家には帰らないわけですが(って当たり前)、無断で泊まると母に怒られたものでした。今思えば息子が帰って来なければ親が心配するのはモノの道理なのですが、子供はそうは思わないわけでして、親の心子知らずとはよく言ったものです。このことはひとの親となった今になって思い知らされております、はい。
ちなみに駒場寮はいつの間にか取り壊されて、したの写真のような記念物としてわずかにその痕跡を残しておりました。まさにつわものたちの夢のあとといった感じです。これにとどまらずに駒場キャンパスは大きく変貌していて驚いたことはまだまだあったのですが、それは機会があったらまた別にご紹介することにいたします。

近ごろの成人式 (2026年1月12日)
晴天のよいお日和に恵まれたきょうは成人の日です。しばらく前から満18歳が成人ということになりましたが、わたくしの暮らすK市では成人式のお祝いは今でも二十歳になってからするそうです。ということで愚息が市の開催する成人式に行ってきました。会場は駅前にある市営公会堂です。
で、これはおめでたいことなので盛大にお祝いすること自体には異論はないのですが、最近の成人式では親たちが写真を撮りに大挙して出かけるらしいのです。お上さまにはママ友たちから「写真撮るぞ〜」っていうお誘いのメールがたくさん来るらしくて、式典が終わる頃を見計らってお上さまもいそいそと出かけて行きました。
でもなんか変なんじゃないですかね?やっと子供たちが(公には)大人になったというのにまだ親がそれにかかわるのって一体どうなのよと迂生は思うわけです。名実ともに大人になったのだから、そんなことを親がするなんて過保護なんじゃないかなあ…、まあいいんですけどね。
式典が終わったあと、駅前広場に一中から四中までの看板が立てられてそれぞれの出身中学校ごとに集まったそうです。小さい市なので公立中学校は四つしかなく、愚息は公立中に通ったので同じ中学校の仲間と集まって旧交を温めました。でも家内が言うには中学入試を受験して私立中などに進学したひとは集まる場所がないので孤独に立ち尽くしていて可哀想だった、とのことでした。そうだよなあ、なんだかとっても気の毒に思いました。せっかく地元の成人式に出席しても互いに祝い合う友人がいないとしたら…、迂生だったらやっぱり悲しくなるだろうな。
翻って自身の成人の日のことを思い返すと、わたくしは新宿区立の中学校を卒業したので新宿区の会場に行ったような気がします(会場がどこだったのかは憶えていません)。でもわたくし自身は普段着で出かけましたし、晴れ着の女性なども見た記憶がありません。そんな大昔では今みたいな派手な成人式ではなかったのかも知れません。でも中学校時代の友人が少なかったということもあって、わたくし自身が上述のような孤独な参加者だったのでよい思ひ出がなかっただけかも知れません。
景気づけ (2026年1月9日)
研究室の新年会を昨晩、開きました。新年会をするのはすごく久しぶりな気がします(この前にやったのはいつだったか思い出せない…)。来年度は研究室メンバーの人数が激減するので、今回がわが社における最後の光芒?という気がいたします。それと同時に卒論あるいは修論を執筆するひとが大多数なので、そういう人たちの奮起を促して景気をつけるという意味合いもありました、大決起集会って感じかな。あわせて三年生二人が研究室配属になったのでその歓迎会も兼ねています。
今回も迂生のわがままを聞いてもらって調布で開催しました。昨年末に建築学科の先生方の忘年会をやったところが結構美味しかったので同じ場所にしました。量は少ないので学生さん向けではないでしょうが、年寄りには十分なのでまあいいか。学生諸君の最後の追い込みに期待しております、じゃ頑張ってね。

坂の上の富士 〜目黒区青葉台の目切坂 異聞〜 (2026年1月8日)
代官山のヒルサイドテラスの脇から入って目黒川へと至る下り坂のことを先日書きました。わたくしが訪れたとき、この坂は道路工事のために車両通行止めでしたが、したの写真のように結構狭い道で迂生が子供の頃から下り方向への一方通行になっています。旧朝倉邸の敷地の南側を通る坂は両側がかなり鬱蒼とした樹林になっていて薄暗い雰囲気を醸し出しています。この坂は目切坂という名前ですが別名で暗やみ坂とも言われたそうで、いかにもさもありなんという感じです。ちなみにこの坂道も鎌倉街道の一部ということです。
