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 このページは北山がちょっとした日常で遭遇した出来事や感想などを徒然なるままに書き記すコーナーでございます。このコーナーは十七年めとなりました。どなたなのかは詳らかには存じませんが、お付き合いいただく皆さまには大いに感謝しております。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。あいつアホじゃないの?っていうあたたかい気分でご笑覧いただければこれに勝る幸せはありません。

 お正月が明けた今日から2025年版を掲載します。更新は例によって不定期ですが、よろしくご了承をお願いします(2025年1月6日)。




豊洲へゆく (2025年11月11日)

 この週末、豊洲(東京都江東区)に行って参りました。芝浦工業大学建築学部の岸田慎司教授から博士論文の外部審査員を頼まれたためです。岸田先生によれば芝浦工大の博士論文(以下D論)の審査では外部からの審査員を加えることが義務化されているそうです。わが大学ではそんなことはありませんから所変われば品変わるじゃないですが、大学によってD論の審査の仕方はいろいろあるってことですな。その審査会は岸田主査とわたくしとを含めて総勢五名の専門家で構成されています(わたくしの大学では三名以上です)。

 またD論の審査結果は各審査員が大学所定のルーブリックに従っていろいろな観点から点数評価して、さらにコメントまで記述して提出するように言われました。ひゃあ〜相当に厳格で結構大変だな…。わが大学とは全く異なる掟[おきて]だったことがとても新鮮でした。ちなみにこれは予備審査だそうで、それ自体は半日で終わりました。他学のことゆえ仕組みがよく分かっておりませんが、このあとしばらくD論の手直し等をしてもらって年が明けてから公開発表会があるそうです。



 ところで迂生が芝浦工大の豊洲校舎を訪問するのは(予定表を調べたところ)2020年3月以来でした。皆さんご承知のようにそのあと2021年に東京オリンピックが開催されて東京のウォーターフロントの開発も進みましたので、五年ぶりの豊洲あたりはかなり変化しておりました。なによりも芝浦工大自体が大いなる変貌を遂げていて、久しぶりに大学に着いてみると敷地の様子が一変して見知った建物(高層ビルの真ん中に大きな穴が空いているヤツ)は見当たらずに途方に暮れました。それを見越した岸田さんが正門に着いたら電話してってあらかじめ言ってくれたので、迷わずに電話して迎えに来てもらいました、よかったあ〜。

 こうして新しくなった芝浦工大を縷々体験したわけですが、一番驚いたのはセキュリティが格段に厳しくなったことです。部外者が校舎に立ち入るためには守衛さんのところで氏名や来訪目的を記載したあと訪問者用のカードをもらって首に下げ、下の写真のようなゲートを通過しないといけません(岸田先生にご自身のIDカードをかざしてもらいました)。大企業の受付とか東京都庁の入り口とかに設置されているゲートと同類ですね。何かと物騒な昨今の情勢を見渡せばやむを得ない仕儀とは思いますが、多くの人々が出入りする大学でもついにこのようなゲートを設置するようになったかと思うとちょっと複雑な心境になりました。ちなみにわが大学では「都民に開かれた大学」を標榜しているせいか建物への出入りは原則自由です(ただし夜間はさすがに施錠されるようになりました)。





 次に驚いたのは先生と学生諸君とが居住する研究室が全面ガラスで廊下と仕切られていることです。上の写真は岸田研の入り口の前で撮ったものですが、ご覧いただくとお分かりのように大部屋の研究室内が外からマルっと見えちゃうわけですよ。教育の場が密室化すると何かとトラブルのもとになりかねないという危惧はよく分かりますのでそれを避けるための手段なのでしょう。

 なお普通教室も同じように全面ガラス張りでした。この日のD論審査はそこで開かれましたが、廊下をひとが歩くとちらちらと気になってそちらに視線が行ったりしました。ちょっと落ち着かない気分になりましたが、慣れれば大丈夫なのでしょうか? そのほか学生諸君が気ままに過ごせるスペースの整備など、学生諸君が大学生活を快適に過ごすための最新の建築計画が実行されていて大いに刺激を受けました。

 やっぱりお金のある私立大学はすごいなと思いましたが、それに比例して(?)学生数は増えるわけでして、芝浦工大建築学部の学生定員は一学年250名なので一年生から四年生まで合計1000名!という大所帯です。そういう多人数を教えるのはそりゃやっぱり大変だろうなって拝察いたします。ですから隣の芝生は青いって羨んでみても仕方ありません。自分のいるところのよさ(例えば少人数教育)を再確認しながら、これからも日々の大学生活を過ごして参りましょう。



実験の打ち止めと打ち上げ (2025年11月10日)

 この夏、九州大学で開催された日本建築学会大会ですが、わが社のM2原川洸さんが鉄筋コンクリート構造部門で優秀発表賞を受賞しました(こちら)、おめでとうございます! 2025年度は評価対象となった183編の梗概発表のなかから17名が選ばれたそうですから、なかなかに狭き門だと思います。なお壁谷澤寿一研究室をこの春修了した小松さんも受賞していました、よかったです。

 原川さんの研究は鉄筋コンクリート柱梁接合部の降伏破壊後の軸崩壊を扱った実験ですが、このテーマでは昨年度はM2だった藤村咲良さんと明治大学晋沂雄研究室M1だった宮坂綸宝さんとが同じ優秀発表賞を受賞していますし、さらに遡れば明治大学・村野竜也さんやわが社の石塚裕彬さんも受賞しました。いつも書いていますがわが社では分かり易い発表を目指して発表練習を重ねますから、その成果が表れたということでわたくしも嬉しく思います。

 その原川さんが主担当者となった隅柱梁接合部実験が十月十日に終了しましたので、久しぶりに実験の打ち上げをやりました。このわが社最後にして打ち止めとなる(はずの)実験では人手不足だったために原川さんの人脈でよその研究室からも助っ人を呼んできましたので、そういう人たちを慰労する意味もありました。ということでわが社の学生六名に加えて明治大学・宮坂さん、壁谷澤研・関口さん、高木研・宮川さんと迂生の合計十名が集まりました。そのうちM2が六名というのが今回の特徴かな。

 宴会では今どきの若者の生態が垣間見えてそれなりに面白かったのですが、お互いをファースト・ネームで呼び合っていたのが耳を惹きましたな。少なくともわたくしが学生だった頃は親しい間柄といえどもそういうことは皆無でした。いつ頃からそのように呼び合うようになったのでしょうか。そういえば大学二年生の愚息も同様にファースト・ネームで友人たちと語らっていることに思い当たりました。これが現代の若者のトレンドなのでしょうか。



 宴会では幹事役のB4戸田望海さんが趣向を凝らしたビンゴ・ゲームを開いてくれて大いに盛り上がりました。それが上の写真ですが、画面中央のテーブルに載っているにごり酒は戸田さんが用意してくれた景品のひとつです。迂生がそれを欲しいと宣言していたこともあって学生諸君は遠慮したらしく、ほとんど終わりになってやっとビンゴに至ったわたくしが無事にゲットしました、よかったあ〜(でも四合瓶は重いので戸田さんに研究室に持って帰ってもらいました、軟弱です)。

 戸田さんが用意した景品には、今回の実験で鉄筋コンクリート試験体から剥落したコンクリート片を化粧ケースに入れて渡すというものがあって、そのユニークさに感心しました。でもそんな、ゴミみたいなもの(って言ったら身も蓋もないけどね)を欲しいヤツなんているかなと思ったのですが、それがいたんですね〜あははっ。このコンクリート片のことを戸田さんは「剥落石」って呼んでいたのも笑っちゃいました(コンクリートは石じゃないからな、分かっているだろうけど…)。

 今回の宴会は調布駅前の居酒屋にしてくれましたが、それはこの近辺では中華料理の名店と言われている「愉園」が最上階にある雑居ビルの6階でした。「愉園」には調布に住んでいるころにはよく食べに行ったものでした。最近は行ってないので分かりませんが当時はちょっと薄暗くて調度類も古ぼけてさえないものの料理はとても美味しくてそれなりに安かった記憶があります。今回の居酒屋があった6階には以前は創作お寿司屋があってそこも何度か行きましたが(鰹たたきのカルパッチョが美味かった)いつの間にか潰れて、やがて居酒屋に代わったみたいです。


南大沢だより
 (2025年11月6日)

 十一月になって朝晩はかなり冷え込むようになりました。十月中旬までは半袖でもいいような日和もあったので、その急激な変化には驚くばかりです。一日の寒暖差が大きいので体調は悪めでございます。皆さまもお気をつけください。

 わが大学では十一月初めに学園祭が三日間開かれ(みやこ祭と呼ぶらしい)、その前後の一日ずつは準備および片付けに当てられて授業は休講でした。同じ時期に愚息の大学でも学園祭が開かれたそうですが、その翌日はすぐに授業でした。準備や片付けのために休講にするのはわが大学ではいつものことで慣例化しているのですが、世間から見るとこれってちょっと過保護なのかも知れません。皆さんのところはいかがでしょうか。



 さてわが建築学科では現在、来年度の卒論を目指して三年生の研究室選びが進行中です。今年度は新任教員二人を迎えて久しぶりに教員定数を満たしたのでフル・ラインナップが完成して十四の研究室があります。例によって人気のないわが社ですから、募集する卒論生の人数を二名に減らしてもらいました。それでも志望者がいるかどうか甚だ心許ない限りですが、そんなことを心配できるのも今回が最後になりますので、これはこれで贅沢な体験かなと思い直しております。いつもながら来るものは誰でもWelcomeですし、去る者は追わずにご勝手に、という心境でございます。

 現在の卒論生(二人います)はそろそろ卒論のタイトルを申請する頃合いとなりました。卒論研究が進んでいるのかどうかちょっと心配な感もありますが、まあ大丈夫なんだろうな…。とにかく卒業できるように(内容はともかくとしても)カタチは整えて後ろ指をさされないようにお願いします。

 十一月上旬の南大沢はこんな感じで過ぎつつあります。わたくしがここに居を構えることができるのもあとわずかですから、これを見て懐かしくなった方は是非ともわが社までお出でください、お待ちしております。


急に寒くなる (2025年10月24日)

 ここのところ涼しさを通り越して急に寒くなりました。わが家のお上さまは寒いよ〜って言いながら今シーズン初めて暖房のスイッチを押しました。こんなに早くに暖房を入れたらこの先の冬にはどうなるのかとちょっと心配がよぎったものの、快適さに勝るものはありませんからまあいいかと思って同調しました、あっさり。

 さて研究室の整理は相変わらずほそぼそと続けています。最近は紙焼きのスナップ写真をスキャナで取り込んで電子化しています。たくさんあるので難儀しますが、まあ暇なときにやる単純作業だと思って少しずつやっています。そうやって電子化が完了すると(紙版写真は)バンバン捨てられますのでかなりスッキリといたします。

 書類についてはこのところ各種委員会の委嘱状などをスキャンしています。これまたものすごくいっぱいあるので閉口していますが、こんな委員会もあったなあと思い出しつつ懐かしい気分にひたりながらこちらも作業しています。しかしよくこんなにたくさん委員会活動ができたものだなとわれながら若い頃のタフネスぶりに驚いております。こんなに仕事してりゃ、還暦を過ぎてしぼんじゃうのもむべなるかなと思うわな、あははっ。

思ったほどは… (2025年10月14日)

 今月二個めの台風が去ってかなり涼しくなりました。そのせいでこの秋初めて薄手の上着を羽織って登校いたしました。

 さてトップ・ページにも書いたようにM2原川洸さんをチーフとする実験が先週金曜日の夕方に終わりました。原川さんの予想より破壊は遅れましたが(試験体が頑張った?)、これまでのわが社の実験とほぼ同等の耐震性能を発揮して軸崩壊に至ったと判断しました。載荷装置を壊すことなく、軸崩壊直前(と判定した状態)で実験を終えることができて本当に安堵いたしました、あ〜よかった〜。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁接合部実験2025_M2原川B4戸田:試験体T4_載荷履歴を変更_引張り軸力:IMG_8328調整後.JPG

 実験が無事に終わってから、恒例の記念写真を撮影しました。この日は原川さんの他に卒論生の戸田さん、M2の星川さんと小川さん、M1の加藤涼さん、そして明治大学・松沢研究室M2の宮坂さんと本学・高木研M2の宮川さんが参加して作業してくれました。いつになくヴァラエティに富んだメンバーとなりましたが、賑やかに実験を終えることができてとても嬉しく思いました。皆さんのご協力にあつく御礼を申し上げます。

 ということで今季のわが社における一大イベントであった部分骨組実験をなんとか終えることができましたが、これは多分わが社での最後の実験になると思います。この研究はJSPS科研費を得て行なっていますが、来年度は研究のまとめを予定しているので実験する予算はありません。そこで、迂生の長い研究者人生のあいだに続けてきた実験もこれで最後かという感慨が押し寄せてくるかと思ったのですが、豈図らんやそんな感慨に浸ることもなく、我ながらあれ?どうしてって感じたくらいでした。

 ただ、載荷終了後にアルミ・アングル等の測定治具を試験体から取り外して片付けているときに、原川さんから「これってもう使わないんですよね」って言われたときだけはちょっと悲しくなってウルっと来て「そんなこと言わないで…」って答えてしまいました、あははっ。

後期の担当授業が始まる(2025年10月6日)

 けさの1限から迂生担当の授業が始まりました。二年生対象の建築設計製図です。例年は午後一時に出題してそのあとに構造ガイダンスを実施していました。しかし今年度は担当の先生がたとあれこれ相談した結果、課題の出題は朝の1限に行って、午後には敷地見学(武蔵野市)に行くことになりました。初学者を対象とした構造設計のためのガイダンスは第3週に行うように変更しました。なおわたくしは現在、研究室で実験中なので現地見学はパスさせてもらいました。

 九階にある建築ロビーで出題を終えて研究室でひと息ついていたら、わが社OGの溝下さんが研究室を訪ねてくれました。後輩たちのリクルート活動に来たそうですが、彼女にお会いしたのは卒業以来17年ぶりでした。人生のステージでは大変なこともあったそうですが、今まで何とか仕事を続けてこられたと言っていました。健康で楽しい日々を過ごせることが庶民にとっての幸せです。適当に手を抜きながら人生を楽しんでください。

 わが社の実験ですが既に最大耐力には到達したみたいで、同一変形での二回目の繰り返し載荷では残留ひび割れ幅の増大やかぶりコンクリートの剥落が生じてきました。試験体がだんだんと壊れて来たことを実感しつつあります。M2原川さんの予想では今週中に柱梁接合部の軸崩壊が発生して実験を終えられるそうです。確かにそんな予感はいたしますが、実験装置を壊さないためには軸崩壊の直前に実験を終える必要があって、その判断にはかなりの緊張を強いられます。そろそろ心の準備をしておきましょうか…。

あれこれあるな… (2025年10月3日)

 載荷が始まったわが社の実験ですが、学生諸君はだいぶ慣れて来たようでパキパキと進めてくれて頼もしく思います。そんな感じでちょっとばかり安心していた昨日の夕方、なかなかいいねえとか思いながら試験体を眺めていたのですが、あれっ?という違和感を抱きました。なんか今までと違うぞ…。

 立体隅柱梁部分架構試験体には鉛直軸に対する回転を防ぐために水平パンタグラフを取り付けてあります。下の写真では、黄色い鉄骨で組み立てて上のほうに水平に渡されている治具です。鉄骨のCチャンと鉄筋コンクリート柱との取り付け部には回転を許容できるように球面ブッシュを噛ませる必要があるのですが、よく見るとその取り付け位置が間違っていたのです。ありゃりゃ、どうしてこうなったのよ…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁接合部実験2025_M2原川B4戸田:試験体T4_載荷履歴を変更_引張り軸力:IMG_7949.JPG

 載荷で与える水平変形はまだそれほど大きくないので今現在は問題はないと考えます。しかし最大耐力を迎えた後に試験体が壊れ始めると各部の局所変形が大きくなるので明らかに不都合です。そこでこの日の実験を終えて荷重をゼロに落としたあとに、くだんの球面ブッシュの取り付け部位を正しい位置に直すようにM2原川洸さん(主担当者)に依頼しました。

 その作業にはかなり苦労したみたいですが、幸いうまく設置し直すことができたようで、無事に実験を再開できました、よかったです。毎度のことですが実験にはあれこれトラブルが付きものです。そういう試練?を乗り越えて皆さん成長するんだと思いますから頑張ってください。ちなみにきょうは高木研M2の宮川さんが手伝いに来てくれました、ありがとう。

都民の日らしい (2025年10月1日)

 十月になりました。今朝はかなり涼しくなりましたが結構な雨降りです。

 九月末だと思いますが七階にある研究室の窓外に建てられた足場が撤去されていました。窓の外を職人さんが歩くと気が散るのでずっとブラインドを下ろしていたので知らないうちの出来事でした。昨年のこのページを見ると十一月下旬にこの足場が建ちましたので、ほぼ一年間も設置されていたことになります。随分と長いように感じますが、ここのところの人手不足が関係しているのかも。

 昨年のこの時期、わが都市環境学部に英語学位プログラムを新たに立ち上げろというミッションが都庁から突然降って来たことは以前にこのページに書きました。この件について学長補佐との意見交換会が昨夕開かれて行って来ました。迂生のような先のないロートル教授がそんな将来計画に参画するのは無用であろうとは重々承知しますが、建築学科内のワーク・バランスの為せる業でしょうか、そういう仕儀と相成ったわけです。学科長の高木次郎先生(鉄骨構造)がそれでいいって言うのだから、まあいいんでしょうね。

 そこで知ったのですが、新しい英語学位プログラムを担当する新任教員のための研究室棟を国際交流会館の目の前に新築することになったそうです。都庁近辺ではその国際交流会館を撤去してそこに建て直そうという案もあったそうですが、そうすると間に合わないので立ち消えになったとのことです。よかったですね〜、だって国際交流会館は高橋てい一さんが設計した名建築だからです。それを竣工から三十年そこそこで取り壊すなんて全くもって野蛮だと思います。

 ちなみにこの新棟の完成は2030年早々の予定らしいですが、この人手不足と資材高騰の折、実現は可能なのだろうかと(その頃にはもう迂生はここにはいないのですけど)他人事ながら心配になって参ります。

 ところで今朝、登校する京王線の車中に小学生やら中学生やらが多いことに気がつきました。そういえば十月朔日って都民の日でしたね。すっかり忘れていましたが都民の日には小中学校はお休みになるらしいです。わたくしが子供の頃もそうだったことを思ひ出しました、懐かしいです。でも同じ都内の公立学校でも東京都立大学はお休みにはならないみたいでして、本学では今日から後期の授業が始まりました。

さわやかな季節に (2025年9月26日)

 お彼岸を過ぎてやっと少し秋らしい陽気になって参りました。朝にはかなり乾燥してさわやかな空気を味わえるようになりましたね。それでも大学にある雑木林ではまだツクツクボウシの声が聞こえてきたりして、ちょっとばかりもののあはれを感じます。

 いつもフラッと立ち寄る本学の図書館ですが、九月末まで改修工事を行っていて入館できません。それを見越してたくさん本を借りておきましたが、やっぱり新刊本を中心に手に取って見ることができないのは面白くないです。

 わが社の実験ですが、きのう丸一日をかけて実験準備の点検をM2原川さんと一緒に行いました。これまでは明治大学との共同研究でしたが、今回はわが社単独の実験になったせいもあって人手が足りずに準備が大変だったみたいです。主担当者の原川さんは卒論で同様の実験を経験したとはいえ、やっぱり細い点ではいろいろと指摘することが多くて当初予定していた軸力載荷までは昨日はたどり着けませんでした。

 ということで今朝、長期の圧縮軸力を載荷して、梁端部のせん断力をゼロにするような調整を行なってとりあえずわたくしの監督作業を終えました。きょうはわが社のM2小川さんと壁谷澤研M2関口さんが手伝いに来てくれましたのでよかったです。実験はなかなか思うようには行かないものですが、気長にじっくりと実験を楽しんでください。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC柱梁接合部実験2025_M2原川B4戸田:試験体F4_載荷履歴を変更_引張り軸力:IMG_7915.JPG

そろそろお彼岸 (2025年9月19日)

 きのうはべらぼうに暑かったですが、夜中に豪雨が降ったあとの今朝は急に肌寒いような涼しい気候に変わっていました。もうすぐお彼岸ですからこれが本来の日本の季節感だろうと思います。ということで今日は長袖を羽織って登校しました。

 本学では今日が健康診断の最終日です。血圧測定と血液採取が毎年鬼門になっていて(気分が悪くなる)、きょうまでズルズルと先延ばしにしてきました。でもこの検診を受けないとそのあとが面倒なので、仕方ないので午後の研究室ゼミの後に駆け込みで行こうかと思っています。でも、やっぱりいやだなあ…、健康診断を受けて具合が悪くなるというのは本末転倒なような気がいたします。

 十月からは後期の授業が始まりますので、そのための準備にかかりました。二年生対象の設計製図では今年度から建築家の仲 俊治准教授が加わりましたので、敷地の選定や課題内容といった基本的なことから見直しを始めました。もちろんデザイン・建築計画系の先生たちが中心になりますが、わたくしもこの課題には長いこと携わってきたので言うべきことはいろいろと申し述べておきました。

 例年、出題と同時に構造ガイダンス(なぜ構造設計が必要なのか等の基本論)をやっていたのですが、この効果がほとんどないとわたくしは感じていたので、今年度はその開催を十月下旬に移してもらいました。学生諸君の理解度やエスキスへの反映具合がどのように変化するのか楽しみです。

 さて七月から足踏みしていた鉄筋コンクリート部分骨組実験ですが、多幾山研究室の木造実験が終わってスイッチ・ボックスを明け渡してもらえましたので、やっと始めることができそうです。とはいえ来月中旬以降に高木研究室が大型構造物実験棟で実験する予定なので、かなりタイトなスケジュールです。担当のM2原川さんにはしっかり段取りして余裕を持ってかつ安全に実験を実施してほしいと思います。

追伸; 研究室会議の出席者が三名と少なくて一時間で終わりました。そのあと健康診断に行ってきました。最終日の午後でしたが空いていて助かりました。血液検査はパスさせてもらえたのでストレスがなくてよかったあ〜。

九月になって (2025年9月8日)

 暦の上では秋である九月になりましたがまだまだ暑くてたまりません。先週後半には台風が東京の南を通り過ぎて大雨だったため、研究室会議を久しぶりにオンラインで開催しました。交通機関の不都合や安全確保を心配したらしい大学当局から登校を控えるように通達があり、これがオンラインにした直接的な主因です。

