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 このページは北山が日々の暮らしのなかで抱いたちょっとした感想をあれこれと独白するコーナーです。このコーナーは十六年めとなりました。日頃、お付き合いいただく皆さまにいつも大いに感謝しながら、これを綴っております。

 なお、ここに記すことは全て個人的な見解であることを申し添えます。あいつ、またあんなこと言ってやら〜っていう感じで呆れながらもご笑覧いただければ幸いに存じます。

 お正月が明けた今日から2024年版を掲載します。更新は例によって不定期ですが、よろしくご了承をお願いします(2024年1月4日)。




流浪する教授 (2024年11月27日)

 十一月もそろそろ終わりです。卒論・修論はタイトルが決まり、だんだんと慌ただしくなる頃です。
 ところで、わたくしの勤める大学の建物は1991年に竣工しました。それから三十年以上が経過していろいろと劣化したことから、補修や修理・交換などが行われ始めました。研究室がある建物も外周に総足場が組み上げられています。迂生の部屋(7階にあります)から窓の外を見たのが下の写真です。研究室で仕事をしていると、ときどき窓の外を職人さんが歩いていてギョッとしますし、なによりも落ち着きません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU北山研究室771および7階東バルコニーから見た外部足場20241127:IMG_3871.JPG

 さて、研究室内の床置きのファン・コイル・ユニット(空調機)も交換することになりました。それはいいのですが、その作業には二週間を要し、その期間は研究室に立ち入れないことになりました。これは相当に困ります。二週間ほど前に学生部屋では交換工事が終わりましたが、その間は臨時に学生共通部屋を設置してそこで研究等を続けてもらいました。

 ところが教員にはそのような臨時のスペースは割り当てられず、各自勝手に自助努力せいっていうことになりました。はあ?、どうすりゃいいのよ…。隣人の多幾山法子准教授はスーツ・ケースに必要な商売道具を詰めてガラガラと移動しながら学内生活するって言っています、ホントかあ〜?

 授業や研究に必要な資料や道具にアクセスできないのは困りますが、そのほかにも学生諸君と研究打ち合わせをしたり、お昼ご飯を食べたり、ちょっと休憩するのにも難儀をしそうです。居心地の良さそうなスペースを探して学内を流浪しないといけないのでしょうか。なんだかとってもつらいんですけど…。でも大学構内には実はそういう「さまよえる大学人」が結構存在したりなんかして、あははっ。


日本のル・コルビュジエ 〜国立西洋美術館にて〜 (2024年11月24日)

 この秋、上野の国立西洋美術館で開かれている『モネ 睡蓮のとき』展に行ってきました。わが家のおかみさまがモネ展に行くというのでくっついて行ったのですが、わたくしは特段、モネには興味がなくて(モネ・ファンの皆さま、ごめんなさい)、見たいのは建物のほうでした。

 国立西洋美術館の本館はル・コルビュジエが設計し、その三人の弟子たち(坂倉準三、前川國男および吉阪隆正)が実施設計と監理とを行って1959年3月に竣工しました。構造設計は横山不学です。ル・コルビュジエの作品で日本にある建物はこれだけです。鉄筋コンクリート(RC)構造3階建てで、写真1のようにピロティ柱で支えられて浮き上がって見えるマッシブな箱といったデザインです。


写真1 国立西洋美術館本館 前庭と本館正面(20244月撮影)

 このRC建物は旧耐震設計基準で設計されていて現基準(1981年施行)を満たさなかったため、安全に使い続けるには耐震補強が必要です。本館の構造図を見たわけではないので分かりませんが、1階はピロティ柱で建物を支えていてRC耐震壁が少ないために現行耐震基準を満たせなかったと思われます。RC建物の耐震補強では一般にはRC耐震壁を増設することや鉄骨ブレースを挿入することで十分な水平耐力を付与できますが、そうすると建物のデザインや空間の様相が変わってしまいます。

 そこでル・コルビュジエのデザインを変更しないように、建物全体を浮かして免震化して地震時に建物に入力される水平加速度を低減する手法がとられました。写真2のように本館の直接基礎の下に新しいRC基礎を構築して、そこに直径600mm(一部は650mm)の高減衰積層ゴム49台を挟む免震改修(免震レトロフィットと呼ばれることもあります)が1998年に施されました。この耐震改修を検討する委員会の名簿をみたら委員長は岡田恒男先生で、委員には鈴木博之先生(故人)のお名前がありました。

 この免震改修の効果ですが、国土交通省のHPによると2011年の東北地方太平洋沖地震では西洋美術館の敷地では265cm/s2の加速度を記録しましたが、本館の応答加速度は100cm/s2に抑えられ、ほとんど被害はなかったそうです。本館への入力を1/3程度に低減できたわけで免震改修の効果が確認できました、よかったです。


写真2 国立西洋美術館本館 断面模型 本館の既存基礎下に免震層を構築した


写真3 国立西洋美術館 モネ展の企画展示室へのエントランス・ホール(地下1階)

 それにしてもモネ展、すごい人出でした。日本人って、モネなどの印象派の画家たちがお好きなようですな。わが家ではおかみさまが前売りチケットを買っていて並ばずに入れましたが、当日券のチケット・ブースは長〜い列をなしていました。展示室に入ると絵を見るというよりは人波に揉まれるというほうが表現として適切でして、これじゃいくら名作でも鑑賞を楽しむという気にはなりませんでした。だって絵を見るためには人波をかき分けて前に進まないといけないし、そうしないとひとの頭しか見えないんだもん。

 国立西洋美術館に行ったのは、建築学科の三年生のときにスケッチしたりメモをとったりして以来ですから、ほぼ四十年ぶりかな。ただその時は、前川國男が設計して1979年に竣工した新館には行かなかったのか、その印象は全くありません。ちなみに今回のモネ展は、主に地下を利用した企画展示館(1997年竣工、建設省関東地方建設局営繕部・前川建築設計事務所)で開かれています。

 モネ展から早々に退散して本館の常設展示に向かいます。建物中央には「19世紀ホール」と名付けられた吹き抜けのホールがあり(写真4)、そこにコルビュジエ独特のランプ(斜路)が設置されていてそのつづら折りを歩いて2階の常設展示室に入ります(写真5)。このホールですが、40年前の印象よりはかなり小さく感じました。ホールの床面には彫刻がいくつか展示されていますが、あまり大きくないこともあってこの縦長の吹き抜け空間を活かした展示にはなっていないように思います。

 2階の展示室はこの19世紀ホールの吹き抜けをぐるりと取り囲むように置かれていて(後述、図1)、写真4のようにその所々からホールを覗けるように作られています。このように壁面にポコポコと開口を設けることで吹き抜け空間が単調になることや閉鎖的になることを防いでいるように思いますね。いやあ、よくできているなあ(って、20世紀の巨匠の作だから当然か、あははっ)。


写真4 国立西洋美術館本館 19世紀ホール


写真5 国立西洋美術館本館 19世紀ホールの斜路


写真6 国立西洋美術館本館 19世紀ホール頂部のRC梁型と三角のハイサイド・ライト

 19世紀ホールにはRC打ち放しの円柱が立っていて邪魔な感じもありますが、その上を見ると写真6のようになっています。頂部には三角錐状の空間が載っていて、そこに十字に交差するRC梁が架かります。また三角錐の側面はガラスになっていてそこから外光を間接的に採り入れます。このようにここは本館を象徴するような場となっているのです。

 ちなみに日本建築学会の鉄筋コンクリート構造計算規準では、柱の高さに対する断面幅の比は15以下に制限されます。ここのRC柱は見るからにほっそりしていてスレンダーなので大丈夫かなと思いましたが、写真から判断する限りその比は15程度でぎりぎりセーフでした。吹き抜けの柱なので支持しているものの重量はそんなに重くはないでしょうから、座屈する心配はなさそうです。

 では吹き抜けの斜路を歩いて2階の展示室に行ってみましょう(写真7&8)。2階の展示室は前述のように中央の吹き抜けをぐるっと取り囲むように配置されます(図1)。写真7では右にあるRC円柱の外側に壁面があってそこに絵画が展示されています。左上には白く光る立面がありますが、ここは一般には立ち入れない3階のスペースで、その上にハイサイド・ライトがあってそこからの間接光を展示室へと導いています(写真2の断面模型にもそこが現れています)。

 写真7の奥に3階に昇るための細身の階段が見えます。こういう階段があるとむしょうに昇りたくなるのが建築屋の性でしょうが(そんなことないって?)立ち入り禁止になっていました、残念だなあ〜。写真8を見ると分かりやすいですが、天井高さの高低と光の明暗とによって空間が効果的に分節されています。以前に書いたようにここに常設展示されている絵画は予想以上に見応えがあって、コルビュジエの空間と絵画とを一緒に鑑賞していたら、モネ展に費やした時間の何倍も時間がかかりました。


図1 国立西洋美術館本館 2階平面図


写真7 国立西洋美術館本館 2階の展示室


写真8 国立西洋美術館本館 2階の展示室

 2階の展示室から新館(前川國男設計)に渡るとそこは写真9のように巨大な吹き抜けの展示室です。コルビュジエの展示室は天井高さが低く抑えられているところがあり、高いところでも空間自体は小さめなので、そこからここに出てくると広々とした開放感を満喫できます。右下に展示された絵画をここからのぞき見ることもできて、いとおかし。

 ここから1階に降りると、本館と新館とで囲まれた中庭に面した細長いスペースに出ます(写真10)。ここにはいくつかの彫刻が展示されていて、壁面にはベンチがありました。休むにはうってつけなので、そこに座って撮ったのが写真11です。正面奥に見えるのがコルビュジエの本館で、中庭に面してレストランがあります。このレストランで昼食を食べようと思ったのですが、モネ展の大混雑のせいで入れませんでした。

 この中庭ですが、なかなかに気持ちのよさそうなお庭になっていて、いい具合に植栽が施されていることで見ていて気分が落ち着いて参ります。残念なのはこの中庭には立ち入ることができないことです。中庭に出るガラス・ドアはあるのですが、風除室がないので一般には供用できないということでしょうかね。今回のように企画展が開かれていると人出がすごいので中庭の解放はちょっと無理そうですが、それ以外の季節のよい時期には是非とも散策できるようにして欲しいと願います。


写真9 国立西洋美術館新館 吹き抜けの大展示室


写真10 国立西洋美術館新館 中庭に面した1階の展示スペース


写真11 国立西洋美術館新館 1階の展示スペースから中庭を見る


写真12 国立西洋美術館本館 南側2階に設けられたバルコニーと階段(20244月撮影)

 これで西洋美術館の内部はひと通り見てきました。もう一度外に出てファサードに戻りましょう。南側の2階には写真12のように大きなガラス開口とバルコニーとが設けられていて、そこから前庭へとつながる階段があります。この階段も現在は使用禁止になっていて、2階バルコニーも使われていません。想像するにここは新館が出来上がる前までは2階の展示室を見終わったひとのための出口だったのではないでしょうか。

 ところが本館に新館がつながったために、本館2階の展示室から新館の2階に渡り、そこから1階に降りて再び本館に戻る、という新しい鑑賞経路ができ上がりました。そうすると従来の本館2階の出口は不要になります。ということで本館から飛び出したデコちんのようなこのバルコニーと階段とは、とても目立っているにもかかわらず盲腸のような存在となって、座り悪そうにそこに鎮座することになりました(あくまで迂生の想像です)。なんだかとってもかわいそう…。建築ってやっぱり使ってナンボの世界ですから、この場所を復活させるような工夫を期待したいですね。

 本館1階のピロティですが、当初は写真13のように最外列の構面から内側の三列目あたりにエントランスのガラス面があって、ピロティであることを強く主張していました。しかし20世紀末に企画展示館を地下に設けたため、そのための入り口や動線を確保する必要が生じ、本館1階の内部スペースを拡大したと思われます。すなわち内部と外部とを区切るガラス面を南側に移動させた結果、新しいガラス面は写真14のように最外列の柱列のすぐそばまで迫ることになりました。このことで1階がピロティである特徴は否応なく薄れましたが、まあ仕方のないことだったのでしょうか…。


写真13 国立西洋美術館本館 当初の1階ピロティ(出典:『ル・コルビュジエ』ウィリ・ボジガー編集、安藤正雄訳、1975年、A.D.A. EDITA Tokyo、購入当時2,000円だった) 


写真14 国立西洋美術館本館 1階のピロティ 内部と外部とを区切るガラス面が一列目のすぐ内側まで迫っている

 久しぶりに国立西洋美術館を訪ねて、ル・コルビュジエの建築を存分に体験しました。学生の頃から較べればさすがに経験を積んだぶんだけ彼の建築のよさが分かるようになった気がします。なんて偉そうなことを言っていますがまだまだ勉強が足りんなあって感じかな、あははっ。

ヴァニタスのいた時代 (2024年11月16日/17日)

 11月のはじめに国立西洋美術館に行ってきました。そこで企画されたモネ展が目当てだったのですが、そのことはまた別に書きましょう。モネの絵を早々に切り上げると常設展示室に足を運びました。常設の絵画を見るというよりはル・コルビュジエの美術館建築が目当てでしたが、展示室を回るうちにひとつの絵が迂生の目を奪いました。それは「ヴァニタス」と題された下の絵です。ちなみに常設展では、ほぼ全ての絵が撮影可です(他所から借りていたり、新規購入の作品だけ撮影不可の掲示がありました)。


エドワールト・コリール画「ヴァニタス」 1663年 国立西洋美術館 蔵

 この「ヴァニタス」ですが、すごく精細に描かれた油絵です。中央のしゃれこうべ(頭蓋骨)と倒れたガラス瓶とがなんとも冷え冷えとしたリアルさを観る者に与えます。懐中時計、メガネ、メモ書き、木管楽器、書物、蝋燭のない燭台、そして右上には砂時計が描かれ、さらによく見ると頭蓋骨のうえには萎れかかった植物の葉が乗っています。これはジャンルで言えば単なる静物画ですが、なぜこのようなモノたちをとり集めて描いたのでしょうか。

 そのヒントはこの絵が描かれた17世紀のヨーロッパの世情にありました。『バロック美術 西洋文化の爛熟』(宮下規矩朗著、中公新書、2023年10月)という書籍によれば、17世紀にはカトリックとプロテスタントや異教徒との衝突が起こって殉教が身近の出来事になり、三十年戦争やこの時期に流行したペストによって死が重要な主題となりました。

 そういう死の恐怖に取り巻かれ、人々の死が日常となった社会では人生の虚しさ(ヴァニタス、Vanitas)を表す絵画が流行しました。この絵に描かれた、人々が日常に使う品々はその死によって無意味なものとなり、そこに頭蓋骨が加わるとメメント・モリ(死を思え)の意味が強調されたそうです。さらに萎れかかった植物は生の儚さを寓意するように思います。

 翻って科学技術の発達した現代においてはどうでしょうか。2020年の新型コロナウィルス感染症の蔓延によって全世界で多くの人たちが亡くなったことは言うに及ばず、戦争や紛争によって死が日常化した場所が世界中に広がっています。残念ながらそれが現実であり、400年前に生きた人々が取り囲まれてそして静かに諦めていった日常と本質的になんら変わっていないことに愕然たる思いを抱きます。

 すなわちヴァニタスは21世紀のこの時代に至っても人びとの胸中におりのように沈潜しています。愚かさという人間の原罪から逃れる術がないからこそ、現代においても種々の宗教が信奉されます。しかしそのことによってさらに骨肉の争いが惹起されていることを考えると人間の業の深さを思わずにはいられません。この絵が400年の時を超えた現代においても依然として通用することを残念に思います。

なんだか寒くなる (2024年11月8日)

 なんだか知らないけれど急に寒くなりましたね。わが家では一昨日から暖房が入りました(って、空調のスイッチを押すだけですけど)。ちょっと前までは暑かったのに…。でも世の中は不思議なもので、わが家では寒いよ〜って言っているのに、まちを歩くと半袖のひとがフツーに歩いていたりします。外国からの旅行者にもそういうひとを見かけます。まあ人によって持って生まれたcold-resistanceはまちまちなのでどうでもいいのですけど。

 さて、二年生を対象とする設計製図の課題(コミュニティ・センター)ですが各班でのエスキスも回数を重ねて、そういう建物をどうやって支えるかにやっと気が回るようになったみたいです。二年生諸君から授業時間外のエクストラの構造エスキスを求めるメールが山ほど届きました。とてもじゃないけど個別に対応できません。

 そこで受講者全員に対してメールで(昨日の)午後の三時間を解放するので、自由に来てくださいと連絡しました。そうしたら合計で11名の学生諸君が相談にやって来ました。構造をよく考えているひともいたのですが、多くのひとは頭のなかで考えるだけで図面にしたりスケッチを描いたりということをせずに口頭でベラベラとしゃべくるのですが、何を言っているのか意味不明です。ですから、迂生がここはどうなっているの?とか、大梁はどうかかるの?って聞いても要領を得ません。

 仕方がないのでわたくし御自ら絵を描きながら、こういうことですかとか尋ねるわけですよ。そうすると梁が架けられなかったり、柱が上下で通らなかったりすることがすぐに分かって、当事者たる学生さんが「あっ!ダメだ」とか言っています、はあ? 学生さんは自分で設計しているにもかかわらず、そんなことも想像できないで相談に来るのです。なんだかなあって思うよね、ホント…。まあ初心者だから仕方ないかって思いながら、日々の応対に勤しんでおります。


不思議な心性を再認識する (2024年11月1日)

 十一月になりました。大学では学園祭準備二日目ということで(でも、いつから準備が二日になったのか、先生たちは知らなかったぞ)、キャンパス内に学生諸君が溢れています。タイルの路面を汚さないように丁寧に養生作業をしたり、電気の配線をしたり(こちらは業者さんがやっていた)、昨年は学園祭中に不注意による火事があって八王子消防署から厳しく指導されたので、消火器がもう嫌っていうほど屋外の至るところに置かれていました。

 さて海の向こうのメジャーリーグのワールド・シリーズってやつが終わったそうです。大谷翔平選手の活躍は常人離れしていて、何も知らなくても見ていて気持ちがいいとは思いますよ。でも、彼が所属するチームが優勝しようが負けようが、はっきり言ってどうでもいいです。というか、そもそもそのチームのことを何も知らないし…。

 ところが日本全国にはそのチームが勝つとものすごく喜ぶひとたちがたくさんいるということを知って、そのことに迂生は驚いています。だって大谷さんは昨年までは違うチームにいて、日本人はそのチームを応援していたんじゃないのかな…。テレビでも今回優勝したチームの誰それがホームランを打ったなんて報じて喜んでいますが、じゃあその選手のことをどれくらい知っているのでしょうか、知らないよね。

 それにもかかわらず、そのチームが勝ったからって喜べる心性がわたくしには全くもって理解不能です。日本人はいつからそのチームの応援団になったんだろう…。そもそもアメリカの単なる国内リーグの優勝決定戦をワールド(=世界)シリーズって臆面もなく呼んでいる米国人の無神経さそのものが理解できないんですけど。

 今回の総選挙で躍進した国民民主党が政権与党にすり寄って、その代表が嬉しそうな笑みを浮かべているのを見ても、この人たちが国民の民意を理解しているとは到底思えません。なんでそんなにあっさりと方針転換できるんだろうな…。

 こんな感じで日本人の不思議な心性がいたるところに現れている、今日この頃でございます。1945年8月15日の敗戦のときもそうだったみたいですが、どうして日本人って昨日までのことをなかったかのようにすっかり忘れてあっさり180度方針転換できるのでしょうか。縄文時代以来、脈々と続く日本人の遺伝子の為せる技だろうか、とにかく不思議だなあ…。

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写真 縄文時代の日本人女性の復元像(国立科学博物館による)

十月晦日になる (2024年10月31日)

 朝晩はかなり冷えて寒いくらいに感じるようになって来ました。季節が急激に進んだようで体調は悪いです。皆さんはいかがでしょうか。

 きょうは久しぶりに晴れて気持ちのよい朝になりました。本学では11月2日から始まる学園祭の準備が今日から始まりました。授業は基本的にはお休みですが、迂生は明日も授業をする予定です、あははっ。下の写真のように生協前のサンクン・ガーデンには朝早くから準備のために学生諸君が集まっていました、ご苦労なことですな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU朝のキャンパス_学園祭準備開始20241031:IMG_3863.JPG

 ところで本学では設置者サイド(東京都)から都知事が乗り気の案件が突然に降って来ました。2020年に大学名が東京都立大学に戻ってやっと本学の正常化が軌道に乗り始めたと思ったのに、そうは問屋が卸さないということみたいです。しかしいくら知事案件だからと言われてもできることとできないことがありますよね?