この坂上の入り口のところに、国土交通省関東地方整備局が設置した小さな表示板がありました(上の写真の木の手前)。そこには「関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり 地点名 東京富士見坂 平成16年11月」と書いてあります。そこでお役所のHPを見ると、うえの写真の二本のケヤキのあいだから富士山が望まれるとのことでしたが、残念ながら迂生は富士山を見ることはできませんでした(HPをよく見ると「今はもう見えない」と追記がありました)。言っちゃ悪いですがこんな地味な坂道がお上から選定されたことを不思議に思いましたが、それはどうやら以下のように富士山にまつわる事情みたいです。
この場所は江戸時代後期くらいから富士山信仰と密接に関わっていました。目切坂の坂上にしたの写真に示す「目黒元富士跡」という掲示板があり、それによると今マンションがある敷地には1812(文化9)年に高さ12メートルの富士塚が築かれました。はるかな富士山まで行かなくても富士塚に登ることによって富士登山と同等のご利益を得られるという民間信仰によるもので、目黒区上目黒の富士講に参加した人びとがこの富士塚を築きました。その後、中目黒にも新しい富士塚が築かれたことから、ここは元富士と呼ばれるようになったそうです。この元富士は明治になって取り壊されました(岩倉具視の別邸建築のためだったらしい)。
このように江戸後期にはこの場所は結構な名所だったらしく、初代・歌川広重が1857(安政4)年に版行した『名所江戸百景』のなかの「目黒元不二[もとふじ]」という作品にも描かれています。それが下の錦絵でして東京都立図書館のサイトからいただきました。
画面の右手前に青々とした富士塚があり、左手奥には雪をいただいた純白の富士山が描かれて対比の妙を感じます。富士塚の麓では、登拝を終えた地元の人びとでしょうか、木台の上でお弁当でも楽しんでいるようです。富士塚に生える青松と真白き富士の嶺という題材はおめでたさの二重がさねということでしょうか。当時の目切坂の上からも(デフォルメされているでしょうけど)この絵のように富士山が望まれたということでしょう。
この目切坂の入り口に代官山交番があることはこの前書きましたが、そのすぐかたわらに古いお地蔵さんが立っていて金属製の覆い屋の下で大切にお祀りされています。ヒルサイドテラスA棟の妻面のお向かいです。わたくしが行ったときにはメリークリスマス!っていう(地蔵信仰には似つかわしくないような)お飾りが掛けられていました。
このお地蔵さんは二百年以上も前の1818(文政元)年の造立で、その台座は道標を兼ねていて「右大山道、左祐天寺道」と刻まれています。祐天寺はここから歩いてすぐのところで江戸の人びとにとっては手軽な観光地だったろうし、神奈川県の大山詣ではちょっとした遠出の対象としてやっぱり娯楽のひとつだったのでしょう。江戸時代の人たちの息吹を濃厚に感じることのできる、そういう場所です。
こんな何気ない坂でも鎌倉時代にはいざ鎌倉!で騎馬武者たちが駆け抜けたのでしょうし、江戸時代には富士山信仰の場として人びとが集い楽しんだことでしょう。そんなことどもを思うとき、中沢新一さん流儀のアースダイバーとしての愉悦がじんわりと湧き上がって参ります。
追伸;富士塚の実例として千駄ヶ谷駅そばにある鳩森八幡神社境内の富士塚を載せておきます。これは東京都指定の有形民俗文化財でして、当地の説明板によれば1789(寛政元)年の築造で、登山道は「く」の字状に設けられて自然石を配して階段としています。都内に現存する富士塚としては最古のものだそうです。わたくしも以前にこの富士塚に登ってその霊験にあやかりました、ありがたやあ〜。
写真 千駄ヶ谷の鳩森八幡神社にある富士塚(2012年撮影)
半世紀後の答え合わせ (2026年1月6日)
昨年の暮れに渋谷区代官山にあるヒルサイドテラスを訪れた話しを書きましたが、重い腰を上げてわざわざ代官山に出向いたのにはほかにもわけがありました。年明け早々ですが、きょうはそのことを書こうと思います。これからの説明の補足のため、Googleマップに個別情報を追記した地図を載せておきます(北が上です)。