 研究室会議をオンラインでやるのはCOVID-19で登校自粛が言われていた2020年秋くらい以来かなあ。自分でZoomのホストを立ち上げたのも一年ぶりくらいです。Zoomのライセンスは大学が契約を継続してくれているので助かります。

 明日から日本建築学会の大会が福岡の九州大学で開催されます。担当してくださる九州大学建築学科の先生がたは大変なご苦労だと思いますので大いに感謝しています。ただ大会の会場は、移転して新しくなった九大のキャンパスですが博多の都心からはかなり遠そうです。さらには相変わらずの猛暑でもあり、もうジジイのわたくしは体力的にもちそうもないので現地には行かない予定でおります。

 そうではありますが、幸いにもパネル・ディスカッション(PD)だけはオンラインでの開催なので参加いたします。今年は兵庫県南部地震(1995年1月17日)から30年ということで、鉄筋コンクリート構造運営委員会では『兵庫県南部地震から30年』というPDを開催します。本学の壁谷澤寿一准教授が中心になって企画立案されました。寿一先生が主旨説明をして、この道のプロの方々から種々解説をいただいたのち討論を行い、迂生が最後にまとめるという構成です。

 なぜロートルのわたくしをまとめ役に据えたのか寿一先生に尋ねたら、その当時に第一線で被害調査に従事した研究者でまだ現役なのは迂生くらいだからっていう理由でした、あははっ。なるほど…30年というのはそういう年月に相当するのだなあとちょっとばかり感慨に耽ります。思い返せばこの地震での被害調査を差配したのは壁谷澤寿海大先生でしたので、そのご子息からまとめをやれって言われることに大いなる因果を感じます。

 さて日本の政治ですが、石破首相がついに辞任を表明しました。参議院選挙で自民党が大敗したときに辞めるのが日本の組織のあり方でしょうが、そこから二ヶ月近くもその職に留まったのは驚異的な粘りだったと思います。でもトップを代えたところで本質は何も変わらないことは当の自民党も分かっているはずです(もしそれが分かっていないとするともう末期症状…)。それにもかかわらず国政を放ったらかして政争に明け暮れる自民党にはどんな未来があるのでしょうか、相当に疑問だけどな。

ことしのお盆 (2025年8月20日)

 お暑うございます、っていう挨拶ももう聞き飽きましたね。ここ八王子市南大沢では多分、40度近い気温まで上がると思われます。そういう時間帯は出歩くことはせずに研究室に逼塞いたします。

 さてことしは八月早々に期末試験やレポートの採点をきっちり終えることができましたので、お盆は休暇をとってゆっくり静養いたしました(お盆の時期に教授会を開くという無体もことしはありませんでしたから)。本学では夏休みは五日間取れますし年次休暇もたくさん余っていますので、それらを惜しげも無く(?)投入して心置きなくお休みを満喫いたしました。

 別にどこかに出かけるというわけではない(ただしこれは家人からの評判は悪い)のですが、外に出ると命の危険を感じる暑さなので冷房の効いたお部屋でだらだらと過ごしました。好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、新聞を隅から隅まで読んだりして、その合間に食事を作ったり(そのための買い出しは必要なので午前中の比較的しのげるときに出かける)、掃除なんかをしていると一日があっという間に暮れてゆきました。

 これでよかったらやがて来る定年のあとも楽しくやって行けるように思うのですが、家内に言わせるとそれが嬉しくて楽しいのは一ヶ月くらいでそのあとは苦痛になるらしいです。うーん、そうなのかな…、でもそうかも知れませんね。仕事があって研究室という出かけ先があっておまけにそこは独りで自由に使える個室なので、そういう場所があるからこそ家での休暇の時間が輝くのでしょう。

 南大沢駅から研究室への道すがらに大学図書館があるので、今朝も図書館に立ち寄って借りていた一冊を返却して、新たに三冊の本を借りて研究室に向かいました。こういう知的とは言えある意味呑気な日常も大学の正規教員であればこそ行使できる自由だということにあらためて気がつきます。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU図書館内部20221008:IMG_1521.JPG
写真 東京都立大学図書館本館 内観 2022年10月撮影

 大学図書館ではいつも冷房はあまり効いてなくて暑いときが多いのですが、今朝はどういうわけかそれがよく効いていて涼しかったです。学生さんはほとんどいませんでしたが、迂生のような年配のかたが数人おいでになりました。本学の図書館は都民に開放されていますので近隣に住むご老人かも知れません。

 家のそばにこんなに立派な図書館があればGoodですが、残念ながらわが家のそばにはそういう施設はありませんので、定年後はどうしようかなって思っています。ちなみに本はなるべく買わないようにしています。書籍類はスペースをとても食いますし、それらを捨てるときには嫌な気分になりますから。

耳ネタ2025 August (2025年8月5日)

 群馬県伊勢崎市の気温が41.8度を記録したそうです。日本の記録上の最高気温ということです。でも、わが家のすぐ外の温度計では42度でした。42度って信じられますか〜、もう驚きですよね。こんなに暑くては日中の外出は命懸け、という時代に日本は立ち至ったということです。

 あんまり暑いので(関係ないけど)久しぶりに耳ネタでも書くか。最初はちょうど40年前の1985年に発表されたアルバム『Frame of Mind』で、唄っているのは安部恭弘[あべ・やすひろ]さんです。彼は迂生よりはちょっと年上で、東京都立小石川高校から早稲田大学建築学科へと進んで大成建設に就職した方です。しかしゼネコン業には馴染めなかったそうで結局、シンガー・ソングライターになってこうして素晴らしい楽曲を聞かせてくれます。

 

 さてこのアルバムのタイトルに使われているFrameはわたくしのような建築構造学の学徒には馴染みの単語でして柱梁で構成される「骨組」のことです。例えばMoment-resisting frameは曲げモーメントに抵抗する骨組のことで、鉄筋コンクリート構造では柱と梁とのコンクリートを一体に打設して剛接合になることで成立します。でもさすがにここではそうじゃないよなと思って辞書を引くとそこには“a frame of mind:精神状態、気分”とありました、なるほど…。

 このアルバムのジャケットですが、唄っているご本人がなんだかマフィアの親分みたいな格好をして写っているのがおかしいです。そんな悪人じゃないと思いますけど、あははっ。でも中身の曲たちはどれも素晴らしいものでして、彼のアルバムのなかでも最上のクオリティにあると迂生は思っています。

 アルバムはジャジーで夜のカフェ・バーみたいな雰囲気のミディアム・スローな「Lady」から始まります。A面の五曲はいずれも佳品ですが、特に三曲めの「Pumps」が好きです。間奏のスキャットのアレンジが極上で、いつ聴いても気持ちがスッキリして嬉しくなります。B面一曲めの「瞳の霧」では間奏で目の前の霧がサーッと晴れて行き、瞳が見開いた喜びが表現されていて素敵です。

  そしてなによりもアルバムの掉尾を飾る「Close Your Eyes」が素晴らしいラヴ・ソングです。彼の曲には「アイリーン」のようにイントロに特徴があるものが多いのですが、この曲もその一つです。最近のシティ・ポップとやらのブームでこのアルバムも再発売されていますのでぜひお聞きください。

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 もう一枚は今から50年前の1975年に発売されたアルバム『ワインの匂い』です。唄っているのはいつも書いているオフコースのおふたり(小田和正と鈴木康博)で、そういえば小田和正さんも建築学科を卒業した方でした(こちらは東北大学から早稲田大学大学院)。このアルバムの発売は半世紀も前の大昔です。その頃、迂生は中学生でしたが、ホルストとかスメタナとかラフマニノフなどのクラシックばかり聞いていたので和製ポップスなんぞには全く興味がなくて、当然ながらオフコースも知りませんでした。彼らを知ったのは高校生になってからで、このアルバムにも収録されている「眠れぬ夜」がちょっと流行った頃でした。



 小田さんと鈴木さんとの二人だけのころのオフコースはその根底にフォーク・ソングがあって、そういう暖かい感じのオフコースが迂生は大好きです。この二人の声質はよくマッチするらしくて彼らのコーラスはとても美しいのが特徴でしょう。『ワインの匂い』では小田さんの曲が7曲、鈴木さんの曲が4曲、二人の共作が1曲の合計12曲が入っています。雨上がりの土の匂いのような、優しい雰囲気がアルバム全体に漂っているように感じます。

 タイトル・ソングの「ワインの匂い」は幸の薄そうな女性の日常を歌っていて、“逃げて行く 逃げて行く 倖せが 時の流れにのってあの娘から”という歌詞が切ないです。小田さんの透明で儚げな唄声と二人のコーラスが絶妙に溶け合って秀逸な歌です。十曲めの「愛の唄」はわたくしの好きなオフコースの曲第一位です。こんなに物悲しくて切々と歌い上げるラヴ・ソングが他にあるでしょうか、それくらい素晴らしいです。

 最後の「老人のつぶやき」も大好きな曲ですが、二十代の若者(当時の二人のこと)が死を目前にした老人の心境をどうして歌おうと思ったのか、今さらながら不思議に思います。

 もういちど若い頃に 戻りたいと思うこともない
 ただあのひとに私の 愛が伝えられなかった
 それがこころ残りです
 私が好きだった あのひとも今では
 もう死んでしまったかしら 
  ー「老人のつぶやき」作詞作曲:小田和正ー 

 “もう死んでしまったかしら”なんて悲し過ぎる…。「老人のつぶやき」で歌詞があるのは最初の三分で、残りの一分半は弦楽三重奏が物悲しい旋律を奏でるのも特徴でしょう。オフコースのことはもう世間では忘れ去られているでしょうが、名曲はいつまでも歌い継がれるものだと思います。彼らの楽曲にはそういう力があると信じています。

八朔2025 (2025年8月1日)

 八月になりました。台風が接近しているせいか曇天なので、暑さはちょっとおさまりました。楽に登校できてよかったです。

 さて今週の本学は期末試験ウィークです。先日、学部一年生の「建築構造力学1」のテストを実施しました。今年は演習の添削をやめて二年目ですが、昨年は実施した中間試験も今年は取りやめました。どんどんと省力化しているわけで、教育の手法としては世間からは好まれない方に向かっております。そのため、期末試験の成績はどうなるかなと重大な関心を持って注視していました(新聞記事のような他人事のスタンスで書いているな)。

 2025年度は56名が受験して平均点は67点(100点満点)でした。中央値は70点でしたので高得点者が多かったということになります。昨年度の平均点は57点でしたので、明らかに成績はアップしました。わたくしが担当する「建築構造力学1」の長い歴史の中でも67点という平均点は二番目によい成績です(2020年度のCOVID-19のときは除きます)。

 個々の学年の平均的な素養の高低はあるかとは思いますが、演習の添削も中間試験の実施も全体的な成績アップには無関係というふうに判断できます。ということで授業を省力化したことによる負の作用は昨年度に引き続いて見られなかったことになります。ひとまずホッとしましたが、でもこれって(昨年も書きましたが)それまでやっていた十回にも及ぶ演習添削は一体なんの役に立ったのだろうかという疑問をさらに深めることになったのです。まあ、いいんだけどな…。

 冷静に分析すると「建築構造力学1」は静定力学なので比較的簡単ということもあり、本学くらいの学力レベルの学生諸君ならば手取り足取り演習添削で指導しなくても平均で見ると大丈夫だった、ということかも知れません(もちろん個々の学生さんによって事情は異なります)。過去に行っていた演習添削については学生諸君から好意的な評価が多く、実際、とてもためになったという声を聞くことも度々ありました。それを思えば大変だったけど添削はやってよかったというふうに思うことにいたしましょう。これまでの苦労が水の泡になったというわけではないので。そもそも教育をそのような費用対効果で評価すること自体が間違っているのでしょうね、きっと。

 本日午後には学部三年生の「鉄筋コンクリート構造」の期末試験があります。今年は昨年度までとは傾向の異なる問題を作ってみました。もっとも、例年、この授業の試験結果は思わしくないので、それがさらに加速されるだけかも。ということでそれなりに楽しみです。

むかしの時間割 (2025年7月27日)

 研究室の引き出し類を整理していたら大昔の時間割が出てきました。迂生が建築学科三年生だった頃の後期の時間割のようで手書きです。懐かしいのでここに開示しましょう。これをご覧になって皆さん、どのような感想を持つでしょうか。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:東大建築学科三年後期の時間割1982_20250717紙をスキャン.jpg

 真っ先にわたくしが思ったことは意外と授業のコマ数が多いなということです。月曜日から金曜日まで午前中はびっしり埋まっていて、午後は演習類と設計製図になっています。土曜日も午前に1コマ、午後に1コマありますね。今の学生諸君のカリキュラムと較べてどうでしょうか。やっぱり多い(当時の迂生が真面目すぎた?)ような気がします。分野も建築学科の各系の講義や演習が万遍なく置かれていて、それらを全て受講していたようです。このうちの幾つかの科目ではノートが残っていたので見てみました。

 加藤勉先生の「建築塑性学」では、ノートの其処此処に「バシッ!とプレス」「ビシャッと崩壊」「ズルズルっと横に降伏」など、加藤先生お得意の擬音の類が列記されていました、なに書いてるんでしょうかね、あははっ。そのほかには「カンジョウしなくてもガチガチしたものを作っておけば壊れない」などの「加藤語録」も。これって今思えば耐震設計における強度抵抗型建物の極意を簡潔に語ったものだったのかも(知らんけど…)。

 迂生の師匠である青山博之先生の「構造解析第三」はマトリクス構造解析でして、リブスレーの手法を参考にして勉強したことをよく憶えています。確か東大大型計算機センターのハイタックで動くフォートラン・プログラムのソース・コードを渡されて、それを改良して計算したりしました。

 鎌田元康先生の「環境工学第二」では上下水の管路設計について勉強しました。Hass206っていう規格書?の名前だけを記憶しています。鎌田先生の実験室では、トイレの排水の様子が分かるようにパイプを全て透明にした実験装置を見学したことが印象に残っていて、人間が排出するウ◯チの模擬物を作って再現することの苦労話しを伺ったように思います(そんなくだらんことしか憶えてない…)。

 水曜2限の「建築施工」は全く記憶にございません(って、悪辣な政治家みたいだな)。担当の鈴木先生というのは非常勤講師の方だと思いますが、その方についても不明です。この時間割には書いたものの授業には出ずに単位は取らなかったのかも。月曜午後の「統計数学通論」も同前です。また建築学科の授業のほかに都市工学科の川上秀光先生および伊藤(ていじ?)先生の授業もあったようですが全く憶えとらん。

[追伸]その当時の成績表を探し出して見たら「建築施工」は単位を修得していました、とはいえ成績は「可」でしたが…。「統計数学通論」は「優」でした。土曜午後の「彫塑」は通年の授業だったようです。その授業でどんな作品を自身が作ったのか全くもって不明なのですが成績は「可」がついていました。

 三年後期の設計製図では集合住宅、教育施設(学校)およびコミュニティ施設の三課題でした。集合住宅はグループでの設計でして、わたくしは黒野、松原および泰地[たいち]の四人で取り組みました。設計の途中で、留年した先輩の方が仲間に入れてくれと言って加わったので五人になりました。工学部1号館の製図室のアルコーブごとにそれぞれのグループが陣取って共同設計を進めたように思います。

 そのアルコーブで、首にタオルを掛けてエスキスしているところを一年先輩で四年生の越尉[こし・じょう]さんが撮ってくれたのが下の写真です。製図板の上にケース入りの色鉛筆セットと三角スケールが載っていますね。三年生にとって製図室は自由に使えていわば根城みたいなものでしたから当時はそこに泊まり込んで、みんなで半分は遊びながら設計をしていました。スタイロフォームで作ったボールをバットがわりのT定規(も今では死語か…)を振り回して打つなんていうくだらん遊びもよくやったな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:スキャンした写真:東大のころ:本郷・建築学科の時代:東大建築学科3年_製図室にて1982年11月_集合住宅_越尉氏撮影.jpg

 四年生も同じ製図室で設計していましたので、そこで出会った一年上の先輩がたとも当然親しくなってエスキスを見てもらったりしました。そうするとだんだんと徒弟関係?みたいなものが出来上がって参ります、〇〇先輩の手伝いは誰と誰、みたいな。迂生は三年生になった当初は同じ高校の千葉学(建築家で東大教授)に誘われて、やはり同じ高校の先輩だった藤野さんのお手伝いをしていました。ところが藤野さんとはお互いにウマが合わなかったみたいで疎遠になり、途中から登坂[のぼりさか]さんの手下に移動して同級の後藤治と一緒に手伝うようになりました。

 そうやって徒弟関係は固定化してゆくのですが、ときには四年生同士が相談して手下をレンタルに出すこともありました、「きたやま〜、ちょっと〇〇のところに行ってきて」って(後輩はモノじゃないんだけどな)。迂生は手もとが器用だったせいかすんごく細かいハッチングを施すことができたらしくて(自覚はなかったけど)、頼まれて他の先輩の図面にハッチングを描きに行ったりしました。幅1ミリの間に何本もシャープな線を描けるのが重宝がられたみたいです(ちなみに当時の図面は全て手書きです)。でもそういった精緻な作業をする際には息を止めてないといけないし、ものすごく集中するのでとても疲れます。

 先輩の四年生たちは最後に卒業設計に取り組むわけですが、その手伝いはかなり過酷です。提出間際には徹夜で図面や模型を仕上げたように記憶します。その卒業設計展示の印刷物も残っていました(われながらモノ持ちがいいな)。それを見ると登坂さんの図面枚数はなんと36枚!でした。後藤と迂生との手伝いのお陰でしょうかね、あははっ。その甲斐あってか(?)登坂さんはめでたく奨励作に選出されました。

 いっぽうの藤野先輩はといえば提出枚数こそ18枚でしたが(それでも都立大建築学科の昨今の卒業設計に較べればべらぼうに多いですけど)、その年の最優秀卒業設計に与えられる辰野賞を授与されました。ちなみに藤野さんも登坂さんも現在は建築家です。

 製図室で真夜中まで図面描きとか模型作りをしているとお腹が空きます。そうすると誰からともなく「夜食を買って来い」となるのは必然でして、三十人分くらいの牛丼を地下鉄・根津駅そばにあった吉野家によく買いに行かされたな。工学部1号館の表口は夜間は施錠されて出入りできませんが、裏口はオート・ロックで外に出ることだけは可能でした。そのため夜食を買って戻ってくると施錠されていてなかに入れないので、扉の脇にあったインターホンか何かで製図室に連絡して鍵を開けてもらって入りました。

 付言すると三年生の頃には建築構造を研究テーマにしようとは考えていませんでしたので、設計とか建築史に力を入れていたように思います。また建築計画や建築環境にはどういうわけか全く興味がありませんでした、今思うと不思議ですけど。

暑い盛りに (2025年7月24日)

 朝から熱射を浴びせられて、登校するにも身の危険を感じるくらいです。そんなお暑い日に本学・建築学域の大学院入試が始まりました。まだ前期末の試験もやっていないというのに、こんなに早い時期に大学院入試をやるとはどういう了見なんでしょうかね?