 ところがもしも「できないよ、そんなこと」って返答したらどうなるでしょうか。石原都知事の時代の2005年に都立四大学の統合を頭ごなしに押し付けられて本学の「混乱の15年」が始まったわけですが、その悪夢の再来だけは避けたいと(古くからこの大学にいる)執行部の先生たちは思っているようで、それは迂生も同感です。

 大学の自治という高尚な理想をいくら唱えても、そのことに対する理解や敬意を微塵も持たないひとが設置者側にいた場合(その典型がかつての石原都知事だったわけです)、われわれ大学教員は為すすべもなくひれ伏すことを強いられます。そういう歴史をたどったのが残念ながら東京都立大学でした。

 その二の舞だけは避けて、なんとか大学の理想と理念とを守らないといけません。なかなかに難儀なことになって来ましたが、降りかかる火の粉は自力でなんとかするしかありません。これを奇貨としてこちらから打って出るべきなんだろうと推察します。やれやれ、ホントに研究に専念できる環境を作って欲しいと切に願いますわ。

流動するのか (2024年10月28日)

 きのうは衆議院議員選挙の投票日でした。わたくしは例によって与党の過半数割れを期待していましたが、野党のほうも候補者一本化には程遠かったことからさすがにそこまでは難しいかなと思っていました。

 でも、実際にはその予想を上回って与党の過半数割れ(自民191・公明24、過半数は233議席)が実現しました。自民党のあまりにも民意を顧みない傍若無人の振る舞いに市井の人たちも今回はさすがに頭に来た、ということでしょうね。立憲民主党が148議席を獲得して躍進したことから野田さんはホクホクでしょう。国民民主党がそれまでの4倍の28議席を、れいわ新撰組が9議席をそれぞれ得たことにも驚きました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:衆議院議員選挙のティッシュ20241027.JPG
  写真 投票所の出口に置いてあったポケットティッシュ

 今回の総選挙では小選挙区数の10増10減が実施されて、東京都では25区から30区へと5区も増えました。日本の人口は減少しているのに東京都のそれは逆に増えているといういびつな状況を反映しています。そうは言っても迂生も都内のはじっこにしがみついて暮らしているわけで、他人さまのことをとやかくは言えませんや。田舎暮らしには憧れますが、今さら父祖伝来の地である四国に渡る気もいたしません(だって父祖の地を離れてすでに一世紀が過ぎていて、わたくしには誰も知己はいませんから)。

 わたくしの小選挙区は稲城市の一部が分離して、調布市・狛江市・三鷹市の三市に再編されました。有権者数は約43万人ですが、それでも都内では多いほうだと思います。わたくしはおやつの時間に投票に行きましたが、七、八個ある記載台が全て埋まっているような状況で有権者の関心は高いように見受けました。投票率は五十数パーセントで前回2021年のときよりも少なかったようですが、それでも与党は惨敗したのですから今回はやっぱり余ほどのことが起こった、ということみたいです。

 選挙のたびに書いていますが、わたくしはこれまで一度たりとも自民党に投票したことはありません。若い頃には共産党に投票したこともありますが、今ではその幻想もとっくに過ぎ去っています。ということでわが選挙区では社会党時代の父親も衆議院議員だったせいでかなり有名な二世のかたに投票しました。自民党の候補者とは接戦でしたが、今回の流れに乗れたようで当選して衆議院議員に返り咲きました。わたくしの投票した方が当選するのは非常に珍しいので(あははっ)とても嬉しゅう存じます。

 与党が過半数割れしたことによって、今後は国会で誰が首班指名を受けるかが焦点になります。与党が他の野党を仲間に引き入れて連立を拡大して政権を継続するのか、それとも立憲民主党を中心とした大連立を実現させて政権を奪取するのか、しばらくはゴタゴタが続く、じゃなかった政局が流動することになります。願わくば政権交代を実現してほしいと期待しますが、これまでの野党を見ているとダメそうな気も…。国民はかなりのお膳立てをしたのですから、今後は野党(あるいは自民党の一部も含めて)の皆さんの政権交代に向けた本気度が問われることになります、しっかりやってくださいませ。

野球はツーアウトから (2024年10月27日)

 東京六大学野球の秋のリーグ戦ですが、今日、東大の全日程が終了しました。今シーズンは慶應大学と法政大学とにはそれぞれ1勝をあげたものの勝ち点には届かず、結局は2勝10敗でいつも通りの最下位に終わりました。でも神宮球場に出てくる選手には三年生や二年生が多く、そういう彼らがかなり活躍していたので来季以降に大いに期待したいと思います。

 きのうの立教大学一回戦ですが、アンダースローの渡辺向輝投手(農学部三年、海城高校)が好投しました。わたくしは途中からネットテレビで観ていました。八回裏に1点を取られてあとがなくなり、九回表も簡単にツーアウトになりました。ところがそこから奇跡の三連打が出て、2点を取って勝ち越したのですよ。こりゃすごいぞ、今日の渡辺投手の出来からすると、もしかすると勝つかもって思いました。九回裏はその期待通りに進み、こちらも簡単にツーアウトを取りました。そしてストライクあとひとつで勝利というときの一投がわずかに外れて残念ながらフォアボールになりました、ありゃりゃ…。



 なんだかイヤな感じでしたな。ネットテレビの解説者はこういう時は一発が怖いとか言っています。おいおい、そりゃないだろうとは思いましたが、なんと次の打者に右翼席に突き刺さる2ランを打たれてサヨナラ負けとあいなりました。観ていても劇的な展開でして、東大としては珍しく立派な野球になっていたのでそれだけで満足してもよいのですが、やっぱり惜しかったなあとは思います。渡辺投手としては今シーズン二勝目をみすみす逃したことになります。

 渡辺投手はアンダースローから投じて浮き上がる球を駆使して、微妙なコースへの制球によってここまで相手を抑えて来ました。それが九回裏の最後になって甘く入ってしまい、打ちごろになった緩い球をジャスト・ミートされたようです。そういう球を見逃さずに振り切った相手選手を褒めるべきでしょうな、やっぱり。

 「野球はツーアウトから」と言われますが、この試合ではそれが九回の表と裏とに連続して出現したことがやっぱり劇的だったと思います。当事者たる東大チームの選手たちにとっては一瞬の天国からあっという間に地獄へと落とされてかなりガックリ来たことでしょう。一球の怖さとはまさにこのことか…。

 ちなみにきょうの二回戦はいつもの東大に戻ってしまって13失点であっさり負けました。ピッチャーが良くないとやっぱり野球にならないということがよく分かります。相手チームには甲子園常連の高校を出た選手がゴロゴロいるわけで、そういう野球エリート達を相手にして素人集団たる東大チームはよく健闘していると思います。ということで来シーズンも頑張れ、東大!


冴えない遊歩道ができていた (2024年10月23日)

 けさ登校しようとしたら京王線が人身事故のために遅れていました、ありゃりゃ。数日前もやっぱり電車が遅れていました。なんだか悲しい世相ですなあ…。電車がいつ来るか分からないので、それじゃ散歩を兼ねて調布駅まで歩くか、ということにしました(わが家からは歩数にして4300歩でした)。調布駅ビルにある成城石井でお昼のお弁当も買えるしね。

 さて国領駅から調布駅までは2012年8月に地下化されていて、地上にはかつて線路が敷かれていた細長い土地が残されました。ときどきここを通るとある時には空き地、またある時には臨時の駐車場、という具合にいつまで経っても何かが出来上がる気配はありませんでした。この細長い土地を有効に使えば地域に潤いを与えたり活性化させたりすることに大いに寄与するはずなのに、勿体ないなあとつくづく思っています。

 でも国領駅を過ぎ、布田駅に来ると東側がなんとなく開けて明るくなっています。そこには下の写真のような遊歩道が造られつつありました。線路の地下化から12年も経ってやっとここまで来たかという感慨を抱きましたな。ちょっとばかりうねっとした小道を作ってくれたのはいいのですが、曇天だったせいもあるのでしょうがあまり冴えない感じがいたします。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:布田駅と調布駅との線路跡の遊歩道工事中20241023:IMG_3849.JPG

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:布田駅と調布駅との線路跡の遊歩道工事中20241023:IMG_3850.JPG

 線路の跡地なので細長いとはいえそれなりの幅はあります。そこを目一杯使ってせせらぎを流すとか、小ぶりな築山を設けるとか、ベンチを置くとかした遊歩公園のようなものになぜしなかったのでしょうか。そういう例は世界中にごまんとありますので、いくらでも参考にできたはずです。ところが上の写真のようにその幅の半分は車道(および自転車道)に当てられていました。なぜだろうか、ホントに謎に思いますけど…。

 参考までに書きますと、京王線の線路の北側には甲州街道(国道20号、四車線)が、南側には品川通り(二車線)がそれぞれ平行して走っています。ですから一車線の新設車道は通過動線ではなくて近隣住民のための生活道路のような気がします。そうだとしても既に12年もたっているのですから、近隣の方々といくらでも折衝や交渉はできたのではないかと想像します。

 緑の遊歩道がないよりは随分とマシですけど、これじゃ新設した価値が迂生には感じられませんでした。国領駅と布田駅とのあいだの線路跡は未だに工事中だったのでそこがどうなるのか分かりませんが、この分だと同じようになりそうです。途中に小広場でもあればそこで日曜マルシェを開催したりちょっとした集会に利用したりできるのですが、それもなさそうです。調布市はなにやってんだか…、とてもがっかりした気分で大学に向かいました。

十五番教室にて(承前) (2024年10月20日)

 きのうは30度を超える暑さでしたが、きょうは冷んやりとした風が吹く爽やかで秋らしい休日になりました。

 さて先日、建築学科を卒業してから四十年を記念する同級会を開いたことを書きました。その際、工学部一号館の十五番教室での第一部が終わる際に馬場正道さんが全員の集合写真を撮ってくれて、それが先日彼から配信されました。馬場さん、どうもありがとう。せっかくですから以下に載せておきます。前の二列には恩師の先生がたがお座りでして、最前列の左から大野秀敏先生、香山壽夫先生、細川洋治先生、安岡正人先生および神田 順先生です。その後ろは左から松留愼一郎先生および長澤 悟先生です。



 この写真を撮った馬場さんは学生の頃からカメラを手に建築学科の同級生達を撮影してくれていて、わたくしも三年生の頃に製図室のアルコーブでボケーっとしているところを撮られました(その紙版写真は今もわたくしの手元にあります)。カメラの趣味は今も続いているようでご同慶の至りです。ちなみに馬場さんは某スーパーゼネコンの役員でしたが、その会社が買収して子会社になったゼネコンに最近、移ったそうです。そこにはわが社の卒業生が二人お世話になっているので、馬場さんによろしく頼むよって言っておきました(片江さん、井上さん、よかったですね)。

 ところでこの四十年会には青山・小谷研究室出身者は迂生と中埜良昭さんとの二人しか参加しなかったことを前に書きました。前回の三十年会には参加した今村晃さんは今回は来なかったのですが、その今村が数日前にたまたまわたくしの研究室にやって来たのです。

 机に向かって一所懸命にノートに考えを書きつけていると、なんだか「北山、きたやま〜」って呼ぶ声が聞こえてきます(わたくしは季節のいい頃には研究室のドアは基本的に開け放してあります)。でも大学の自分の研究室内で迂生のことを呼び捨てにするようなヤツはいないので(あははっ)、訝しながらも誰だよ〜って振り向くとなんとそこに今村が立っているじゃないですか。なんでも壁谷澤寿一先生のところに研究の相談に来たそうで、そのついでに寄ってみたというのがその真相でした、なんだ、おいらは刺身のツマかよ〜。

 そこで「今村〜、どうして四十年会に来なかったんだよ」って聞くと、彼はなんとナントの難破船!その存在自体を知りませんでした、もうびっくりです。彼の話しでは、六十歳を超えて今いる会社を再雇用になった際にメールアドレスが変わったそうで、それを幹事団に知らせてなかったのが原因みたいでした。彼からはどうして知らせてくれなかったんだって文句を言われましたが、まさか会社のアドレスが変わっていたとは気がつきませんでした、すまんなあ。

 ときどき書いていますが、日本電気協会に設置された原子力関係の委員会の主査をわたくしが、幹事を今村がそれぞれ務めていますので、メールでのやり取りはしょっちゅうあるんですね。普段は来たメールにそのまま返信するので、アドレスを気にかけることはフツーはないので、まあ仕方ないか…。ということで、メールは便利ですが不達の場合にはこういうこともあり得ることを再認識いたしました。

安藤忠雄の光の美術館 〜清春芸術村にて (2024年10月15日)

 今日は清春芸術村に安藤忠雄さんが設計した光の美術館です。竣工は2011年で、鉄筋コンクリート(RC)打ち放しのとても小さな美術館です。人工照明を用いずに、屋根面と壁面とに設けられたスリットおよび小窓から射す陽光のみによって照らされた内部空間で美術品を鑑賞する、というのが安藤さんのコンセプトだそうです。どんな感じでしょうか、楽しみです。

 まず形ですが、下の写真1のように基本はコンクリートの箱(直方体)です。その隅角部の一箇所を三角錐状に切断し、その木口(切断面)にガラス小窓を設けています。壁面には窓はなく、南壁には細い縦長のスリットが二本、北壁には同様の鉛直スリットとそれに直交する細い横長スリットが一本だけ入っています。エントランス(入り口)は東壁の左下に設けられていて(写真2)、かなりの出の庇が付いているので、さすがにこれはすぐに分かります。このぶっきら棒で愛想のない、もとい、カチッとして硬質で無駄の削ぎ落とされたファサードは安藤さんの住吉の長屋をちょっと思い出させますね。


写真1 清春芸術村 光の美術館を南西から望む


写真2 光の美術館 東面にあるエントランス

 なかに入ると正面にチケットブースのような造作があって(無人ですけど)、そこを右に向くと下の写真3のように北側の壁にぶち当たります。そこには水平の細長いスリットが切ってあり、間接光を採り入れています。打ち放しのコンクリート表面はとてもツヤツヤと綺麗ですし、RC部材のエッジは例によって恐ろしいくらいのピン角[かど]を実現しています。それは日本の職人さんたちの卓抜した工作技術の為せる技であり、そういう仕事を見るといつも惚れ惚れとさせられます。

 ところでコンクリートの打ち放し面が綺麗なのはいいのですが、ご覧のようにこの建物には断熱材はありません。また、照明を廃して太陽光のみを照射するというのは崇高なコンセプトで結構なのですが、それにともなって電気は一切ないということか、なんと空調がありませんでした。通気のための窓などもちろんありません。そのため美術館に入ったばかりだというのにもう暑くて暑くて…、汗がどっと吹き出してきました。このように過酷な環境ではゆっくりと美術品を見るような気分ではなく、美術品にとっても太陽光線や暑熱による劣化が促進されて良くないように思いますけど、大丈夫なのでしょうか。


写真3 光の美術館 エントランスを入って右を向いたところ


写真4 光の美術館 1階の展示空間 何にもない…

 こんな感じでちょっとたじろぎながらも奥に進みます。奥といっても小さな建物ですから、数歩先はもう西壁です(写真4)。結局、一階にはなにも展示されていませんでした。この建物にはどうやらおトイレもないみたいです(写真4の左の壁面にドア開口らしきものがあったがロックされていた。外壁面には開口がないので多分、倉庫だろう)。あまりに暑いので突き当たりでペットボトルのお茶を飲みながら振り返ったのが下の写真5です。なるほど、これでおしまいかっていうほどあっけない美術館でした。屋根面には細長い三角形状のスリットが左奥に向かって配されているのが分かります。では、この階段を上って見ましょうか。二階に上がり振り返って見たのが写真6です。


写真5 光の美術館 1階の展示空間 写真4の奥から振り返って見たところ


写真6 光の美術館 階段を上った2階で振り返ったところ

 写真6および写真7からスリット開口による光と陰との按配が分かるかと思います。屋根のスリットから壁面に落ちた光と陰とがなかなかに面白いと思いました。南壁面の二本の縦長スリットからの光が二階床面に落ちてよいアクセントになっています。ちなみにこれは午前10時半くらいの状況です。季節および時刻、さらには天候によってその状況は刻々と変わるわけですが、こんな暑いところに一日中いることは生理的に不可能ですから、せっかくの安藤さんのコンセプトですが身を以て体験することはあっさりと諦めました。

 この二階の展示ですが、写真7の南壁面にある二枚の小さい絵と、写真8の東壁面にかなり大きな絵がかかっているだけでした。でも東面のカラーの絵はどうみても子供の落書きのようにしか見えませんでした、あははっ(実際には名のある画家が描いたものらしいですけど)。


写真7 光の美術館 写真6と同じく2階で西方向を見る


写真8 光の美術館 写真7の三角形の入り隅から振り返って東方向を見る 子供の落書き?

 ということで安藤忠雄さんの光の美術館について書いてきました。結論から言えばここは芸術作品を鑑賞するための場所ではなく、安藤さんの作った空間とそこに施された光の操作を楽しむための場所であると思いました。迂生のように安藤建築を堪能しに来た人であればともかく、絵や彫刻を見ようと思って来た正統的な美術鑑賞者にとっては落胆するような美術館ではないでしょうか。

 しかし、つくづく思うのですが、この美術館は真冬にはどうするのでしょうか。地肌のままのコンクリートの壁や床が冬には痛いほど冷たくなって体が森々と冷えることは、本学の大型構造物実験棟での真冬の実験ですでにイヤってほどに体験済みです。それと同じことが光の美術館でも生じることは間違いないでしょう。空調がないので強制換気ができないとすると、石油ストーブを炊くなんてことは不可能です。

 お昼近くになってそろそろ芸術村から退村しようと思ってもう一度、光の美術館を見るとエントランスの前にご婦人方が集っていました(下の写真9)。そのなかはとっても暑いですよ〜ってよっぽど言ってあげようかと思いましたがやめました、余計なお世話だもんね。なんにつけ、自分自身で体験して感じることが重要です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:清春芸術村_七賢酒蔵_入笠山20240912:IMG_7299.JPG
写真9 光の美術館を北東から望む 奥に樹上の茶室(藤森照信 設計)が見える

蔵書を点検する (2024年10月9日)

 ものすごい雨降りで閉口しながら登校しました。この日は朝一番に研究室の蔵書点検があるからです。校費で購入した図書類は図書館登録したうえで各研究室で保管するというのが本学のルールです。それらの図書が所定の場所にちゃんと保管されているかを確認する、という趣旨だと思いますが、とにかく面倒くさいです。

 角田誠先生に伺ったら前回の蔵書点検は五年前だったということですが、そのときにはバーコード・リーダを各教員が図書館まで借りに行って、自分で読み取る形式でした。それが今回は読み取り作業を業者に委託したそうで、自身で行う作業は軽減されました。ただ、指定された日時までに蔵書を調べ出しておく必要があって、その探索にはかなりの手間と時間がかかりました。下の写真はそうやって机の上に並べた書籍です。こうやってみると思いのほか少ない気もしますが学生の部屋にも蔵書はあるので、こんなもんでしょうか…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:TMU蔵書点検前の準備_北山研究室771.JPG

 午前9時半過ぎに業者の方がお二人やって来て、サクサク作業して五分もかからずに終わりました。よかったです、ご苦労さまです。しかしあらためてそれらの書籍を眺めると、すでに時代遅れになって価値がなくなり、正直に言えば捨ててもいいかな〜っていう本も少なからずありました。でも、蔵書ですから勝手に捨てるわけにはいきませんんけど…。

 というわけで、これらの本をもとにあった本棚のポジションに戻しました。多分、このまま定年退職まで見ない本たちも多いのだろうなあと思いましたが、まあ、仕方ありませんや。この部屋に「保管」している、ということですからね。


十五番教室にて 〜建築学科を卒業して四十年 (2024年10月5日)

 長袖のシャツに薄手のジャケットでちょうどよい、かなり雨の降る土曜日、本郷の東京大学に出かけました。地下鉄の本郷三丁目駅で降りて本郷通りと春日通りとの交差点に出ると、その角にあった「かねやす」は無くなっていて和菓子屋さんに代わっていました。江戸時代から続く老舗の「かねやす」もついに廃業か…と思うと少し残念な気もしました。


写真1 東大工学部一号館内田祥三先生設計/当日はかなり強い雨降りだったので、2009年に撮影した写真で代用)

 さてこの日は建築学科を卒業して四十年を記念する会が工学部一号館の十五番教室で開かれました。若いだけが取り柄で何者でもなかったあの頃からもう四十年を閲したかと思うと(いつも書いていますが)感慨深いものがあります。四十年も経つと恩師の先生で鬼籍に入った方もおいでになります。十年前の三十年会にお出でいただいた秋山宏先生および槇文彦先生は残念ながら故人となられました。

 四十年会には同級生25名が出席しました。恩師の先生も7名がご参加くださいました。安岡正人先生、香山壽夫先生、神田順先生、長澤悟先生、大野秀敏先生、細川洋治先生および松留眞一郎先生です。八十代になられた先生も数人おられて、それでもわざわざお越しいただいたことに御礼を申し上げます。普段はこちらが学生相手にあれこれ訓話?を垂れているので、久しぶりに恩師の先生がたからお言葉をいただけてとても嬉しゅう存じます。

 師匠の青山博之先生と小谷俊介先生とは残念ながらお見えになりませんでしたが、当時、研究室の助手をしておいでだった細川洋治先生が来てくださいました、ありがたいことです。今でも社会的な活動を精力的に為さっていると伺ってすごいなあ、ご立派だなあと思いました。当時の細川先生は研究室の大番頭として一切を仕切っておいででした。特に実験を実施する際には安全の確保にとても気を配っていただいたことを憶えています。あとは研究室の草野球でしょうかね(青研はドリンカーズという酒飲みらしいチーム名でした)。当時、細川先生は少年野球の指導者をされていたので、わたくしなども球の投げ方とかバットの振り方、さらには野球のルール(ボークの詳細を知りませんでした)を教えていただきました。

 あれは工学部十一号館地下二階で実験している頃でしたが、ある経緯の末に加力フレームの前で土木工学科の若い技官の方と喧嘩になりました。若い頃はすぐ頭に血が上ってよく喧嘩したなあと今になって思います。そのときは双方とも引かずに胸ぐらを掴みあうところまで行きました、ふざけんなこの野郎〜って感じです。そのとき、細川先生が飛んできて「北山ッ、やめろ!」と無理やり引き剥がされて怒られたことを昨日のことのように思い出すなあ。細川先生のお陰でその相手とは和解できました、よかったです。

 話しをもとに戻して、この学年は青山・小谷研究室には卒論生として七名が在籍しましたが、この日は中埜良昭さんと迂生との二人だけの参加でちょっと寂しかったです。十年前には五名が集いましたから、残りの三人はどうしたのだろうか…。中埜が山上敬さんは音沙汰がないというので心配しております。