わたくしは幼稚園に上がる頃から小学校卒業直前まで中目黒駅の近くに住んでいました。木造平屋建ての社宅でかなり大きな庭がついていました。中目黒駅は営団地下鉄(いまは東京メトロ)・日比谷線の終着駅かつ東急東横線の急行停車駅なので、当時からとても賑わっていたところです。駅の近くにスーパーのダイエーができたのもここに引っ越した頃だったようです。母に連れられてよく買い物に行ったものでした。
わたくしが暮らしていたのは地図の左下の赤丸のあたりでして、中目黒駅からは坂をかなり登ったところでした。この辺りは目黒区上目黒という住居表示ですが昔から諏訪山[すわやま]と呼ばれていたらしく、地図に「一方通行の登り坂」と書いたところは諏訪山のあたりでは切り通しになっていて、当時は鎌倉街道と呼んでいた記憶があります。
地図の左上から右下にかけて目黒川が流れていて、そのあたりは谷筋に当たります。目黒川のすぐ南に片側二車線の山手通り(環状6号線)が目黒川に平行して走っていて当時から交通の要でした。目黒川を渡って北にゆくとまた台地になっていて登り坂となりますが、この一帯は青葉台と呼ばれていました。余談ですが東急田園都市線のたまプラーザ駅からさらに南にも青葉台という同じ名前を持つ駅がありますが(所在は横浜市青葉区)、同じ東急沿線でも違う場所であることにご注意ください。
地図の右上にある青葉台の一帯は元々は戦国時代以来の名家だった朝倉家の所有地でした。その土地の旧山手通り沿いに今はヒルサイドテラスが建っていて、そのすぐ南には旧朝倉家住宅があり現在は重要文化財として一般に公開されています。地図上で緑色に塗られた領域は旧朝倉家のお庭に当たります。
さて、やっと本題に近づいて参りました。この青葉台から目黒川に向かって、朝倉家の旧所有地の南側を巻くように下る坂(うえの地図の右上にある、茶色でなぞったところ)が今回の目的地です。調べるとこの坂は目切坂とか暗やみ坂とか呼ぶらしいのですが、わたくしが住んでいた頃にそのような名前を聞いたことはありませんでした。
小さい頃は早稲田(新宿区)の祖父母の家から夜帰るときに祖母がタクシー代を出してくれてタクシーに乗って帰ることが多かったのですが、そのときの経路が渋谷の並木橋から南下して旧山手通りに出て、そこの代官山交番の脇にあった細い道に入るというものでした(地図の右上を参照)。そこが今思えば目切坂の坂上の入口だったわけですが、父は「青葉台の交番のわきの坂」のようにタクシーの運転手さんに説明していたように記憶します。
ちなみにこの頃はまだヒルサイドテラスはなかったでしょうし、ここを通る夜間にはこの辺りは真っ暗闇でその交番の赤い電灯だけがボワっと浮かんでいたことしか憶えていません。この交番は現在も同じ場所にありましたが、中層マンションの1階にはめ込まれていました。したの写真の左隅がその交番で、交番とヒルサイドテラスA棟(RC三階建て)とのあいだにある横断歩道の奥側が目切坂の入口です。

この目切坂を下り切ると東西に走る西郷山通りとぶつかる変則T字路になりますが、そこから坂の上方を見たのがうえの写真です。正面がかなり高い小山になっていて、そこにマンション群が建っていることが分かります。まさに青葉台と呼ぶにふさわしい高台ですな。
この写真の右側は東京音楽大学のキャンパスで、迂生が子どもの頃にはなかったと思います。新しげで小綺麗なRCの建物が建っていました。また、ここから目黒川のほうに向かって歩くとほどなく伊勢五本店に出くわしました。地酒好きなら誰でも知っている酒屋さんですがわたくしは行ったことがありませんでしたので、こんなところにあるのかと驚きました。
この目切坂がなぜ本題かというと、それは小学校三、四年生のころ、夏休みの夜明け頃に何度かこの坂にかよったからです。わが家からは自転車で簡単に行けるところでした。この坂の現在の様子がうえの写真ですが、坂道の左側に大谷石っぽい石積みの擁壁があってその上が朝倉家の旧敷地です。
子どもってカブトムシとかクワガタが好きですよね。その当時のわたくしもその例に漏れなかったようです。どういう経緯かは忘れましたが、この擁壁の上(すなわち朝倉家の敷地内)に植わっていたブナとかクヌギの木々にそういう甲虫が集まることがこの界隈の小学生たちの話題となり、それを採集しに行くのが流行りました。でもそこは上述のように他人さまの私有地(すなわちもとは朝倉家の敷地で、当時はなんと農林大臣公邸!だったらしい)ですからそう容易には入れませんよね?