 そうではあるのですが、迂生の研究室ではもう大学院生を募集することはないので、建築学科を挙げてのこの一大イベントもわたくしにとってはどこか人ごとのように感じます(まあ、当然ではあるわな)。もちろん諸々のお役目はありますので、組織の一員としてそれに従事するのはこれもまた当たり前です。

 わが社では昨日、試験体を実験装置に組み入れる作業を行いました。今まではそういう作業に立ち会ってボルトを締めたりもして来ましたがさすがにもうしんどくて無理なので、専門の業者にお任せしました。大型構造物実験棟は建築としては安普請なので夏はべらぼうに暑いです。あまりに暑いので作業する学生諸氏もさぞかし大変でしょう。健康に留意して作業に当たってください。

珍事出来 (2025年7月22日)

 三年に一度の参議院議員選挙が終わりました。投票日はよく晴れて暑かったので、陽が落ちてから散歩がてら投票に行きました。来場者はポツポツという程度でササっと投票できてよかったです。

 毎度のことですが迂生が投票する方はだいたい落選するものなのですが、今回はなんと東京選挙区と比例代表との両方とも当選したんですよ、もうびっくり。でもやっぱり自分が投票した方が当選するとちょっとばかり嬉しいです、おいらも人の子だからな。

 今回の参院選では与野党ともに現金給付とか減税とかを声高に主張しましたが、わたくしはそれらの意見には与しません。そんなことをしたら日本は破産するだろうし、そもそもそのための原資がないのだからそれらは全て将来世代への借金となってのしかかります。今さえよければ…、自分さえよければ…、などという姿勢で政治をやってよいのでしょうか、よくよく考えて欲しいと思いますけど。あるいは米国大統領のような自国ファーストとか排外主義とかはもっての外です。

 そう思っていたところ、三十代の若手工学者がそういう主張はせずに新しい手法で政治を変えてゆこうとする新たな政治団体を立ち上げたそうで、これなら既存政党とは違って良さそうと思って比例代表のほうで投票しました。でも実際のところそんな理想みたいな青臭い主張が受け入れられるとは思っていませんでした。

 ところが日本はやっぱり広かったというべきか、それなりに共感する人々が結構いたということでしょうが、なんと百五十万票以上も得票して(老舗の社民党より多い!)一議席を獲得したのです。たったの一議席ですが日本もまだ捨てたもんじゃないなと思っております。政治の世界はコンピュータのアルゴリズムのようにきっちりとは行かないナマモノでしょうが、そんな中で埋没することなく是非とも初心を貫いて頑張ってください。


そろそろ明けるか (2025年7月17日)

 ここ数日、不安定な天気が続いて突然に豪雨が降ったかと思うと晴れたりしました。しかしそれもほぼおさまったのでしょうか、ここ八王子市南大沢の本日お昼にはかなり青空が広がり、美味しそうな雲ぐもたちが浮かんでいてゆっくりと流れてゆきます。みんみんゼミの鳴きごえもうるさげに聞こえて参りましたので、そろそろ梅雨明けなような気がします。

 朝ドラの「あんぱん」ですが一週間に一、二度見る程度ですけど、時代が戦後に入って主人公が新聞記者になったくらいからめっきりつまらなくなりました。朝ドラにありがちな学芸会チックなノリが出てきたようでそれがキライです。でもドラマの場所が高知なので俳優さんたちが時折繰り出す土佐弁は懐かしいですね。

 このページに書いているようにわたくしのルーツ(の片方)は高知にあって、祖父母はいつも土佐弁を喋っていました。テレビで「…しちゅーが」とか聞くと、祖母がよくそんな風に言っていたことをまざまざと思い出します。庭にはイチジクの木があって、その根元でカツオの冊を藁焼きにしてタタキを作ってくれたこともありました。そんな懐かしさにひたりたいので、(つまらなくなった)朝ドラをときどきですが見ています。

 追伸; 翌18日、東京では梅雨が明けました(2025年7月18日)。


緑の函に入った世界文学全集 (2025年7月9日)

 先日、『トニオ・クレーゲル』の話題を書きましたが、京都大学防災研の境有紀先生のページに緑色の函に入った世界文学全集ってこれですか、という画像が載っていました。そうそう、それです!懐かしいなあ。境先生の場合にはご自分の部屋にこの緑函全集の全冊が完備されていたそうです、そりゃまたすごい話しですね。

 わが家の場合でいうと、亡き父は現場監督の建築屋ですからそんな世界文学全集など無縁?じゃなかったかと思うのですが、どいういうわけかありました。でも幼い頃にはそのちょっと暗めの緑色の函を見るだけでなんだか怖ろしげで(薄暗いトイレの前に置かれた本棚に並んでいた)、手にとって見たことはありません。読んだのは『トニオ・クレーゲル』だけでした。

 そのほかにはこれも函入りの新潮社・日本文学全集やどこの出版社だか知りませんがやはり函入りの日本中世・近世思想書集もありました。さすがに日本の小説はそこそこ読みました。夏目漱石『坊ちゃん』、遠藤周作『海と毒薬』、安部公房『砂の女』、北杜夫『楡家の人々』、福永武彦『草の花』、阿川弘之『雲の墓標』、大江健三郎『性的人間』などは全てこの全集で読んだものです。ただ、日本思想書集は(確か宮本武蔵の五輪書があった)全く興味がなかったので手に取ったことすらありません。

 こういう全集本を置いてあったのは子供たちに読めっていうことだったのかと今になって思い至ります。でも両親からはそんなことはひと言足りとも言われませんでしたから、子どもの頃には誰が読むんだろうと訝かしかったものです。まさに親の心子知らずとはこのことか。

 ちなみに今でも手元にあって愛読しているのは、父から貰った角川書店版立原道造全集全三冊だけです(これも函入り)。これが建築家・武藤章先生(日比谷高校から東大建築学科)の形見として父の手元にあったことは以前にこのページで書きました。

クレーゲルとクレーガー (2025年7月6日)

 わたくしと同年代でその昔、北杜夫[きた・もりお](小説家で医師、歌人・医師の斉藤茂吉の次男)を愛読したかたなら、このタイトルを見ただけでピンと来ると思いますが、どうでしょうか…。

 先日立ち寄った本学図書館の新刊コーナーに薄っぺらな文庫本が置いてありました。タイトルは『トーニオ・クレーガー』(トーマス・マン著、小黒康正訳)で、本年6月新刊の岩波文庫でした。作者はトーマス・マンですし、これが『トニオ・クレーゲル』であることはすぐに分かりましたが、なぜこれまで慣れ親しんだタイトルを使わないのかと訝しく思いました。



 ところで中学生の頃の思ひ出ですが、北杜夫の「どくとるマンボウ」シリーズや小説たちを読み耽った迂生はそこに度々登場したトーマス・マンに興味を持ちました。『トニオ・クレーゲル』、『魔の山』あるいは『ブッテンブローク家の人々』などの小説が挙がっていました。その昔、わが家には緑色の函に入った世界文学全集(調べると河出書房「グリーン版世界文学全集」)があって、その一冊に『トニオ・クレーゲル』が入っていたので高校生の頃に読んだ記憶があります。もう半世紀も前のことになりますから内容は全く憶えていません。

 せっかく見かけたのだし、これも何かの縁と思って借りてきて読みました。大きな活字でわずか127ページですのですぐに読み終わります。翻訳は九州大学文学部の教授で小黒康正さんというかたで、調べるとドイツ文学やトーマス・マンの研究者でした。このかたの解説によると本書は『トニオ・クレーゲル』の新訳で、本作の十六番めの邦訳になるとのことです。『トニオ・クレーゲル』はそれほどにも日本人に読まれている小説ということですね、びっくり!

 さてこの小説のタイトルに戻りますが、邦題としては『トニオ・クレーゲル』が圧倒的に馴染み深いと愚考しますが、訳者の解説によるとそこをあえて「原音に近い表記を採用」したとのことです。ドイツ文学の専門家がそう言うのだから、Tonio Krögerはドイツ語の発音では「トーニオ・クレーガー」と呼ぶのでしょうね。それを「トニオ・クレーゲル」としていたのは、かつての日本ではドイツ語読みはそういうものという一般認識があったのだろうと思います。そうは言うもののやっぱり違和感は否めないなあ…。でも新訳自体は読みやすくてよいと思います。

 この小説の内容ですが、主人公のトーニオ・クレーガーが14歳と16歳のときの淡い恋が語られます。その淡くて切々たる恋慕の情はとても甘酸っぱくて久しぶりに胸が切なくなりました。主人公がひとかどの詩人になった30歳過ぎてから、かつて暮らしたドイツ北部の街(リューベックか)を通ってデンマークへと渡り、その北部の海沿いのホテルでかつて愛したその二人に出会うという幻を見ます。

 そのときその二人はホテルのホールでダンスを踊っているのですが、その様子をガラスドアの向こう側でひっそりと見入る主人公の姿は大滝詠一の名曲『恋するカレン』(アルバム『A Long Vacation』に収録)の一場面にそっくりなことに気がついて、結構驚きました。怖ろしく博識だった大滝師匠のことですから『トニオ・クレーゲル』を読んでいてもおかしくありませんが、実際のところはどうだったのか寡聞にして知りません。

 トーマス・マンが『トーニオ・クレーガー』を書いたのは1903年でした。この小説のなかにシュトルムの『みずうみ』が登場します。19世紀半ばに書かれたこの浪漫小説をトーマス・マンも読んでいたことが分かります。でも『みずうみ』は、文学や芸術を解さない俗世の人びとには無縁なものの象徴として『トーニオ・クレーガー』では描かれました。当時はそういう位置付けだったのかも知れません。

 今年2025年はトーマス・マン生誕150年とのことです。それを機にこの『トーニオ・クレーガー』の新訳が世に出たのでしょうが、今の若者がこの小説に興味を持つかというとちょっと疑問に感じます。というかそもそもトーマス・マンを知っているかなあ…。迂生の手元には大学生の頃に入手した『魔の山』の文庫本があるのですが、残念ながら未だに読んでいません。もちろん読み始めたのですが、多分面白くなくて読み進めないままに年月が過ぎ去ったのだと思います。ということはもう読まないんだろうな、きっと。

最後の試験体を搬入する (2025年7月2日)

 今朝は蒸し暑いとはいえ梅雨空が戻って来て、ここ数日に較べると気温が低いのでまあ助かります。

 さて科研費基盤研究Cによる研究は今年で二年目です。その当初の研究計画とおりに試験体を作製して、ただいま無事に搬入いたしました。担当はM2原川洸さんとB4戸田望海さんです。これまで十年近く研究してきた鉄筋コンクリート柱梁接合部の軸崩壊ですが、多分これがわが社における最後の実験になります。

 担当の原川さんとあれこれ検討を続けて、今回は引張り軸力から圧縮軸力への載荷履歴を実験変数とすることにいたしました。軸力の変動幅や柱頭に与える二方向水平変位の履歴が接合部降伏破壊とその軸崩壊に与える影響を検討します。幸いなことにわが社での実験成果の蓄積が豊富にありますので、そういう既往の実験結果と比較するつもりです。

 これからさらに暑い日々が続くと思われます。それだけで正直なところげんなりしてしまいますが、担当の学生諸君は安全を確保しながら実験作業に当たってください。実りある成果を期待しています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:RC隅柱梁部分架構試験体の搬入20250702原川担当:IMG_4052.JPG

半分にすると倍になる (2025年6月27日)

 梅雨らしくジメジメと蒸し暑い日が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか。大学のある八王子市南大沢は盆地ですので暑さはまたひとしおでございます。南大沢駅から大学正門へと伸びるペデストリアン・デッキの右側では、アウトレット・モールの建物が取り壊されていて更地に近づきつつあります。建て替えてまた同じモールになるそうです。

 さて大学院授業の「鉄筋コンクリート構造特論」ですが、今年はどういうわけか吉川研究室(都市計画)からM1四人が受講しています。わたくしのこの小難しい授業を計画系で履修した大学院生は今まで皆無でしたから、なぜだろうととても不思議に思っています。そのうち音を上げて受講を止めるだろうと見ていたのですがそんなことはなくて、課題もちゃんと提出しています。

 ということで建築構造を専門としないひとにも多少は分かるような説明を心がけています。それとともに構造系の大学院生でもその理解力は漸減しているのは悲しいかな事実ですので、受講生諸氏が理解できるようにパワーポイントのコンテンツを見直しています。

 そうするとこれまではスライド一枚で済んでいた内容が、図やらくどくどしい説明やら数式やらを追加するのでそれが二枚になり、さらには三枚になり…とどんどん増えてゆきます。一枚のスライドの内容を半分づつに分けるので全体では倍になる、ということです。

 この講義をするのもあと◯年に過ぎないのでそんなに丁寧に作り直してなんになるんだろう…とチラッと思いはするのですが、聞いてくれる学生さんが理解してくれればそれはとても嬉しいことなので、多分、停年で退職するまで続けるんだろうなあ。

民意を示すとき 東京都議会議員選挙にて(2025年6月22日/23日)

 通常国会が閉幕しました。与野党の目立った鋼棒、じゃなかった攻防もなくて淡々と終わってしまって、なんだか拍子抜けの感じを抱きました。立憲民主党としては内閣不信任案を提出して衆参同日選挙になっても、現状ではうま味は少ないと判断したのでしょう。コメ価格高騰問題で小泉ジュニア農水相のがむしゃらな施策が表向きは奏功して、風向きが微妙に変化しつつあるようにも見えますから。

 小泉ジュニアによる備蓄米の放出ですが、これってよく考えるとどうなのよって思います。だってもともと税金で購入した古米・古古米類を(現在の市況ではお安い値段とはいえ)国民に売りつけているわけですから、一般市民は政府放出米に二重にお金を支払っている、ということになるんじゃないですかね、よく分からんけど。

 その備蓄米も残すところ15万トンに減り、この同じ手は八月以降は使えないでしょうから、短期決戦でいちかばちか打って出たというのが正直なところのようにも思います。いずれにせよ政府はコメ問題に関する農政の無策をよく認識して、お百姓さんも困らないような新たな施策を打ち出して欲しいと切に望みます。

 さてきょうは東京都議会議員選挙の日です。梅雨の時期だというのに東京はよく晴れて猛烈に暑くなりました。迂生は午後三時過ぎにいつもの投票所(研究室先輩の河村さんのお宅のお隣です)に行きましたが、だ〜れも来ていませんでした。投票所には投票立会人を含めて係の人たちが十人ほどいらっしゃいましたが、皆さん手持ち無沙汰のご様子でした。まあ、暑い日盛りの気だるい午後なのでいたし方ないかも…。あんまり暑かったので、帰ってから小玉スイカを食しました、ああ甘露甘露…。

 わが選挙区では定員三名のところを五名が立候補しました。それぞれの所属は自民党、公明党、都民ファースト、共産党、そして石丸さんが立ち上げた「再生の道」です。うひゃあ、選択肢がないじゃないの、これじゃ…。いつも書いているように迂生はアウトサイダーなので与党サイドに投票することはありません。共産党は耳よいことは言うのですが、財源等の裏付けがなくて実現不可能なことばかりを無責任に言うので信用していません。残った「再生の道」に至っては一体なんなのか、実態も主義主張も分かりません。ね?これじゃ困るでしょ、やっぱり。

 こんな感じでどうしようもないのですが選挙は民意を示す貴重な場ですから、投票しないという選択は迂生にはありません。そこで甚だ消極的な理由なのですが、都民にとって最も無害そうなひと(って、なんじゃそれ?)に投票して来ました。ということで選挙の結果を待ちたいと思います。ちなみにわたくしの予想では、自民党と都民ファーストとは当選が固いでしょうから残る一議席を三人で争うことになるでしょう。

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 一夜明けて投票結果が明らかになりました。都民ファーストが第一党になり、自民党は過去最低の議席しかゲットできずに大敗したと報じられています。国民民主党が九議席を獲得したということでこれにはちょっと驚きました。うーん、どうなんだろうな…、この党も財源の裏付けのある実現可能な主張をお願いしたいと存じます。

 さてわが選挙区ですが、迂生の予想に反して自民党は第四位で落選しました。当選の第一位は都民ファースト、第二位はこれも予想を裏切って共産党、そして第三位は公明党でした。わたくしの投票した方は最下位で落選しました。まあ、いつもの通りでして落胆することはありませんが、この方は二万票近くを獲得していたので善戦したほうではないでしょうか。三位から五位までは結果として二万票近辺の争いだったので、もうちょっと票が上積みされれば当選できた、ということになります。

 ということで小泉コメ劇場の効果は都民にはそれほど評価されず、自民党には厳しい判決となりました。まあ、フツーの神経の持ち主ならそう判断するだろうなと思います。5kgあたり約2000円と報じられている随意契約・備蓄米はわたくし自身はまだ見たことがありません。テレビでは報道されても全国の下々にまでは行き渡っていないということでしょうね。はてさて一ヶ月後の参議院議員選挙ではどうなるのか、楽しみにいたしましょう。

柴田明徳先生のおもひで (2025年6月17日)

 武藤・梅村研究室の大先輩である柴田明徳先生(東北大学名誉教授)の訃報に接しました。柴田先生は昭和35年に東京大学建築学科をご卒業され、本年四月に88歳で亡くなられたそうです。木葉会の名簿を見ると柴田先生の同級生には香山壽夫先生、田中淳夫先生(迂生の宇都宮時代の上司)、高梨晃一先生などがおいででした。錚々たるメンバーですね。

 さて柴田先生といえば振動論の教科書としてわれわれ建築学徒のあいだでは有名な『最新 耐震構造解析』(1981年)の著者であり、わたくしは大学四年生のときその本(下の写真の左側)を買って勉強いたしました。付箋がたくさんついて、かなりボロボロになっていますね。写真の右側は2010年4月に柴田先生からいただいた英語版になります。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:柴田明徳先生_最新耐震構造解析_表紙20250617:IMG_4048.JPG

 大学院に進んで建築構造学を専門に学ぶようになると、様々な場面でこの教科書のお世話になりました。とくに地震動に対する建物の弾塑性応答についてはこの本がバイブルだったと思います。

 わたくしは主に実験を研究の手段とする“肉体派”でしたので、振動論等の理論を背景とした“知性派”の柴田明徳先生とは委員会等でご一緒したことはありません。それでも柴田先生には強烈な思い出が残っています。

 それは1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震のときのことです。1月29日(日曜日)の朝に西宮市役所に設置された被災度判定本部に行き、一般のご家庭を回って個々の住宅の被害状況を調べてその結果を口頭で説明する、というボランタリーな仕事に従事しました。その日、阪急電鉄・苦楽園口駅で柴田明徳先生、本学の芳村学先生、山村一繁さんの四人で打ち合わせをして、わたくしは柴田先生とペアになってその仕事をすることになりました。

 そのときの戸別訪問のエリアは西宮市北部でした。ご存知かどうか知りませんがこの地域は六甲山の急坂が迫ったアップダウンのきつい場所です。そこを自転車で移動したのですが、もう大変でヘトヘトになりましたな。柴田先生はその頃は五十代半ばでしょうから迂生よりももっとおつらかっただろうと拝察します。

 それにもかかわらず柴田先生は木造住宅を丁寧に見て回り、その範囲で得られた知見をすごく丁寧に居住者の方々に説明されていました。慈父の振る舞いとはああいうのを言うのでしょうね、きっと。そのお姿を見て(わたくしはまだ若かったこともあって)とてもあんな風にはできないなあと大いなる尊敬の念に打たれたのです。

 柴田先生をご存知の方は先刻承知でしょうが、柴田先生はいつも穏やかな笑みを浮かべて話し方もとても丁寧で、まさに絵に描いたようなジェントルマンだったと記憶します。そういう方が誠心誠意説明されるので大方の住民は納得していたように思いました。この日は結局、夕暮れまでに25軒の住宅を見て回り、午後七時に西宮市役所の本部に戻ってこのお仕事が終わりました。

 ちなみに柴田明徳先生とご一緒した調査風景を撮った写真は一枚もありません。この時代はまだデジタル・カメラがなくフィルム・カメラでしたし、そもそも慣れない仕事だったので写真を撮るような余裕がなかったのでしょう。今思えばとても残念なことをしたと思います。柴田先生からいただいた学恩に感謝しつつ、ご冥福をお祈りいたします。

今年のあんず (2025年6月13日)

 天気はどんより〜、気分もどんより〜で体調もワルワルです。さて街なかのスーパー等の店頭には梅の実が並ぶようになりましたね、もうそういう季節なんだな。本学の牧野標本館別館の前に植わっているあんずは今年は豊作になったようでして、この一週間くらいのあいだにオレンジに色づいたあんずの実がたくさん落ちていました。

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写真1 2025年3月21日 薄紅のあんずの花が開き出したころ

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMUあんず20250613:IMG_4040.JPG
写真2 2025年6月13日 拾ってきたあんずの実

 可憐な薄紅色の花々が咲き始めたのが三月下旬くらいですから、それから約三ヶ月でこれだけの実に熟したことになります。せっかくなので三個ほど拾ってきましたが、食べてもそれほど美味しくないことは過去の体験から分かっています。ですから、しばらく眺めて楽しんだあとは植木鉢の土に載せて観葉植物の肥やしにしようと思います。

紅茶とコーヒーと (2025年6月11日)

 関東地方は昨日梅雨入りしましたが、その前からジメッとして鬱陶しい天気でしたので特段の感慨もありません。ただ、気圧が低いせいか体調はすぐれません。なんだかどよーんとした気分で憂鬱だべさ。

 さて皆さんは紅茶とコーヒーとどちらがお好きですか。わたくしは子供のころから紅茶一択でした。わが家では昔からどういうわけか紅茶を飲んでいたからです。建築学科の大学生だったころ、わたくしの自宅に泊まった柴原利紀くん(現在は建築家)に母が朝食のお供に紅茶を出すと、柴原が「北山は紅茶って感じで、コーヒーとはちゃうなあ〜(by 関西弁)」って言われたのを今でも憶えています。このときも確か柴原の赤いマツダ・ファミリアに乗せてもらって新宿区百人町のわが家にたどり着いたのでしょうな、きっと。

 それに対してコーヒーですが、粉末状のインスタント・コーヒーが出たころに物珍しくて(?)買ったことがあるくらいで、わが家じゃコーヒーはお呼びじゃありませんでした。しかし世間にはコーヒー好きが多いのは周知の通りでして訪問先などでコーヒーが出てくることも多く、そういうときにはもちろんいただきました。でも正直にいうとそれは苦いだけで特段に美味しいと感じる飲み物ではなかったのです。

 ということで日本茶のほかに飲むのは紅茶という生活が半世紀くらい続きましたが、転機はある日唐突にやって来ました。このページではお馴染みの壁谷澤寿海御大[かべやさわ・としみ・おんたい]、その人です。本学の壁谷澤寿一准教授が以前に大型構造物実験棟で骨組実験を行なった際に、お父上の御大がときどき実験棟にお見えになっていて(実験棟が汚いと言いながらお掃除もしてくださいました、ありがた山〜)、ついでに迂生の研究室にもたびたび立ち寄ってくださいました。

 そのとき御大はコーヒーが飲みたいと仰ったのです。「北さん、インスタントでいいからコーヒーない?」って聞かれました。上述のようにコーヒーは全く飲みませんでしたので、このときにはご容赦を賜りましたが、大恩ある御大が飲みたいと宣うのを無碍するわけにもいかないでしょうな、やっぱり。いくらなんでもインスタントというわけにもいかんから、じゃあコーヒー豆を挽いたヤツを買ってきてフィルターで漉して飲もうかという気になりました。

 幸いわが家のおかみさまは当時コーヒーを飲んでいましたので、挽いた豆、紙フィルターとプラスチックのドリッパーを近所のカルディで買って来てもらって研究室に常備するようにしました。それが契機になり、せっかくだから自分でも飲むようになったのです。そうすると不思議なもので、その苦味・酸味とか香りとかが好ましいもののように感じられ始め、コーヒーを飲むことが習慣化してきたのです。

 そうなると豆の銘柄にも注意が向くようになり、産地によって苦味や酸味が相当に異なることに気がつきました。もちろん豆の挽き方も重要なのではと思い、自宅では豆を自分で挽いたりもしましたが、ジューサーを取り出したり挽いたあとの容器を掃除したりするのが面倒で、それはすぐにやめました、あははっ。

 コーヒー豆もカルディだけでなく近所のコーヒー豆専門店で買ったりもしましたが、違いは正直よく分かりませんでした。こんな感じでコーヒー道も御多分に洩れず奥が深そうなので、深煎りじゃなかった深入りはしないように心がけております。

 研究室では昼食後にドリップ・コーヒーを飲むのが日課になりました。砂糖やミルクは入れずにそのままのコーヒーを楽しみます。ただあんまり飲むと、迂生はカフェインに敏感なせいか夜、眠れなくなるので一日一杯と堅く心に決めています。ちなみに今はモカ・ブレンドを飲んでいますが、これまでの経験ではコロンビアやキリマンジャロが美味しかったかな。なお朝食は今でも紅茶です。おかみさまも紅茶好きなので近所のルピシエでさまざまな茶葉を買ってきて楽しんでいます。迂生が紅茶を入れると茶葉が少なくて薄いっていつも怒られております、はい。

塾の話し (2025年6月8日)

 わが家の愚息は塾の講師のアルバイトをしています。先日は小学生模試の試験監督をするとか言って出かけて行きました。彼自身が小学生から中学生にかけて通ったその同じ塾に今度は講師として出かけるわけです。よっぽど塾が好きなんだな、あははっ。

 大学生にとって一番実入りのいいバイトは一般には家庭教師だと思いますが愚息にとっては眼中にないらしいです、不思議だなあ。わたくし自身は駒場の学生の頃に一度だけ家庭教師をやりましたが、すぐにクビになりました。大学院生の頃には確か中埜良昭から紹介されて裕福そうなお宅の家庭教師になりましたが、これも短期間でやめたように記憶します(クビになったかどうかは憶えていません)。