 さてこの日の第一部の会場はタイトルにあるように十五番教室でした。十年前は製図室の脇にある講評ラウンジでしたが、なぜ変更したのかはこの後に千葉学さん(建築家で東京大学教授)の説明で分かりました。わたくしの記憶では四十年前の卒論発表会がこの十五番教室で開かれたと思います。そのときに神田順先生から質問を受けて立ち往生した迂生を小谷先生が助けてくれたことは以前に書きました。

 そういう思い出深い十五番教室ですが1996年に香山壽夫先生によって一度改修され、今回、今度は千葉学さんの手によって再度改修されたそうです。その内容を千葉さんがスライドを使って丁寧に説明してくれましたが、かなり大掛かりでかつ緻密な改修が為されたことを知りました。天井材を撤去して構造材を現しにしました。するとそこに鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造の巨大なトラス梁が出てきました(写真3)。工学部一号館の原設計は内田祥三[うちだ・よしかず]先生(建築学科教授で1945年の敗戦の時には東京帝国大学総長)ですが、迂生も初めて見るようなものでかなり驚きましたね。


写真2 令和の十五番教室 左端は司会の松原和彦さん、一番奥は幹事の小林利彦さん


写真3 令和の十五番教室 見上げ 巨大なRCトラス梁に注目 写真を撮っているのは細川洋治先生


写真4 平成の十五番教室(2009年に青山フォーラムが開催されたとき:手前は壁谷澤寿海御大、中央手前が細川洋治先生、その奥に西川孝夫御大、左の背中は村上雅也先生、その隣は故・久保哲夫先生)

 それから十五番教室は半円状の階段教室ですが、据え付けの机と机との間隔が狭くて使いにくかったため、同心円状に六列の机を五列に減らしてその分、座るスペースを広げたそうです。でもちょっと考えると分かりますが、そのためには机列の曲率半径をいちいち変更しなければならず、緻密な計算と工作とが必要になりました、大変だよね。そのほかに照明の取り付き、椅子の背もたれの色、教卓の高さなど、とにかく香山先生が一度改修したものを再び改修するのですから、相当に気を使ったみたいです。

 ちなみに香山先生が改修されたあとの2009年に十五番教室で青山先生主催の十勝沖地震(1968年)記念フォーラムが開かれました。そのときの会場の様子が上の写真4です。大梁の表面は仕上げ材で覆われていて、それがトラス梁であることは分かりません。また椅子の背もたれは淡くて上品なピンク色でした(正直にいうと背もたれの色はこちらの方が迂生は好みです、あははっ)。

 この日は当の香山壽夫先生ご本人も出席されていたので、千葉さんが気を利かして香山先生にマイクを渡しました。香山先生はそういう千葉さんの改修については特に何も言われませんでしたが、この工学部一号館についての驚くべきエピソードを披瀝してくださいました。1994年に突然、文部省(当時)からこの建物を取り壊して改築する、という通達が来たそうです。それを聞いた香山先生は1923年の関東大地震以来、内田祥三先生によって作られた伝統ある本郷キャンパスを守ることの重要性を説き、この建物を使い続けるための方策を徹夜して作文(作図?)して提出されたそうです。それは幸いにも奏功して工学部一号館は生き残りました。そして、このように二回に渡ってさまざまに改修しながら使い続けることができました。ですから今後も、後輩たちがさらに使いよくしてくれるでしょう、という結びでした。

 いやあ、もうびっくりです。歴史ある建物を保存して使い続けることの困難さの一端を垣間見た思いがしました。それと同時に香山先生のように人知れずそのことに尽力された方々がいることも忘れてはいけないということですね。

 さてこの日の同級生たちのプレゼンテーションですが、皆さん精力的に日々を過ごしているようで正直なところわたくしにとってはかなりの驚きでした。多くのひとはこれから迎える65歳がひとつの区切りのようでしたが、そのあとも社会に役立ちたいとか70歳までは働きたいとか、皆さんかなり前向きです。それと較べて迂生ときたら「もういいや」感が満載でして、若かった頃を懐かしんでいたひとはだ〜れもいませんでした。ということで、ここからは大学生時代の懐かしい写真をお見せしましょう。このページでも初公開の写真です。

 下の写真5は三年生の構造演習の授業で大成建設の現場を見学したときです(場所はどこか忘れました)。ヘルメットが物珍しかったのでしょうか、みんな敬礼していますね、アホですね〜。写っているのは前例左から千葉、馬場、橋本、北山、後列左から田島、野嶋、小林、長谷部です。ちなみに誰が撮影したのかは不明です。

 つぎの写真6は三年生も終わりの頃、構造実験で鉄筋コンクリート単純梁の載荷実験をしているところです。このときは岡田恒男先生がご担当だったように記憶しますが、この写真を撮影したのはその後、師匠になる小谷俊介先生でした。左端の白服(実際は淡い水色)がわたくしで、梁をのぞき込んでいるのは松原和彦さんです。誰もヘルメットをかぶっていないのはまずいですね。みんなダウン・ジャケットを着ているところが時代を感じさせるなあ(この当時、すごく流行っていた)。四年生になって青山・小谷研究室に入ったあと、研究室で机に向かっていたときにツカツカっとやって来た小谷先生から「これ、あげるよ」って渡された紙焼き写真がこれでした。小谷先生がこんな写真を撮っていたとは知らなんだ…。


写真5 三年生のときの構造演習(秋山宏先生) 現場見学 (1982年、大成建設)


写真6 三年生のときの構造実験(岡田恒男先生) 一号館半地下の中庭にあった材料実験室にて (1983年2月、小谷俊介先生撮影)

 こうして第一部は午後5時45分に終わり、ここからは場所を山上会館に移しての第二部です。その地下一階にある「山上亭かどや」というお店でしたが、ここは初めて来ました。ちなみに今年の三月に塩原等先輩の退職記念パーティが開かれた同館一階では偶然にも加藤勉・秋山宏研究室のOB会が開かれているとかで、第一部に来てくださった神田順先生はそちらに移って行かれました。

 第二部では香山先生の音頭で乾杯したあと、第一部で積み残した個人プレゼンが続きました。下の写真7は会場の様子ですが、ちょうど長谷部完司さんが発表しているところです。十五番教室の巨大なスクリーンに較べると画面が小さくてちょっと気の毒でした。タイム・キーパーの稲葉基さんがいくらベルをチンチン鳴らしてもわれ関せずとプレゼンを続けた長谷部さんには敬服しましたぞ、あははっ。さすがに現場所長を長年勤めているだけあって肝が座っておりました(関係ないか‥)。建築家の宮本佳明さんは三十年会から引き続いて5勝64敗という設計コンペの結果を教えてくれました。アトリエ事務所は相変わらず大変ですなあ。

 途中、安岡正人先生がそろそろ帰らないといけないということでご挨拶されてお帰りになりました。五十年会は多分無理だろうから四十五年会を開いて呼んでくれ、とのことでした。いやあ、そうですよね。十年後のことは誰にも分かりませんから、諸先生がたが元気でお過ごしになられることを祈るばかりでございます。


写真7 山上亭かどやでの第二部 左端は幹事の永矢隆さん

  
写真8 松留眞一郎先生     細川洋治先生       香山壽夫先生

 賑やかな会も終わりに近づき、松留先生、細川先生そして香山先生からご挨拶を頂戴しました。そしてすでに閉館の時間を過ぎていたので急いで長谷部さんの音頭で一本締めをして四十年会が終わりました。とても楽しかったし、皆さんにお会いできて嬉しかったです(なかには佐藤研一さんのように卒業以来はじめて会う人もいました)。この日のための企画や準備などにご尽力くださった幹事団の皆さん〜稲葉 基、小林利彦、柴原利紀、田島 泰、千葉 学、永矢 隆、野口貴文、馬場正道、松原和彦の諸氏〜には大いに感謝しております、どうもありがとう。特に柴原さんにはわたくしのパワーポイント・ファイルの件で当日ものすごくお手間と時間とをとらせてしまいました、感謝の念を申し述べます。

 つぎのクラス会にもぜひ参加したいと思います。今回は残念ながら出席できなかった方々ともまたお会いしとう存じます。それまで皆さんどうかお元気で、ご機嫌よう。

蛇足; 香山壽夫先生がご自分たちのクラス会の思い出として、当時、すでに90歳を超えていた恩師の藤島亥治郎[ふじしま・がいじろう]先生(日本建築史)が一泊二日の箱根での会に矍鑠として参加されたエピソードをお話しされました(すごく面白い内容だったのですが、ちょっとここには書けません、あははっ)。それを聞いていて、亡き父から聞いたクラス会のことを思い出しました(奇しくもわたくし達と同じ四十年会でした)。遺された写真を見ると藤島先生が畳のうえに片膝ついて座っておいででしたが、このときすでに百歳に近かったと聞いています。いやあ、すごいですね。

出前に行ってしまりのない話し (2024年10月3日)

 今朝、南大沢駅に着いて改札を抜けると秋の香りがしました。沈丁花などの草花から放出される匂いです。きのうは32度を超える暑さでしたが、けさはちょっと湿気があってひんやりと感じるような気温です。こんな微妙なAtmosphereのときに秋の匂いが漂って来るのだなあと思いました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立神代高校模擬講義20241002_松原通り_仙川:IMG_3775.JPG

 さて暑かった昨日、東京都立神代高校に大学模擬講義をするために出かけました。ちなみにこれは謝金等の出ない完全ボランティアです。母校の都立青山高校での模擬講義はこの四年、ずっとオンラインでの実施でしたから、リアルの高校へ行って生徒さんたちの前でする授業は五年ぶりになります。久しぶりに高校生諸君の前で授業するのを楽しみに出かけました。

 都立神代高校は東京都調布市にあり、京王線の仙川駅から歩いて七、八分です。全日制の定員は一学年320名で八クラスなので、結構大きな学校だと思います。また午後五時から始まる定時制も併設されています。ちなみに校名の神代[じんだい]ですが、このあたりは調布市に統合される前には神代町であったことから、その旧名を受け継いだものです。そういえば迂生の家の近くにも神代団地が建っています。

 その校舎ですが二年ほど前に改築されて、うえの写真のようにとても綺麗でした。鉄筋コンクリート造4階建てで表面はコンクリート打ち放しです。表面のテクスチャーをしげしげと見てなでなでしてみましたが、とても見目よくなめらかに仕上げてあって感心しました。最近は都立高校でも結構立派な校舎を作るんですねえ。

 内部には三箇所に光庭(ライト・コート)が設けられていて、採光と通風とに気を配っていました。キャンティレバーのちょっとしたアルコーブがこの光庭に飛び出していて、そこに作り付けの机が配してあったり、椅子が置いてあったりしました。なかなか居心地の良さそうなスペースだなあと思いました。高校生たちがどんな風に使っているのか、興味のあるところです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立神代高校模擬講義20241002_松原通り_仙川:IMG_3786.JPG

 この日の大学模擬講義では異なる分野に23大学が呼ばれていました。工学系は情報工学、建築学およびそれ以外の工学(って、具体には何なのかは不明)の3大学です。進路ガイダンスという位置付けだそうで、一・二年生が50分ずつ二コマの授業を選択するそうです。数学、物理学、生物学などの純粋理学系の分野はセットされていませんでしたが、模擬講義の分野選びは神代高校生の進路選択の現状を反映しているのだろうと想像します。国公立大学は東京都立大学、東京学芸大学および電気通信大学の三校だけでした。

 模擬講義では通常の授業時間内(すなわち50分)で授業をするように求められました。これが実は鬼門だったのですが、それはあとで分かります。迂生の授業には27名の生徒さん達が参加してくれました。皆さん、それなりに熱心に授業を聞いてくれたようにお見受けしましたのでよかったです。

 授業が始まる前に撮ったのが下の写真ですが、天吊りのプロジェクターによる画面が小さくて貧弱なことが分かります。スクリーンは黒板にマグネットで貼り付けるタイプでした。都立青山高校で対面授業をしていたときにも全く同じ構成でしたから、これって都立高校の標準仕様なのかも知れません。でも、これじゃ綺麗な写真も見栄えしませんし、いくら大きくしたとはいえ字も小さいです。まあ仕方ないですけど、このことは残念でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:都立神代高校模擬講義20241002_松原通り_仙川:IMG_3785.JPG

 さてこの日の模擬講義ですが、以前に青山高校でやった『大学の建築学科でなにを学ぶか』というコンテンツを50分用に修正して臨みました。神代高校周辺には建築界では有名な「安藤ストリート」がありますし、桐朋学園や武者小路実篤記念館などもあって有名建築には事欠きません(これらはいずれもこのページで紹介しました)ので、授業の途中にその紹介を挟みました。

 でもやっぱり50分という授業時間は短かったです。十数枚のスライドが終わったところで25分が経過し、そこから周辺建物の紹介をしたところで残り5分になっていたのですが、どういうわけかあと15分あると思い違いしてしまい、建築構造のトピックを話し始めてまさにその佳境に入ろうとする時にチャイムが鳴りました。あれっ?と思いましたが、この10分後には別の大学の先生が授業を始めますので、ここでブチっと途切れて終えざるを得ませんでした。もちろん慌てて締めのスライドを出して何とか取り繕いましたが、授業のプロらしからぬ失態だったなと反省しております。カッコ悪いったらありゃしない…。

 ということで久しぶりの出前授業は最後がしまらなかったのは残念とは言うものの、わたくしとしては結構、楽しめました。ただ、いつも思うのですが、出前講義に行くと高校の昇降口で靴を脱いでスリッパに履き替えさせられるのですが、パタパタとしたスリッパで講義をするというのがどうにも迂生の性に合わないんですよ。しまりがないというか、フォーマルじゃないというか、まあそんな感覚です。でも、この日はしまらない終わり方をしちゃったのだから、分相応ってなもんかもね。

十月になる (2024年10月1日)

 ことしも十月になりました。その朔日に石破さんが日本の新しい首相になりました。野党との対話・議論を重視する姿勢は何処へやら、国会で首相に選出される前に早期解散・総選挙の日程を提示するとは、どういうことでしょうか。自民党総裁選挙の上位三名のなかでは彼が一番まともだろうと思っていましたが、権力を掌中に納めると人間って変わるものなのか…。国民によく考えて判断する時間を与えずに速攻で衆議院議員選挙をやりたいという思惑があまりにも見え見えなのがかえっておかしいくらいです。それはないでしょう、石破さん。

 でも石破さんが言っている日米地位協定の見直しは評価できると思います。沖縄県の人たちだけでなく多くの市井の人々はこの一方的な協定を改正しなければ独立国家としての体をなさないと考えています。これまで自民党政権ではなし得なかったこの改正を実現できれば、それは大したことですし立派だと思います。

 しかしその根本には日米安全保障条約においてわが国はアメリカを防衛することはしないが自分たちはアメリカに守ってもらうという片務性が横たわっていて、これは日本の防衛政策の根幹にかかわります。まさに日本国の存立そのものを揺るがしかねないデリケートな事案なのです。アメリカ側からすると高いコストを払って一方的に日本を守ってやるのだから、日本国内で特権的な地位を保有するぐらいは当然だろうっていう感覚ですね。わたくしがアメリカ国民だったら、確かにそういう風に思うでしょうな。

 ということでここをつつくとパンドラの箱を開くことになりかねませんから、歴代の自民党政権では自国民の不満をある程度抑えながらそこには触れないようにしてきました。言ってみれば1945年の日本の敗戦以来、長い経緯の末に今日の日米地位協定があるわけです。それを変革することは並大抵のことではないだろうと考えます。少なくとも明治時代の不平等条約を平等なものに改正しましたというのとは全く異なっていることに注意しないといけません。

 石破さんがどこまでやる気があって、どこまでできるのか、期待と不安とを抱きながら見守りたいと思います。この十一月のアメリカ大統領選挙で新しく選ばれる人物(ハリス?トランプ?)にもよるでしょう。おっと、その前にわが国の総選挙があるはずですが、残念ながら政権交代の実現は現段階では見通せないですね(野党の奮起を期待しますが単なる野合でも困りますし、どうしたものか…)。

谷口吉生の清春白樺美術館 〜清春芸術村にて (2024年9月29日)

 山梨県北杜市長坂町にある清春芸術村に行ったことを先日書きました。その続きで、きょうは谷口吉生さんが設計した清春白樺美術館です。1983年の竣工ですから、酒田市の土門拳記念館と同時期です。いつも書いていますがわたくしが最も好きな鉄筋コンクリート造(RC)建物が土門拳記念館です。では、清春白樺美術館はどうでしょうか。


写真1 清春白樺美術館 南全景

 上の写真1のようにRC打ち放しの外構の奥に煉瓦タイル貼りの美術館が建っています。コンクリートの白色、美術館の薄茶色、樹々の緑そして空の青色がとても綺麗なコントラストを見せています。中央にせり出している鉄骨とガラスのフレーム部分がエントランスかと思いましたが違いました。このガラス・フレームは変則的な八角形をしていて、二番目の展示室と直接つながっていました(後述)。

 じゃあ入口はどこかと言えば、下の写真2に美術館の壁際に裸婦のブロンズ像がありますが、その左側にある小さめの開口がそれでした。雨を避ける庇がないために入口らしく見えませんが、ここから入ると三畳ほどの前室があってそこが実質的には雨よけと風除室とを兼ねています。美術館のエントランスの構えとしては控えめで目立ちません。谷口吉生さんがどうしてこのような設計にしたのか、私設の庭園内の小美術館という位置付けのせいでしょうか。


写真2 清春白樺美術館 南ファサード



 この美術館の案内図が館内にあったのでそれに加筆して上に掲げます(建築の厳密な平面図ではありません)。北を上にしてあります。南の赤矢印のところから左向きに入ります。左側のボリュームが第一展示室で、一階の同一の床面レベルをベージュで塗りました。展示スペースはスキップ・フロアになっていて、階段を登ってA点からB点、C点へと時計回りにだんだんと階段を上がってゆきます。C点からD点までは同一レベル(2階に相当)でそこから時計回りに階段を降りてE点に至り、当初と同じ1階レベルに戻ります。美術館としてはオーソドックスな一筆書きのプランになっているわけです。

 お気づきでしょうがA点、B点およびC点の各フロアにアクセスするのは階段だけでスロープやエレベータはありません。すなわちバリア・フリーではありません。現代の公共施設であればそれは許されませんが、この美術館が建てられたのは今から約四十年前の1983年ですから、そういう意識は残念ながらまだ希薄だったのでしょう。

 入口から第一展示室を巡るシークエンスを文章で綴りましたが、その様子を一連の写真で以下に示しておきます。上記の案内図と一緒にご覧いただけば分かりやすいのでは(?)と思います。


写真3 入口から北向きに第一展示室を望む D点からE点に降りてくる階段が右奥に見える


写真4 スキップ・フロアの様子がわかる(左上がC点、真ん中がB点、そして右端がA点)


写真5 画面右奥がD点でそこから降りる階段が見える ひとが立っているのはA点のフロア


写真6 D点からE点へと降りる階段と中央の展示スペース 志賀直哉の書が掛かっていた


写真7 E点からブリッジ越しに南(入口のある方)を見る 右上がD点でそこから階段で降りる

 この第一展示室の構成は前述のように一筆書きに上って降りるという形式ですが、これは谷口吉生さんのデビュー作となった資生堂アートハウス(1978年竣工)と同じです。清春白樺美術館では上の写真7の階段を上るとA点ですが、そこの突当りの壁にはひとの背丈くらいの横長の開口があって、そこから緑の樹々と石仏や彫刻が置かれた庭を眺めることができます(下の写真8)。ちょっと暗めの室内からそこだけ明るい緑色に切り取られていて、空間に効果的なアクセントを与えてくれます。その明るさに誘われて窓から外を眺めると、そこには鎌倉の小林秀雄邸から移植されたという枝垂桜がのびのびと枝を広げておりました。


写真8 第一展示室 西面の開口と緑の庭 壁を隔てて左奥はおトイレ


写真9 北面の開口と敷石敷の中庭 右奥の明るいところは第二展示室

 第一展示室をぐるっと一周して入口前に戻ってきました。そこから東側の第二展示室を見遣ったのが上の写真9です。北面の一部は斜めですが、そこは砕石敷の中庭を望めるようにガラス面になっています。中央右寄りに二段だけ上る階段があり、その奥の明るいところが第二展示室です。

 第二展示室の南面には冒頭の写真1および写真2のようにガラスと鉄骨の八角形フレームが貫入していますが、外側のスレンダーな鉄骨部材と較べるとかなり太いRC様の円柱が展示室内には建っています。うーん、これはどうしてでしょうかね。洗練された谷口建築にしてはちょっと無骨な印象を受けます。そもそもこの八角形のスペースと展示室との関係はどうなっているのでしょうか。八角形スペースの屋根も透明なガラス面になっていて陽光が燦々と降り注ぎますので、絵画や写真などを展示するには不向きです。あるいはこの中央部に彫刻でも置くといいかも知れません。


写真10 第二展示室 八角形のガラス・フレームが貫入する


写真11 第二展示室 八角形のガラス・フレームからエッフェルの建物を望む

 結局のところこの八角形スペースの意図はよく分かりませんが、第二展示室の北端からこの八角形スペース越しに南を見ると…(それが上の写真11ですが)、真っ正面にグスターブ・エッフェルの建物が見えたのです。この建物は1900年のパリ万博で使用されたパビリオンの図面をもとに1981年にこの地に再築されたものだそうで、清春芸術村のシンボルと思われます。この多角形の建物を真正面に望めるように、そしてその建物へのオマージュを込めて八角形のガラス・フレームを貫入させたのかも知れません。