じゃあどうやって入るかですが、もうお分かりでしょうが、上の写真の擁壁をよじ登って入ったのです(これは昔も今も不法侵入でしょうが、子どもだからそういうことは言わないのだ、あははっ)。ちなみに当時は擁壁上の鉄製フェンスはなく、この擁壁を登ったすぐきわにお目当ての木々が植わっていました。擁壁を登る、と簡単に書きましたが、小さかった迂生にとってはこの壁は自身の身長よりもはるかに高くて、そそり立っているように思えました。
そこでまずはこの絶壁(というのが当時の感覚です)を登破するのが最初の試練になりました。擁壁面の凸凹を上手く使って登ればよいのですが、運動神経が鈍くて不器用だった迂生にとってはそれがまた大変で、高いことへの恐怖心もあってなかなか登れませんでした。
夜明け前でまだ朝靄がうっすらと立ち込めているこの坂にはたくさんの子どもたちが集まっていましたが、そういう見ず知らずの子どもの中にも親切な子がいて(多分、歳上の子だったのでしょうが)、下から見ながらそこに足をかけてとか手はそこだとかアドヴァイスしてくれたんですよ。そんなヘルプもあってやっと登れるようになりました、嬉しかったですね〜。
その絶壁が当時の迂生にとっては5メートルくらいあるように思えたのですが、今見ると(写真の奥に小型トラックが写っているのでなんとなく分かるでしょうが)2.5メートルもないんじゃないでしょうか。なあんだ、大したことなかったじゃないかっていうのが約半世紀経っての答え合わせでした。
同じようなことは先述した鎌倉街道の切り通しからわが家へと折れる坂道のところにもあって、それがしたの写真です。立っているのが鎌倉街道で、目の前の坂を上って何度か右左折を繰り返すとわが家に着きました。この写真の正面にある大谷石の擁壁の上には木造の一軒家があって気のよいおばあさんが住んでいました。小さかった頃はこの擁壁もとてつもなく高く見えたものですが、いま見ると2メートルもなさそうでした。あれっ?こんなに低かったのか…というのが今の感想です。
鎌倉街道から分岐するこの坂を登るとやがて左に折れるのですが、その折れ曲がり点から中目黒駅方面を見やったのが上の写真です。奥側の家並みの屋根が目線より下に見えますので、この場所がかなりの高台ということがお分かりいただけるかと思います。この一帯が諏訪山と呼ばれていたことは先述しました。
さて肝心のカブトムシのことですが、いつ行っても青葉台の擁壁の上には大勢の子どもたちが来ていてみんな結構そういう虫を捕まえていたにもかかわらず、要領の悪かった北山少年は手ぶらで帰るばかりでした。結局、木の根元にいたとろそうなコクワガタを一匹つかまえたのが唯一の成果だったのです。そんなほろ苦い思ひ出の場所が槇文彦先生のヒルサイドテラスのすぐそばにあって驚いたことから、この小文をしたためた次第でございます。
なお本文に登場した諏訪山や目黒区青葉台は今では高級住宅街になっているそうです。少年だったわたくしが住んでいた社宅などとうになくなり、そこには小綺麗な住宅が建っていました。しがないヒラの教授の迂生などにはすっかり縁遠い場所になっていたことに少しばかり落胆しながらこの場をあとにしたのでした。
仕事始め (2026年1月5日)
お正月が終わって仕事始めを迎えました。本学ではきょう(月曜日)から授業があって、朝登校すると普段と変わりなく学生さんたちがそこいら中をワラワラと歩き回っておりました。いやあ、いつも思いますが、東京都立大学の学生さんってホント真面目ですね〜(良きことかな)。
わたくしの「構造設計演習」は明日から授業再開なので、そのための資料をちょっとばかり直してからkibaco(本学のクラウドの名称)にアップしました。もう通常業務に戻ったという感じですね。でも今週をやり過ごせば週末からはまた三連休なので、なんとか頑張れそうです。
ことしの年賀状ですが、メールアドレスが分かる方には送信を終えました。そうしたら律儀な数名のかたからはお返事をいただいたりして、大変に恐縮している次第です。なかにはメール文中にこまごまとした近況を書いてくださるかたもいて、久しぶりに懐かしさに浸りました。