 ところで高校生や浪人生が大学受験のために通う学校は予備校と呼びますが、小学生や中学生が進学のために通う学校はフツーは塾と呼んでいます。駿台とか代ゼミは予備校と呼ばれますが塾とは言いませんよね、なんでだろう…。それとも地域によってそういう呼び方は異なっているのかも知れませんが、わたくしは東京モンなので残念ながら他の地方のことは知りません。そこでAIに質問すると回答してくれますが、それを読んでもあまりピンとは来ません…。

 その塾や予備校ですが、わたくし自身のことは以前にも書きましたがほとんど通ったことはありません。というか、区立の小学校に通っていた頃には母が塾に通わせようとしてそのための入塾試験を何度か受けさせられたのですがその度に落ちて、結局塾に行くことさえできませんでした。確かニッシンとか呼んでいたところなのですが(それがどういう漢字を書くのかさえ知らない)、同じ小学校で勉強のできるコマッチとマコちゃんは合格したのですが、迂生はからっきしダメでした。そのころは遊んでばかりいましたから(ってフツーは当たり前だろ)こちとらは別に気にもなりませんでしたが、母のほうは相当に落胆したようです。そのため中学校受験はしませんでした(母が諦めた?)。

 その後、新宿区立T山中学校に進んで三年生になった頃に、母が今度は数学だけ日曜日に通う塾を見つけてきて、そこは幸いにも入塾試験はなかったので(笑)半年くらい通いました。そこは「東大学力増進会」のような名称で、現役東大生が講師を勤めるのがウリの塾でした。わが家の母も大方の日本人に漏れず東大がお好きだったみたいです、あははっ。JR市ヶ谷駅のそばのお堀沿いにあったエディタースクールという学校内に教室があって、JR総武線からはよく見えました。

 どうして数学だけ通ったのかは憶えていません。ガリ版刷り(懐かしい!)の問題を解くのですが、さすが「東大」を名乗っているだけあってそれが難しいのなんのって、もう自力では歯が立ちませんでした。そんなに難しい問題を解くことにどんな意味があるのか、今でも疑問に思いますね。ちなみに歩いたり話したりするナマの東大生を見たのはこのときが実質的には初めてでしたが、東大生ともなればこんな難しいことも分かるのかとはチラッと思ったかも…。

 都立A山高校に進んでからはしばらくそういう学校には通いませんでした。それは自校での勉強で十分だったということが大きいです。そのほかに一所懸命にやっていたのは月刊誌『大学への数学』に毎月載っている学力コンテストの問題です。これは何時間でも好きなだけ考えてよくて、ウンウンと唸って作った答案を送ると添削・採点されて返って来ました(1979年当時の添削料は理科コースで400円[切手を同封した]でした)。もちろん解けないときもあるのですが、ひとつの問題に沈潜して根気よく深く長く考えることの愉しさをここでおぼえたように思います。今思えば、研究者として必要な素地をここで養ったのかも知れません。もうひとつはZ会の通信添削です(このことも以前に書いたのでここでは省略)。

 高三になる春休み、代ゼミの春期講習に「野村の古文(古典?)」とかいう名物授業があるというので何人かの同級生と半分物見遊山で代々木に通いました(もちろん学費は払った)。野村先生は名物先生らしく確かにキレがあって話しは抜群に面白かったのですが、内容としては全く残っていません。

 高三の夏休みに今度はお茶の水の駿台予備校に夏期講習に通いました。迂生のA山高校と同じ学校群に属した都立T山高校に通う親友の越海敏裕くんと連れ立って出かけました。わが家からJR大久保駅に向かう途中に越海くんの家があって毎朝、ピンポーンって呼びに行きました、懐かしいなあ。大久保駅から御茶ノ水駅まではJR総武線(各駅停車)で一本です(その途中に市ヶ谷駅がある)。

 このようにわたくしにとっては勉強をするに当たって塾や予備校はほんの付け足し程度の補足的な役割しかなかったように思います。翻って冒頭の愚息に戻ると、ヤツにとって勉強をするところといえばそれは100%塾であって、通っていた公立小学校や中学校はどうやらそうではありませんでした。そのことが迂生にとっては大いなる不思議ではあるのですが、人それぞれに勉強の仕方はあるでしょうし、何よりも時代が全く異なるのでいいんですけどね。公立学校の置かれた環境や要求される事柄が半世紀前と現在とでは大きく変貌した、ということでしょう。

 日本では生まれる赤ちゃんの数がどんどん減少しています。少子化は国の予想を遥かに超える速さで進んでいます。そうであれば高校や大学への進学者数も絶対的に減少しますから、進学のし易さは増加すると思われます。それでも塾や予備校はなくならない、というか中学校受験は大都市圏では過熱化へと向かっているそうです。わが国における学歴信仰は未だに衰えていないということでしょうが、もうそういう時代ではないことは皆さん認識しているようにも思います。ここにも日本人の心性の不思議さがありますね。


雨の季節 (2025年6月2日)

 大雨が降ったかと思うと晴れ間がのぞいたりして、どんよりとした日々が続いています。そろそろ梅雨入りでしょうか、鬱陶しくてイヤな時節を迎えます。気圧の関係もあるのでしょうが、灰色の空を見ていると気分が滅入って晴れやかになれません。皆さんはいかがでしょうか。

 梅雨なのでわたくしのお気に入りの雨の歌でも数えてみましょう。このうちの何曲かは以前に書きましたが、まあいいか。

 雨のステイション(ハイファイセット/荒井由実)
 雨のウェンズデイ(大滝詠一)
 水曜日の午後(オフコース;暖かい雨の降る水曜日…)
 ジェラシー(村松邦男;…ジェラシーの雨が降る)
 雨糸(村松邦男)
 雨のリグレット(稲垣潤一)
 つゆのあとさき(さだまさし)
 別れ話は最後に(サザンオールスターズ;雨が降っているのに 空は晴れている…)
 Rainy Day Girl(安部恭弘)
 霧雨で見えない(松任谷由実;…橋の上 霧雨の水銀灯)

 さてこの週末、新宿区立T山中学校の同期会が新宿で開かれました。年一回の恒例行事になった感がありますが、幹事長の理一郎くん曰く、生存確認だそうです。還暦も過ぎるとそろそろそういうことが視野に入ってくるのでまあ当然か…と思ったりもします。この日は四十数人の同期生が参加し、お二人の恩師の先生(96歳!と73歳です)がお見えになりました。いつも思いますが、恩師の先生が律儀に同期会に出席してくださることはホントありがたいことと思います。

 一学年6クラスあったので知らない人のほうが多いのですが、初めて話すひとも含めて見知った人たちと楽しく語らうことができました。何よりも皆が同じ年齢なので、会話する際に相手の年齢を推測したりする面倒が省けていいですね。幹事さんたちの努力のおかげで連絡がつき、卒業以来はじめて来たひとも何人かいました。思わぬひとが思わぬ職業(例えば刑事とか)に就いていたりして驚きましたな。

 最後にみんなで校歌を歌いました。それを歌うと当時のことが思い出されてきて、やっぱり少しうるっと来ますね〜。わたくしは中学進学とともに目黒区から転居してきたので、T山中学校に入学したときには知り合いは一人もいませんでした。それはやっぱり心細かったです、転校生の気分って多分、こんな感じだったのかも…。

 T山中学校の隣には低層の国家公務員宿舎(すなわちアパート)が続いていて、さらには国鉄アパートなどもあったので、そういうお宅の子弟が多かったことから公立中学校にしてはレベルが高いと言われていました。ただ、すぐそばは新大久保の商業・歓楽地域ですから(現在は外国人が多くて無国籍地帯とか呼ばれている)、家具屋とかスナックとか食堂を経営している家庭のお子さんも多くいました。ラブ・ホテル(当時は連れ込み旅館って言っていたような…)も多くて、わたくしの住んでいたアパートからJR新大久保駅に行くあいだに数軒の旅館があったように記憶します。

 迂生は上述のように「転校生」だったので誰がどういうひとかも知らず、こちらも目立たなかったので、多様な人たちと分けへだてなく付き合いました。友だちになったひとから家に来いよって言われて行ってみたら、そこはスナックだったり、落語家だったりしたわけです。高校に進学すると同じような環境のひとが多くてよくも悪くも輪切り状態ですが(それはそれでとても居心地がよかった)、中学生の頃には多様性にどっぷり浸かっていたわけです。今思えばそれなりに楽しい時代でした。もっとも内申点とか、高校受験の勉強とかはもちろん大変でしたけど。

研究ノート (2025年5月22日)

 大学四年生になって青山・小谷研究室に入室して以来、研究ノートをずっとつけてきましたが、今日、それが新しいノートに更新されました。2022年1月から使ってきたノートがきょうの研究室会議のメモ書きでやっと終わったのです。生協で売っている普通の大学ノートですが、更新までに三年以上を費やしたことになります。

 ノート更新の期間はだんだんと長くなってきました。年齢を重ねてそろそろ研究室仕舞を考えるような年頃となり、新しいアイディアや研究のネタもそうそう浮かばなくなってきた事実を如実に反映するようなできごとでして、ちょっぴり悲しい気分も漂います。

 もっとも最近では研究室会議の資料も全てデジタル化され、メモ書きなどはそのファイルに直接書き込むことが多いので、ノートに手書きで何かを記録するということが減っているのも事実です。そうではありますが、研究ノートが一冊終わるとそれ自体はとても嬉しいです。自分の研究の思考が記録として可視化されるというか、それだけ研究してきたんだなあと感慨にふけるからでしょうかね。

 大学を定年で辞めるまでにあと何ページ、ノートに書き付けることでしょうか…。いずれにせよこのノートが最後の研究ノートになるかと思うと、そのこと自体はとても寂しく思います。大学を辞めたって研究はもちろん続けられるはずでしょうが、迂生は多分、もうやらないだろうと(今のところは)考えています。でも人間のマインドなんて気分に応じてコロコロと変わるでしょうから、よく分からんけど。ということで今はまだまっさらな新しい研究ノートがいとおしく思えてなりません。

琵琶湖疏水がやっと国宝・重文に (2025年5月19日)

 琵琶湖と京都の鴨川とを結ぶ琵琶湖疏水の諸施設が本年5月に国宝や重要文化財に指定されました。土木学会は随分前に日本の近代化遺産に取り上げていましたが、お上もやっとその価値を認知したわけで、今頃になってなんだかなあとは思うもののとりあえずよかったとも感じます。

 以前に書きましたが琵琶湖疏水は明治初期の土木学者・田辺朔郎によって計画されて工事が進みました。ここには日本最初の鉄筋コンクリート(RC)構造物である橋(日ノ岡第11号橋、1903年竣工)がかかっていて、この橋は重要文化財に指定されました。この橋の近くに御陵黒岩橋(1904年竣工)と呼ばれるやはり鉄筋コンクリートの橋があって、こちらも重文に指定されたようです(文化庁のHPでは第10号橋とありますが、多分この橋だと思う)。本法最初のRC橋については2023年10月4日のこのページに書きましたので、ここでは御陵黒岩橋を載せておきます(写真1)。


写真1 琵琶湖疏水にかかる御陵黒岩橋(20059月撮影)


写真2 御陵黒岩橋の橋台に彫り込まれた氏名(20059月撮影)

 御陵黒岩橋も日ノ岡第11号橋と同様に小さい橋ではありますが、11号橋よりはスパンが大きいせいかRCスラブのせいは厚くなり、側面には簡素ではありますが装飾のような浮き彫りが施されています。また橋台の脇には「技師 山田忠三 技手 河野一茂」という掘り込みがありました。この橋を設計して施工したお上の技術者たちと考えられます。このように個人名を記した銘板等は見たことがありませんので、明治になって近代国家の建設に邁進した先輩がたの強烈な自負心を感じます。

 琵琶湖疏水の蹴上船溜りと南禅寺船溜りとのあいだを結ぶ傾斜鉄道(インクライン)跡は今回、国宝に指定されましたが、上流側にある蹴上船溜りには小規模ながら気品漂う煉瓦造の平屋建てが建っています(写真3)。この建物は明治時代の宮廷建築家だった片山東熊[かたやま・とうぐま]の設計で1911(明治44)年に竣工しました(注;書籍によっては1912年竣工とある)。

 片山東熊は長州藩出身で毛利の殿様の小姓として戊辰戦争を戦ったひとです。片山はそういう恵まれた境遇にいましたので、山縣有朋などの長州閥の引きによって宮廷建築家の地位を得ることができたようです。東京・赤坂の迎賓館や上野の東京国立博物館にある表慶館が有名かな。鳥取城内に建つ仁風閣も片山の設計です。

 片山東熊は、ジョサイア・コンドル先生が工部大学校で建築学を最初に教えた四人のひとりでしたが、そのなかには辰野金吾[たつの・きんご]もいました。辰野は唐津藩の下級武士(料理人だったらしい)の子でした。唐津藩(小笠原家)は佐幕派だったので、明治維新後は冷や飯食いの立場に置かれたことと思います。幕末には敵味方だったそういうふたりが明治時代になって工部大学校で出会い、席を並べて勉強していた風景はどのようなものだったのか…、ちょっと興味をそそられます。


写真3 琵琶湖疏水・蹴上船溜りの九条山ポンプ場 片山東熊設計(20037月撮影)

 片山東熊のこの小さな煉瓦造建物(九条山ポンプ場)は今回、重要文化財に指定されました。この建物を偶然に目にしたのは2003年のことでしたが、瀟洒でありながらその凛とした佇まいにしばし見惚れたことをよく憶えています。こんなに素敵な建物が建っているのに、そのことを誰も知らず放置されているように見えたので残念に思っていましたが、やっと光があたったようで嬉しいです。この建物は関西電力が所有しているようですが、残念ながら非公開でなかに入ることはできません。うえの写真3の左下には石製の球体が飾りとして載った石造の門が見えますが、これは第二疏水出口の坑門です。右手へ行くと蹴上船溜りで、さらにインクラインに続いていきます。

 琵琶湖疏水のほとりになぜ片山東熊の建物が建っているのでしょうか。その理由は詳らかではありませんが、片山は琵琶湖疎水の設計者・田辺朔郎の姉テルを妻としていましたので、その関係で設計を頼まれたのかも知れません。それにしても言っちゃ悪いですが、単なるポンプ場ごときをどうして宮廷建築家たる片山東熊がわざわざ設計したのか…。琵琶湖疏水がそれだけ国家の威信をかけて建設されたということかも知れませんね。

 なおこの建物の名称ですが、ここでは関西電力が現地に掲げた名板に従って「九条山ポンプ場」と呼んでいます。でも文化庁が今回、重文に指定した文書では「旧御所水道 大日山水源地 喞筒所(きゅう ごしょすいどう だいにちやま すいげんち ぽんぷしょ)」と書いてありました。へえ〜ずいぶんと長い名前だな…。一昨年に行ったときに蹴上船溜りから撮った写真を以下に載せておきます。中央にこの建物があり、その奥に第一疏水・第三隧道の坑門が口を開けています。


写真4 琵琶湖疏水・蹴上船溜りから九条山ポンプ場を見る(20239月撮影)


写真5 琵琶湖疏水・蹴上船溜りから南禅寺水路閣へ向かう分線(20239月撮影)

 蹴上船溜りからインクラインを下らずに南禅寺へと向かいます(写真5)。琵琶湖疏水の分線が流れていますが、しばらく行くと立ち入り禁止の柵が出てきて(すなわち水路閣の上部には入れない)、そこを右手に折れると南禅寺の境内です。ここの水路閣は国宝に指定されました。煉瓦造のアーチがリズミカルに続く構造ですが、上部にはローマ時代の水道橋のような浮き彫りの装飾が施されています(写真6)。アーチの根元に続く柱の頭部にはギリシア時代の神殿の柱頭飾りを模したような装飾も見られます。

 ところで国宝とは重要文化財のなかから選ばれるのでしょうが、南禅寺水路閣はこれまで重文ではありませんでした。すなわち水路閣はこのたび重要文化財に指定されると同時に国宝に指定されたわけで、平成8年に国の史跡になったとはいえ随分と長いあいだ忘れ去られていたのだなあとしみじみ思いました。


写真6 南禅寺の水路閣(20037月撮影)

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会20230912_15京都大学_京都会館_蹴上インクライン:IMG_2185.JPG
写真7 琵琶湖疏水・南禅寺船溜り(20239月撮影)

 うえの写真7はインクラインの最下部から南禅寺船溜りを望んだところです。正面のパーゴラ状の白い建物は琵琶湖疏水記念館です。画面の手前から傾斜した線路が複線で敷かれていて頂上の蹴上船溜りに向かいます(写真8)。高低差は約36メートルで、そこを582メートルで結んでいました。線路の幅はご覧の通りの相当な広軌でして2メートルくらいありそうです。往時はここを三十石船を積んだ台車が昇降していたわけで、かなり勇壮な光景だったことでしょう。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:AIJ大会20230912_15京都大学_京都会館_蹴上インクライン:IMG_2186.JPG
写真8 インクライン(20239月撮影)


写真9 琵琶湖疏水殉難碑(20239月撮影)

 最後に蹴上船溜りのそばに据えられた殉難碑(写真9)を紹介してこの稿を閉じとう存じます。琵琶湖疏水は田辺朔郎が青雲の志をかけて心血を注いだ成果でしたが、その工事は困難を極め、工事中に十七名のかたがたが命を落としました。その尊い犠牲を忘れなかった田辺は1902(明治35)年にこの碑を建立します。そこには「一身殉事 萬戸霑恩(いっしんことにじゅんずるは、ばんこおんにうるおう)」と刻まれています。ここを訪れるひとは今は絶えて久しいように見受けます。しかし先人たちが自身を犠牲にして国家建設に励んだという事実は忘れずにいたいと思います。

耳もとでする音 (2025年5月9日)

 研究室でお仕事をしているとなんだか耳もとでカンカンというかなり大きな音がします。そこでブラインドをあげて窓の外を見ると、タワークレーンがまず目に入って、それから左脇の屋根の上に作業する人たちがわらわらといてそちらもやっぱりお仕事をしておりました、へえ〜そうなのね。研究室内から撮ったのが下の写真です。画面が汚いのはガラス窓の外側がべらぼうに汚れているためです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:TMU9号館6階南ウイングの屋根葺き替え工事20250509:IMG_4020.JPG

 わたくしのいる9号館では周囲にずっと足場が組まれていてメンテナンス工事が続いています(写真にも写っています)。迂生の研究室は7階にあるのですが作業の方がしょっちゅう窓の外を歩くので、さすがに気が散るので普段はブラインドを降ろしています。

 さて目の前の作業ですがどうやら屋根材の葺き替えを始めたようです。奥側から赤茶色の屋根葺き材をバールのような道具でこそぎ落としています。防水維持のためには必要不可欠な工程ですが、今日の夕方から大雨になるという天気予報です。大丈夫かなあ…。

休んだ気がしない (2025年5月7日)

 ゴールデンウィークが終わりましたが、今年は連続の休みは四日間だけだったのであんまり休んだ気はしないなあ…。4月29日以降に休講になった授業もひとコマだけですし、フツーに授業していたっていう感じです。

 そのGWの休みですが例年とおりに家でダラダラと過ごしました。溜まっていたテレビ録画のうち、昨年6月に開かれたN響定期演奏会『オール・スクリャービン・プログラム』(ピアノ協奏曲、交響曲第二番など)を今頃になって見てみました。指揮者は原田慶太楼というかたで見るのも聴くのも初めてでしたが、それが思いのほかの熱演でとてもよかったです。

  スクリャービンのピアノ協奏曲(迂生のお気に入りの一曲)では反田恭平さんが弾いたのですが、これも予想以上に素晴らしい出来でした。指揮者の原田さんがしょっちゅう反田さんの方を振り向いて目で合図するのですが、反田さんもまた律儀にそれを見返していたのでかなり驚きました。ピアニストをときどき見る指揮者はいますが、こんなに頻繁に目を向ける指揮者は見たことがありません。

 番組冒頭で反田さんが「スクリャービンのピアノ協奏曲が滅多に演奏されない理由は、一番の聴かせどころを全てオーケストラに持って行かれてしまってピアニストは面白くないから」と答えていたのが印象深かったです、なるほど…。確かにラフマニノフのピアノ協奏曲に較べればそういう風に言えるかも知れませんが、わたくしのような素人にはピアノの魅力も十分に感じますけどね。

 大学図書館からは相変わらずたくさん本を借りて読んでいます。この休みのあいだに東大教育学部教授の本田由紀先生が編著の『「東大卒」の研究 データから見る学歴エリート』(ちくま新書、2025年4月)を読了しました。東大についての書籍や論考はたくさんありますが、東大を卒業した人たちの思考や家族生活、バックグラウンドを大規模に調査した研究は今までになかったということです(確かに聞いたことはなかったな…)。それゆえに興味深く読むことができました。

 東大の学部を卒業した人たちの2437人の情報を統計的に分析したということで、その内容はとても興味深くて頷ける部分も多々ありました。ただ、あえて集団としての東大卒業者を統計的に分析したために、ざっくりとした傾向を提示するにとどまるところが多く、それは残念に思いました。例えば東大工学部を卒業したひとの考え方にはこれこれの傾向が見られた(具体には「相対的に自己責任意識が高く、再分配支持や社会運動への関心が低かった」)などとネガティブに総括されても、あまり説得力を感じませんでした。

 本書の執筆者は本田教授の教え子とも言える人たちであり、社会の分断や格差および不平等に対する問題意識が非常に高い方々のようです。それはそれで素晴らしいと思いますが、そういう同じバックグラウンドを持った人たちの論考なので、その主張は自ずとある方向に偏って行きます。そのことが本書を読み進めると段々と分かってきて、それが鼻につくようになりました。多様な人びとの存在を認めるのであれば、著者らと異なる見解を持つ人たちがいてもそれはそれで尊重されるべきだろうと思います。

 それにしても日本人てなんやかんや言っても結局は東大がお好きなようです。その辺りについては改めて書きたいと思いますが、エリート面[づら]しやがってというような反感を世間さまから抱かれないように書くことは(上述の書籍で本田先生も言っていましたが)存外、難しいことのように感じます。でもまあこのページは市井のいち研究者のメモランダムなので気にしなくていいかも、あははっ。

新緑のなかで (2025年4月25日)