 なおこの八角形スペースの外側には下の写真12のように南に向かってコンクリート製の水路が穿たれていました(この日は残念ながら水は流れていませんでしたが)。もしかしたらここのどこかに噴水があるのかも知れません。いずれにせよ外構もリッチな造りになっていることが分かります。美術館とエッフェルの建物との位置関係は下の写真13のように実際にはかなり離れています。


写真12 清春白樺美術館 南側の外構 水路が設けられていた


写真13 清春芸術村 左奥が清春白樺美術館、右がエッフェルの建物

 小ぢんまりとはしていますが、予想に違わぬとてもよい美術館でした。とは言え、法隆寺宝物館のようにミニマルで研ぎ澄まされた建築とはまたちょっと違って、ほんわかとした暖かみのある美術館だなと思いましたね。第一展示室には空間のダイナミズムにともなうシークエンスの楽しさがあります。それに対して第二展示室は幾分かの単調さを感じるものの、貫入したガラスの八角形によって展示室内に明暗のコントラストが導入されて、そのことが空間の差異化をもたらしていると思います。

 この日は第一展示室では日本の画家や白樺派の文人たちの作品が、第二展示室ではルオーの絵画がそれぞれ展示されていました。上述の空間の違いをうまく利用したということでしょうか(善意的な勝手な解釈ですけど)。

 この美術館にはひと休みできるような椅子やベンチは置いてありませんでした。またトイレもあることはあるのですが、家庭並みの容量なので美術館のような公共施設としては正直言ってプアです。休憩や用足しは隣接するレストラン(こちらも谷口吉生さんの設計)を利用せよってことかも知れませんが、レストランは閉まっていて入れませんでした。お客さんがたくさん来たらどうするのかな。

 ところで館内には写真撮影禁止の掲示がありました。そこで受付のスタッフに建築空間の写真を撮りたいのですが、と申し出ると、そういう谷口ファンが時々来館するそうで個々の作品を撮らなければいいですよと許可をいただけました。やっぱり聞いてみるものですな、よかったです。

若気の痛リポート (2024年9月23日)

 お彼岸を過ぎて急に涼しくなりました。しのぎやすくて助かります。きょうは休日なので立憲民主党の代表選をテレビ中継で見ていました。決選投票の末、元首相の野田さんが結党者の枝野さんを押さえて新しい代表になりました。かつて野田さんが総理大臣のときに民主党は大敗して政権を失いました。「安倍さん、ひとり勝ちはないでしょう」と弔辞で述べた野田さんに汚名挽回のチャンスが巡ってきたことになります。かなりの古株で新味はないですけど、日本のために頑張って欲しいと願っています。

 さて研究室内の書類や書籍の整理は少しずつ進めています。先日、引き出しのなかにひっそりと仕舞われていて、タイトルの貼られていないファイル・ケースを開くと…、そこには約40年前の自分が眠っていました。

 それは手書きのレポートでした。生産技術研究所(当時は六本木に所在)の教授だった岡田恒男先生の大学院授業の課題で、「耐震診断基準批判」と題してA4用紙4枚以上20枚以下の条件だけで全く自由に書いてよい、という出題でした。それと一緒に、当時、発表されて間もない耐震診断基準に関連して、岡田先生や村上雅也先生(当時千葉大学教授)が執筆した論文等の青焼き書類がたくさん入っていました。締め切りは1985年1月31日(木)午後1時となっていましたので、修士課程1年生のときの課題であったことが分かります。



 こういう課題が存在したことは記憶にあったのですが、そのコピーを自身で保管していたことは全く忘れていました。ですから、これを見たときには相当程度驚きましたし、こんなところに格納していたのかと我ながら思いました。

 そこでせっかくですから件のレポートを読んだのですが…、これがもう赤面ものであったことを今ここに告白します。その当時、NEC9801というパソコンで動くワープロ・ソフト『松』が青山・小谷研究室ではすでに使えたので、ワープロで書いて印刷して提出すればいいのにとまず思いました。しかしなぜそうしなかったのかはレポートの見てくれだけで分かりました。

 まず、提出したレポートはA4用紙で5枚でした。要求は4枚以上ですからほとんど最低条件ですね。おまけに1枚あたりたったの15行!で一行あたりたったの28文字程度しか書かれていませんでした。さらにかなり大きな字で書いてあって、ページを稼ごうという意図がもうありありです。おまけに本題は3枚目で終わっていまして、それ以降は「付け足し」とことわった上で柱梁接合部に関する自身の研究がらみの我田引水が綴られていました。

 こういった形式を見ただけでもう大丈夫かなと(若いころの)自分自身が心配になるのですが、肝心なのはレポートの中身なので読んでみました。そうすると…、やっぱり噴飯モノでした。まあそうだろうな、中身がないから見てくれもこうなるんだねっていう初学者にありがちな典型的なレポートですよ。大学教員になった現在のわたくしも、そういう空疎なレポートを現代の学生諸君に見ることが往々にしてあります。

 レポートの中身についてさらに言えばこれは科学論文ではなくて、もうエッセイの類でした。「しかし、これだけではあまりにおもしろくない」なんて書いてあるんですから、(教員たる現在の迂生ならば)いったい何なのよこれはって思うでしょうな、やっぱり。

 ただ、若いころの自身を擁護しておくと手書きの字は綺麗にペン書きされていました。これは想像ですが下書きをワープロで作って、エッセイとはいうもののちゃんと推敲して、間違わないように一言一句丁寧に書き写したように思われます。そうだとしても単なる言い訳に過ぎませんけど、あははっ。

 これを見た岡田恒男先生は多分、読まずに捨てたか、幸いにして読んでくださったならば苦笑しながらやっぱり捨てただろうなって想像します。そんなヤツ(ってわたくしのことです)が今では大学教授になって耐震診断とか耐震補強について授業しているなんてことが、やっぱりあるんですねえ。いやあ、われながら驚いたのでこの一文を認めました。

 なお、この授業科目の成績がどういうものであったのかは分かりませんでした。でもそのころは授業に出なくてさえ単位を出してくれたり、課題の出来にかかわらず「優」をくださる先生が多かったので、岡田先生もそうだったかも知れません。以前にも書きましたが、木構造の坂本功先生の授業には一度も出なかったのですが単位をいただきました。現在では大学院と言えども成績評価は厳重に行うように大学当局から厳命されますので、隔世の感があります。

 その当時、自身の修士論文研究で行う実験が忙しくて専門に関係しない授業に出ているヒマなどないと不遜にも思っていました。そこで作業服を着て8階にいる坂本先生のところに行って「小谷先生の実験が忙しくて授業に出られないんですけど…」と言ったところ、「小谷の実験?それじゃ仕方ないよね」ということになって、じゃあ授業に出ないでよろしいと仰ってくださいました。師匠の小谷俊介先生と坂本先生とは同級生だったことを巧みに利用したのかも…悪いヤツだな、オイラって。

 先日のBELCA(ロングライフビル推進協会)の会議では委員長たる坂本功先生のお隣に座っていたのですが、そういうときに坂本先生はわたくしのことを「北山先生」とか呼んでくださいます。公式の委員会でさすがに呼び捨てにもできないでしょうが、こんなヤツなのに先生呼ばわりしていただくと恐縮してソワソワしてやっぱり落ち着きません。坂本先生の授業に出なかったので木構造のことを何にも知らないのにって今になって思います。全くもって赤面モノであることをここに告白いたします(きょうは告白が多いな…)。

八ヶ岳を望みながら (2024年9月21日/22日)

 九月中旬の好日、どうにも漂泊の思ひやまず(リフレッシュしたくて)甲州・信州の八ヶ岳山麓周辺に日帰りで出かけました。自然豊かなところに行きたかったわけですが、わが家のお上さまはそういう寂しげなところは好みじゃありませんので、久しぶりにひとり旅です。さて、ではどこを訪ねようかなということで、手元にあった随分と前のガイドブックを取り出して眺めました。ちょっと前にテレビで入笠山[にゅうかさやま]の秋の花々が綺麗と言っていたことを思い出して、じゃあそこに行こうかな。でも、山歩き(登山)やハイキングをするような気分ではないんだよなあ。

 そこで再びガイドブックをペラペラとめくっていると(紙の本ってそういうときに便利)、コンクリート打ち放しのちょっとばかり人目を引く建物の写真が小さく載っているのに目がとまりました。よく見るとそれは安藤忠雄さんの設計した美術館でした。ここで初めて清春[きよはる]芸術村の存在を知ったのです。寡聞にして知らなかったのですが清春芸術村は既に40年以上も前に“開村”したそうで、山梨県北杜市長坂町にあります。


写真1 清春芸術村にて(左端:光の美術館、中央奥のレンガ色:清春白樺美術館、その右の平屋:白樺図書館、右端:エッフェルの建物)

 それだけだったら特段、興味も引かなかったでしょうが、清春芸術村にはなんと谷口吉生[たにぐち・よしお]さんの美術館と礼拝堂とも建っていたのです。えっ、こんなところに(って失礼な物言いでごめんなさい)谷口吉生さんの美術館があるなんてこちらも知りませんでした。ときどき書いていますが迂生は谷口吉生さんの美術館が大好きで、これまでに土門拳記念館(酒田市)、資生堂アートハウス(掛川市)、東山魁夷美術館(長野市)、法隆寺宝物館(東京都上野)などを見てきました。そこで清春芸術村にある清春白樺美術館もぜひ体験したいと思いました。

 ということで調布ICから中央高速道に乗って長坂ICで降りました。長坂と言えば戦国時代、武田勝頼の寵臣として知られる長坂釣閑斎[ながさか・ちょうかんさい]が出たところかな。長坂釣閑斎は文人だったようですがあまりよく言われなくて、武田勝頼に取り入った佞臣で武田家滅亡の一因を作った悪者として時代小説では描かれることが多いようです。

 こうしてわが家を出てから二時間ちょっとで清春芸術村に着きました。全体が青々とした芝生で覆われていて、そこにポツポツと建物が配されています。敷地はほぼ平坦ですが、北側は一段高くなっていてそこに谷口吉生さんの美術館と礼拝堂とが建っていました。安藤忠雄さんの美術館は「光の美術館」と称され、照明を設けずに自然光を採り入れるだけをコンセプトとしているそうです。

 これらの他にも、グスターブ・エッフェルの設計図から復元した建物とか、建築史家の藤森照信さんが設計した樹上の茶室(中には入れない)、吉田五十八が設計した梅原龍三郎画伯のアトリエ(東京の梅原邸から移築したもの)、さらには谷口吉生さん設計のレストラン(休業中だった)もあってあらためてリッチな場所だなあと思いました。ちなみに清春芸術村の“入村”料は1500円です。美術品だけを見るひとにとってはもしかしたらお高いかも知れません。でも美術鑑賞だけではなく、こうした建物にも興味がある方にとってはなかなかに楽しいところだろうと思います。

 こういう清春芸術村なので一時間半ほど滞在して安藤さんと谷口さんの美術館を満喫しました。両者とも小さい美術館なのでそれくらいの時間で十分です。建物についてのレポートはまた別に書くことにします。この日は陽射しが強く、標高が高いとはいえ気温が高くて敷地内を歩き回ると汗だくになりました。安藤さんの「光の美術館」は照明がないだけではなく空調もありませんでした(暑いよ〜)。また谷口さんの美術館には空調はありましたが、その冷房の効きは弱くてやっぱり暑かったです。ですから春先や秋ぐちの季節のよい頃をお勧めします。


写真2 清春芸術村から南アルプスの山々を望む(中央に樹上の茶室、右端の白樺の木の奥に光の美術館)

 清春芸術村をあとにして車で10分ほど山道を下ると旧甲州街道沿いの台が原宿に着きます。ここには日本酒「七賢」を醸す山梨銘醸という酒蔵があって、そこに併設されたレストランで昼食をいただきました。ここは古民家を改修して使っていて、小規模ながらなかなかに味わい深い空間です。

 この辺りは白州[はくしゅう]と呼ばれて水の良いところらしく、近くにはサントリーウィスキーの工場もあります。そのレストランに入ると「七賢」の仕込み水がボトル詰めされて出てきました。飲んでみると確かに角がなくてまろやかな味わいのような気がします(どうだか…)。地酒「七賢」は調布パルコの北野エースで売っていて数年前にその純米酒を飲んだことがあります。当時のテイスティング・メモには「流行りの日本酒といった感じで、そこそこ美味しい。精米歩合70%とは思えないクリアさ(白州の水のミネラル感か?)でコスパはとてもよいと思った(四合瓶で1100円!)。美味しかったが、途中から料理酒になった。」とありました。このとき白州の水に注目していたわけです。


写真3 「七賢」のレストラン臺眠[だいみん]にて 暑かったので日本酒の仕込み水が甘露だった


写真4 「七賢」の酒蔵 前面の通りは旧甲州街道

 ここで酒造用の糀[こうじ]に漬け込んだ鮭の定食をいただき(1850円)、せっかくだから隣の酒蔵にも行きます。旧甲州街道に面して建っていますが、昼日中だというのに通りには誰も歩いていません。こういう鄙びて自然の豊かな田舎に住んでみたいと常々思っていましたが、あまりにもひと気がなくてそれはそれで寂しいかも知れないって感じましたね(贅沢すぎるかな?)。

 車で来たのでお酒の試飲はできません。せっかくなので蔵元でしか購入できないお酒を買おうと思って聞いてみると、それは生酒[なまざけ;火入れ(殺菌のこと)をしていないので酵母が生きている]ですと言います。確かに生酒は美味しいのですが冷蔵庫に保管する必要があるし、すぐに飲まないといけないので生酒は敬遠しています。それ以外のお酒は前述のように調布でも買えるので、結局、お酒はやめて(どこでも見たことのない)甘酒を購入しました。甘酒はわが家では八海山を愛飲していますが、それとは味わいがどう違うのか楽しみです。

 この酒蔵には明治13年に明治天皇が山梨巡幸の際、一泊した行在所[あんざいしょ]が残されていました。甲州街道に面する酒蔵の立派な構えを見ても分かるように、この蔵元は昔から地元の有力者だったようです。いや逆かな、その昔、貴重なお米を使って酒造業を営めるのは裕福な有徳者に限られていたので、その財力にまかせて明治天皇陛下を迎えることができたのでしょう。


写真5 「七賢」の酒蔵にある明治天皇行在所

 さて酒蔵を出て国道20号線(現代の甲州街道)をちょっと走ると道の駅「はくしゅう」があります。地方ではすでに新米が出始めていて、テレビのニュースではどこぞの道の駅で地場産の新米が売れていると報じていました。ご承知のようにこの夏は令和の米騒動が勃発してなかなか精米が手に入りません。わが家でもお米のストックが切れかかっていたので、ここで新米を買おうと目論んでいました。このあたりの地場のお米は白州米と呼ばれてそれなりに有名みたいです。

 ところが行ってみると、お昼を過ぎていたせいかも知れませんが、お米のコーナーはすでに空で売り切れていました、がーん、ショック。皆さん考えることは一緒ということか…。その代わりと言ってはなんですが、ブドウの巨峰に似た藤稔[ふじみのり]がたくさんありました。藤稔はわが家では好みのブドウなのですが、東京では八月の二週間くらいしかお店に出回らず、おまけに高値です。それがとても大粒ぞろいの良いもので、かつ東京の半額程度のお値段で安く手に入って満足しました、よかったあ〜。

 でも新米を買って帰ると約束した手前、困ったなと思いながら道の駅のお店を出ると、その横に地場のスーパー・マーケットがあります。あまり期待をせずにのぞいて見ると、お米コーナーにお米はありました。でも地場産ではなく茨城県産とか栃木県産とかの5キロ袋が置いてあって、おまけに四千円近いお値段で売っていました。白州くんだりまで来て他所産のそんな高値の米を買うのも業腹なので諦めました。

 しかしそこで幸福の女神は降臨しました(って、大げさ)。七賢でお酒を買わなかったので他の銘柄の地酒でも買おうかと思って日本酒コーナーに行ったのですが、どうした風の吹き回しか、ふとその裏の棚をのぞいたんですよ。そうしたら…、なんとそこに白州米がひっそりと置かれているじゃないですか、お米コーナーでもなんでもないのに。 それを見たときにはわが目を疑いましたな。なぜそんな人目につかないところに置いてあるのかとても不思議でしたが、新米で5キロのミルキークイーンという白州米が税込2975円で二袋だけあったのです。

 フツーだったらつや姫とか新之助でもない銘柄米5キロが三千円近かったら絶対に買いません。でも今は“有事”ですから(ミサイルは飛んでこないけどね)、これはもうラッキーということでひと袋だけ(おとなだからね)買って帰りました。やったあ〜お米ゲット! これで大体の目的は達成できましたが、まだ少し時間があります。そこで当初考えた入笠山に行くことにしました。

 道の駅「はくしゅう」から国道20号線で北西に進みます。途中で教来石という地名が出てきました。これは「きょうらいし」と読むのですが、戦国時代に武田家に仕えた教来石氏の出自の地がこの辺りだったようです。台が原宿のそばには曲淵[まがりぶち]氏居館跡もあり、随所に武田信玄時代の家臣たちの痕跡が残っていて歴史の息吹を感じさせます。楽しいところだなあ〜。

 国道20号線を走って20分ほどで信州富士見町にある富士見パノラマリゾートに着きました。ここは冬場はスキー場です(行ったことはないけど)。中央高速道の諏訪南ICから約10分のところですのでアクセスは便利でしょう。でも最後はやっぱり上り坂なので冬季はチェーンを履かないと無理でしょうね、きっと。

 このそばには富士見高原がありますが、高校一年生の夏休みにサッカー部の合宿がここであって一週間ほど過ごしました。このときのことはよく憶えていて、早朝に起きてから夕方まで一日中、練習漬けなんですよね、当たり前ですけど。練習して、飯食って、風呂入って、寝る、という単調な生活です。練習が終わると疲れ切ってグッタリして、テレビもあまり見ませんでした。

 軟弱な迂生はとにかく練習がつらくてイヤで、でも逃げるところもなく、ひたすら時が過ぎるのを祈っていたっていう感じです。そこでは他校との練習試合もあって、そのとき相手の選手に足を踏まれたことから「ふざけんな、この野郎!」って喧嘩になり、それを見た自校の先輩から「お前、何やってんだ」って怒られたことを、土埃の舞うグラウンドとともに今もよく憶えています。

 こんな感じでしたから雨が降って練習ができないときには嬉しかったですね、ずーっと寝て過ごしました。そんな合宿が終わろうとする頃、北海道の有珠山の爆発があったことをテレビのニュースで知りました。富士見高原では台風のせいか大雨が降ってどこかの道路が通行止めになったのか、帰りの貸切バスが来れなくなって急遽、国鉄富士見駅から中央本線に乗って帰京しました。今となってはただ懐かしいだけの青春の思い出です。

 話しをもとに戻すと富士見パノラマリゾートはスキー場なのでゴンドラが架かっています。それに乗ると入笠山のほぼ頂上まで15分ほどで着きます。ゴンドラ山頂駅の標高は1780メートルで、さすがに涼しかったです(気温は22度でした)。ちなみにゴンドラの料金は往復で2200円です。お高いですけどお客はほとんどいないのでひとりで乗って行けるし、時間の短縮になるし、楽だからまあよしとするか。


写真6 富士見パノラマリゾートのゴンドラに乗って八ヶ岳を望む(上のほうは雲に隠れて見えない)


写真7 ゴンドラ山頂駅のそばにあったマウンテンバイク専用コースの入り口

 さてゴンドラに乗るお客はほとんどいないのですが、どういうわけか自転車をかついでヘルメットをかぶったひとがそのままゴンドラに乗って上がって行きます。その理由は頂上駅に着いて歩き始めたら分かりました。そこにマウンテンバイク専用コースの入り口があったのです。なるほど…、スキーができない季節にそのコースをマウンテンバイクで滑り降りる事業に準用することで収入を得ようということでしょう。迂生が若かった頃にはあんなに流行っていたスキーが今は廃れてしまったので、スキー場は生き残るためにいろいろと知恵を絞っていることが分かりました、大変だな。

 ゴンドラ山頂駅からちょっと歩けば入笠湿原があるし山頂にも行けたのですが、そうすると一時間くらいはかかるし何よりもそれまでの暑さでかなり疲弊したので、入笠すずらん山野草公園の展望台に座って雄大な風景を眺めながらしばらくボーッとして過ごしました。いのちの洗濯といった風情でして、涼しい風が肌に心地よかったです。

 この展望台ですが、どういうわけか「恋人の聖地」という看板があってハート形の鋳物が置かれ、さらには鐘が吊り下げられています。何なんだろう…、そうやって若者たちを引き寄せようとしているのでしょうか。でも、それじゃ迂生のような老人はお呼びでないってことですか、まあどうでもいいけど。とにかく自然豊かな場所にそれはそぐわないと感じました。


写真8 入笠すずらん山野草公園の展望台 さすがに景色はよい

 まっいいか。そうやって生き返ったところで、そろそろ帰るかとゴンドラに乗って下山し、午後3時半過ぎに諏訪南ICに入り中央高速道に乗って帰りました。途中、ところどころで工事のために一車線規制されていて渋滞しましたし、小仏トンネル手前でも例によって渋滞したので帰りは三時間ほどかかりました。

 この日の走行距離は328 kmでガソリン1リットル当たりの平均燃費は21kmでした。普段、お上さまが買い物等で街乗りするときの燃費は10kmにも満たないので、高速道路を走るとさすがに走り屋の本領発揮っていう感じでなかなかよい数値でしょう。もっとも時速90kmくらいでトロトロ走っていたせいかも知れませんけど。


瞬間的に停電すると… (2024年9月19日)

 彼岸の入りを迎えましたが、まだ暑いです。おやつの頃、例によってものすごい雷雨がやってきて、窓を見ると外は真っ白で何も見えなくなっています。そんなときに落雷があり、大学で停電が起こって全ての電源が落ちました。

 間の悪いことにちょうど都市環境学部の教授会がオンラインで開かれていて、投票の必要な事項を討議しているときでしたが、プチっと画面が暗くなって討議者たちがスーッと消え失せました、まあ当たり前ですな。ありゃりゃ、困ったな…、でも大学にいた先生たちは皆さん同じです。

 停電はすぐに解消しましたが、パソコンが落ちたのでオンライン教授会からも追い出されました。オンラインは便利ですが、こういうときは困りますね。停電は一瞬でも突然断ち切られた現実はすぐにはもとに戻りません。そういう当然の理を噛み締めながら、教授会に復帰する操作を淡々とこなしました。教授会には定足数があるのでしばらく待ちましたが無事、再開できました。よかったです、吉川徹学部長!