でも恩師や親戚などでメールアドレスが不明な方々もおいでなので、そういうかたには(年賀ハガキは買わなかったので)官製ハガキに自作の年賀状を印刷でもしてお返事しようかと考えているところです。そうやって年賀状を徐々にフェードアウトして行ければいいかなと思います。
年賀状をやりとりして来た恩師(小中高校)の先生の数は毎年減って今年はついにお一人となってしまいました。目黒区立の小学校で高学年のときの担任だった先生で、当時はまだ二十代のお若い先生でした。その先生は京王線沿線にお住まいで、迂生が東京都立大学に登校するときにはいつも電車でそこを通過するのですが、近くて遠いとはまさにこのことですが、小学校卒業以来、残念ながら一度もお会いしたことはありません。お元気でお過ごしであれば重畳でございます。
新しい年を迎える (2026年1月3日)
新年、明けましておめでとうございます。ことしのお正月は二日の夜に雪がちらほら舞ったようですが(わたくしは見ていませんけど)、穏やかに晴れてよい日和となりました。こんなふうに心安らかなお正月を迎えられるのもあと何回くらいかなって言ったら、お上さまから「そんなこと言うんじゃない、ただ淡々とお正月を迎えればいいんだよ」ってたしなめられてしまいました、そうかなあ?
本年は六十年に一度の丙午[ひのえうま]だそうです。さすがに現代のこんにちではそういう迷信を信じる人もいなかろうとは思いますが、少なくともわれわれの父母の世代が壮年だった六十年前にはその迷信はまだ根深く残っていたらしくその年の出生数は激減いたしました。かく言う迂生もそういう星のもとに生まれた相方に喰われちゃったクチかも、あははっ。
ことしはついに紙版の年賀状をやめることにいたしました。一方的にやめてしまってお詫びをしないといけない方もおりますが、もういいかなと思ってそうしました。“年賀状仕舞い”という言葉もあるようですが、気が向けばオンラインででもご挨拶しようかと思います。もっとも(やってみると分かりますが)年賀メールの送信もそれはそれで結構面倒で時間がかかるんですよね。
このお正月は好きな日本酒も飲まず(実状はもうほとんど飲めない)、おせち料理も食べず、お雑煮をいただいたくらいでフツーに過ぎて行きました。お餅も何回か食べると飽きるので今晩は(市販のルー等は使わない、結構手間暇かかる)チキン・カレーを作りました。明日の四日は日曜日で、明後日はもう仕事始めですね、やれやれ…。
家人たち(迂生を除く)が毎年楽しみにしている箱根駅伝ですが、往路の山登りは例年になくすごかったです。早稲田大学がこりゃ久しぶりにトップでゴールするかなと思ったのですが、驚異的なスピードで追い上げた青山学院大学がゴールちょっと手前で早大を抜き去って往路優勝をかっさらって行きました。これにはわが家でも唖然としましたね、ぬか喜びとはまさにこのことか。
わが家はもともとは淡青カラーでしたが愚息が高校に進学して以来すっかり臙脂色に染まっているので、いっときは「み・や・この西北、ワセダの杜に〜」を歌い始めたくらいだったのですが、逆転されたときの落胆はかなり激しいものでした、ああ残念…って、わたくしはまあどうでもいいんですけど。結局、青山学院大学は復路でもぶっちぎりで駆け抜けて総合優勝を果たしました。三連覇だそうです、すごいですね〜。青学が強すぎて面白くないって駅伝評論家のお上さまは宣っておりました、はい。
一年に一度だけ見ることに決めているくだらないスポーツ番組ですが、今年はとんねるずのタカさんが病気でお休みだそうでどうなるかと思いましたが、ノリさんだけで頑張ってやってくれました。相変わらずバカらしさ満開でお正月に笑うにはピッタリでしたが、タカさんがやっていたリアル野球盤はさすがにできないらしくてありませんでした、残念です。来年のお正月にはタカさんの復帰とリアル野球盤の復活とを期待しております。
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