 東京都西部の秋川渓谷にある温泉に久しぶりに行って来ました。「瀬音の湯」という公共の温浴施設で東京都あきる野市にあります。わが家からだと中央高速に乗って八王子ICでおり、下道をタラタラと走って一時間ちょっとで着きます。際寄りの駅はJR武蔵五日市駅になります。

 休暇を取って平日に出かけましたが、それなりにお客さんは来ていて(でもお年寄りが多数でしたが)広い風呂場には二十人ほどが入浴していました。ちょうどよい陽気でして、露天風呂がよい加減で気持ちよかったです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:瀬音の湯20250424:IMG_7904.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:瀬音の湯20250424:IMG_7902.JPG

 お風呂から上がると屋外に併設された「森のテラス」に行って、そこに置いてあるデッキチェアーに寝そべります。そこからは秋川渓谷の低山を彩る新緑を眺めることができて、とても気が休まります。清々しい山気を感じながらボーッとしているといつまでもここにいたいという気分になって参ります。

 でもそうも行かないので泣く泣くその場を去り、武蔵五日市駅前にある美味しいレストランでお昼ご飯をいただいて帰ってきました。同じ東京でもこんなところがあるなんてちょっとした驚きです。わが家からは日帰りで楽しむにはちょうどよいところなのでまた行きたいなあ。たまには緑を浴びてリフレッシュしないとね。

こなれて来る (2025年4月18日)

 ちょっと汗ばむような陽気が続いています。四月中旬でこんな気温だと、このあとどのくらいまで上がるのでしょうか、夏に向けて不安が募るなあ…。昨晩はわが建築学科に新たに加わった新人教員三名を歓迎する会があって、フレッシュな風にあたってきました。

 さて春の新学期が始まってから十日ほど経ちました。現在は学生諸君の履修申請が行われていて、どの授業を取るかの意思決定がだんだんと固まって来る頃かと思います。

 わたくしは前期には三つの講義があるのですが(学部が二つ、大学院が一つ)、それらが一巡してとりあえずはホッとしたところです。そのうちこなれて来るだろうとは思います。でも、迂生の講義は教壇に立ってうろうろ歩きながらやるというスタイルですが、寄る年波のせいでしょうか、それが結構つらくなって参りました。

 地理学者だった祖父は東京教育大学を定年で退官したあと、私立大学でも教授を務めました。そこの講義では教卓の前に座り、持参した急須と茶碗で日本茶を飲みながら「それでの〜」なんて讃岐弁まる出しで授業をしていたそうです。ですから迂生もよっぽどそうしようかとも思うのですが、座っちゃうとお腹に力が入らなくて声が通りませんし、なによりも授業をやっているという自己満足感?を得ることができないんですねえ。でもまあ、背に腹は代えられないので体力的にもうダメってなったらそうしようかな…。

 授業では黒板(白板)への板書はやめていて、説明するコンテンツは全て本学のクラウド上にアップします。毎回、演習問題も出しますがそれも同様です。その後しばらくしてから演習の解答も配布します。これらの作業が結構な手間でして、どの授業にどれをアップしたのかすぐに忘れてしまって、その度にkibaco(本学のクラウドの名称、キバコと読む)にアクセスして確認しております、はい。

 こんな感じで毎年のルーチン・ワークではあるのですが、それがだんだんと億劫に感じられるようになって来ました。こんなことを書くと「人間やめますか、先生辞めますか」みたいになっちゃうのでいけませんね、あははっ。

ひっそりと座っていらした (2025年4月15日)

 初夏のような陽気の一日、皇居そばの三菱一号館に行ってきました。わが家のおかみさまがここの美術館で開催されているオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)の展覧会に行くというのでついて行きました。三菱一号館は帯鉄[おびてつ]で補強された煉瓦造で、工部大学校造家学科のお雇い外国人教師として来日したジョサイア・コンドル先生が設計して明治27年に竣工し、昭和43年に取り壊されました。しかし2009年に同じ場所に三菱一号館が復元されたのです。オリジナルを忠実に復元したことは慶賀すべきことがらですが、超高層ビルが頭上に覆い被さるように建っているので窮屈な印象は拭えませんねえ。コンドル先生は喜んでいるのやら悲しんでいるのやら…、どちらでしょうか。


説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:三菱一号館_明治生命館_帝国劇場_第一生命館_日生劇場20250415:IMG_7812.JPG

 ということで今回の目的の半分は久しぶりに三菱一号館を訪ねることでしたが、ビアズリーに懐かしさを抱いていたこともありました。実は迂生は大学生くらいの頃にビアズリー展(?)に行ったことがあり、そこでゲットしたポスターを青山研究室の自分の机のところに貼っていたのです。どんな図柄だったのかは定かではないのですが、サロメがヨカナーンの首を抱えている気持ちの悪い絵ではなかったように思います(ありゃグロテスクなので見ていて気持ちのよいものではない)。

 さてビアズリーの絵ですが、実物は思ったよりも小さいものでした。雑誌や書籍の挿絵として描かれたものが大半なので、それで十分だったのでしょうね。ペン書きの白黒の絵ですが、図柄が大胆なだけではなくてとても精緻に描かれているものもあります。結核のためにわずか25歳でこの世を去ったビアズリーでしたが、その才能には瞠目すべきものがあって奇才と言われるのも頷けます。

 この展覧会では展示されている作品数が多くて見応えがありました。見に来ている客層ですが女性ばっかりで男性はほとんど見かけませんでした、どうしてだろう…。またある一室は18歳以上限定と書かれていてちょっとドキッとしましたが、それほどエロいものではなくてちょっと下品な作品でした。

 ビアズリー展では最初にエレベータで三階に上がり、それからだんだんと下に降りてゆくという順路でした。その最後に一階に戻って行く階段が下の写真です。そこに置かれたベンチにひとが座っていますよね。この階段を降りて来たときにはそれは本物のひとかと一瞬思ったのですが、よく見るとそれは銅像でした。でもなんでこんなところに銅像が座っているのだろうか…。そこで近寄ってしげしげと見るとそれはなんとジョサイア・コンドル先生だったのです。またまたびっくり!





 上述のようにここは通過動線の脇にあって大勢の人たちが通るのですが、この像に注目するひとは誰もいません。そんなところにコンドル先生がひっそりと座っているとはちょっとした驚きでした。東大建築学科がある工学部一号館の前に立っているコンドル先生以外の銅像を見たのは初めてです。コンドル先生、お懐かしゅうございます、そう思って先生の左側にしばらく座っておりました。

追伸; 三菱一号館については2011年11月30日のこのページにも書いてあります。そのときのタイトルは「お懐かしゅう」でしたが、やっぱりコンドル先生のことを懐かしく思ったのでした。木葉会出身者の性なのかも…。

ガイダンスが終わって (2025年4月7日)

 花曇りですがそこそこ暖かな春らしい日和となりました。都心の桜は満開を過ぎて散り始めているようですが、ここ南大沢は寒いので今がちょうど満開です。先週末に学部新入生のガイダンスを行い、今日のお昼には大学院進学者を対象としたガイダンスを実施しました。これが終わると翌日から授業が始まります。二年間の教務委員のお務めが三月末に終わって今年はホッとした新年度を迎えております。

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 この週末に駒場の頃の気の合う仲間との同窓会がありました。いつもだいたい十人程度が集まりますが、今回はちょっと少なくて七人でした。いつものように永世幹事の村上哲くん(JAXA)が全てをセットしてくれました、村上ありがとう。既に定年を迎えたひともいて、そろそろ年金が気になり出した頃合いでして、そういう話題で盛り上がりました。とっても複雑なので西澤くん(こちらもやっぱりJAXA)がレポートにまとめてくれることになりました、あははっ。

 われわれは理科I類のフランス語未修クラスでしたが、西澤が入学当初(半世紀近くも前の大昔!)のクラス新聞を発掘して見せてくれました。わら半紙に手書きされていて表紙は黄ばんでいてよく読めません。コンパ委員とか生協委員、試験対策委員などが任命されていたのも懐かしいです。そこにクラスの皆さんの自己紹介文があったのですが、知らないひとが結構いてみんなで驚いていました、このひと誰だっけ?

 まあこの場に集まったのは当時から交流があって気の合う仲間たちなので、この場にいないということは仲良くもなく普段の付き合いがなかったということでしょうから、すっかり忘れてしまった同級生がいたとしても不思議でもなんでもないですよね。

 でも例えば駒場の頃には中埜良昭とは付き合いはほぼなかったのですが、いっしょに建築学科に進学して四年になってからは同じ研究室で卒論を書くようになったことからとても親しくなり、それは現在まで続いています。そんなことを思うとやっぱりひととの出会いは偶然の産物であることを思い知りますね。なんにつけ偶然というものは大切であるということを再認識いたします。

新年度になる (2025年4月2日)

 三月も末になり、わが家の周辺でも桜がちらほらと咲き始めた頃になって、どうやら風邪をひいたようです。真夏のように暑い日から一転して真冬の寒さに戻ったりして気候が不順なせいかも知れません。それからずっと家で静養していましたが、そのあいだに桜の花々は満開になり、世間さまでは年度末を過ぎて新年度を迎えました。

 こんなふうに静養していたとはいえ、日本建築学会大会の梗概の締め切りが本日お昼でしたので、学生諸君からメール経由でひっきりなしに届く添削依頼や相談ごとへの対応に腐心しておりましたから、休んでいたという実感は全くありません。今回はまずM2の藤村さんが三月末に投稿を終え、わが社を巣立ってゆきました。彼女はこの二年間、大いに活躍してくれたので迂生も嬉しく思います。次にM1の星川さんが難航の末に投稿しました。最後にM1の原川さんが不明な点を残したままですが時間がないのでそのまま投稿いたしました。

 皆さんが二年間、あるいは一年間のそれぞれの研究成果を未完成とはいえ取りまとめることができたので、それはそれでよかったと思います。ただし、様々な疑問や論点が浮き上がって明らかとなりましたので、そういう課題をこれから腰を据えて解決してくれることを期待しています。


花粉と黄砂 (2025年3月26日)

 きょうは半袖でもいいくらいの陽気になるという予報でして、確かに暖かいです。いよいよ春という感じでそれはそれで嬉しいのですが、花粉がすごい上に黄砂も飛んできてもうたまらん状態でございます。

 東京都心のソメイヨシノは開花したそうですが、わが家のそばの野川沿いの桜はやっと咲き始めたくらいで、南大沢に至ってはまだ固い蕾のままです。やっぱり八王子は寒いんですねえ。一号館の中庭の日陰の水仙は咲き始めたところですが、日当たりのよい場所では満開になり、馬酔木[あしび]の花もかなり開いてきました。

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 牧野標本館別館前のあんずの花々はすでに盛りを過ぎて散り始めました。国際交流会館前の雑木林にある一本桜はちょうど満開を迎えていて見頃です。この桜は例年よりも少し遅いように思います。来週はもう新年度ですが、その頃には南大沢のソメイヨシノ達も満開に咲いて目を楽しませてくれるでしょう。

 先日、愚息が車の免許を無事に取得しました。それにともなって車の保険に愚息を追加したのですが、若者対象の掛け金ってとってもお高いのですね。セールス氏にあれこれ知恵を絞ってもらって金額を下げるように工夫しましたが、それでも結構な出費になりました。でも保険に加入することで安心を手に入れられますから(保険ってそもそもがそういうものなので)まあいいかって思っています。

 ちなみに愚息はまだわが家の車を運転したことはありません。わたくし自身の大昔の経験では初心者のときには壁面に車をこすったりしましたから、彼も多分、そうなるんだろうな…。ボコボコにならないことを祈ります。

ハレの日に (2025年3月24日)

 さきの金曜日に本学の卒業式・修了式がありました。よいお日和に恵まれてようございました。大学に籍を置く者にとっては毎年、春に行われる恒例の行事ですが、このハレの式に出席できるのもあとわずかかと思うと、ちょっと寂しい気もいたします。





 午後三時から行われた建築学科・学域の卒業証書・修了証書授与式は、今年は講堂が改修工事中で使用できないことから、12号館のフツーの教室での開催となりました。対象の学生は百名ほどですので狭い教室はほぼ満員です。そこでひとりずつ名前が呼ばれて鳥海基樹・建築学科長から証書を手渡されます。そのあと鳥海教授から祝辞がありましたが、彼は原稿も読まずに難しそうな文献の名前やら他人の言やらをスラスラと訓示したことに驚きました。とてもよいお話しでした。さすがにパリの都市計画学者はやっぱりひと味違うなあ〜。

 この学位授与式が終わってやれやれと研究室で一服していると、研究室OBの田島祐之さん(愛知淑徳大学教授)と北山研元助手の岸田慎司先生(芝浦工業大学教授)とが連れ立ってお出でになりました。お二人とも忙しいところを遠くからわざわざ来ていただいてありがたいことです。なんでも迂生の定年退職があと○年に迫っているので、そのことについてご心配をいただいたようです。ホント、そのお気遣いには感謝感激雨あられですが、どうぞお気になさらないでくださいと頼んでおきました。お気持ちをありがたく頂戴いたします。でも内心ではそういうふうに気にしてくれる教え子や後輩がいることをとても嬉しく思いました。

 さて卒業生たちが主催する謝恩会が今年は学内のスペースで開催されることになったので、十数年ぶりに出席いたしました。建築学科の謝恩会は例年、都心の有名ホテル等の宴会場を借り切って行われていて、学生諸君が高額の出費を負担していることを知っていたので参加を遠慮していたのですが、学内ならそれほどでもないかと考えて出席いたしました。国際交流会館内のレストランがあった場所で、飲食はケータリングだそうです。

 すごく久しぶりに参加したので建築学科の先生がたからは珍しがられました。それより何より、迂生が謝恩会に出ないことはわが社の学生たちに代々伝授されていたようで、この日の謝恩会にわが社の卒業生はひとりも参加しなかったことは誤算でした、が〜ん。とは言えこれも身から出た錆びでございますから文句も言えませんわな。

 会場で研究室ごとに記念撮影をしたのですが北山研はそれもなく、ポツンと座っている迂生を憐れんでくれた壁谷澤寿一先生が壁谷澤研の仲間に加えてくださいました、ありがた山の旅がらす、でございやす。花束の贈呈でも気遣ってくれた壁谷澤研M2小松さんがプレゼンターを務めてくださいました、ありがとう。こうして二時間ほどの謝恩会は先生がたとあれこれ雑談しているうちに楽しく終わりました。ご招待をいただき、誠にありがとうございます。皆さまの今後のご活躍を祈念いたします。

 わが社の卒業生は誰も謝恩会には来ませんでしたが、授与式が終わったあとにM2藤村さんとB4星野さんとから卒業記念の日本酒をいただきました。帰宅してから箱を開けるとそれは聞いたことも見たことも飲んだこともない純米大吟醸の地酒でした。生原酒[なまげんしゅ]だったので今は冷蔵庫に鎮座しております。体調がよくなったらそのうち開栓してチビチビと楽しもうと思います、どうもありがとう! ということでハレの日の話題でした。

彼岸の入り (2025年3月17日)

 昨日までは冷たい雨降りでしたが、きょうは晴れ間が差して気温が上がりまずまずのお天気です。ただ花粉がすごくて頭にモヤがかかったようになり、気分ワルワルでございます。登校すると牧野標本館新館の前のあんずは薄紅色のつぼみが随分と膨らみ、わずかに花弁が開いているものもありました。きょうは彼岸の入りですが春はもうすぐそこまで来ていますね。

 先週、後期の大学入試がありました。東大・京大が後期日程入試を随分前にやめてから報道されることもなくなりましたが、どのくらいの国公立大学が今なお後期日程入試をやっているのだろうか…。迂生は前期に引き続いてお仕事を割り振られました。昨年、入試業務のオペレーションの不備について文句を言っておいたので一部は改善されていました(それはよかったのですが)。でも相変わらず変わっていないお仕事もありました。

 まあ仕方ないか…と思い定めて今年は文句を言うまいと思ったのですが、最後の最後に先方から些細な記入漏れを指摘されて、それが引き金になってついにキレてしまいました。ということで昨年同様に後味の悪い入試業務でした。つらつら思うに、マニュアルはすごく細かい上に杓子定規で、なんでこんなことまでやらせるのだろうかという疑問が多々あります。能率は悪いし、合理的なようにも思えないのですね〜。とにかく入試の種類が多すぎるのだとわたくしは思います。そのため事務方をはじめとして担当する先生がたが疲弊していて、そういうオペレーションを見直そうというヤル気が出ないのではないか。

 後期日程入試でわが建築学科が募集する人数はたったの8名です。そのため後期入試の志願者倍率こそべらぼうに高いのですが(二十数倍!)、いざ当日の試験を迎えると欠席者がぞろぞろいるわけで、甚だしく効率の悪い入試になっていると愚考します。若者の人生を決めるかもしれない入試に対して表現は不適切かも知れませんが、コスト・パフォーマンスが極めて劣悪と思います。

 編入学試験から始まって各種推薦入試、大学入試共通テスト、前期日程、後期日程、学士入試、外国人特別選抜、帰国子女対象…等の入学試験のあり方を思い切って整理したらどうでしょうか。入試業務にかかわる人たちの仕事量はもう限界を超えているのではないかと危惧します。

東京大空襲に思ふ 承前 (2025年3月10日 その2)

 3月10日の東京大空襲の続きです。1923年の関東大震災で落命した悲運の人たちを慰霊する震災記念堂が東京両国の横網公園に建っています。1930年の竣工で、設計は伊東忠太先生です。それが下の写真1です。巨大な唐破風のような正面入り口があってその奥には(写真1には相輪の先端しか写っていません)写真2の中国由来のように見える三重塔が建っているという混合様式の、伊東忠太らしさ満載のとにかく不思議な建築です。

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写真1 震災記念堂/東京都慰霊堂 200911撮影

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写真2 震災記念堂/東京都慰霊堂 200911撮影

 この震災記念堂ですが、昭和19年から敗戦までのあいだに東京を標的とした無差別爆撃による多数の被害者の御霊をお祀りする施設としても使われるようになり、1951年に東京都慰霊堂と名称が改められました。2009年にここを訪ねたときには、それらの御遺骨は写真2の塔内に安置されていましたが今はどうなっているでしょうか。

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写真3 震災記念堂/東京都慰霊堂にあった看板 200911撮影

東京大空襲に思ふ (2025年3月10日)

 きょうはアジア・太平洋戦争中の1945年に東京大空襲が為された日です。今年は敗戦から80年ということで東京大空襲についてもテレビ・新聞等でかなり報道されていますね。

 わが社の本年度の卒業研究で石家健太郎さんがアントニン・レーモンド設計のリーダーズ・ダイジェスト東京支社の建物(現存せず)の配筋図を探し出して、この建物の耐震性能を検討してくれました。構造分野から見ればとても簡単な略算程度の内容ですが、それでもわたくしの疑問をかなり解明してくれた意欲的な研究であると評価します(その内容についてはいずれどこかで書きたいと思っています)。

 その関係でレーモンド関連の書籍を何冊か読みましたが『レーモンドの失われた建築』(三沢浩著、王国社、2010年)のなかに、レーモンドが爆撃実験用の日本家屋を米国で設計して建設した事実があることを知りました。

 アントニン・レーモンド(チェコのひと)は1919年12月にフランク・ロイド・ライトに誘われて来日し、日本で多くの建物を設計しましたが1938年10月に日本を去ってニューヨークへ渡ります。その後、1943年にユタ爆撃実験場に日本の木造長屋を設計して建設しました。これは空襲において焼夷弾によって日本市民の住む家々を効率的に焼き払う手法を知るための実験に供されたものでした。これらの実験建物はプレファブ・システムによって建設されたそうです。

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工事中の「日本家屋」(三沢浩『レーモンドの失われた建築』より)

 その実験内容は機密でしたが、1946年1月に「プレファブターゲット」の見出しで米国建築誌に発表されます。サブタイトルは「レーモンド、米陸軍のために日本の労働者住宅を再現」でした。ただし、この事実は日本ではあまり知られていないようで(実際、わたくしは知りませんでした)、三沢氏の著作によると建築史家・藤森照信の「週刊朝日」(1989年6月23日号)でのコメントや建築家・林昌二の自著「二十二世紀を設計する」(1994年)でのレーモンド批判があるくらいのようです。

 ちなみにレーモンドは戦争が終わると1948年10月に再び来日して、レーモンド建築設計事務所を再興しました。日本占領が終わる頃に彼が設計して東京に建てられたペリー・アパートメント(現存せず)については、このページで何回か紹介いたしました。

 日本を愛し日本に多くの建物を設計して建てていたレーモンドが、なぜ日本の無差別爆撃を容認するかのような行動をとったのか、そのことに対してレーモンドがどのように説明したのかは知りません。三沢氏はその著作の中でレーモンドは悩んだものの早期に戦争を終わらせる方法を選んだと推察しています。

 いずれにせよこの爆撃実験の成果は3月10日の東京大空襲で実証され多数の無辜の民が亡くなりました。そういう蛮行に間接的にせよレーモンドが関与したという事実は正しく認識されるべきであると考えます。そういうことを思ふとき、戦後になってレーモンドが優れた建築を続々と日本に建てたことに対して日本の建築家たちはどのように思ったのか、多分複雑な心境だったのだろうとは思いますが、そういうことは現代には(少なくとも表向きには)なにも残っていないようです。

 過去に誰がなにを考えてどのように行動したのか、そういう事実を記録して歴史として未来に伝えることが大切であるとあらためて実感します。

寒気が戻る (2025年3月4日)

 三月になって急に寒さが戻りました。きのうの午後は多摩東部ではみぞれだったり雪だったりの荒天でした。今朝は京王線で人身事故があって一部区間が止まり、ダイヤが乱れていました。でも相模原線は動いていましたので電車に乗ったのですが、多摩センター駅止まりになってそこで下ろされ、そのあとから来た電車も当駅止まりになってしまい、結局20分近くも吹きさらしのホームで待たされました。

 調布から西に向かう相模原線では、若葉台駅から永山駅のあいだにトンネルがあるのですが、そこを抜けると明らかに気温が下がります。永山から先は一段と寒くなるわけで、寒風吹きすさぶホーム上で待つのはことのほか苦痛でした。多摩センターよりも西の区間では利用者数が減るという判断なのでしょうが、南大沢まで行く人も結構いると思いますけど…。