一年半越しの作業 (2024年9月16日)

 きょうは敬老の日で、迂生のような老年を迎えた人たちを敬う日らしいです(特段、祝ってもらうような目出度いこともないけどな)。そういう祝日ですが、大型実験棟での一年半越しの作業を企画したために登校した次第です。

 昨年の春にわが社の井上さんと明治大学・晋沂雄[じん・きうん]研究室の村野さんとのお二人をヘッドとする鉄筋コンクリート柱梁部分架構の実験を行いましたが、その最後の試験体が実験終了後も載荷フレームに載ったままになっていました。そのうちヒマが出来たら降ろそうと思っているうちに月日は光陰矢の如くに過ぎ、気がついたら一年半経っていたというのが事実とするところです。

 たまたまですが、晋 沂雄先生のご都合でこの日にその作業をすることになりました。ということでわが社からは原川、星川、石家および星野の四名、明大・晋研究室からは晋先生、宮坂および小栗の三名が来てくれました。

 試験体は直交する二方向に梁が取り付くために非常に不安定です。そのためレバーブロックやチェーンブロックを使ってそれぞれの梁端部をワイアで吊り、それらを緩めたり引張ったりして調整しながら載荷フレームから試験体をそろそろと取り出しました。精神的に緊張して気を使う難しい作業です。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:試験体F5取り外し作業with明治大学_晋沂雄研究室20240916:IMG_3748.JPG

 こういう大型の試験体を初めて扱う学生さんが半数いましたので、作業は慎重に安全を確保しながら行いました。そういう訳で、まあ予想していた通りに半日仕事になりました。でも無事に試験体を降ろすことができてよかったです。晋 沂雄先生にはお忙しいところ時間を作っていただき、ありがとうございます。わたくし独りでは容易には差配できない作業ですので、とても助かりました。

 この実験では試験体を載荷フレームに入れてセットするのがとても大変な作業です。ですから実際のところ柱梁部分架構の実験はもう打ち止めにしようかとも思うのですが、そのあたりは現在M1の原川さんと宮坂さんとも相談しながら、また来年度の研究計画とも関連しますので、今後どうするか決めることにしようと思います。


そろそろ後期の準備 (2024年9月15日)

 八月末の日本建築学会大会が終わって少しひと息つけた気がします。しばらくボーッとしているうちにもう九月半ばになっていて、そろそろ後期の授業等の準備をする頃になりました。今年度の後期には隔年に開講する大学院講義の「耐震構造特論」があります。これまでは授業の後半に英文輪講をセットして、内藤尤二先生(高校生のときの担任)バリの英文解釈研究みたいな授業をしていました。

  しかし、ここのところのAIの急激な発展で英文翻訳の精度も相当に上がっていることを実感しましたので、そんな授業をしてもあまり意味はないかなと考えました。だって英文法を知らなくてもAIが適切に邦訳してくれるのなら、そんなものを大学院生サマにわざわざ教える必要もないかなって思うでしょ、やっぱり。

 ということで「耐震構造特論」の後半に教えるべきコンテンツをつらつら考えました。その結果、日本における建物の地震被害と耐震設計法の進化の歴史をあれこれ語ったあと、既存鉄筋コンクリート建物の耐震診断と耐震補強とを論じて、それに関連する実践的な演習を課す、という一連の流れを案出しました。まあ、何とかなりそうな気がしてきましたが、ウンウンと唸ってせっかくカリキュラムを変更してもそれを実践できるのは今回を含めてたったの二回しかないんですね〜、何やってんだろうか…。

 二年生を対象とした「設計製図2」の前半の課題であるコミュニティー・センターの担当は今年も続きます。ただ昨年までの主担当者だった能作准教授がこの四月に電撃的に東工大に転出してしまったために、実質的なトップが不在ということになりました。そこで建築計画の竹宮健司教授と建築設計の木下央助教が中心となって課題の再検討などをしてもらっています。それでもエスキスの人員が足りないので、角田誠教授にイレギュラーながら助っ人をお願いしたところ「じゃあ、最後のご奉公でもするか」ということでお引き受けいただきました。角田先生、お忙しいなかをありがとうございます。

 八月下旬に東京都立神代[じんだい]高校からわが建築学科あてに出張講義の依頼があり、迂生が引き受けることにしました。都立神代高校は京王線仙川[せんがわ]駅から歩いて七、八分くらいのところにあり、わが家からも歩いて20分くらいで行けます。ただ神代高校は国分寺崖線を登った丘上にあるため、わが家から行くにはその急坂を延々と登らなければなりません。それは相当に大変なので、多分バスで行くんだろうなあ(軟弱ですが、もう老人なので…)。ちなみに都立高校への出張講義は、新宿高校、青山高校に続いて神代高校が三校めになります。

 毎年やっている青山高校では90分の大学模擬講義ですが、今回の神代高校では通常の一コマに当たる50分で講義をするように依頼されました。わずか50分で建築の魅力を語るのはそれはそれで結構、頭を使いますな。そこで、建築はそもそも身近にあるものですから、神代高校のそばにある建築をいくつか紹介することにしました。

 幸い調布市仙川にはすぐに思いつく有名建築が結構あります(有名というだけでそれが良い建物かどうかはまた別の話しです、念のため)。安藤忠雄さん設計の六棟の建物が連なる通称「仙川の安藤ストリート」がありますし、中地正隆さん設計の仙川アヴェニューもあります(これらはこのページで2023年12月と2024年1月とに紹介しました)。また2021年には桐朋学園に隈研吾さん設計の中規模ホールが竣工しています。このホールは見たことがなかったので先日、行ってきました(すぐ近くだからね)。それが下の写真です。

 ところで、この建物の入り口はどこか分かりますか。写真中央より右寄りに植木の後ろに三角形の隙間みたいなスペースが見えますが、ここが入り口です。入り口らしくないなあ…。こういう隙間から入る建物って、この十年くらいで見かけるようになりました、流行かな。でも中規模ホールに入るにはそれなりのエントランスがあって然るべきと(古い人間である)迂生などは思いますが、どうなのでしょうか。



 桐朋学園宗次[むねつぐ]ホールというのが正式名称です。隈研吾さんの設計らしく見たとおり木材がふんだんに使われています。内部のホールの大空間はCLT(木による直交集成材)の折板構造になっているそうです、中に入れなかったので見ていませんが…。

  桐朋学園のセキュリティー・チェックは厳しくて、入校するひとは学生さんでも先生でもIDカードを守衛さんに提示して許可を得ていました。そこでその守衛さんにこのホールを見たいので入校させてくださいと頼みましたが、「あっ、それダメです」とけんもほろろに拒否されました。多分、迂生のように見学に訪れるひとが多いのでしょうね。でも私学でも早稲田大学や明治大学、芝浦工業大学などは出入り自由だったけどなあ。

 そこで帰宅してからこのことをわが家のお上さまに話したところ、そりゃ当たり前でしょって言われました。なんでも音大生や先生がたは皆さんとても高価な楽器を校内に持ち込んでいるので、盗難には非常に気を配っているそうです(実際、以前に盗難があったらしい)。そのような状況ですから、建物なんぞを見るために不特定多数の馬の骨たちに入校を認めていたら大変なことになる、ということかも知れません、本当のところは知らんけど。

 でもこのホールのなかには入れなかったので、その空間を自身で体験することはできませんでした。建築とは空間の創造である、という風に高校生たちには常日頃語っていますが、自分で見て体験しないことにはそのよさとか不便さとかは分かりません。ですから今回の出張講義でこのホールをどのように説明しようかなと思案しております(こういう有名建築があるよっていうアナウンス程度になるだろうな)。

 こういった名の知れた建築家が設計したかどうか分からなくても、仙川駅周辺にはかなりいいスペースがあることに今回、気がつきました。この辺りは数年前に多くの建物が建て替えられました。例えば下の写真はカフェに付属する屋根付きのオープン・テラスからクィーンズ伊勢丹の商業建物を望んだところです。ベンチが置かれたりしてこのエリアは気持ちがよさそうです。正面奥にはクィーンズ伊勢丹の大階段がちょっと斜めになって2階の外部デッキに伸びていて、街に対して開こうという工夫が見て取れます。

  そういうちょっとした工夫によって街なかが楽しくなったり活性化したりすることを神代高校の生徒諸君には話してみましょう。そして彼女/彼らにはそれを実地に追体験してもらえると出張講義をする甲斐もあるかなと思います。



南大沢の虹 (2024年9月9日 その2)

 そろそろ帰ろうかなと思っていたら、ものすごい土砂降りになって研究室に閉じ込められました。でも外を見ると太陽が照っているところもあります。あれっと思って9号館の東側のベランダに出てみると、綺麗な半円形の虹がくっきりと掛かっていました。

 両側の立ち上がるところから頂点まで完璧な半円になった虹を初めて見たような気がします。しばらく帰れそうもありませんがちょっとだけ幸せな気分になったので、皆さまにもおすそ分けいたしましょう、なんちゃって。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:土砂降りの南大沢にかかった虹_9号館7階から20240909:IMG_3674.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:土砂降りの南大沢にかかった虹_9号館7階から20240909:IMG_3673.JPG

九月になったが…暑い (2024年9月9日)

 九月九日のきょうは古式ゆかしき重陽の節句ですね、日本じゃもうそんなことをいうひとは化石ですかねえ。九月になったというのにきょうはまた暑いです。天気予報では猛暑日ばかりを強調しますが、今日も猛暑日じゃないかも知れないけれど34度くらいはありそうで、フツーに歩くだけで汗が吹き出します。

 大学で諸々の雑用をこなしながらパソコンのネットラジオをつけたら「戦争を知らない子どもたち」が流れて来ました。ジローズっていうグループが歌っていましたが、これって杉田二郎のことかな? 先の大戦が敗戦で終わってから十数年後に生まれた私たちの年代にとっては、その戦争の残滓はまだ至るところに残っていましたし、総体的にまだ貧しい中にあったように思います。

 迂生が中学生や高校生の頃、遠足なんかでクラスのみんなとバスに乗るとこの曲を全員で歌ったことをよく憶えいています、“僕らの名前を覚えて欲しい、戦争を知らない子どもたちさ〜”って。その頃は自分の親の世代がまさに戦前・戦中派でしたが、今となっては戦争を知っているひとは逆に貴重となり、日本国の九割方のひとは戦後生まれでしょう。まさに時代は変わった、ということでしょうね。

 先日、日本建築学会大会のことを書きました。その初日はオンラインで幾つものパネル・ディスカッション(PD)が同時並行で実施されました。わたくしは鉄筋コンクリート構造のPDに参加したのですが、司会者の真田先生(大阪大学)が一般の参加者に向かって質問お願いしますって言っても誰もな〜んにも言いません。すると多分、見かねたのだと思いますが、岡田恒男先生が「ちょっといいですか」って質問や意見をくださいました。

 その翌日、神田明神ホールでの懇親会に岡田恒男先生に乾杯のご発声をお願いしたことも書きましたが、そこで雑談したときに岡田先生は「なんで皆さん、質問しないの」って不思議がっておいででした。確かにそうですよね、そういう迂生も何も言いませんでしたけど。

 でも同じことをわれわれも学生さんたちに言っているわけですから、こういう体質って日本人の基底に脈々と伝わった気質としか言いようがなくて、そういうものはグローバルな時代とか言っても二世代や三世代くらいじゃそうそう変わらないのではなかろうかと愚考します。

 とはいえ、なんでもかんでもアングロ・サクソン流に改めるなどということは癪に触るし何よりも愚の骨頂と思いますから、われわれは長い年月をかけて祖先から受け継いだ気質を逆に武器にして世界との付き合い方を考えたほうがはるかに建設的だろうって思いますが、皆さまいかがお考えでしょうか。


神田駿河台にて 〜ことしの建築学会大会 (2024年9月2日/3日)

 九月になりました。台風の影響がやっと去ったかと思ったら、きょうはまた雨降りです。でも少し涼しくなって凌ぎやすいですね。先週までうるさかった蝉の声も聞こえなくなり、秋の虫たちの合唱がそれにとって代わりました。少しずつ秋に近づいているような気がします。

 さて、先週の火曜日から金曜日まで(8月27〜30日)の四日間、東京の神田駿河台(御茶ノ水)にて日本建築学会の大会が開催されました(なお初日だけはオンラインでの開催でした)。台風10号に翻弄された大会となりましたがなんとか最終日まで、最後の行事である閉会式までスケジュール通りに開催できました、よかったです。

 でも三日目の29日くらいから台風の影響で新幹線や飛行機がところによっては運休になり、そのせいで帰宅できなくなったり、その反対に東京まで出てこられなくなったりした方が多発いたしました。29日の夕方くらいから東海道新幹線が止まり、二時間以上停車した挙句に運転打ち切りになったりしました。帰京しようとされた西方の先生が止まったままの新幹線内から発したメールが飛んできて、ご苦労のほどがしのばれました。本当にご苦労さまでございます。

 最終日には都内もものすごい雨降りに見舞われました。びしょ濡れになって会場に到着できた方はお気の毒とはいえまだよい方でして、当日の発表や司会に来られない方々が多数いらっしゃいました。こんな感じでご面倒やご苦労をおかけしたことを大会委員長としては大変に申し訳なく思っております。ただ、天候ばかりは如何ともし難く、ひたすらご寛恕を乞う次第でございます、はい。

 今回の主会場は27階建ての超高層ビル(リバティタワー)で、個別の研究発表会場には縦方向の動線(エレベータとエスカレータ)を使ってアクセスします。時間帯によってはエレベータに参加者が集中して混雑が予想されましたが、わたくしが見た限りではそれほどの混乱は生じなかったように思います。参加者の皆さま、いかがでしたでしょうか。


写真1 メイン会場となった明治大学リバティータワーのエントランス・ホール

 ことしは大会を運営する側でしたから、普段は足を運ばないような企画にも参加しました。対面初日の午後には、一般のみなさんに無料で公開する記念シンポジウムを開催しました。『建築と暮らす』というタイトルでして、これは明治大学教授・門脇耕三先生(建築構法学)が主となって企画してくれました。千人以上も収容できる大ホールでの開催でして、事前の参加申し込みは二百名に満たなかったので心配しましたが、当日は三百人程度(見た感じのテキトーです、あははっ)は入っていたようなので少し安心しました。

 このシンポジウムでは建築家(津川恵理さん)、建築史家(倉方俊輔さん)、建築構造研究者(多幾山法子さん;東京都立大学准教授)、哲学者(鞍田崇さん)および画家(塩谷歩波さん)の五名の方にお一人ずつ登壇いただき、それぞれに「建築と暮らす」というお題についてスライドを提示しながら持論を語ってもらいました。そのあと明治大学教員のお二人の若き建築家(連勇太朗さんと川島範久さん)を司会進行役として五人の方々との討論が交わされました。


写真2 記念シンポジウムでの討論の様子 右のお二人は司会者

 結論から言えば聞いていてとても面白くて楽しい企画でした。『建築と暮らす』というある意味当たり前のようなお題に対して、パネリストの皆さんが独自の視点からそれぞれが考えていることを語ってくれて、聞いている方としてもいろいろと考えさせられましたね。普段は当たり前と思っていることでも立ち止まってよく考え直してみるということの大切さをあらためて認識した次第です。

 討論ではお二人の司会者が五人の登壇者たちをうまくドライブしながら登壇者の意見を引き出してくれたと思います。その任務はとても大変だったと思います。多分、ものすごく頭を使っただろうと思いますね、ホント。ご苦労さまでした。それにしても明治大学建築学科のスタッフの優秀さや多様性を思い知りました、なかなかに良いのではないでしょうか。

 今回の大会の会場は地下鉄神保町駅からも歩いてすぐで、周辺には有名な古書店街があり、中小の書肆も集まっています。大会実行委員長の明治大学教授・山本俊哉先生(都市計画)のご尽力で今回、日本出版クラブ内の一室を大会の出張休憩所としてご提供をいただきました。このことは大会HPの片隅に載っていたのですが、みなさんご存知でしたか。ただその場所は神保町駅を降りると明治大学とは逆方向に歩く必要があり、そのせいもあってか利用者はほとんどいなかったようです。

 せっかくなので対面二日目の午後早くに行ってみました。設えは普通の小会議室のそれで、アルバイトの学生さんが独りつくねんと座っていました。聞いてみると迂生が初めての来訪者ということでことのほか喜ばれました、あははっ。そのあとすぐに明治大学教授・田中友章先生(建築デザイン)がお出でになりました。涼しくて静かなのでちょっとした作業をするにはうってつけのスペースでしたが、あまり利用されなかったのは残念です。


写真3 日本出版クラブの3階ロビー 正面右奥に休憩室がある

 対面初日の記念シンポジウム(前述)が終わって、その夕方から懇親会がありました。会場は湯島天神の向かい側にある神田明神内のホールです。参加者が集まらないと困るなあと思っていましたが、約270名の方がお出でくださって当日受付でお断りする方が出るほどの盛況でした。下の写真のようにホワイエまでぶち抜きにして使いましたが、それでも狭かったみたいです。食事はケータリングでしたが最後までそこそこ余っていたので、食べられなかったという方はいなかったかなと思います。飲み物のグラスがプラスティックだったのは残念でしたが、こちらも会場側の指定でしたのでやむを得ません。


写真4 神田明神ホールでの懇親会 ホワイエまでぶち抜きで使用したが狭かった


写真5 神田明神ホールの控室での接遇(中央左:千代田区長・樋口高顕さん、中央右:明治大学長・上野正雄先生、右端:日本建築学会会長・竹内徹先生)

 建築学会大会では開催地の知事や首長を来賓として招待するのが通例ですが、東京都知事を呼ぶのはさすがに大変なのでそれはやめて、今回は明治大学長・上野正雄先生および千代田区長・樋口高顕様のお二人においでいただきました。上の写真はお二人を迎えて控室で挨拶および歓談している様子です。上野学長先生は裁判官のご出身で、NHKの朝ドラ『虎に翼』にまさにジャストミートっていう感じでした。樋口区長さんは写真のようにとてもお若そうでしたが、弁舌が爽やかでこんな感じで頭のキレるひとが政治家になるんだなあと思いました。

 昨年の京都大学での大会では来賓の皆さまの挨拶が長くなって乾杯まで50分くらいかかったことが反省点にありましたので、今年の来賓はお二人にして時間短縮を図りました。とはいえこちらは挨拶をしていただく身ですから、先方にお話しを短くしてくれとはさすがに言えませんわな。

 さて乾杯の音頭ですが、ことしは岡田恒男先生(東京大学名誉教授、中埜良昭のお師匠さま)にお願いをしたところ、快諾いただきました。岡田先生は本会会長を務められましたし、今を去ること31年前に八王子の東京都立大学で同じ大会を開催したときの大会委員長をされていました。さらに言えば迂生が博士論文を提出したときの副査は岡田先生でしたので、幾重にも重なるご縁を感じます。岡田先生は今年、日本学士院会員に選ばれております。

 ということで岡田恒男先生に久しぶりにお会いして親しくお話しをできたことをとても嬉しく思います。ご挨拶されているときもとても楽しそうにお話しをされ、若手に対して暖かなエールを送っていただきました。この挨拶のために65年前に建築学会から受け取ったハガキをご持参されて皆さんに披露されたことには驚きました。とにかくお元気そうでしたのでよかったです。岡田先生、どうもありがとうございます。


 写真6 乾杯のご発声をされる岡田恒男先生

 懇親会では普段お会いしないような方たちと久しぶりに対面できてよかったです。東京都立大学名誉教授の深尾精一先生は相変わらずニコニコされていましたが、いきなりスマホの画面を差し出されて、これだけどさあって言いながら見せられたのはなんと迂生のこのページでした、あははっ。どうやら何かを検索していてたまたま見つけたそうです。老人のたわ言なので真に受けないでくださいねって言っときましたけど。このページは都立大学で運営するサイトの一つでネット内の奥深くに秘蔵?されているので、検索マシンには通常はヒットしないはずなんだけどどうしてバレたんだろう…。

 同じく名誉教授の芳村学先生は当日受付にて参加を断られたクチでしたが、それでも会場まで入って来られて「ああ、君に頼みたいことがあるんだけど、いいかい?」っていきなりお話しされて、それがまた昔の頃そのままだったのでとても懐かしくなりました。芳村先生、懇親会に入れずに申し訳ありません。

 さて明治大学建築学科の創設者のひとりが建築家の堀口捨己[ほりぐち・すてみ]です。堀口は1920年代に東京帝国大学建築学科を卒業すると同時に分離派建築会を組織して新しい建築思潮を始めたことでよく知られます。堀口捨己は明治大学の三つのキャンパス(駿河台、和泉および生田)に多くの校舎を設計してきましたが、今回の大会開催に合わせてその図面を展示する展覧会が開かれましたので、せっかくなので見てきました。