 三月中旬に京王線のダイヤ改正が予定されていて、特急等の本数を増やして利便性を高めるとか謳っていますが、わたくしのような各駅停車しか利用できない人間にとっては関係がありません。むしろ各駅停車の本数が減らされたり、乗り継ぎが不便になってホームで待たされる時間が長くなるほうが不安です。

 ウクライナのゼレンスキー大統領がトランプ大統領の「虎の尾」をもろに踏んづけてしまって逆鱗に触れた件ですが、ゼレンスキー氏は本当に気の毒に思います。彼の立場からすればそう言うしかないじゃないですか。会談に同席していた米国の副大統領の発言が口論のきっかけになったようですが、この副大統領もどうかと思いますけど。

 こんな恐ろしい事態を見せつけられると、今年初めにトランプ氏と会談した石破茂首相はホントに偉かったなあと心底思いました。その会談の姿が卑屈であるとかいろいろと批判されましたが、とにかく気分屋の相手の機嫌を損ねないようにする作戦は大事だったと今になって思います。この大統領の任期はわずか四年ですから、そのあいだを何とか乗り切る方策を考えたほうが合理的ですよね。彼に振り回されて破滅するなんてことだけは避けないといけませんから。


二月晦日に (2025年2月28日)

 急に暖かくなって二月晦日を迎えました。先日、弊学の前期入学試験があってそのお仕事に従事しました。まあ、皆さんが想像するような業務内容ですが、とにかく疲れました。やることはマニュアルで厳格に規定されるのでその通りにするだけですが、とにかく気を使うし、あれこれうるさく指令されてやることが多く、注意すべき事柄も多いので気が休まりません。

 そうかと思うとボーッと心を無にして存在を消さないといけない時もありまして、それが長時間続くのでどうやって時を過ごせばいいのか、ホント困惑いたします。朝早くから登校して問題を解いている受験生諸氏のご苦労には頭が下がりますが、それを支える大学当局もかなり大変な状況にあることは間違いありません。何もなくスムーズにはかどるのが当たり前と思われ、些細なことでもミスがあると鬼の首を取ったかのように叩かれるのがわたくし達の仕事の宿命です。それを思うと準備や段取りを担う事務方や担当の先生がたには本当に感謝の念でいっぱいでございます。

 しかしこれだけ気疲れして体力も要するお仕事は還暦を過ぎた亜老人にはちょっとばかり過酷なように思います。もちろんお給料を貰っていますのでやれと言われればお仕事ですからやりますが、それもだんだんと限界に近づいているように思いました。こりゃもうダメだな、できないな…と感じたときが辞め時かもしれません。

最終講義で考える (2025年2月22日)

 八王子は極寒の日々が続いております。きょうは土曜日ですが、角田誠教授の最終講義が建築学教室の主催で開かれたので登校しました。受付が混雑していたのでそこは素通りして大教室に入るとすでに相当の人たちで埋まっていました、すごいなあ…。懐かしい先生がたにもお会いできてよかったです。わたくしの隣にどさっと座った方がいたので誰だろうと思って見たら山田幸正名誉教授(東洋建築史)でした、お久しぶりでございます。

 角田先生の最終講義は「構法から生産へ」というタイトルで彼が東京都立大学での四十年!の研究生活を振り返って話してくれました。建築構法というのは東大の内田祥哉先生が興した学問だと思います。内田祥哉先生のお弟子だった深尾精一本学名誉教授の一番弟子が角田さんなので、東大工学部11号館8階の系列ということになります。ちなみにわたくしは同じ11号館の7階の系列です。

 この最終講義に至るまでには紆余曲折があったようですが、この日の角田さんはとても楽しそうに気分よくお話しされていたので安堵いたしました。ただそのご専門はわたくしのテリトリー外なので細かい内容はよく分かりませんでしたけど、あははっ。

 角田さんに初めてお会いしたのはわたくしが宇都宮大学の助手だった頃、芳村学先生(当時は都立大学助教授)の助手だった津村浩三さん(専門がRC構造)の結婚披露会に行ったときでした。そこに同じく助手だった伊藤恭行さん(大学時代の同級生で建築家、現・名古屋市立大学教授)が来ていて彼から紹介されたのが角田さん(も都立大学助手)でした。でもそのときは「はじめまして」くらいは言ったかも知れませんが彼が何を言ったかは憶えておらず、なんだか怖そうなひとだなという印象だけが残りました。

 その後、ひょんなことからわたくしが東京都立大学にやって来て皆さんの同僚になったわけです。そこで思い出すのが、学部新入生を対象として四月早々に八王子大学セミナーハウスで一泊するオリエンテーションをやっていた頃のことです。わたくしが助教授で教室幹事のときに、当時は深尾研の助手だった角田さんに車を出してもらい、わが社の助手だった小山明男さん(現・明治大学教授)と三人で飲み会の買い出しに行きました。このとき何を話したか憶えていませんが、角田さんと親しく会話を交わしたのはこのときが初めてだったように思います。その後、彼は助教授となり、わたくしよりも先に教授に就任されました。

 わが大学の建築学科では計画系の研究室は8階、構造・環境系は7階という住み分けがされています。角田さんは計画系なので本来は8階に研究室を構えるはずでしたが、彼が助教授に昇格したときに8階に空きがなかったことから7階に研究室を構えることになりました。そのため7階にいるわたくしとの交流が始まったように思います。その後、彼と一緒に研究をし、愚痴を言い合って来たことはこのページにも折に触れて書いて来ました。

 ちなみに彼がわたくしよりも年上であることが分かったのは随分と経ってからでした。初めて会ったときに伊藤が彼を呼び捨てにしていたので、ということは同年だろうと勝手に思ったからかも知れません。そのため都立大学に赴任してからも角田さんとはタメ口で話していましたが、彼から見れば年下の迂生から馴れ馴れしく話されて不快だったかも知れません。そうであればわたくしの不徳の致すところであってお詫びをしたいと思います。もっとも彼のほうが年上と分かったからといっていきなり敬語を使うのも妙なので、結局今に至るまでそれは改まっておりません、はい、ごめんなさい。

 思い返すにわたくしは三十一歳のときに本学建築学科の助教授となりましたが、当時の教室会議は教授と助教授だけが参加できたので、助手の方がたとの交流は年に二回の教室総会のときだけで希薄な関係でした。ですから今思えば、突然外からやって来て助教授になった若いヤツ(って迂生のこと)がなにエラそうにほざいてやがるんだって思っていた助手の方も多かったのではないでしょうか。もちろん、年齢を重ねて経験豊富な助手の方々がいらっしゃったので十分に敬意を持って接したつもりではありますが、若気の至りで鼻持ちならないヤツだったかも知れません(多分そのように見えたことと思います)。そういうあれこれを思うと本当に汗顔の至りでございます。山田先生にしろ角田先生にしろ今に至るまで親しく接してくださいましたから、そのご厚情にはホント感謝しております 。

 さて最終講義ですがこれは先述のように建築学科の公式行事なので、学科長や教室幹事などの先生たちがいろいろと面倒な手続きや作業を担ってくれてはじめて実現できます(ご苦労様でございます)。ご存知かどうか知りませんが今の大学の教員はなんにつけ雑用が多く、それでなくても研究に集中する時間がとれません。そんな状況ではありますので、せめて自分達からは面倒なお仕事を増やすことがないようにしたいものです。

 そんなことどもを考えるとき、迂生自身は最終講義をやるつもりは全くありません。最終講義のためにストーリーを考えてパワーポイントの発表資料を作ったりすることが面倒でやりたくありません。そもそも自身の個人的な体験とか思考とかをわざわざ他人さまに聞いていただくことなど申し訳なくてできるものではありません。本当の授業は学生諸君相手に淡々とこなしていますし、わたくし自身の経験とか考えたことなどはこのページに折に触れて写真も交えながらつらつら書き綴っておりますから、そういうモノをわざわざ聞きに来ていただく必要を感じないんですね〜。

 できれば送別会なども開いていただかずにひっそりと大学を去ってゆくというのが迂生の理想です。だってこれまで好きなように教育・研究活動をさせてくれた大学ですから、わたくしが感謝するのがまず第一と思います。でもその感謝を言うために優秀な先生がたを煩わせることは本意ではありません。オラオラデ シトリ エグモ(by宮沢賢治/まだ死なないけど)ですな。

 なお上記は愚見をありていに述べたものであり、他人さまのbehaviorをなんら規制するものではなく強要するものでもありません。このページをご覧のかたがたには言わずもがなとは思いますが、念のため申し添えます。

六本木で「狩り」をきく (2025年2月19日)

 とても寒い晩に久しぶりに六本木一丁目のサントリーホールに出かけました。ちょうど一年前にここで尾高忠明指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団演奏のブルックナー交響曲第六番を聴きましたがそれ以来です。その演奏がとても良かったので、同じコンビが演奏する今回はブルックナー交響曲第四番「ロマンティック」を聴きに出かけたのです。ちなみにブルックナーの交響曲のなかで「ロマンティック」のような副題がついているのはこの第四番だけです。

 交響曲第六番のマイナーさに較べたら第四番「ロマンティック」はブルックナーのなかではもっともポピュラーだと思われ、そのせいかチケット代も去年よりはお高かったです。とはいえ一番よいS席でも7000円でしたので、外国の有名指揮者とかベルリン・フィルみたいな有名オケに較べれば格安だと思いますよ。この日はお客の入りもよくて九割がたの席は埋まっていました。ブルックナーは女性には人気がないと常々言われますが、この日は御婦人方も多かったように見受けました。



 さて今回の第四番「ロマンティック」ですが、ブルックナーの交響曲のなかでは迂生にとってはそれほどのお気に入りではありません。ただ第四番には複数の楽譜が存在し、1874年の第一稿、1878年から1880年の第二稿、そして1888年の第三稿と主要なものだけでも三つあって、さらに細かい変更も多数あります。また楽譜の校訂者もロベルト・ハースとレオポルト・ノヴァークが有名ですが、そのほかにも多数おいでになります。

 このうちの第一稿と第二稿とは相当に異なっていて、別の曲かと思うところも多々あります。特に第三楽章のスケルッツォは全く別の曲に書き換えられています。それと較べれば第二稿と第三稿との差は少ないでしょう。それらの聴き比べが第四番「ロマンティック」の楽しみのひとつであることは間違いなく、迂生もそのような聴き方をしております(かなりマニアック?)。

 これらの主要三稿のうちでは第二稿がもっともよく演奏されていて、今回のマエストロ尾高忠明さんが選んだのもこの第二稿でして、その校訂者はノヴァークでした。ということで一番聴き馴染みのある曲ということになります。ちなみに第二稿の第三楽章はホルンが狩りのときの角笛のように気持ちよく響き渡るせいで「狩りのスケルッツォ」と言われるほどに有名でして、多くの指揮者はこれを演奏したいがために第二稿を選んでいるようにも思われます。そのほうが聴衆受けもいいですしね。それに較べると第一稿のスケルッツォは相当に不気味で「狩り」のような爽快感とは無縁です。

 さて今回の演奏ですが全四楽章のトータルでは67分ほどで、全体としては中庸なテンポかと思います。第三楽章までは少し速めのテンポでしたが、終楽章で尾高さんがかなり緩急をつけたためにゆったりしたところもあったので、こういう演奏時間になりました。ちなみにこの曲で最も有名な演奏のひとつであるカール・ベーム指揮、ウィーン・フィルの1973年の演奏(同じ第二稿のノヴァーク版)が69分でした。

 この日の第四番「ロマンティック」はよい演奏で折に触れて感動もしたのですが、昨年の第六番と較べるといまいちという印象を受けました。その一番の原因はホルン独奏が納得のゆく演奏ではなかったためです。ホルンは元々演奏が難しい楽器で音がコロッと裏返りやすいことは承知していますが、プロならばそこはコントロールしないといけません。

 第一楽章冒頭、夜明けのうっすら靄がかかったような様子を弦楽のかすかなトレモロが奏するなか、ホルン独奏が本曲の主題を吹くのですが、そのホルンが入りっぱなでちょっと転がり、おやっと思いました。ここのホルン・ソロはこの曲の聴かせどころなのでそれはちょっとまずいでしょう。大丈夫かなと心配になったのですが、ホルンの不安定さはときおり顔を出してその後も第三楽章まで続き、とても気になりました。第三楽章のスケルッツォでもホルンが心配で爽快感を楽しむことができませんでした。

 昨年一月に聴いた第六番に較べるとホルンは明らかによくなかったと思います。最終楽章では少し落ち着いたようでしたが…。終演後に指揮者の尾高さんが真っ先にホルン独奏者を立たせて称賛の拍手を送りましたが、そんなに良かったかなあ。聴衆からブーイングが出なくてよかったくらいに迂生は思ったのですけどね。

 ただ第四楽章の最後のコーダでは、それまでアゴーギクをそれほど効かせなかった尾高シェフがテンポをぐんと落としました。そこからフィナーレに向かって曲は弱音から徐々に盛り上がって行くのですが、そこがとにかく素晴らしかった。それはこれまでCDでこの曲を聴いたときには抱かなかった感情でして、生のよい演奏を聴くとこんなにも心がうち顫えるものかととても感動したのです。最後がとてもよかったので(ホルンのことは忘れたことにして)尾高さんと大阪フィルとに賞賛の拍手を送りました、ブラボー!

 尾高シェフは今回も熱演だったと思いますが、さすがに寄る年波には勝てないらしくて最後は疲れ切ったというご様子でした。わが家のお上さまによると尾高忠明さんと井上道義さんとは桐朋学園の同級生ということですが、井上道義さんは惜しまれながら昨年末に引退されました。それを考えると尾高さんは健闘されていると思います。

 演奏が終わって大阪フィルのメンバーが壇上を去っても拍手は止まず、しばらくしてからコンサートマスターの崔文洙[ちぇ・むんす]さんと一緒に舞台に戻ってくれたのが下の写真です。このとき、もう寝たいよっていうジェスチャーをされていましたので、相当にお疲れだったのだと拝察します。尾高シェフ、素晴らしい演奏をありがとう。





 今回は前から9列目の右側に座りました。自席から見た舞台が上の写真です。コントラバスが目の前にあってその演奏の様子がよく見え、その音色も比較的よく聞こえました。コントラバスってかなり地味な印象がありますがその奏者は八名もいて、その低音がオーケストラのアンサンブルを支えていることがよく分かりました。

 それからホールの聴衆のことですが、この日は咳やクシャミがかなり目立ちました。生理現象なので仕方ありませんが、録音には明らかにマイナス・ポイントになります。尾高シェフ&大阪フィルによるブルックナー・チクルス(英語ではサイクルで、交響曲全集のこと)はこの日の第四番を最後に終了したそうですから、この演奏もやがてCDになるのでしょうが大丈夫かな…。楽章と楽章とのあいだで指揮者が棒を降ろしているときには会場のどこかで何か重い物を落としたような音が響いて、尾高シェフもビクッとしていました。

 クシャミ等は花粉の季節が到来したからかも知れません。わたくしの前に座っていたお客が演奏中にいきなり上を向くと目薬を差し始めたんですよ。もう何やってんだか…、せっかく非日常の演奏に浸ろうと思っているのにやめてくれってば。

檸檬の百年 (2025年2月11日)

 果物のレモンを檸檬と漢字で表記すると日常のレモンとは何だか違ったモノであるように感じるのはどうしてでしょうか。レモンはカリフォルニア産だけど檸檬は広島産などとはさすがに思わないでしょうけど。漢字の『檸檬』を見ただけで察しのよい方はすぐに思い出すアレがありますよね。きょうはソレを書こうと思います。

 先日、ひょんなことから梶井基次郎の「檸檬・冬の日 他九篇」という本を大学図書館で借りました。1985年発行の岩波文庫で250円と書いてあります。四十年も前の文庫本なので紙は茶色に変色してボロボロで文字も小さくて読みにくいものでしたが、それしかないのならまあいいか。

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 ご承知のように梶井基次郎の『檸檬』は日本の近代文学史上最もよく知られた小説のひとつで、迂生も中学生だか高校だかの頃に国語の授業で聞き知ったように思います。『檸檬』を以前に読んだことがあったかどうかは憶えていません。ただその内容を知らないということは読んだことがないのでしょうね。ということで一体なにが書いてあるのか興味津々で読んでみました。

 『檸檬』はとても短くて、字の小さいこの文庫本ではわずか七枚に過ぎませんでした。登校する京王線の車中で読み終わりました。その内容を書くとこんな感じです;著者を思わせる若者が京都の街を鬱々と放浪していると八百屋(最初は果物屋とあるのですが…)の店先で“レモンエロウ”で“紡錘形”の檸檬を見つけて一個だけ買い、それを丸善書店の本棚の前に積みあげた書籍たちの上に載せたままで書店を後にしつつ、その檸檬が“黄金色に輝く恐ろしい爆弾”になって丸善を木っ端微塵に爆発させると想像してほくそ笑みながら街を下ってゆく、というただそれだけの内容です。

 “レモンエロウ”と表記されるだけで確かに檸檬の清々しさとその明るさが匂い立つような小説ではあるのですが、暗鬱たる情念が通奏低音のように全体に満ちています。幼いころを思い出す回想の場面やカタカナ書きの舶来品を珍重するような描写はちょっと北原白秋を彷彿とさせます。

 でも現代人の目からすると特段に言い立てるような小説でもないような気がいたします。『檸檬』は奇しくも今からちょうど百年前の1925年1月に雑誌「青空」に掲載されました。私小説全盛の当時にあって、私小説から抜け出そうとする試みが為されていたのでしょうが、文学界のそういう潮流にあって『檸檬』は一歩先へ踏み出したということでしょうか。

 作者の梶井基次郎は1901年2月に大阪市で生まれ、1932年3月に肺結核によりわずか31歳の若さでこの世を去りました。京都の第三高等学校を1924年に卒業して東京帝国大学文学部英文科に進みますが、肺結核の病状が悪化して1926年に退学しました。生前に発表した小説は20編に過ぎず、それらはいずれも短編でした。借りた文庫本には『檸檬』を含めて九編の小説が搭載されていますが、それらが代表的な作品なのだろうと思います。

 『檸檬』は梶井基次郎の実質的なデビュー作ですが、その一編だけで近代文学史上に名前を遺したのですから、それはやっぱりすごいことなのでしょう。悲しいかな迂生にはそのすごみが分からないというだけの話しです。

 この文庫本に納められた「冬の日」という短編に「希望を持てないものが、どうして追憶を慈しむことが出来よう。」という一節がありました。当時は不治の病であった肺結核に侵されて不安な毎日を過ごしていると、過去を懐かしく思って慈しむという気分には確かになれないだろうと思います。

 この文庫本に搭載された短編小説はいずれも暗く鬱々とした雰囲気に満ちています。病気を抱えていただけではなく、自分自身が思ったような小説を書けないことに苛立っていたのかも知れません。しかし彼の暗中模索の試みも残念ながら結実するには至りませんでした。見た目は爽やかで清々しい檸檬一顆[いっか]を残して梶井基次郎は永遠に去って行きました。

静寂が訪れる (2025年2月7日)

 きょうのお昼に三年生の「特別研究ゼミナール」の成果物がクラウド上に提出されて、今週の学事ウィークが終了しました。ちなみに東京都立大学の学生諸君がアクセスするクラウドは「kibaco」(木箱)と呼ばれています。東京のマンモス私大に通う愚息にこの名称を話したらダセーって言われましたけど、あははっ。

 卒業設計、卒論および修論の発表会は昨日までに終了したことから、学生さんがばったりと来なくなってきょうはとても静かです。こちらもホッとひと息ついて少しばかりのんびりした気分に浸っていますが、来年度に向けた様々な準備とか計画とかが着々と進みつつあってそうも言っていられません。

 二月中旬には学生さんたちが使っている研究室の戸境壁をぶち抜いて大部屋にする工事が始まります。もちろん鉄筋コンクリートの耐震壁は撤去できませんので、非構造の間仕切り壁のところだけです。本学のキャンパスが1991年に南大沢に移転して以来の大掛かりな改修になるので、この工事には二ヶ月が見込まれています。そのあいだは学生諸君が流浪の民になってしまうわけですが、そうすると四月早々の建築学会大会の梗概を書けませんし、新学期の始業にも差し支えます。それを解消するためにいろいろと面倒な作業をしないといけないので、なんだかなあって思います。

 さてわが研究室に貯め込んだ書類や冊子などをバンバン処分しているのですが、大学院生当時の実験の生データ(当時は全て紙に打ち出して整理して保管していた)とか各種論文の草稿、はたまた試行錯誤して作成した図表の原版などがたくさん出て参りました。そういう束[たば]には手書きのメモとか考察なども残されていて、懐かしい気分に浸ります。若い頃に苦心して熟慮したそういう思考の跡をみると、それらを捨てることがなんだか自分自身を否定するように感じられて、実はあまり気分が良くはありません。どうやったらそういう嫌な感じを抱かずに処分できるかなあと思います。

 迂生が大学院生だった頃、師匠の青山博之先生と小谷俊介先生とは鉄筋コンクリート柱梁接合部に関する日本・アメリカ・ニュージーランドの三国による国際セミナーを共催しておいでで、そのプロジェクトに参加させていただきました。そのときに作成した英文資料や計算結果などがひょっこりと姿を現します。そんな資料を作ったことさえ忘れていたものもあって、そのうちの幾つかはこのサイトの論文アーカイブに新たに格納いたしました。

 それらの資料を眺めるにつけ、自分がいかに恵まれた境遇にいたかがよく分かります。三国国際セミナーという大きなプロジェクトがたまたま存在した、その偶然もわたくしにとっては大きかったと思います。M1の頃から英文資料を作っていましたが(もちろん両先生からの指図のもとです)、それがその後の研究者人生にどれだけ役立ったかは計り知れません。自分自身、定見もなく博士課程に進学したように思えましたが、実はこのときに実験したり計算したり考えたりという一連の経験が知らず知らずのうちに研究者への道を地ならししてくれたのだと今は思います。

 そういう機会を与えてくださった青山・小谷両先生にはやっぱり感謝の念を深くします。しかしそういう機会を活かせたのは自分自身がその当時、ウンウン唸りながら頑張ったおかげです。我ながらよくやったなと自画自賛する気持ちも抱きましたね(でも、その資料を捨てつつあるわけだ…)。

減りゆく図面 〜卒業設計の採点にて (2025年2月4日)

 早朝は晴れていましたがお昼には灰色の雲が垂れ込める寒い日になりました。今週はわが建築学科の学事ウィークです。昨日、卒論や修論の提出がありました。きょうの午前中は卒業設計の採点で、午後はその講評会が夜まで開かれます。わたくしは採点はしますが、二次選考に残った人たちの講評会には出席しません(構造系の研究者がそこまでしなくてもよかろうという判断です)。