 1960年代の建築が多いので、基本は鉄筋コンクリート(RC)の柱梁骨組構造のようでした。スパン(隣接する柱の中心間の距離のこと)は5メートルのものが多く、そのほかに4メートルや6メートルがちょこっと使われていました。現代の視点からはRC構造のスパンとしてはちょっと狭いかなと思いますが、当時は経済的な寸法だったのだろうと想像します。下の断面図では陸屋根に採光のためのV字状の構築物を設けたことが特徴かと思います。


写真7 生田キャンパス4号館(1964)の東西断面図

 さて、ここまで縷々書き綴って参りましたが(長すぎ?)、最後はやっぱり閉会式です。建築学会の一般会員の皆さんは多分、そんなものの存在すらご存知ないかと思います。実際のところわたくしも昨年の京都大会でのそれに出席するまで、すっかり忘れておりました。31年前の都立大学での大会では多分、実行委員のひとりとして閉会式に出ただろうとは思うのですがどうだか…。

 閉会式の式次第は下の写真に写っていますが、大会実行委員会の総務部会長を務めていただいた明治大学教授・小山明男先生(コンクリート工学・建築材料学)の司会で実施されました。閉会式のことは昨年もこのページに書きましたが、大会委員長であるわたくしは日本建築学会の旗(って、そんなものがあることにもビックリ!)を次期大会委員長に手渡すだけのお仕事です。


写真8 閉会式で司会をする小山明男先生

 こうして明治大学での日本建築学会大会がなんとか終わりました。明治大学理工学部建築学科の先生がたおよび関東支部の役員等の皆さまには主要なメンバーとして大会運営にご尽力をいただきました。特に会場部会長の明治大学教授・酒井孝司先生(建築環境学)および前述の小山明男先生は会場建物の解錠・施錠から始まって気が休まることのない日々だったろうと拝察します。皆さま、本当にありがとうございます。

 先日も書いたようにこのように巨大な大会(今回も一万人以上の方にご参加いただきました)を大学教員の手弁当で実施するのは既に限界に来ています。関東支部の担当が五年後にまた巡ってきますが、今と同じやり方で実施会場を決めることができるだろうか、とても心配しております。そのとき、迂生はもう定年退職して現役ではないでしょうから知ったことではないのですが、どう考えても無理じゃないかなあ…。

 深尾先生をはじめとしてお会いした数人の方からは31年前の都立大学での大会のときにも台風に見舞われてえらい目にあったという思い出を伺いました。このとき迂生は新米の助教授で大会委員の雑用を承りましたが、台風のことはすっかり忘れていました。皆さん、よく憶えているなあ。

 ちなみに来年の大会は九月初旬に九州大学伊都キャンパスで開催されます。博多からかなり遠い(八王子の本学みたいに)田舎のようですので移動の足が心配だなと思っていますが、どうなるでしょうか。九州大学をはじめとする九州支部の皆さん、どうぞよろしくお願いします。ではまた来年お会いしましょう。

あしたから建築学会の大会 (2024年8月26日)

 まだまだお暑いです。今日は人事関係のお仕事が朝からずっとあって夕方になってやっと終わりました。ときどき書いてますが公募人事ってホント大変ですよね。アプライしてくださる方のご苦労はもちろんですが、主催者側のこちらも大変ということです。でも自分たちの組織を運営するためにはこの行事に注力しないとその結果は自分たちに返ってきます。ということで一所懸命にやっております、はい。

 さて明日から日本建築学会の大会が開催されます。ことしは関東支部の主催でして、明治大学・駿河台キャンパスで開かれます。明治大学理工学部建築学科の先生がたがその大任を引き受けてくださいました。本当にありがたいことで、わたくしは関東支部長としてそのはじめからかかわって来ましたので、明治大学の皆さまのご厚意にはいくら感謝しても感謝し過ぎることはないと考えております。

 会期内に延べ一万人が集まる大会を企画して運営することは並大抵のことではありません。でも一般の会員の方々でそのことに気が付いているひとはどのくらいいるのだろうか、ときどき疑問に感じます。自分勝手な要望ばかりを声高に訴えるひとをときどき見かけますが、何言ってんだろう…この人は、そんなことできるわけないだろう…って思うばかりで悲しくなります(もっとも、このような立場につく前のわたくしもあまり他人さまのことは言えませんけど…)。

 大学の先生たちがこれだけ忙しくなって研究する時間もないという時勢に、手弁当で一万人規模の大会を開くことはもはや現実的ではなくなっていると迂生は思っています。会場をホテルや会議場として運営のほとんど全てを業者等にアウトソーシングするか、巨大な大会を分割して分野ごとにちまちまと発表会を開くか、とにかくなにか改善策を考えないと早晩立ち行かなくなるのではないかと危惧しております。

 明日はオンラインですが、水曜日からは御茶ノ水で対面開催です。台風が心配ですが是非とも明治大学リバティタワーにおいでいただき、学術発表等の楽しいひとときを過ごしていただければ主催者として嬉しく思います。

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驟雨にあう (2024年8月21日)

 お盆が過ぎて相変わらず蒸し暑いもののひと頃よりは少しマシになったような気がします(気がするだけかも…)。蝉の鳴き声も心なしか控えめになって、その代わりに朝晩にはさまざまな虫の声が聞こえるようになりました。

 さて、夕方に下校して南大沢駅から京王線に乗り、国領駅を過ぎて地上に出ると、ものすごい雨が降っていました。周囲は真っ白になって横なぐりに降っています。折り畳みの傘は持っていましたがそんなものは役に立ちそうもなく、降車した駅のホームでどうしたものかと立ちすくみました。そこで携帯を取り出して画面を見ると「雨は14分後にやみます」と書いてあります。へえ〜、最近の携帯は随分と親切になったんだな、でも14分後って本当かな。

 さすがに激しい雨のなかを歩く気にはなりませんでしたので、仕方ないので駅のホームのベンチに座ってしばらく様子を見ることにしました。周囲にもそういう方々がたくさんいました。しばらくすると雨が小降りになってきて10分ほどで傘が役に立ちそうなくらいになりました。いやあ、携帯の天気情報ってすごいなあ…。ということで、14分後には雨はほぼやんでいたのです。

 帰宅してテレビのニュースを見るとこの驟雨のことを「ゲリラ豪雨」って言っていました。急にザッと降って来てさっと上がるのでその降り様は確かに“ゲリラ”かも知れませんが、それにしても風情のない、身も蓋もない表現ではあるなと思いました。

お盆に教授会 (2024年8月14日 その2)

 お盆で皆さんがお休みのところに岸田首相の総裁選不出馬のニュースが突発しました。なぜこの時期にそのように重大な意思表明をしたのかその真意は不明ですが、この人ってとにかく周囲に無頓着というか頓珍漢というか…。今回もその特質が残念ながら発揮されたように感じます。どうなんだろうね…。

 さて、いま教務係長から一斉連絡があって明日の午後に教授会がセットされていたことを思い出しました。なぜお盆のど真ん中に(大学自治の根幹とされてきた)教授会を開くのかは理解の外なんです。でも昨年はこの時期に大学院入試をやっていましたし、日本の古きよき遺風には無関係に淡々と業務をこなしてゆくという感じでしょうか。まあ、いいんですけど、少なくとも働き方改革ってやつにはそぐわないような気がいたします。

 ただこの教授会はオンライン開催でして、どこにいても出席する意思があれば参加できるという形態にしてくれたのはありがたいです。もっともバカンスで海外に出かけたり、墓参り中だったり、親族一同で宴会を開いていたらさすがに公的な会議に出席する気分にはならないと思いますけど、どうでしょうか。

 わが家では一年ぶりにお仏壇の扉を開けて積年の埃を払い、お菓子などをお供えしてぼんぼりに灯を入れ、ささやかながらお盆の風習を維持しております(でも、扉はすぐに閉じちゃうけど)。皆さまのお宅ではいかがでしょうか。


ことしのお盆 (2024年8月14日)

 連日35度を超えるようなお暑い日々が続いておりますがお元気でしょうか。お盆になりました。今年は期末試験やレポートの採点を八月初旬に終えることができたので、例年になくゆったりとした気分で過ごすことができて嬉しいです。パリ・オリンピックの喧騒が嘘のように過ぎ去り、高校野球を心静かに楽しめる環境が戻って参りました、これもまた良きこと哉(武者小路実篤調です)。

 世間さまの大方はお盆休みですし出歩くのは暑くてかなわないので、わたくしも今年こそはのんびりまったりしようと思っていたのですが、急に降って湧いて来た教務関連の仕事があって登校しました。灯りのついている研究室はさすがに少ないですね。

 大学院に「インターンシップ」という非定常の科目があるのですが、それにアプライしたいという大学院生からメールが来て、そのための手続きとか書類の作成および研究科長への許可申請等の諸々の業務をするための登校です。八月はお盆があってお休みをとる人たちが多いし、下旬には建築学会大会があって先生たちは皆忙しいから気を付けてねって言ってあったのに、その学生さんから再度の連絡が来たのはお盆の入りになってからです。

 学生だからただ単に世間の常識を知らないっていうことかも知れませんが、それにしても想像力を少しばかり働かせればそんなに簡単にはコトが運ばないくらい、分かるのではないでしょうかね。そのようなワガママになんで迂生があたふたと対応しないといけないのか、かなり不満です。教務委員を務めているとそういう自分勝手で他人のことを顧みない学生さんが多いことにたびたび驚いて来ましたが、こればかりはどうにも慣れないなあ…。ひととしてもっと思慮を持って成熟してくれ〜って思うのですが、無理なのでしょうか。

原爆投下から七十九年 (2024年8月5日)

 もうすぐ広島・長崎の原爆の日がやって参ります。パリではオリンピック・ゲーム真っ盛りですが、ウクライナでの戦争や中東ガザ地区でのジェノサイドが続いているというのにそのことには蓋をして(あるいは知らん振りをして)皆さん浮かれているっていうのはどういう精神構造か…、迂生にははっきり言って不思議ですわ。

 いつの頃からでしょうか、「寄り添う」という言の葉がよく使われるようになりました。心情としてそのように思うことは貴重ですし、温かみを感じさせてくれます。でも、この文句が魔法の言葉のようになっていることに強い違和感を抱くんですよね。この言葉を唱えるだけで相手の苦悩や不幸を分かった気になり、それが免罪符として機能するとともにそこから先は思考停止しているんじゃないだろうかって思うわけです。

 じゃあどうすればよいのか、そのことに対する回答は残念ながら持ち合わせないのですが、とにかく一人ひとりが考えて行動することが大切であるとは断言できます。その観点からみると、テレビ等の大衆マスコミは残念ながらそういう役割は果たせていないし、とにかく刹那的に楽しければそれでOKという態度に終始しています。

 ネット上の情報は個々人が興味あるものしかアクセスしないので得られる情報が偏って危険である、という論調をよく目にします。でもテレビだって視聴者である日本国民が喜びそうな内容を各局が取捨選択して流しているわけですから、本質としては同じです。いや、テレビを見る人たちはそういう情報の取捨選択のフィルターを通してしか画面を見ることはないのに普段はそのことを意識することはありませんから、かえって危険であるとさえ言えるかも知れません。

 結局のところ国民の多くが同じものを見て(見させられて)、同じ感想を抱いて同じ方向を向いて歩き出す、ということが起こりつつあるように感じます。でもそれって戦前の軍国主義時代の日本そのものじゃないですか。なんだかとっても危険な状況にあるように思いますよ、ホント…。人波に乗って駆け出す前にちょっと待てよと立ち止まって考えてみる、そういうマインドが必要なんじゃないかなあ。

 七十九年前の悲惨な出来事を思い出して欲しいと思います。下の写真は爆心地から南に141メートル離れた元安川のほとりにある「原爆犠牲 ヒロシマの碑」です。その脇にある説明文には、この川が「あの時」市民たちのしかばねでうまった、と書かれていました。人間が人間に対してよくもこんなひどいことができたなと思いますが、当時はおろか現在でもそういう行為は続いているわけで、人間の原罪というものを考えないわけには行きません。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:広島2012:CIMG2369.JPG
 写真 原爆犠牲 ヒロシマの碑(2012年7月撮影)

都心でジャンプ! 〜スライドの時代から (2024年8月4日)

 相変わらず暑いですが、暑中お見舞い申し上げますと言ってみる。先週金曜日に「鉄筋コンクリート構造」(三年生対象)の期末試験が終わり、大学院の最後の演習課題が提出されましたので、明日からはそれらの採点に取り掛かりましょう。

 さて昨年から折に触れて載せてきた『スライドの時代から』シリーズです。あまりに暑いので寒い話題にしてみました。今回の舞台は東京都文京区にある後楽園球場です。現在の後楽園はドーム型の球場です。青山・小谷研究室時代のことですが、どこかの企業だか研究室だかを相手に草野球をここでやりました。人工芝なのでプレーしやすかったですね。残念ながらこのときの写真は手元にはありませんが、総本山の11号館7階にはそのアルバムがきっとあるはずです。確か青山先生もお出でになったんじゃなかったかな(曖昧な記憶ですけど)。

 迂生が小学生だった頃の後楽園球場はまだドームではなくてフツーの鉄骨造の野天型球場でした。そのころにプロ野球を見に行った記憶がありますが、ナイターのカクテル光線の煌めくような明るさと満員の観客でものすごい人出だったことしか憶えていません。



 その後楽園球場で1950年2月28日にスキーのジャンプ大会が開かれたというのですよ、皆さん信じられますか。ホントびっくりしました。ジェラルド・ワーナー(GHQ外交局の幹部)が撮影したスライドを見ると「全日本選抜スキージャムプ大会」という看板が写っていました。今では「ジャンプ」といいますが、当時は「ジャムプ」と表記していたのでしょうか。

 でもまだ敗戦から五年しか経っていない占領期の日本で、誰がこんな突拍子もない見世物を企画したのでしょうかね。当時はまだ降雪マシンだってないでしょうから、雪をどこかからダンプカー等で運んできたものと思われます。さらにジャンプ台を木造の足場のように仮設で組み立てたことが分かりますが、これも膨大な作業を要したことでしょう。

 しかしもっと驚くのは、このジャンプ大会を観戦するために後楽園球場を埋めるほどの多数の人びとが集まっていたことです。それが分かるのが下の写真ですが、二階席はおろか、多分グラウンド内と思われるところまでびっしりと人びとで埋まっていますね。よく見ると前のほうには軍人さんを含めて西洋人とおぼしき人たちが多く座っていることに気が付きました。ということは、この大会は実は進駐軍が企画したものだったのかも知れません。娯楽の少ない時代だったでしょうから、東京都心のど真ん中でスキーのジャンプ大会を開くとなったら、多くの人びとの興味や関心を引いたのかも。



 ということで現代のわたくしが見ても驚いたわけですが、当時、リアル・タイムで日本のここにいたジェラルド・ワーナーにとっても物珍しかったからこの様子を撮影してスライドに残したのだろうと思います。もうすぐ原爆の日や敗戦の日を迎えますが、そうした出来事とひと続きになっていたのが上記のひとコマだったのです。そう思うと感慨もひとしおというものでしょう。

北山担当の建築構造力学1については演習の添削は効果なし (2024年8月2日)

 八月に入りましたがお暑うございます、みなさん大丈夫ですか? 大学構内ではセミの抜け殻をたくさん見つけますが、早々にお役目を終えたセミたちの骸もあちこちで見かける時季になって参りました。早いところ平常の気候に戻って欲しいと願いますが、地球時間的な気候変動サイクルから見たらそれは無理なのでしょうか…。

 さて、このページで以前からつらつら感想を連ねてきた「建築構造力学1」(一年生対象)の授業ですが、先日、期末試験が終わって結果が出ました。三十年以上続けてきた演習の添削を今年はやめるという迂生にとっての大決断を下したわけですが、そのことが学生諸君の授業内容に対する理解にどのような影響を与えるのか、すごく気になっていました。

 今年度は土木の学生さんが(どういうわけか数名)受講したこともあって全部で57名が受講しましたが、期末試験の平均点は57点(100点満点)でした。この点数は演習添削を行なった昨年度よりも7点高いですし、過去19学年分の平均点である59点(ちなみに最高は71点、最低は49点)とほぼ同等でした。なお過去最高の平均点となったのは2020年度でして、この年はCOVID-19のパンデミックのせいでオンライン授業となった学年でした。期末試験だけは対面で実施しましたが、登校できないかたはオンライン試験とした年です。

 ということで、わたくしにとっては複雑な気分の結果となりました。まず平均点が平年並みであったことから、演習添削をしなくても学生諸君の理解度が特段に低下するようなことはなかったことになります。そのこと自体はホッと安堵の安心材料でして、来年度もこれを続けてよかろうと判断します。

 しかし逆に言えば、昨年までは半期のあいだに十回もの演習添削を行なっていたのですが、その効果は実は大したことはなかったということが数字として明示されたことになります。これはこれですごいショックなんですけど…。一人ひとりの答案をチェックしてコメントを附すという作業は結構な時間を要しますが、それに見合った教育効果があると信じていたので続けて来たわけです。でも、今回の結果だけから言えばそれはそのコストに見合う効果を有しない、という結論を残念ながら導きます。うーん、どうなんだろうか…。

 それからこの科目では期末試験だけでなく、今年初めて中間試験を導入しました。さらに授業への参加状況も加味して成績をつけることにしたのですが、そのおかげで受講者全員に単位を賦与できそうな状況になりました。これはよかったです。

 この授業を担当するのも残すところあと二年になりました。ことしは体調不良で一回休講にしたせいもあって、建築を語る回を割愛せざるを得ませんでした。皆さん建築学科に入学したのだから少しは実際の建築に触れさせてあげたいと思いますので、それはやっぱり残念に思いました。ですから来年度は、演習問題の添削はせず、中間試験もやめて授業回数に余裕をもつ、という方針でゆこうと思います。まあ、あれこれ試行錯誤をやってみるのが少し遅かった、ということかもしれませんね。

追記; ここに記したことはわたくしが担当する「建築構造力学1」に限定した内容です。誤解のないようにお願いします。このことを明瞭にするためにタイトルを修正しました。

重なって暑苦しい (2024年7月30日)

 とても暑いです。大学では消費電力量が契約上限をオーバーしたみたいで研究室の空調が効きません。個別エアコンの温度設定を25度にしても現在の室温は28度よりも下がらず、かなり暑苦しいです。隣人で建築環境・設備学の一ノ瀬准教授に「エアコンが効かないんだけど…」と言ってみたら、そんなもんですよ仕方ないでしょって言われました、あっさり。

 そんな暑さのなかで今日から大学院入試が始まりました。受験する皆さんも大変だなあと思います。でも毎年、入試の日程がコロコロと変わるのはどうかと思いますよ。周囲の競合校の様子を見ながら決めるのでしょうが(主体性なし!)、七月末の入試実施はやっぱり少し早いように思います。だって本学では現在、期末試験真っ盛りでして、迂生も昨日、建築構造力学1の試験を実施いたしました。その採点をしながらその合間に大学院入試の仕事もするわけですよ。いったい何だかなあ…って感じです。

 おまけにわが建築学科では三件の公募人事が進行中なのですが、そのための下準備やら協議やらもこの時期にセットされてかなりのハードワークになっています。そのため、いろいろな先生がたと相談したりネゴしたりと歩き回っております。学科の運営は自分たちの将来を規定するような最重要事項ですので精一杯やりたいとは思いますけどね…。

 明日は入試の面接試験があって、今週金曜日には今度は鉄筋コンクリート構造の期末試験と大学院科目のレポート提出があります。仕事がたくさんあっていいですねとお思いの向きも多いかも知れませんが、あいにくわたくしはそんなに仕事をしたくないんだよなあ、これが。なかなか状況が許してくれません、とほほ…。

パリのオリンピック (2024年7月28日/29日)

 このところ「危険な暑さ」が連続していて、とてもつらいですね。朝はなるべく早く登校するようにしていますが、それでも南大沢駅に着くと周りの空気はすでに熱波となっていて怖ろしいです。

 四年に一度のオリンピックがパリで始まりました。でも、頑張っている選手の皆さんには大変申し訳ないのですが、この時勢にスポーツ観戦を心から楽しめる、などという脳天気な人間はいるのでしょうか。世界を見ればあちこちで戦争や紛争が進行中で、この瞬間にも子供たちを含む罪なき人びとが過酷な運命に晒されているのです。こんな状況でどうして世界的なスポーツの祭典を歓迎するのか理解不能です。開会式のニュース映像をチラッと見ましたが、縁台みたいなところにマクロン大統領とバッハ会長とが並んで写っていました。またもやこの金の亡者のような会長が出てきおったか…って思いましたな。

 さらにいえば前回の東京五輪はパンデミックのせいで一年遅れの2021年に開催されたので、それから僅か三年ほどでオリンピックがやって来るっていうのもありがたみを感じさせません。東京では無観客での開催でしたが、自転車のロード・レースが多摩ニュータウン通りを駆け抜けるということで、沿道に出てみんなで応援しましょうっていう八王子市の横断幕が南大沢駅前にかかっていたことを思い出します(もちろん行きませんでしたが…)。

 懐かしいのでその頃に南大沢駅前から本学正門へと続くペデストリアン・デッキに施されたデコレーションの様子を載せておきましょう。2021年5月12日に撮影した写真です。いやあ、ホントに盛り上がらなかったな…。



猛暑にバーベキュー (2024年7月22日)

 予想とおりにものすごい暑さになった昨日、横浜の岸壁脇で東京近郊の鉄筋コンクリート構造研究室の合同バーベキュー大会が開かれました。昨年に続いてわが社も参加し、今回、芝浦工業大学岸田研究室および石川研究室、そして千葉大学中村研究室が新たに加わって、総勢八十人くらいになりました。

 もうそれだけですごい熱気なのですが、バーベキューなので炭火のコンロが各テーブルの脇に設置されて(そういう会なので当たり前だけど…)そこから熱風が押し寄せて参ります。簡易テントが張ってあり直射日光は遮ってくれますが、海っぺりだというのに海風が全然通らずにもういたたまれませんでした。会場の地面がコンクリートで舗装されていて、その照り返しも熱暑感をさらに増幅させたように思います。

 わが社からは若者二人(M1の原川さんと星川さん)が参加して、この暑さを物ともせずに顔色も変えずに黙々とお肉を焼いてくれます。君たち暑くないの?って聞くとさすがに「暑いです」とは答えましたが、随分と我慢強い人たちだなって思いました。

 でも老年の域に達した迂生にはもう耐えられなくなり、コンロから遠く離れた、木陰になっていて風のよく通るスポットを発見したので岸田さんと一緒に冷たい飲み物を飲みながらずっと涼んでいました。バーベキューといえばやっぱりビールのようなライトなアルコール飲料が好まれるのでしょうが残念ながら迂生は好みませんので、仕方ないのでジュースやお茶をガブガブと飲んでいました。

 多くの先生がたや各研究室の学生諸君とお話しするのは楽しかったのですが、とにかく暑くて三時間はかなりつらい時間でしたね。バーベキューは火の色を楽しめる季節にするのがやっぱりGoodだなあとしみじみ思いました。でも、これだけ大人数の懇親会を開いてくれた東大地震研究所・楠浩一研究室の皆さんにはとても感謝しております、どうもありがとう!

 東京都立大学からの参加者は昨年と較べて激減しましたが(壁谷澤寿一研究室から参加した学生さんは一名だけ)、寿一先生の号令一下、撮影した記念写真をしたに載せておきます。来年はもっといい季節にやりたいなあ…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:RC研究室BBQ大会20240721:IMG_3578.JPG

 ところで八王子は今日も猛暑でして、お昼に「消費電力が制限値を超えそうです」という館内放送が流れました。そして多分、その制限値を超えたのでしょう、ピークカットが発動されて研究室のエアコンの効きがだんだんと悪くなって参りました。あ・つ・い、です。

 あと一時間もすると授業なので教室に行きますが、最近は教室のエアコンはピークカットの対象外としたらしく、教室はとても涼しいのです。学生さんはお客さんなので当然と言えばそうなのですが、それでも個々の教員を大切にしないのもどうなんだろうか…って思います。

猛暑が戻ってくる (2024年7月19日)

 午後四時過ぎに授業が終わって教室を出るとものすごい熱気が体じゅうにまとわりついてきました、これはたまりませんなあ。アブラゼミだけでなくミンミンゼミもわんさか鳴動していて暑苦しさに輪をかけて来ます。梅雨明けとともに暑さが戻ってきて、またつらい毎日になりそうだな…。週末には横浜で東京近辺のRC研究室が集まって合同バーベキュー大会を開くことになっていますが、老年の身にはこんな暑い日中に体が保つかどうかとても心配しております、はい。

 三年生相手の「鉄筋コンクリート構造」の授業ですが、今日は鉄筋コンクリート部材のせん断終局強度を求めるための荒川式を説明しました。この経験式が荒川卓先生によって提案されたのは1970年ですから、今からもう半世紀も前になります。そんな昔に作られた経験式が今も耐震設計の現場では主要なツールとして用いられていることに、この説明を学生諸君にするたびに「こんなことでいいのだろうか」という思いが蘇ります。

 鉄筋コンクリート部材のせん断伝達機構やせん断終局強度については迂生が大学院生のころに精力的に研究され、市之瀬敏勝先生をはじめとする優秀な先輩がたが理論式を提案してきましたが、それらがメイン・ストリームとして設計で利用されることは今もありません。いちばんの問題は、ひび割れを生じたコンクリートの圧縮強度の低減を理論的に求めることが未だにできないことにあるとわたくしは考えますが、その問題を誰も研究しないのでどうしようもありません。そう言うわたくし自身、今さらそれを研究しようっていう気も起きないんですけどね…。

 今年の大学院授業の課題はこれまでよりも簡単にしたために採点が楽になって、全体の2/3の課題の採点が終わりました。残りは一課題ですが、この提出は八月初めに設定しましたのでそれを待つことになります。例年だと大学院入試が終わってお盆休みのころに必死になって採点していましたが、今年はどうやらそれは免れそうでちょっとばかり嬉しいです。

そろそろ梅雨あけ? (2024年7月17日)

 昨日は涼しくて助かりました。今朝がたまで雨が降っていましたが、登校する頃には少し陽がさすようになり、南大沢駅に着くと真夏のような太陽が照りつけていました。そろそろ梅雨明けでしょうか。

 さて研究室にある書類の山とか書籍とか、とにかく長年見ていなかった紙類は少しずつ廃棄しています。この前、小論文試験の問題を作成するためのネタになりそうと思ってストックしていた評論とかエッセイとか解説とかをごそっと捨てました。

 もう時効でしょうから書きますが、以前にはわが建築学科の入試では小論文試験を課していて、そのための出題はわたくしのような建築学科の教員が自前で作らないといけません。そこで予備校で作っている小論文対策本とか他大学の小論文試験の問題などを取り揃えて、ウンウンと唸った記憶があります。でもそれは遠い昔の思い出となって過ぎ、それらの資料も今となってはなんの価値もないので未練もなくサクサクと捨てられました、よかったあ〜。

 そういう整理をしていると本と本とのあいだに挟まっていたポケット写真帳などがひょっこり出てきたりもいたします。その一枚を以下に載せておきます。わたくしがまだ「若手」と呼ばれていたころ、コンクリートに携わる若者たちが21世紀に向けて協働して漕ぎ出そうという組織が日本コンクリート工学協会(JCI)の関東支部に作られて、「若手会21」が創設されました。これを考えたのは野口博先生(千葉大学、建築)、野村設郎先生(東京理科大学、建築)および國府勝郎先生(東京都立大学、土木)の重鎮たちでして、若手の中では年かさだったせいでしょうが迂生がその初代代表に指名されたのです。

 そこで「若手会21」の活動をあれこれと企画して実行しました。この写真は2000年11月17日に東京で開催した「本音トーク」という、今聞いたら青臭くて赤面しちゃうタイトルなんですけど、その当時は皆さんと真剣に議論して知恵を絞って実施した討論会でした。

 この写真の正面に四人座っていますが、左から(多分)伊藤央さん(久米設計)、わたくし(東京都立大学)、久田真さん(当時新潟大学、現・東北大学)、中村成春さん(当時宇都宮大学、現・大阪工業大学)の面々です。伊藤さんはわたくしの出身研究室の後輩ですし、中村さんはわたくしが赴任した宇都宮大学で最初に構造力学を教えた学生さんでした。久田さんは頭の回転が早い切れ者でしたから、こういうフリートークではその力を大いに発揮してくれて助けられたことをよく憶えています。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:JCI若手会21本音トーク20001117_01.jpg

 この「本音トーク」では「日本の未来とコンクリートの未来」と題して皆さんと討論したのですが、その報告はJCIの会誌に報告いたしました(こちら)。わが研究室からは二名の学生さん(森田さんと加藤弘行さん)が参加してくれたことをアルバムの写真から思い出しました。みんな今ではどうしているのかな…。

休日だけど授業 (2024年7月15日)

 今朝は梅雨らしく降ったりやんだりの曇天です。湿度は高くてモワッとしていますが、気温が比較的低いのでまあなんとかしのげてよかったです。

 きょうは「海の日」の祭日ですが、わが大学では授業日に指定されていて授業をやるので登校です。三連休といってもわが家では特段、何もないので構わないのですが、働き方改革とかの流れには逆行していますね。学生さん達だって多分、迷惑なんじゃないでしょうか…。

 休日に出勤すると休日を別の日に振り替える手続きが必要で、そのために事務室で書類を書いたりする必要があるので面倒です。一年も前にこの学年暦を自分たちで決めているわけですから、それくらい柔軟に対応してくれるとありがたいのですが…、やっぱりお役所体質が抜けないのでしょうか。そうしないと休日出勤手当を出さないといけないのかも知れません(そんなお金は本学にはないでしょうな)。

 こんな無粋な大学はうちだけかと思ったら、愚息の通うマンモス私立大学もきょうは授業日だそうで登校すると言っています。文科省が半期15回の授業は死守すべしみたいな掟を作ったのでどこの大学でも苦労しているのかも知れません。お上はやっぱり強いな、一体いつの時代かって思いますけど。大学認証評価の弊害であると迂生は思っています。そんなにガチガチに縛らなくてもいいんじゃないですか〜。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMUキャンパス夕景20240329:IMG_2983.JPG
わたくしの大学(2024年3月末撮影/図書館は高橋てい一氏の設計)

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:早稲田大学入学式20240401早稲田キャンパス_大隈庭園_戸山キャンパス:IMG_3011.JPG
愚息の大学(2024年4月撮影)/この校舎はなんと村野藤吾の設計!)


若者が授業中に何も言わない理由は…
(2024年7月10日)

 ものすごい暑さが続いています。朝、登校するときですら既にしんどいほどの暑さになっていて、これじゃ大学に行くのも命がけっていう状況です。朝5時くらいに早起きして登校すればまだマシなんでしょうが、そこまでするガッツは残念ながら今のわたくしにはございません。

 さて、一年生相手の授業で学生諸君になにを聞いても返事がないことを何度か書いてきました。そういう状況であればオンライン授業でも特段の問題はないと思えましたので、今後はオンライン授業にしてもいいですかって彼女/彼らに尋ねてみました。そうしたら…、この問いに対してさえ誰からも返答がなかったんですよ、もうギャグの世界だな…。一体、どうすりゃいいんでしょうか。

 老年期に入って好々爺然としていたもののこれにはさすがに頭に来て「君たち、一体どっちなんですか!じゃあ、これから出席を取りがてら、一人ずつどちらにしたいか意見を表明してください」ということにしました。それですら、なかなか意見を言わないひとがいて相当に時間を費やしましたが…。その結果、オンライン19名、対面35名になったんですね。ありゃ、こりゃまた結構微妙な比率になったなと正直なところ思いました。わたくしの予想では新型コロナウィルス蔓延期の逼塞生活を経験しているのだから対面授業を希望するひとが圧倒的に多いはずと思い込んでいたのです。

 でも現実は違ったわけです。クラスの三分の一はオンライン授業がよいと考えていることにかなりの衝撃を受けました。じゃあ、三回に一回はオンライン授業にするかって一瞬思いましたが、そんな面倒なことはしたくなかったので、結局、多数決の原則に従い対面授業を継続することにして現在に至ります。

 そんなことがあってから、先日、今期初めてオフィス・アワーにやってきた学生さんがいて、そのひとからいろいろと興味深い話しを聞くことができたのです。それによると、他の授業でも先生が問いかけても教室内に沈黙が広がって誰もなにも答えないのだとか。そしてその理由はコロナ禍の高校授業はオンラインが多くて、そもそも教師からの問いかけ自体が全くなかったので、先生の問いかけに答えるという習慣そのものが育まれていない、というのです。

 う〜ん、それが本当だとすると教育の怖ろしさをまざまざと感じますなあ。もちろん理由はこれだけではなくて、授業中に発言することでクラスのなかで目立って浮き上がることを極度に恐れる習性とか、授業に参加するという意識が希薄でお客様感覚でそこにいることとか、授業の内容そのものに興味が持てないとか、複合的な事由の結果としてこういう事態が生じているのだろうと推察しています。

 いつも書いているようにわたくしはパワーポイントで授業をしているのですが、その資料を全て配布しているので学生諸君は必死にノートを取る必要がない、という授業形態が良くないのかも…って思い始めています。一枚一枚のスライドは丁寧に作り込んでいるつもりですが、そんなことは彼女/彼らの知ったことではなく、スラスラと進んでゆく授業に実はついていけてないのかも知れません。実際、授業中の様子を見ていると皆さん眠そうですし、寝ているひともたくさんいます。

 ということで、先日、久しぶりに30分ほど板書で授業をやってみました。その内容はデジタル資料としては配布しませんでした。そうすると寝ていたひとも教室の様子がそれまでと違うことに気がついたのか(どうかは分かりませんけど)、それなりに一所懸命に聞いてくれたようで、迂生の間違いを指摘してくれた学生さんもいました。なるほど…、全部を板書にすると学生諸君の負担が大変になりますが、部分的に板書を取り入れるのはありかも知れません。デジタル時代になって板書はもう不要かと思いましたが、必ずしもそうでもなさそうです。数年すればもう授業をしたくてもできなくなりますが、まだまだ授業手法の模索は続く、ということでしょうか。まあ、楽しみながらやってゆきますわ。

七夕に選挙 〜東京都知事選挙始末 (2024年7月7日/8日)

 梅雨の中休みでしょうか、40度近い気温で、外出するのに身の危険を感じます。今日は東京都知事選挙の投票日なのですが、暑くてとてもじゃありませんが外出できません。わが家では選挙権を得た愚息が暑い日盛りのなか、初めての投票に行って来ました。殺人的な陽射しの中を行くのはよせと行ったのですが、若者はそんなことはモノともせず自転車であっという間に投票して帰ってきました。すごいぞ、若者!

 わたくしたち老夫婦は夜になって少し気温が下がってから投票に行きました(それでもねっとりとした暑さは変わりませんでしたが)。迂生は午後7時40分くらいに投票所に行ったのですが、皆さん考えることは同じらしくて、投票所には次々と人々が訪れて賑わっていました。ということで、AIゆりこサマに対抗できそうな方に投票して来ました。

 そうして帰宅するともう、すぐに午後八時になりました。テレビをつけると出口調査の結果に基づいてすでに当確が出ています。あ〜あ、まあ予想はしていましたがやっぱり現職は強いみたいで、わたくしが投票した方はあえなく落選したようでした。

 それが東京都民の民意ですから選挙の結果は重く受け止めないといけないのでしょうね、やっぱり…。でも、「七つのゼロ」とか言う当初の公約のなかで実際に実行できたものはほとんどなかったわけですし、百年前に国民の醵金によって造られた神宮外苑を一企業が再開発するのはどうみてもおかしいですし、公人のくせして学歴を詐称しているらしいし、どうしてそのような方が都民の信任を得られるのか不思議でなりません。

 まあ世の中、不思議で分からないことは多々ありますから、そんなことを一々取り上げて云々するなっていうことかも知れませんね。でも、そうやって日本という国はどんどんと劣化して悪くなっているような気がして、そのことが気がかりです。

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 開票が終了してまたまた驚きました。東京ではこれまで絶大な人気を誇ってきたレンホーさまがなんと三位だったのです。約128万票でした。かつて民主党政権時代の事業仕分けで彼女が「二番じゃダメなんですか〜」とおっしゃったことはよく憶えています。うんうん、二番でもいいよって思いますが、今回の場合には三位はやっぱりまずいと思いますけど、どうでしょうか。

 では誰が二位だったかというとそれは約166万票を獲得した石丸という方でした。Who is 石丸?っていう感じですが、報道によると既存の政党とはいっさいかかわりなく独自の選挙運動を行ったということでした。それはそれで結構なことかと思いますが、それにしても立憲民主党や共産党にとっては立つ瀬がない事態になりましたな。野党第一党への支持がこの程度だとすると、政権交代はまだまだ遠いと言わざるを得ないでしょう。

 ちなみにAIゆりこサマは前回よりも約74万票も減ったとはいえ約292万票を獲得しましたから、大勝と言ってよいでしょう。女性の支持が厚かったということです。ご同慶の至りですが、三期めは東京のひとり勝ちを進めるのではなく、日本全体のことも考えて政策を立案・実行してほしいと願います。

 なお東京都民の投票率は60.6%でした。四年前は55.0%でしたので、今回はそれなりに都民の皆さんの関心を引いたということができるでしょう。投票率が増えるということは無党派層の投票が増えて自民党には不利になるということですから、そういう状況でも(隠れ自民党の)AIゆりこサマが楽勝したというのはちょっとすごいことかも知れません。

耳ネタ2024 July (2024年7月6日)

 明日は東京都知事選挙です。緑のタヌキ(AIゆりこサマ)と白いキツネ(レンホーさま)との争点のボヤけた化かし合いという様相ですが、どうなるのでしょうか…。これだけ自民党への逆風が吹いているなか、また、ゆりこサマの学歴詐称問題の再燃や神宮外苑再開発の進め方への疑念などいろいろと取り沙汰されていますが、そういった問題がどのくらい有権者に認識されるかどうかにかかっているように思います。

 さて七月になって村松邦男の『ROMAN』というアルバムをゲットしました。もともとは1985年の発売ですが、ここのところのシティポップ・ブームに乗って再発売されました。村松邦男のソロ・アルバムでは1983年の『GREEN WATER』と1985年の『ANIMALS』は発売当初(当時はLPレコードだけです)に貸レコード屋で借りてカセット・テープに録音して聞いていましたが、この『ROMAN』だけはどういうわけか聴いたことがありませんでした。

 ちなみに『GREEN WATER』については2012年1月のこのページでちょこっと紹介しました。わたくしのお気に入りの曲は「ジェラシー」です。このアルバムはその後にCDが発売されたときにそれを買ったのでいつでも聞けます。ただ『ANIMALS』のほうはカセットだけですので、もう三十年以上聴いていません(再発売されたCDを買おうっと)。

 話しをもとに戻して、発表から約四十年も経っているというのにアルバム『ROMAN』は迂生にとってはお初の曲たちということになります。村松邦男の歌は上手いんだか下手なんだかよく分からないのですが、その曲たちには彼独特のテイストがあって、それがわたくしにとっては心地よかったりするんですねえ。ですからこの『ROMAN』も期待を込めて聴いたわけです。



 そしてその期待に違わず、わたくしの感性にビビッと来る曲に出会うことができました。とても嬉しいです。それは五曲め(LPレコードで言えばA面のラスト)の「雨糸(あまいと)」という曲でして、作曲は村松邦男、作詞は吉田美奈子です。ストリングスの後ろにわずかにブラスが聞き取れるイントロで始まりますが、これを聴いた瞬間にこれはいいぞ!って思いましたね。二番では途中で女性のボーカルが挟まりますが、これがいいアクセントになっています。ちなみにこの構成は大滝詠一の『A LONG VACATION』の二曲めにある「Velvet Motel」とおんなじです。

 そしてアレンジが秀逸なこともありますが、なんと言っても詩がいいんですね。物語性があるのですが、聴き手の想像力をかき立てるというか、勝手に映像が思い浮かんでくるというか、とにかくジーンと来る歌詞が素敵です。梅雨の時期に雨の唄に出会えてGoodです。YouTube上にアップされていますので、興味がある方はぜひお聴き下さい。

  誰ももういない部屋からは 今
 電話のベルが聞こえた気がして
 雨糸を肩に結んだ 僕
 振り向きもせず歩き出した時
 愛が途切れる 
(村松邦男「雨糸」より/吉田美奈子作詞)


時と建築 〜槇文彦先生語録(2024年6月28日/7月1日)

 時と建築
  1. 時とは 記憶と経験の宝庫である
  2. 時は  都市と建築の調停者である
  3. 時が  建築の最終審判者である

 これはちょうど十年前に東大建築学科の卒業三十周年記念クラス会を開いたとき、ゲストとしておいでいただいた槇文彦先生のショート・レクチュアのスライドにあった文言です。槇先生がそのときおっしゃった詳細はもう忘れました。時間とは人間にとってしか意味のないものですが、人間は時にくるまれ、時が都市と建築とを互いに馴染ませて癒し、そして時が建築の良し悪しを決める、ということだろうと迂生は勝手に解釈しています。

 このお話しをされているとき、槇先生は確か表参道のスパイラル(1985年竣工)の内観写真を映していたと記憶します。国道246号線(青山通り)に面してガラス張りのエスプラナードという通過動線を兼ねたちょっとした溜まりの空間があるのですが(下の写真1)、槇先生がそこを訪れると決まって同じ椅子に座って時を過ごしているご老人がいた、というような内容でした。ああ、このご老人こそは「時」の象徴であり、その「時」によってスパライルは建築として評価されたのだ、というふうに感じたことをよく憶えています。


写真1 スパイラル エスプラナード(槇文彦設計、2019年12月 北山和宏撮影)

 今思えばこのとき、槇先生はすでに85歳くらいだったわけですが、それを全く感じさせないくらいにシャキッとしてお元気そうに見えました(したの写真5をご覧ください)。それから十年が過ぎ、われわれの四十年会をこの秋に開催することになりました。槇先生は多分また来てくださるだろうなと漠然と思っていました。以前にわたくしの父が同様の会に参加したとき、すでに百歳近かった藤島亥治郎先生(日本建築史)が恩師としてお出でになったということを聞いていましたので、槇先生もそんな感じかなと…。

 しかし残念ながらそれは叶わないことになりました。槇先生がこの六月に逝去されたからです。皆さんご存知のようにわたくしは建築家ではなく耐震構造研究者ですから先生とはなんの接点もありません。学生の頃、課題の講評会でお見受けするくらいでしたし、そこで批評してもらえるのは一部の設計のうまい学生たちだけでしたから、その点でも迂生にとっては無縁の先生でした。

 わたくしが強烈に憶えているのは、三年生になって最初の課題が「三四郎池のほとりに建つ美術館」だったのですが、その講評会で同級生の日色真帆くん(現在は建築家で東洋大学教授)の「道行き」(だったかな)というタイトルの作品が先生がたの絶賛を浴びたことです。コンセプトだけでなく図面表現も素晴らしくて、こんなひとが建築家になるんだなあ、わたくしには無理だなと敢然と悟ったわけです。