 ということで今年は15名の学生さん達が卒業設計にトライしました。パネルに貼られた図面は年々減っていて、ことしはA1換算で最高9枚というあり様でした。平均にするとたったの4.5枚です。こんなことでいいのでしょうかと毎年ここで書いている気がしますから、もう意味ないか…。わたくしは発表の学生さんとは議論しない方針なので採点自体は約一時間で終わりました。

 図面と模型だけを見て採点してから当該の設計者に話しを聞いてみると、図面に書いてないことを滔々と語ってくれます。それを聞くとなるほどそうだったのかと合点することも多いのですが、それだったらそういうことを図面にしっかり記載してくれって言っておきました。ちなみにそういう後付けの情報は採点には反映しません。

 採点会場は国際交流会館のホールです。昨年末に空調交換工事で研究室に二週間ほど立ち入れない時期がありましたが、そのときここに来てつくねんと座っていた、あの場所です。イスラム教徒の方々のお祈りのスペースもありましたが、きょうはそれは撤去されたようで困っている留学生たちがいるのかも。もしそうだったら申し訳ございません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU国際交流会館_卒業設計展20250204:IMG_3939.JPG

耳ネタ2025 February (2025年2月2日)

 節分ですが、雪が降るという予報が出たくらい寒いです、幸い雨降りですみましたけど。そんなお寒い日々にこころがほんわか温かくなるような耳ネタでも。こりゃまた久しぶりだな…。

 ということでサザン・ファンの皆さま(って、それって誰よ?)、お待たせいたしました! 以前に書きましたが迂生はサザン・オールスターズのファンでもなんでもありませんが、彼らの楽曲には若い頃にはかなり馴染み、それなりにお気に入りの曲たちもあったりします。

 そうではありますが、きょう取り上げるのは原由子さんのアルバム『Mother』でして、これは1991年に発売された二枚組のCDです。ちょっとゴツいボックス・ケースの裏を見ると税抜き価格が3,893円で税込みは4,010円でしたから、消費税が3%の頃だったわけです。日本にもそんな時代があったんだなあと懐かしく思います。ちなみにこのころ、わたくしは千葉大学建築学科の野口博研究室で助手をしていました。



 原由子さんはサザン・オールスターズで桑田さんの後ろで微笑みながらキーボードを弾いているひとです。若い頃には“ハラボー”なんて呼ばれていましたが、すでに御歳七十歳近くになった方に向かって、さすがにそれはないでしょうな。原由子さんがボーカルをとった曲としては「わたしはピアノ」が一番有名だと思います(その昔、高田みづえが歌っていました)。でもわたくしは「鎌倉物語」が好きでして、歌詞に出てくる日影茶屋には若い頃に何度か行きました。いいところですが、確かにちょっと声をひそめるような場所ではありますな。

 このひとの声ってかなり変わっていて、もしも知らずに聞いたら民謡歌手なんじゃなかろうかって思うくらいです(もちろん個人的な見解です)。でもその歌たちはどれも優しげで、温かい気持ちにしてくれて微笑みが自然と浮かんでくるような楽曲が多いですね。

 さて二枚組のアルバム『Mother』ですが、一枚めでは三曲めの「少女時代」が一番好きです。作詞・作曲ともに彼女自身で、三分半ほどの比較的短い曲です。井上陽水の「少年時代」を聞くと必ずこの「少女時代」を思い出して聞きたくなるっていうのが迂生にとってはよくあるパターンでして、今回もその流れでこのアルバムを思い出したわけです。

 八曲めの「かいじゅうのうた」は幼い子供を歌った唄ですが、幼児って大人にとっては不思議ちゃんで、多かれ少なかれ怪獣みたいなところがありますよね。わが家でも子供が小さい頃にはそのヤンチャぶりに振り回されてはよくこの歌を思い出して、アルアルって共感したものでした。

 二枚めでは八曲めの「ためいきのベルが鳴るとき」がとてもいいです。この曲は桑田佳祐さんの作詞・作曲でして、やっぱり桑田さんって只者じゃないということを感じさせます。バラードではないのですが、ふわふわとした原由子さんの声質にものすごくフィットした曲じゃないかと思います。

 サザン・オールスターズには相当に際どい歌詞を持つ(言ってしまえばわいせつな)曲が多いのですが、『Mother』にも一曲だけ入っていてそれが二枚めの「イロイロのパー」です。じんわりとしたハラボーの曲だからってこのアルバムを安心して女の子と一緒に聴いていたら、突然にエッチな歌詞が流れてきて狼狽したってことにならないようにね、なんちゃって。

 ためいきのベルは 黄昏の合図
 よく似た他人を見るたび 明日は遠ざかる
 忘れられぬ 夕やみ迫る夜が泣いてる
 せつなさだけの恋にお別れ

〜「ためいきのベルが鳴るとき」作詞・作曲:桑田佳祐



一月晦日に思ふ (2025年1月31日)

 見上げると青空が眩しいです。真冬の清澄な寒気に刺されるようですが、明るい陽射しに誘われたのか花粉がかなりすごいです。例年になく早い到来ですが、そのぶん今までよりも早く収束してくれるなら、まあいいかなって思います(っていうか、自然には逆らえないからな)。

 隔年で開講される大学院科目の「耐震構造特論第一」ですが、今期は三つの課題を出題しました(以前に書きましたが英文輪読はやめました)。そのうちのひとつは兵庫県南部地震で倒壊した学校建物をもしも地震前に耐震補強するとしたらどうすればよいかという新規の設問です。受講した大学院生諸君にとっては先輩のレポートが存在しないので参考になるものがなく、どうやら苦慮したようです。

 その問いの出題に当たっては当該建物の耐震二次診断の結果を授業中に詳細に説明しましたので、わたくしとしてはその結果に基づいて耐震補強計画を練って欲しかったのですが、そういう意図に沿ったレポートは思いのほか少なくてちょっとがっかりしました。日本建築防災協会の耐震診断基準が学生諸君にとってはファミリアではないということみたいでしたが、それならそれで少し勉強すれば分かるのになあ、と残念に思います。

 想像するに修得単位のコスト・パフォーマンスを考えればそんなに一所懸命に勉強しても見合わない、そこそこの成績で単位がとれればそれでよい、ということかもしれません。もちろん二次診断の評価に基づいて定量的に耐震補強を計画してくれたひともいたので、個々の考えに従ってレポートを作ったということでそれはそれでいいでしょう。こちらもそんなにしゃかりきになって採点しなくてもいいのでしょうが、きっちりやらないと気が済まない性分なので、まあ仕方ありませんな。

 学部三年生の「構造設計演習」の構造計算書は先日、提出されましたので、これから採点します。受講者は二十名近いので分厚いレポートの束[たば]が机の上に鎮座していますが、例によってなかなか採点する気が起きずにどうしたもんかなあと見ないふりをしています、あははっ。でも早いところ採点してその結果をもう一人の担当教員である高木次郎教授に渡さないと彼が困るでしょうな。ということでそろそろ重い腰をあげるかな…。こんなことをうだうだ書くヒマがあったら採点せいって言わないでね。

 来週には卒論や修論の発表会があります。わが社ではきょう、二回めの発表練習をする予定です。年齢を重ねたせいでしょうか、昔の小谷俊介先生のように手厳しい指導はする気がしなくなり(そういう意欲が枯渇したということか)、彼らが自身の能力に従って出来る範囲でやればいいと思うようになりました。こんな物分かりのいいことを言うと当時の小谷先生だったら「北山くんさあ〜、そんなんじゃ彼らのためにならないよ、って言うか…」とまた批判されそうですけど…。

 それでも発表練習を二回できるのはここ数年のわが社ではよい方なのです。思い返すと一度も練習せずに発表会当日を迎えるという剛のひとも昔はいましたので、それと較べると今年度の卒論生諸君は頑張っていると思います。最後ですので皆さんの奮起を期待しております。

東博の法隆寺宝物館にて (2025年1月24日)

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:上野にて西洋美術館_法隆寺宝物館谷口吉生_東洋館谷口吉郎_本館大階段20240425:IMG_3166.JPG

 きょうは上野の東京国立博物館にある法隆寺宝物館を見てみましょう。昨年(2024年)末に他界された谷口吉生さんの設計で、1999年に竣工した鉄筋コンクリート造(一部は鉄骨造)四階建てです。構造設計は構造計画研究所です。なおここに載せる写真は全て昨年四月末に撮影したものです。

 上の写真は二階の休憩スペースからエントランス・ホールの吹抜け越しにアプローチの小道と水盤とを見遣ったところで、左上に表慶館(片山東熊設計、重要文化財)の緑青を吹いたドームが見えています。床面の約2メートル上から鉄製のたて格子が立ち上がっていてスクリーンのようになっています。こういう繊細なデザインが谷口吉生さんらしいところです。

 エントランス・ホールの受付のわきから内部を撮ったのが下の写真です。画面奥の一本柱で支持されているのは三階のお立ち台(迂生が勝手に名付けました)です。ここは展示を見て回る過程の動線上の一部にあって特段の機能はありませんが、空間体験上はとてもよいアクセントになっています。





 いきなり内部空間からはいりましたが、この建物のファサードを見ておきましょう。鉄筋コンクリート(RC)製の肉薄の床版で作られた覆い屋を非常にスレンダーな鋼製の四本の丸柱で支えます。水盤に四本の鋼柱が映っていてとても綺麗でした。その覆い屋のなかにガラスと鉄とで造られた別構造の箱がはめ込まれて、その右側に入り口の風除室が設えられています(図1を参照)。

 この建物にアクセスするには画面手前の小道を左から右へと歩き、そこから建物に向かって水盤の間を通ってアプローチします。東博内を歩いて来たひとはこのように鉤の手に曲がりながら法隆寺宝物館に至るわけです。一見、迂遠にも思えますがそこには、これから日本古来の宝物を見ようという来訪者の気分を高揚させてワクワクさせるという効果があるわけで、建築家の細やかな配慮を感じます。

 RCの覆い屋の下のガラスと鉄の箱に取り付いた風除室(入り口)がしたの写真です。素っ気ない風もありますが、必要最小限の部材で構築されたミニマルな美しさをわたくしは感じます。水盤の間のアプローチ路と風除室とのあいだには数段の段差があり、そこに座って周囲の景色を眺めるひとたちが見受けられました。


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図1 谷口吉生 法隆寺宝物館1階平面図(新建築2001年5月号よりスキャン)

 ここでちょっと雑談ですけど、法隆寺宝物館の図面を見ようと思って本学図書館の書庫に潜り、月刊誌「新建築」のバックナンバーを探しました。そうしたらなんとこの建物が掲載された2001年5月号だけが欠本となっておりました。いやあ、これは痛かったなあ…。図書館ではこういう月刊誌を数冊ずつ合本して保管していて全ての号が揃っていることに価値があるので、これは一体どうしたことか。

 ないものは仕方ないねということで諦めていたのですが、あるとき角田誠教授(建築生産・構法学)がフラッと研究室に入ってきて、研究室仕舞の話しになりました。そこで思い出したんですよ、彼が「新建築」を毎号購入してストックしていることを。ということで事情を話して当該の号を無事にゲットすることができました、角田先生ありがとう!(二月の最終講義に向けての準備、ご苦労さまでございます)。

 建物の内部に戻って、主要な展示室は一階および三階にあります。二階には小さな展示空間があって、このときはデジタル法隆寺宝物館というコーナーになっていました。三階のお立ち台につながるホールからは二階の吹抜けをのぞき見ることができて、それがしたの写真です。右側がデジタル法隆寺宝物館です。間仕切りの左側は鋼製スクリーンのおかげで採光されて明るい空間になっていて、この両端に階段があります。下の写真の左奥には一階のレストランに降りる階段がありますが、通行止めで使われていませんでした。その階段からレストランにアクセスされると運用が面倒だからと思われますが、眺めもよく気持ちのよさそうな階段だけに残念に思いました。





 二階の展示スペース脇の通路からエントランス・ホールの吹抜け方向を見遣ったのが上の写真です。上下階を結ぶ鋼製階段には蹴込み[けこみ]板がないので視線が通り、空間の透明性を高めています。この階段がまた華奢な感じでいいあんばいなんだよな。

 この先の階段を一階に降りて折り返すと、そこに小さなレストランがあります。図1の平面図にありますが、そこは建物の南側に当たります。その脇の外部はテラスになっていて、そこでも飲食ができます(下の写真)。この写真はちょうどお昼に撮ったものですが、大きな木々に囲まれているせいでちょっと薄暗くて、このときは独りしか利用者はいませんでした。そんな環境なのでアブとか蚊とかが多いらしく、お店のひともテラスは勧めていませんでした。ただこういう木立のお陰で周辺のざわめきからは隔絶されていてとても静かでした。それはそれでよい雰囲気でした。





 最後にもう一度、ガラスと鉄の箱の内側に戻って終わりましょう(上の写真)。左の灰色は展示スペースなどの建物本体を構成するRC耐震壁で、地震時の水平力はこれらのRC耐震壁に負担させる構造計画です。右側のガラス面や各面の鋼製スクリーンからだけでなく、壁際のトップライトからも光を採り入れているので内部はかなり明るくて気持ちよく感じます。このホールには特段の機能は与えられていませんが、美術館としてそれは豊かな空間を構成していて十分な価値を有していると考えます。

 法隆寺宝物館、それは小規模な美術館ではありますが随所に谷口吉生らしさが表れていて、見ても楽しく体験しても楽しい、そういう場所です。ぜひ一度、足を運んでみてください。

わが大学に新学部とは (2025年1月23日)

 先日(1月21日)、小池東京都知事が記者会見して、わが東京都立大学に新学部を設置すると発表しました。2028年度の開設を目指すといいます。皆さんはご興味ないかと存じますが、こちとらはそこに在籍しておりますので無関心というわけには参りません。わたくしたち自身、そのことを大学執行部から聞かされたのは最近でして、一体なにがどうなっているのやら…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU初冬のキャンパス20241209:IMG_3901.JPG

 昨年の秋口くらいに学長から都市環境学部の各学科に英語だけで卒業できるコースを作るように突然言われて、末端教員の右往左往が始まりました。これは都知事案件なのでNoとは言えないよってことで、大学の自治は何処へやらという状況が現出していたわけです。わたくしは学部内WGのメンバーにされちゃったので多少関わっているのですが、吉川徹学部長(都市計画学者)も想像するに苦慮されているようにお見受けします。

 その混乱のさなかにお上は突然、新しい学部を作るゾといい出したわけです。新学部は国際的な人材の輩出を目指して文理融合で構成されるそうです。えっ、今さらグローバルに活躍できる人材ってなんだろう…。そんなこと言われなくても現在でも各学部・学科でそういう教育・研究を行ってきたつもりなんですけど。

 そもそもそういう“国際”を謳った学部等がこれまでに多くの大学に新設されたようですが、それらが成功したという話しは寡聞にして聞いたことはありません。わが大学でも理学部生命科学科で完全に英語だけで卒業できるプログラムを実施していますが、それはあんまりうまく行っていないと仄聞しております。そこの教員にはもの凄い負荷があることを当事者から直接に聞きました。

 そのような状況なのに後発組の最たるわが大学においてその試みの成算がどのくらいあるというのでしょうか。この件に関する本学の教職員向けの説明会は1月20日の昼休みに開催されました(都知事のプレス発表の前日です)。おまけにその前日の19日まで大学入学共通テストが実施されていて、その担当になった教職員にはお休みをとった人たちが多かったはずです。大学執行部としては人知れずにチョロっと説明しただけで学内には反対はありません、とか言いたいのかも知れないなあと邪推してしまいます(本当のところはどうなのかは知らない)。

 学長をはじめとして執行部の先生がたは見識も知識もおありの方々だと思いますが、大学の自治は何処へ行ってしまったのか、どうにも心もとないことになっております。国立大学が文部科学省に頭が上がらないように、本学は東京都知事に唯々諾々として従うしかないということみたいです。いずれにせよ新学部設置のためには現職の教職員たちが膨大な仕事をこなさないといけません。そんな余裕のある人なんかいないだろうって思うんですけど、どうするんだろう…。

 思い起こすと2005年に石原慎太郎都知事によって都立四大学が統合されて「首都大学東京」という彼の思いつきの大学名に変えられて以来、本学は非常事態だったわけですが(そんなふうに思わない先生も中にはいたみたいだけど…)、約二十年経ってそれがやっと解消して平常化への軌道に乗ったと思った矢先にまたこの事件です。東京都知事や都庁のお役人さまの思いつきでコロコロと転がされる大学がホント可哀想です、とほほ…。

 でも多分、一般都民にとってはどうでもいい“コップのなかの嵐”に過ぎないのだろうなあ。こうなるとヒラの教授ができることなど何もないという無力感に苛まれます。

ただの竹やぶがいつから… (2025年1月22日)

 もうだいぶ前のことになりますが、京都に旅行に行ってきました。おかみさまがどうしても修学院離宮と桂離宮を見たいというので重い腰を上げて出かけたわけです。このことを書こうとは思うのですが、なにせ題材が題材だけになかなか筆をとれません。そこでその旅行に付随する軽い話題から始めてみるかな。

 桂離宮の見学を終えて、せっかくここまで来たので嵐山の渡月橋に行きたいとおかみさまが宣いました。皆さんよくご存知かと思いますが、テレビ等でよく出てくるアレですよ。今は外国人観光客が多くてべらぼうに混雑している第一級の観光地です。そんなところになど迂生は行きたくありませんでしたが主体性がないのでついて行きました、あっさり。

 で、渡月橋を渡ると想像通りに東京・原宿並みの雑踏に揉まれたりしましたが、わたくしが驚いたのが「竹林の小径」という観光スポットがあったことです。場所は天龍寺の北側で、野宮神社がそばにあります。あるいは化野[あだしの]念仏寺や祇王寺から常寂光寺へと続く嵯峨野の道の最南端といった位置付けですね。わたくしは中学三年生の修学旅行の際にこの嵯峨野の道を歩きました。そのとき新宿区立T山中学校で配布されたパンフレットの案内図を以下に載せましょう(このパンフもわが家で発掘されました)。

 この図は先生のどなたかが作ったのでしょうが、ちゃんと北が上になっています。ハッチングした道を中学生たちが歩いたようで、北端の念仏寺から出発して南端の天龍寺がゴールでした。その天龍寺の左上に「竹ヤブ」と書いてある道がありますね。そこが現代では「竹林の小径」と呼ばれるようになっています。半世紀ほど前は単なる竹ヤブだったのに、2015年にそこが「竹林の小径」となってからそこを目当てに観光客が押しかけるようになったそうです、なんだそれ?





 わたくしが行った「竹林の小径」が上の写真(2024年秋に撮影)です。それこそ単なる竹藪なんですけど、平日だというのにご覧のようにものすごい人出です。いやもう驚いたのなんのって、なんでただの竹藪を見にこんなに大勢の人たちが来るんだろうか。ここから野宮神社を通って渡月橋につながる小路へと至るまでが朝の新宿駅並みの人混みでして、迂生は酸欠になった金魚みたいに目が回り口からは泡を吹いておりましたぞ、あははっ。

 では、ただの竹藪がなぜ「竹林の小径」と呼ばれるようになったのか、ネットにはそのいきさつも載っていました。なんでも渡月橋辺りをテリトリーとする人力車屋さんが人力車を運行するための専用の道をここらの竹藪内に敷設するにあたり、こういう小径も整備して一般に開放したということらしいです。いやあ、観光の力って怖ろしいですな。その結果、そういう商業主義に乗せられた一般大衆(わたくしを含む)がここを目指して大挙して押しかけることになったわけですね。なんだかなあ…、何度も書きますがただの竹藪ですよ。ちょっとした竹藪だったら、東京・調布の武者小路実篤記念館のお庭にもありましたけど(下の写真です、なかなか立派です…)。これじゃダメなんですか。



 ということで嵯峨野の道にある竹藪をめぐる話題を書いてみました。上の案内図にあるように嵯峨野の西には百人一首で有名な小倉山があるのですね。その麓の滝口寺で半世紀前にいただいた(らしい)御朱印をご覧いただきながら拙文を閉じとう存じます。その御朱印には「昭和五十一年」って書いてありました。昭和は遠くなりにけり…、随分と古い話しではあるわな。

 ちなみに当時の修学旅行では、東京から京都までの東海道新幹線が東京都区内の複数の中学校のために一編成が丸々貸切になっていました(こだま号って書いてありました)、臨時列車ってことですね。現代の新幹線は過密ダイヤなので、こんなことはもう不可能なんだろうなあ。




大寒なのに花粉が… (2025年1月20日)

 きょうは暦の上では大寒ですが、朝になり雨が上がったばかりの空気はモワッとして暖かいです。陽射しもなんだか春を思わせます。そんな真冬なのですが、どうやら花粉が飛び始めたらしくてわたくしの高感度センサー(すなわち鼻)がムズムズし始めました。なんだかなあ…、とても早いですね。でも、薬局の店頭でも花粉対策の目薬などが目立つところに置かれましたので、そういう季節の到来なんだと否応なく感じます。

 この週末に大学入学共通テストが実施されました。寒いなか、大勢の受験生だけでなく入試に関わる多数の関係者の皆さまのご苦労がしのばれます。今年は「情報」や「歴史」(正式名称は知らない)に新しい科目が加わり、受験生の皆さんは戸惑ったかも知れません。過去問がないっていうのはやっぱり不安でしょうからね。

 試しに国語の問題を見てみました。載っていた評論や小説は見たことも読んだこともない文章でしたが、なかなかいい題材だと思いました。古文には源氏物語が出ていました。でもいつも書いていますが問題量がとてつもなく多いので、これらを精読して正解に至るのは受験勉強を積んできた高校生諸君といえども大変だろうなあ。

 国立大学を受験するひとにとっては6教科8科目が標準といいますし、とにかく受験生は大変です。わたくしが共通一次試験を受けたときは5教科7科目でしたが、英語にリスニングはなく「情報」もありませんでした。今だったら迂生はとても国立大学を受験できないような気がいたします。それとも、当事者だったらそういった科目を死に物狂いで勉強するのでしょうか…。

三十年前の学会大会 (2025年1月16日)

 昨年の八月末に日本建築学会(AIJ)大会を神田駿河台の明治大学キャンパスで実施したことは既にたくさん記述しています。わたくしはAIJ関東支部長だったのでそのまま大会委員長としてこの企画に最初から最後まで携わりました。昨年末に会計の最終的な取りまとめがなされて報告し、これにて2024年度大会の実施業務は全て終了いたしました。幸いにも赤字になることはなかったので関東支部の皆さまにご迷惑をかけずに済んだことを嬉しく思います。

 さて研究室内の整理は相変わらずダラダラと少しずつ進めているのですが、先日、執務机の前にある状差しを見てみたらとてつもなく懐かしく、さらには迂生にとっては価値ある冊子が出てきたんですよ。それは今から約三十年前、1993年度大会をわが東京都立大学で実施した際の手のひらサイズ(高さ180mm、幅107mm)のガイドブックでした。全部で32ページのかなりしっかりとした冊子でして、作るのは大変だったろうなと思います。ちなみにネット時代の現在ではこのような紙のパンフレットは作成していません。

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 せっかくなので冒頭の「ごあいさつ」を載せておきます。そのときの関東支部長および大会委員長は岡田恒男先生(東大生産技研教授)でした。岡田恒男先生のことはこのページでたくさん書いていますが、大学院生の頃から現在に至るまで折に触れて励ましていただいております。これを見ると当時の大会参加者数は七千人とありますので、今よりは三割ほど少なかったようです。

 大会実行委員長は建築環境学の伊藤直明先生(故人)でした。本学のキャンパスが東京都内から八王子市南大沢に移転して二年目だったのでそういう話題が書かれています。わたくしは当時、若手の助教授でとんがっていましたが、伊藤直明先生はそういうやんちゃな若者をいつも温かく見守ってくださいました。伊藤先生の研究室に呼ばれて戸井田先生と一緒にワインをご馳走になったことも楽しい思い出です。伊藤直明先生は定年退職後ほどなくして亡くなられましたが、いただいた温情に対して今でも感謝の念を忘れることはありません。

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 さて迂生のお役目ですが、会場部会と行事部会との両方に入っていました。会場部会の部会長は深尾精一先生ですが、このときはまだ助教授だったんですね(おいらと同じね、あははっ)。わたくしは行事設営の幹事となっていますが、実質的には兵隊としてこき使われました。

 どこかに書きましたが最終日の閉会式を大講堂でやったのですが、その壇上に飾るお花を買ってきて準備しろと言われ、当時、南大沢駅脇にあったお花屋さんに行ってレンタルの花瓶とともに自身で運びました。花瓶はガラス製の球形で両手で抱えないと持てないくらいの大きさでしたが、それに水を入れて大講堂の階段を降りているうちに内部の水がスロッシング現象を起こして振動がだんだんと大きくなり、ついにその慣性力にわたくしの腕力が負けてしまいました。つまりガラス花瓶が腕から放り出されて落下した、というわけです。あえなく花瓶は割れてバラバラになりました。閉会式直前だったのでその掃除がまたまた大変でしたが、まあもういいか…。

 こんな感じで三十年前の大会の裏方仕事にはあまりいい思い出はありません。このことから敷衍すると、昨年夏の大会では主に明治大学の先生がたに実動部隊として活躍していただきましたが、こき使われたとボヤいている先生もいらっしゃるかと思います。そうであれば申し訳なく思いますので、この場で(って誰も見てないけど)お詫びしたいと存じます、はい。

兵庫県南部地震で生き残った建物 〜阪神・淡路大震災から30年(2025年1月14日)

 兵庫県南部地震が1995年に発生してからことしの1月17日でちょうど三十年になります。こういうとき報道機関等はよく“節目の年”などと言いますが、それって部外者だからそう言えるのであって被災したり身内が亡くなったりした人びとにとってはとてもそのようには感じられないはずです。

 毎年この日になると当時の被災建物の様子をこのページに思ひ出とともに記述することが多いのですが、今回は被災したものの倒壊を免れて生き残り、その後も使い続けられた建物のことを書こうと思い立ちました。それはリファイニング建築家の青木茂先生から紹介していただき、実物を拝見し、その後、わが社の大学院生だった白井遼[しらい・はるか]さんが論文の題材として修論執筆まで至った建物です。その経緯はわたくしのこのページで折に触れて書いて参りましたが、これを機会にまとめておくことにしました。

 対象の建物は船曳医院(白井さんの発表論文ではF医院と書いてありますが、もう十年以上経つので実名で記載します)という鉄筋コンクリート(RC)5階建ての病院建築です。1972年の竣工で、兵庫県南部地震の際に震度7を経験しました。地震直後の被災調査によって周辺には大破や中破のRC建物が多数ありましたが、この建物は無被害と報告されました。しかしそれは間違っていたのです。

 地震から十数年後、青木茂先生が病院から店舗および共同住宅へのコンヴァージョン(既存建物の用途変更のための改修設計)を依頼され、建物の状況を調査するために躯体の仕上げ等を撤去したところ、梁のせん断破壊、柱・耐震壁および雑壁のせん断ひび割れやコンクリート剥落が多数発見されました。また、当初の施工不良によるコンクリートのジャンカ(打設したコンクリートが型枠内にうまく回らず、雷おこしのようにスカスカになったまま固まったもの)も多数見られました。

 こういう状況を青木茂先生(当時は首都大学東京の特任教授)からうかがって現地を訪問したのが2009年3月です(こちら)。この建物は六甲道商店街に面していて、そこにアーケードがかかっているので建物の全景は見えません。このときにはせん断破壊したRC梁のコンクリートが撤去され、せん断ひび割れ等の補修が終わり、RC袖壁の増設や耐震壁の開口の閉塞などの耐震補強工事が進行中でした。そのときの写真をいくつか載せておきます。またわが社の白井遼さんが書いた1階と4階の平面図、および代表的な軸組図を以下に示します(引用文献はこちら)。


写真1 F医院 リファイニング建築家の青木茂先生 コンクリート表面の色が濃い部分はひび割れ等を補修したあと(2009年3月撮影、以下同じ)


写真2 F医院 せん断破壊した大梁のコンクリートだけを撤去 梁主筋とせん断補強筋の上部は残されている(耐震補強時に使用するため)


写真3 F医院 RC袖壁の増設と大梁のせん断ひび割れの補修(色が濃い部分)





 既出のレポートに書きましたが、青木茂先生の事務所では既存建物の構造的な不具合や欠陥等をくまなく調査して「カルテ」と称する膨大な記録を作っています。それに基づいて必要な補修・補強を徹底的に施して建物の耐震性能を引き上げます。青木茂先生は意匠設計者でありながらも建物の耐震性能の向上に細心の注意を払ってその実現に尽力してこられました。そのような基本姿勢こそが彼をリファイニング建築の第一人者に押し上げた根本であると思います。耐震構造研究者である迂生はそういう青木茂先生を大いに尊敬しております。

 さてこの船曳医院の建物について、上述の「カルテ」に基づいて兵庫県南部地震による被災の状況と被災して損傷を受けた建物の耐震性能等を研究したのがわが社の白井遼さんです。ひび割れ等を生じた柱・耐震壁の損傷度から建物の被災度区分を判定すると、3階および4階の残余の耐震性能は被災前の2/3まで低下しており「大破に近い中破」となりました。そんな状況で十余年の間、使い続けて来たわけですから、知らないとはいえちょっと恐ろしくなりますな。熊本地震(2016年)のように大地震動が二回連続して発生していたらどうなっていたことか…。

 さらに、コンクリートのジャンカによる柱のせん断終局強度の低下と骨組外に設置されたRC雑壁による耐震性能への寄与とを考慮した第二次耐震診断、および建物を多質点モデルに置換した地震応答解析を行いました。その結果、通常の耐震設計では耐震要素としてカウントされないRC雑壁が実際には地震力に有効に抵抗し、建物の耐震性能を引き上げてくれたために倒壊を免れて生き残ったと結論付けました。

 余談ですが、このときの多質点系非線形地震応答解析は大林組技研の勝俣英雄さんが作成したプログラムERAを使用させていただきました。これはマイクロソフトのエクセル上で作動するので使い勝手がよく、耐震診断の結果をストレートに反映できるのでとても便利でした(残念ながら現在のエクセル上ではもう作動しません)。ちなみに(株)構造システムのプログラムSNAPを使って骨組の構造解析を行うようになるのは後年です。

 上述のようにRC雑壁が耐震性能向上に有効であるということは、例えば師匠の青山博之先生も以前に折に触れて述べておいででした。本研究はひとつの事例とはいえ、そのことを定量的に評価して実際の建物が生き残った理由として提示したことに意義があると自負しています。2011年にコンクリート工学年次大会でこの論文を白井さんが発表した際、神戸大学名誉教授の山田稔先生(鉄骨構造の山田哲先生[東大教授]のお父上、故人)や阪大名誉教授の鈴木計夫先生(故人)から「こういう生き残った建物の調査検討はあまりないが、とても重要である」という評価をいただき嬉しく思いました。

 ちなみにこのJCI年次論文の当初のタイトルは「1995年兵庫県南部地震で生き残った…」でしたが、「生き残る」という文言は論文として不適切という指摘を査読でいただき、論文を通すためにやむなく「倒壊を免れた」と改めた顛末がありました。しかしわたくし自身は今でも「生き残る」のほうが遥かにインパクトを有すると考えるし、非科学的だとも思っていません。

 青木茂先生によってこうしてコンヴァージョンされた建物ですが、竣工後の完成作は残念ながら見ておりません。幸い、青木茂建築工房のウェブページ(こちら)にその写真がありましたので転載します。リファイニング後、1階および2階は店舗となり、3階から5階は共同住宅です。有り体に言えば青木事務所の宣伝ですが、青木茂先生にはかつて個人的に随分とご面倒をおかけしたことがありますので、そのお詫びの気持ちも込めております、はい。


青木事務所のHPより リファイニング後のF医院 六甲道商店街に面していて、アーケードが3階より上を隠している


青木事務所のHPより リファイニング後のF医院

寒い日々 (2025年1月10日)

 寒い日々が続いておりますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。東京の日の出は朝七時前くらいですので、六時に起きるとまだ真っ暗です。新聞を取りに外に出るとなんだかとってもうら寂しい気がいたします。昨年までは高校生だった愚息の朝ごはんが午前六時でしたが、大学生になってからはそれが週に数日となりましたので少し助かっております。

 わたくしが担当する授業は1月7日から始まっていて、昨日は三年生の「構造実験」の結果発表会がありました。二十数人の学生さんが履修していて、鉄筋コンクリート単純梁の破壊過程を実験で理解するという内容です。今年は今までになくフツーに解釈できる実験結果が多くて(でもその理由は不明なんですけど…)、よかったなあって思っています。

 午後遅くに教室から出ると、教室棟の南にあるせせらぎが陽光を受けてきらきらと輝きながら流れていました。あたり一面が落ち葉に覆われて真冬らしい風情でしたが、そこだけホンワカとした暖かみを感じました。世間では様々な感染症が流行しているようです。気をつけたいと思いますが、最近はゲホゲホしていてもマスクを付けないひとが結構いるので(昨日の教室にもいた)、ちょっとイヤだなあ。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU11号館前の池からのせせらぎ夕景20250109:IMG_3926.JPG

五年後にまた会いましょう 〜しばしお別れ、学士会館 (2025年1月7日)

 神田神保町にある学士会館が昨年末の12月29日に閉館したことをテレビ・ニュースで思い出しました。迂生は学士会の終身会員ですが、学士会の活動とは無縁なのでその会館を訪れることもありません。若い頃、駒場の同級生の何人かがここで結婚式を挙げたのでそれに列席したくらいです。ただ二年ほど前に明治大学駿河台校舎を訪問した際に、ついでですがフラッと立ち寄ってみました。そのときに撮った写真を載せておきます。


写真1 学士会館 左:新館(増築部に相当、1937年竣工) 右:旧館(1928年竣工)

 学士会館の建物は二期に渡り建設されました。最初の建物(旧館)は高橋貞太郎(東大建築学科1916年卒業、日比谷にある現在の帝国ホテルの設計者)の設計で1928年5月に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造4階建て・地下1階です。鉄骨鉄筋コンクリートという構造形式は日本で発展したもののようでして、通常の鉄筋コンクリート(RC)構造は鉄筋とコンクリートとで造られますが、SRCではそれにさらに鉄骨部材を加えます。鉄骨部材は古くはアングル材や平鋼を用いた組み立てラチスが多いようですが、その後はH型鋼が用いられました。

 耐震性への配慮からこうした構造形式が誕生したと思われますが、その歴史を検討したことはないので詳細は知りません。わたくしの感覚では、1981年の新耐震設計法の施行以前の中層建物にSRCを用いたものが多くて、途中階よりも下はSRCで作り、それよりも上では通常のRCにするという材料と工費の節約がよく為されました。ただ、そうすると鉄骨部材を階の途中で切断することになるのでその切り替わり層の耐震性能が急激に低下することが多く、その層で崩壊を生じた事例(中間層崩壊と呼ばれます)がその後の大地震によって頻出しました。

 話しが逸れたので元に戻して、新館は藤村 朗(ふじむら・あきら、東大建築学科1911年卒業、三菱地所に勤務)の設計で1937年7月に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造5階建て・地下1階です。写真1では手前の薄茶色の建物です。ご覧のように新館と旧館とはベタッとつなげて建てられましたが、両者の階高が微妙に異なったためにその接続には苦労したそうです(東工大・藤岡洋保先生の『学士会館物語(第五回)』学士会会報No.963、2023-VIより)。

 新館と旧館とが接続する入隅[いりすみ]を見ると(写真2)、そこがメインのエントランスのようになっています。1階とはいえそのレベルは道路面からはかなり上がっていますので、今はバリアフリーのためのエスカレータが設置されています。この入り口は地下鉄神保町駅の地上出口のそばですからとても便利です。でも本来の入り口は旧館の向こう側にありました。それが写真3の半円形の部分で、そこにある七、八段ほどの外階段を昇って旧館に入ります。


写真2 学士会館 新館(左)と旧館(右)とが接続する入隅部


写真3 学士会館 旧館の半円アーチ形のメイン・エントランス


写真4 学士会館 旧館のエントランス・ホール

 旧館に入って数段の階段を昇るとそこは真紅の絨毯敷のホールです(写真4)。薄いベージュのタイル様の小割板を貼った柱の断面は十二角形だそうですが、所々に鋲のようなものが打たれるという不思議な装飾で、ちょっと鎧のような無骨さを感じます。正面階段の昇り口の上の梁は四分円と直線とで切り欠くデザインで、この建物の格式を感じさせます。

 旧館の最上階(四階)はホテル機能になっていて、ほぼ正方形の客室が並んでいます。それらは地方から上京した学士会員の宿泊施設として設置されましたが、当時はそれが学士会館の大切なお役目として課されていたそうです。写真3のように最上階の宿泊室の窓下には小さな円弧状のベランダ様の突起が装飾として取り付いていて見た目に可愛らしいです。

 旧館のプラン(平面)の基本はL形ですが、せっかくなのでその裏側も見てみましょう。フツーのひとは建物の裏はあまり見ないようですが、わたくしは可能な範囲で建物の外周をぐるっと見るようにしています。それが写真5です。藤岡洋保先生のレポートによれば、焦げ茶色の部分は1933年の増築部です。空調のダクトやら各種パイプやらが乱雑に表層を這っていて、さすがに裏側は見ちゃいけなかったのかも…。裏側はサービス部門になっているのでそれも仕方ないと思いますけどね。

 旧館の基礎は長さ約20メートルの米松丸太を約700本打ち込み、その上に鉄筋コンクリート床版を全体に敷き込んだものです。外壁は大部分がスクラッチ・タイル貼り(写真3では茶色)ですが、一階腰回りには富国石(人造石の一種らしい/写真3では白色)を貼っています。以上は日本建築学会の建築雑誌1928年6月号の記述に拠りました。

 関東大地震が1923年に発生したため、市街地建築物法がその翌年に改正されて、東京では水平震度0.1(建物重量の0.1倍の水平力が地震時に建物に作用すると想定)で耐震設計することが義務付けられました。そのため旧館の耐震設計も水平震度0.1に対して為されましたが、このことは学士会が保存する構造計算書を以前に拝見して確認しました。現在の建築基準法で要求される水平震度は0.2以上ですから、それに較べれば耐震性能は劣っていたため耐震補強されたと記憶します。


写真5 学士会館 旧館の裏側(東南の入隅部)

 百年近く前に建設されて文化的な価値も高い学士会館ですが、老朽化による再開発のために閉館になりました。東隣の住友商事と共同で新しい建物を建てるそうです。それに伴って、かわいそうですが新館は取り壊し、旧館の地上部分だけを7メートルほど曳家して保存するという計画です。なかなかに気宇壮大ですが、大丈夫なんでしょうかね。予定では2030年に復活するということですけど…。

 そもそも学士会とは帝国大学だった七大学(戦前の植民地時代には韓国と台湾とに設置された帝国大学二校も追加されました)の卒業生を対象として誕生した親睦団体でした。帝国大学が廃止されて七十年近く経つ現在もその基本は変わっておらず、旧制帝国大学を引き継いだ国立大学七校の卒業生だけが会員資格を有します。

 でもそれってどうなんでしょうかね。以前に学士会から将来のあり方についてのアンケートがあった際、そんなアナクロニズムみたいな偏狭さは捨てて、全ての学士さまに門戸を開いたらどうですかってわたくしは意見したのですが、残念ながら却下されました。学士会の会員数は予想通りに減り続けていて、現在は三万六千人余りです。それでもその人数は奇しくも日本建築学会の会員数とほぼ同じでして十分に多いとは思いますが、如何せん、持続可能性には乏しいと言わざるを得ません。

 そういうことまで見越した再開発なのでしょうが、“旧制帝国大学”をいつまで引きずるつもりなのか、錚々たる経歴と学識とをお持ちの評議員の先生がたにはお考えいただきたいと再度、申し上げます。学士会は恩師の先生に対する謝恩の情の発露として設立されたと仄聞しております。そうであれば、旧帝大にこだわる理由は全くないとわたくしは思うのです。

今年のお正月 (2025年1月3日)

 明けましておめでとうございます。ことしのお正月は三日めには雲が厚くなったときもありましたが、おおむね晴れて穏やかなよいお日和となりました。ことしは西暦では2025年ですが、2025って45の二乗数なんですよ(2025=45x45)、ご存知でしたか。また2025=27^2+36^2ですし、2025=81x25=(3^4)x(5^2)です。ね?すごいと思いませんか、だって2025という数字は2,3,4および5の連続する四つの整数のべき乗と積とで表現できるんですよ。

 2025ってなんだかビビッと来ると言うか萌えるというか、そんな感じを醸し出す整数だと思うのですが、どうでしょうか。なんだかインドの数学者ラマヌジャンになった気分だな、ガハハっ(例えばラマヌジャンのタクシー数1729でも調べてみて)。正月早々、こんな数学ネタには興味ないでしょうけど。

 毎年書いている年賀状ネタですが、ハガキのお値段が昨秋に85円に値上がりしたことが日本国民の年賀状離れを加速させたようです。元日に配送された年賀状は昨年の2/3(約四億九千万枚)に減ったと三日の新聞にありました。そうですよね、もう年賀状の時代ではないとわたくしも思います。日頃は全くお付き合いのないひとに一年に一度、生存確認のように交わし合う賀状にどれほどの意味があるのか、疑問に思います。

 ん?生存確認? そうだな、そういう意味はあるのかも知れません。でも半ば義務のように感じながら年賀はがきに宛名とひと言を書いて投函するのはわたくしにとっては相当な苦痛になっています。もちろんお世話になった方々には感謝の気持ちを込めて書きますが、全てが全てそういうひとでもありませんわな。

 ということで、どうしよっかなあとグズグズしているうちにズルズルと日々は過ぎ去って年は明け、とうとう元日から三日にかけて年賀状書きをする事態とあい成りました。そういう非道徳的?な迂生のことをおかみさまは非難の目で見ております、はい。結局、ことしは年賀状の枚数を過去最低に減らして可能なひとには電子メールでご挨拶することにいたしました。

 でもやってみて分かりましたが、ひとりずつメールアドレスを調べてメーラーに打ち込んで、その方だけにカスタマイズしたひと言を書いて…という一連の操作は思いのほかに面倒でした。プログラムでも組んで全てを自動化できればVery Goodなのですが、それってどうやりゃいいのよ…、分からんわ。ということで来年以降、年賀メールすらも多分やらないと思います、あっさり。

 大晦日に正月料理を作るという習慣もことしはやめました。三が日のお昼にはおかみさまの作ってくれたお雑煮をいただき、二日と三日の夕飯にはわたくしが作ったカレーをみんなで食べました。カレーといっても市販のルーを使うものではなく、カレー粉から作ってゆく亡き母から教わったレシピです。鶏モモ肉を小さく切ってニンニクと生姜と一緒に炒め、玉ねぎ、にんじんおよびピーマンをみじん切りにして加え、そこにヨーグルト、トマト・ケチャップ、りんごのすりおろしを入れて煮込むというやり方です。

 野菜のみじん切りは当初、包丁で律儀にやっていましたが量が多いこともあって面倒になって最近はフード・プロセッサでやっています。レモンをたっぷりと絞ってふりかけて食べるとべらぼうに美味しいです。迂生の手際が悪いこともあって出来上がるまでに二時間くらいかかりますが、美味しいのでときどき思い出したように作っています。

 おかみさまと愚息とは箱根駅伝が大好きなので、ことしも二日と三日は朝8時から午後1時半過ぎまでテレビにかじりついて見ています。箱根の山登りでは早稲田大学が大躍進して往路で三位に入る健闘を見せたので、もう大喜びでした(って自分が走っているわけでもないのに笑止だな)。二日の夜にはとんねるずのくだらないお笑いスポーツ?番組を見て大笑いしました。わたくしがお正月に見るテレビ番組はこれだけです。ホントにくだらないのですが、大笑いできるのでお正月にはうってつけかな。笑う門には福来たると言いますから。

 でもお若い人たちにはとんねるずって言っても、もうピンとこないだろうと思います。画面を見ただけでは単なる初老のオヤジに過ぎませんから。バブルの頃に流行っていた「ねるとん紅鯨団[べにくじらだん]」を思い出します。「ちょっと待ったあ〜」っていうセリフが懐かしいなあ。

 このお正月には大地震もなく(昨年の元日には能登半島地震がありました)、のんびりと過ごすことができました、よかったです。ことしは曜日の並びがよくて御用始めは六日の月曜日になります。ちょっとだけお正月気分が延長されて嬉しいです。



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