 誤解を防ぐために愚言を重ねると、建築学科に進学したときから建築家になりたいと思ったことはありませんでした。なんと言ってもわが父は現場監督風情でしたし、父の同級生で建築家になったのは磯崎新氏や武藤章先生など数人に過ぎませんでしたから、建築家ってそうそう成れるものではないということは知っていました。建築学科に行ったら設計デザインの勉強をするのは当たり前、くらいに(なんの定見もなくただ単に)思っていただけです。

 ということでその後も製図室に入り浸って建築設計の課題は一所懸命に取り組みましたが、設計デザインを生業にしようとは考えなったと思います。じゃあなにをするかですが、その当時は建築の歴史とか評論とかをやりたいと漠然と考えていたことは何度か書きました。少なくとも構造設計とか鉄筋コンクリート構造には興味がなかったことは確かです(って、自慢してどうする…)から、いま思うと何を考えていたのでしょうかね。

 そんなふうでしたから、同級生たちと各地の建築を見て巡りました。まあ物見遊山気分が半分以上ですから、それはそれで楽しかったです。そんななかに槇文彦先生の立正大学熊谷キャンパスもありました(写真2〜4、古い紙焼き写真なのでセピアに色付いています)。建築学科の四年生に進学して、そろそろ卒論の研究室配属を決めるという頃だったと思いますが、総勢十数名で出かけました。今から四十年以上前のことです。それが下の写真です。基本はコンクリート打ち放しのようです。1階の階高が高くて横長のプロポーションが特徴ですが、槇先生のデビュー作の名古屋大学・豊田記念講堂になんとなく似ています。


 写真2 立正大学熊谷キャンパス(槇文彦設計、1983年4月撮影)


写真3 立正大学校舎 内観(槇文彦設計、1983年4月撮影)


 写真4 立正大学熊谷キャンパス(槇文彦設計、1983年4月撮影)

 このときに一緒に行った仲間がうえの写真4です。左から野口貴文、長谷部完司、野嶋慎二、日色真帆、高橋秀通、福濱嘉宏、橋本律雄、黒野弘靖、後藤 治、北山和宏、および中埜良昭です。もうひとり、柴原利紀もいたのですがこの写真にはなぜか写っていません。ちなみにわたくしが着ている白いトレーナーは多分、三年生のときに工学部五月祭実行委員会で作った揃いのトレーナーだろうと思います、これもとてつもなく懐かしいな…。

 それから四十余年の歳月が過ぎ、この十二人のなかでは迂生を含めて八名が大学教授になりましたので、今更のように驚きます。それだけ時が経てば、恩師の先生がたが冥界に旅立たれるのも世の理でしょうから、槇文彦先生の訃報に接したのも仕方のないことなのでしょう。槇先生が取り持ってくださったご縁に感謝しつつ、ご冥福をお祈りします。


写真5 在りし日の槇文彦先生(2014年11月、本郷のモンテ・ヴェルデにて 北山和宏撮影)

夏至のころ (2024年6月26日)

 六月中旬に病いを得て一週間ほど学校を休みました。授業は全て休講にしましたが、そんなことってかなり久しぶりだったような気がします。半期分の授業日程はカッチリと組んでありますので、休講してもそれを挽回することはほぼできません。教える予定だった項目のいくつかはカットせざるを得ず、今後の授業の進め方を再考しないといけないので、本当は休みたくなかったのですが、病気であればいた仕方ないですなあ…。いくつかあった会議は幸いオンラインでの参加が許されましたので、それでしのぐことができました。

 そうやって寝込んでいるあいだに、知らないうちに梅雨入りして(今年は遅いな…)、気づかないうちに夏至が過ぎていました。でも休講の案内をクラウド経由でメール連絡してしまえば、あとはもういいかっていう感じで、苦もなく過ぎて行くのがちょっとばかり新鮮でした、なんでだろう。自身で作ったカリキュラム通りにガッツリ授業をしたって学生諸君が喜ぶわけじゃなし、たまには休講にするくらいがちょうどいいのかも知れませんね、あははっ。

 ここ数年、学生諸君の就活が早まっているせいでしょうか、ここのところわが社OBの先輩たちが各社のリクルータとして陸続としてやって来ます。でも休んでいたあいだはそういう方に会うことができずに残念でした。また三十年以上音信のなかった方から突然に問い合わせのメールが来て、すごく懐かしい気分に浸ったのですが、なんせこちらは病身ですからすぐに対応することもままならず…、ってまあいずれも仕方のないことなのでご容赦いただければと思います。

帝国ホテルとアーニー・パイル劇場 〜「スライドの時代」から (2024年6月9日/24日)

 1945年夏の敗戦以降の日本占領期に来日した米国人が撮影したカラースライドを昨年、「スライドの時代」というタイトルで何度か紹介しました。そこに写っているのは復興に向けて日々を過ごす市井の人びとのちょっとした日常だったり、敗戦から立ち直ろうとする日本国のひとコマだったり、空襲で破壊されたまま放置された街なみだったりします。そういった様子が色鮮やかなカラー写真として提示されていて、どれもとても興味深いものばかりです。

 わたくしは職業柄やっぱり当時の建築や街なみに目がゆきます。アントニン・レーモンドが設計したペリー・アパートメントの謎解きについてすでに書きました。その後、大学図書館で『レーモンドの失われた建築』(三沢浩著、王国社、2010年10月)という本を偶然見つけて読んだところ、そこにこのペリー・アパートおよびハリス・アパートが1980年代初めまでは建っていたことを知りました。

 その頃、迂生は建築学科の学生だったと思いますが、日本の近代建築や鉄筋コンクリート構造にたいした興味はなく、今思えばとても残念なのですが、それはあくまでも現在の視点です。当時はまだまだ発展途上という感が日本にはあって、古いものは壊して新しい建物を建てるというスクラップ&ビルドが当たり前の思考でした。だから、まあ仕方なかったのだろうなという感想です。

 同書には、ペリー・アパートがメゾネット形式にもかかわらず各階に外廊下が付いている理由についても記述がありました。外廊下は一階おきに居住者が使い、もうひとつは使用人専用のサービス通路でそれが一つおきに厨房のある階を縫っていた、とのことでした。裕福なアメリカ人の当時の生活様式が分かって面白いですね。これが米国であれば使用人とはアフリカ系の人々のことだったのでしょうが、ここは占領下の日本ですから使用人はやっぱり日本人だったのでしょう、ちょっと複雑な気分だな。でも日本は負けたのだから仕方ないですよね…。そういえば同じことを、ちょうど今、占領期に舞台が移ったNHKの朝ドラ『虎に翼』(伊藤沙莉主演)でも言っていました。

 さて本題です。ジェラルド・ワーナー(GHQ外交局の幹部)が1950年に撮影した帝国ホテルの写真がありました。現在、有楽町に建っている帝国ホテルの前身の建物で、言わずと知れたフランク・ロイド・ライトの設計です。1923年9月1日の開業当日に関東大地震が発生しましたが、大きな被害もなくそのまま使えたそうです。ちなみにフランク・ロイド・ライトの設計助手を務めたのが1919年に来日したアントニン・レーモンドであり、遠藤 新(その後に自由学園明日館を設計した建築家)でした。写真に写っている玄関周辺だけが現在は明治村に移築されて保存されています。



 ところでこの写真をよく見てください。煉瓦調の帝国ホテルの真後ろに灰色のマッシブな建物が存分にその存在を主張しています。わたくしはご承知のように鉄筋コンクリート(RC)構造を研究対象としていますので、灰色の色合いからRCのように見えるこの建物に大いなる興味を抱きました。この建物はなんだろうか…。

 手がかりは縦長の煙突のようなところに表示された英文字「ERNIE PY…」です。でも戦後世代のわたくしには残念ながらこれだけでは分かりませんでした(今思えば、戦前生まれのご老人だったら分かったかも)。ところが、米国のユタ大学にある「Lennox and Catherine Tierney Photograph Collection」のデジタル・ライブラリーを見ていたところ、偶然、下の写真を見つけました。これは1961年の撮影で「Imperial Hotel Tokyo」というコメントがありました。画面下側にある寄棟屋根の低層建物が帝国ホテル(の一部)です。でも画面の大部分を占めているのは、灰色がかってコーナーの曲面に「東京…」とある建物です。この建物の左脇には細長い煙突状のものが立っていますね。どうやらワーナーが撮影した上の写真に写っていたのと同じ建物のようです。



 この写真の右側にある細めの道路の突き当たりにうす茶色の中層建物が建っていますが(画面の右はじ奥)、拡大してよく観察したところこれは三信ビルであることにも気がつきました。三信ビルは1929年竣工で設計は横河工務所(横河民輔が設立した会社で横河グループの本山)の松井貴太郎です。近代遺産に挙げられましたが、残念ながら21世紀になってから取り壊されました。わたくしが2006年に撮影した三信ビルを下に載せておきます。上の写真に写っているのとちょうど同じ面です。


写真 在りし日の三信ビル(2006年、北山和宏 撮影)

 ここまでで件の「ERNIE PY…」ビルと帝国ホテル、そして三信ビルの位置関係がほぼ分かりましたので、Googleマップで調べてみました。するとそこには…、東京宝塚劇場があったのです。なるほど、そうなのね。ここからは芋づる式に解明が進みました。

 「ERNIE PY…」ビルは東京宝塚劇場として1933年12月末に竣工しました。1945年12月にGHQによって接収されて米国第8軍専用となります。日本人の出入りは禁止されました。このとき名前もアーニー・パイル(Ernie Pyle)劇場と命名されました。Wikipediaによるとアーニー・パイルは米国の従軍記者でしたが、1945年4月に従軍先の沖縄県伊江島で戦死したそうです。

 国立国会図書館のモージャー氏(Robert V. Mosier)撮影写真資料というアーカイブに以下の写真がありました。この写真は1946年4月から翌年1月までに撮影されたそうですが、件の建物に「ERNIE PYLE」とはっきり書かれています。



 アーニー・パイル劇場は1955年1月末にGHQによる接収が解除されて返還されました。その後は宝塚劇場として再び使われましたが1997年12月末に閉館して改築され、2001年1月に再オープンして現在に至ります。

 ちなみに1933年竣工の東京宝塚劇場は竹中工務店の設計・施工で、設計は同社設計部の石川純一郎さん、構造設計は青柳貞世さんによることが竹中工務店のサイトに記されていました(こちら)。石川氏は1922年に東京帝国大学建築学科を卒業していますので、わたくしたちのはるかな先輩に当たります。木葉会の名簿を見ると石川氏の同級には土浦亀城や岸田日出刀といった建築家がいました。また青柳氏は1924年に早稲田大学建築学科の内藤多仲研究室を卒業しました。ここにも内藤多仲先生が出てきましたね、内藤多仲おそるべし…。

 なお竹中工務店のサイトには東京宝塚劇場について「青柳が設計した鉄骨造の構造」という記述があります。でも最初の写真の煙突あたりの構造はどうみても鉄筋コンクリート造のように見えます。劇場の大ホールは当然鉄骨で架設したと思いますが、それ以外はRCだったのではないかと推察しています。

フックの肖像 (2024年6月9日/12日)

 わたくしのように古典力学を道具として使っている者にとって、フックの法則は馴染み深いものです。弾性体の力学を説明する際には必ず登場しますね。これを発見したロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)はアイザック・ニュートンとほぼ同時期にイギリスの王立協会で活躍した科学者です。フックはすごく多才な博物学者で科学全般に渡ってさまざまな貢献をなしました。建築の仕事にもついていたことがあるそうです。

 いま、シッダールタ・ムカジーの『細胞』(田中 文 訳、早川書房、2024年)という本を読んでいるのですが、フックが顕微鏡によって細胞を観察して、その記録を精細なスケッチ画とともに『ミクログラフィア』として1665年に出版したことが書かれています。「細胞(Cell)」という用語はフックが作ったと言われます(もちろんそれ以前に「細胞」を観察したひとは別にいて、それはレーウェンフックというひとでした)。

 一年生最初の「建築構造力学1」の授業ではその一回めの講義で必ずロバート・フックを紹介します。その際にせっかくだからフックの肖像を見せようとしたのですが、ワールド・ワイド・ウェブ上を探しても彼の肖像画は見当たりません。同時代人のニュートンの肖像画は皆さんよくご覧になると思いますが、同じように活躍したフックのそれは現在に伝わらなかったのはなぜでしょうか…。

 ムカジーの『細胞』にはそのあたりの推論も書かれています。アイザック・ニュートンは1687年に『プリンキピア』を出版します。万有引力の法則の発見ですね。ところがフックは重力の法則を先に導き出したのは自分であり、ニュートンはそれを盗んだと主張したそうです。さすがにこれには無理があって誰もがおかしいと考えます。英国王立協会でのニュートンの名声に嫉妬したとしか思えませんが、彼がそのソサエティで正当に評価されないという不満を抱えていたのだろうと気の毒にも思います。

 フックの死から七年が経った1710年、王立協会の移転をニュートンが監督した際、そこにあったフックの唯一の肖像画が紛失した、という「伝説」があります。こうしてフックの肖像画は今に伝わることはありませんでした。事の真偽は定かではないらしいのですが、フックを忌々しく思っていたニュートンならそれくらいするだろう、ということでしょう。

 ただムカジーの同書の巻末にある注記には、フックの肖像画と思われる絵のことが載っていました。テキサスA&M大学・生物学部教授のラリー・グリフィング氏は、メアリー・ビールというひとが1680年頃に描いたある数学者の絵がフックの肖像画であると言っています(こちら)。この肖像が本当にフックなのかどうかは今も定かではないそうですが、せっかくなので以下に載せておきます。ロバート・フックは果たしてどんな姿形をしていたのでしょうか、今後の謎解きに期待します。



水戸へゆく(承前) ―水戸芸術館― (2024年6月1日/10日)

 五月下旬に水戸訪問記を載せましたが、その続きとして水戸芸術館のことを書こうと思います。水戸芸術館の竣工は1990年1月で設計は磯崎新さんです。日本経済の絶頂だったバブル期の所産ですから、とにかくリッチに贅沢にできています。今となってはそれがよいとか悪いとかではなくて、とにかく日本にそんな時期があった(お金に糸目を付けずに公共建築を建設できた)ということにただ驚くだけです。

 この芸術館でひときわ目を引くのが正三角形のチタンパネル57枚を組み合わせて立ち上げた塔ですが、そもそも芸術を謳う施設にこんな塔が必要なのかどうか…。いちおうはシンボル・タワーという位置づけみたいです。この塔は鉄骨構造で高さはちょうど100メートルです。あんまり高いので塔のてっぺんまで写真に納めるのには結構苦労しました。


写真1 水戸芸術館(水戸市民会館の屋上から俯瞰)

 塔の86.4メートルのところに展望室があってエレベータで昇れます。お代は200円でした、お安いですね。エレベータは旧式なものらしくてスピードが遅く、展望室まで一分半ほどかかります。エレベータ自体も狭いので閉所恐怖症のひとにとってはかなりツライ時間かも。また塔の外観から容易に想像できますが、展望室はとても狭くて十人もいたら身動きできない感じでした。鉄骨の鋼管やH形鋼が溶接されたりボルト締めされてゴツゴツしているのがよく分かります。見てのとおりのねじれた構造ですから、構造設計も建設工事そのものも大変だったことだろうと推察します。

追記; 水戸芸術館のHPを見たら展望室の定員は19名、エレベータの定員は10名、とありました。そんなに乗れるかなあ…。


写真2 塔の展望室内部

 いきなり塔の話しから入ってしまいました。ここで水戸芸術館の全容を説明しましょう。配置図をご覧ください(左斜め下が北で、右側は水戸市民会館)。敷地の中央に正方形の広場が広がり、芝生がグリッド状に植えられてスッキリして気持ちがいいです。その周りに塔、現代美術ギャラリー、コンサートホール、劇場および会議場が配置されています。


図1 水戸芸術館の配置図(構内にあった看板を撮影)


写真3 グリッド状の芝生と塔の足もと 塔の基壇が右下がりに傾いている

 水戸芸術館はとにかく磯崎新による遊び心が随所に現れていて、例えば写真3のように塔の基壇部が傾いていることに気がつきます。ピサの斜塔でも想像したのでしょうか。視覚的な効果以外にはこの効能はありませんので、純粋にデザイン的な処理ということでしょう。

 劇場(写真4の左側)の主要なボリュームは円筒なのですが、そこに三角形状の屋根形を取り付けています。これは古代ローマ建築のペディメントをデフォルメしたもののように見えます。実際、ローマ時代のパンテオンでは円筒にペディメントが取り付きますし、ルネサンス期にパラーディオが設計したヴィラ・ロトンダも同形です。磯崎新はそういう過去の建築言語を本歌取りしてこの劇場に採用したのだと思います。いかにもポスト・モダニズムの建築っぽいですな。


写真4 劇場(左)および会議場(右)とそのあいだにある円弧状の階段


写真5 水盤に立ち上がるRC壁と宙に浮く石造オブジェ

 水戸芸術館の北奥にはアイ・ストップのお役目を兼ねてピラミッド状の屋根が置かれ、その手前にはカスケードと名付けられた構築物?があります(写真5)。これは多分、芸術作品という位置付けなのでしょうが、水盤に化粧された鉄筋コンクリート造の壁が平行に建っていて、そこにピンで支持された六本のワイアが中央の石製のオブジェを吊っているという代物です。

 皆さん、これ、どう思いますか。これのどこが美しいのか、素晴らしいのか、残念ながら迂生には理解できませんでした(芸術を理解しない奴めって言わないでね)。まず宙に浮くオブジェ自体が何なのか、色は冴えないし、形も気色悪いしなあ。その宙空のオブジェを維持するためにワイアに張力を導入して、一種のバランス構造になっているのですが、その調整は多分、面倒な作業だっただろうと思います。そこまでして、これを作る必要があったのか…。

 コンサートホールや劇場のなかをのぞくことはできませんでしたが、コンサートホールと劇場との間にある直方体のエントランス・ホールには幸いに入れました(写真6)。正面上部にパイプオルガンが設置されています。入り口からの通過導線とはいえ、かなり広いスペースになっていて、ここで演奏会などの催し物ができるように計画されたのでしょう。この内部は鉄筋コンクリートの打ち放し仕上げになっているので空間自体はカチッとして硬質ですが、左右に取り付けられた間接照明がほんわかとした光で表面を照らすので暖かみを感じます。ここはなかなかよい空間だと思いました。この日は当館のオーケストラの指揮者だった小澤征爾さんを偲ぶパネル写真が展示されていました。

 写真4の左側の垂れ幕にあるように、ピアニストのマルタ・アルゲリッチのポートレイトが貼ってありましたが、それはその週末に開かれた小澤征爾さんの追悼式典への出席に併せて水戸室内管弦楽団とのコンサートを企画した、ということみたいでした。


写真6 エントランスホールの内観 正面上にパイプオルガンがある


写真7 会議場正面(西面) 中心に塔が見える

 こんな感じで広い敷地にゆったりと建物や芸術品?が配置されていることをお伝えしました。なお、会議場は微妙な角度で振って置かれています(配置図を参照)。その理由は会議場の西面に行ってその正面を見たら分かりました。それが写真7ですが、ご覧のように会議場の中心と塔のそれとがぴったり一致していたのです。配置図をよく見ると確かにそうなっていますね。磯崎新はここに一本の軸線(ヴィスタ)を設定したわけですが、これが都市的な視点を意味しているのかどうかは分かりません。グーグル・マップで見るとこの軸線はちょうど東西方向に一致していたので、都市としての意味はないのかも…。

 ちょっと残念だったのは、中央の広場の周囲に二階レベルで巡っている外部通路(したの二階平面図で格子状のハッチングがされた部分)が一部で通行止めになっていて、例の宙空の石造オブジェのすぐ上には行けなくなっていたことです(写真8の中央奥に赤色の三角コーンが見える)。安全面の配慮から必要だったのかも知れませんが、この通路はぐるっと回れることに意義があるのでしょうから、そのような運用にしてほしいと思います。


図2 二階平面図(日建連のページからコピー)


写真8 中央広場の周りを2階レベルで巡っている外部通路


図3 磯崎アトリエによるシルク・スクリーン(の絵葉書)

 ミュージアム・ショップで売っていた絵葉書(50円でした)を図3に示して終わりにします。これは磯崎アトリエが作成したシルク・スクリーンのコピーです。磯崎新は自作の建物をこうしたシルク・スクリーンによってその特徴をあぶり出しましたが、この水戸芸術館のものも特徴をよく捉えていてとても分かりやすいですね。

大学のあんず (2024年6月5日)

 そろそろ梅雨入りでしょうか。さて、わが大学の牧野標本館別館わきに立っている二本のあんずの木ですが、ことしのあんず(の実)はどうやら豊作のようです。世間では今年の梅は不作ということらしいですが、こちらではそれとは逆になりました。

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 牧野標本館別館わきのあんずの花 2024年3月21日撮影

 そのあんずの木に五月中旬くらいに青い実がたくさんなっているのに気がつきました。例年は木の高いほうを見上げないと果実が見えなかったのですが、今年は手が届くところに鈴なりになっていたりして、よしよし、黄色く熟したらもぎとってやろうと楽しみにしていたんですよ。

 ところが今週はじめに登校して件の木を見るとなんと目をつけていた実がすっかりなくなっているじゃないですか! 地面にも一個も落ちていませんので、これはどう考えても誰かが自身の手で“収穫した”ということでしょう。迂生以外にもあんずの実に気がついていたひとがいたことに少なからず驚きました、そんなヒマ人がいたのかって、あははっ。

 しかたないので手でもぎ取ることは諦めました。で、今日は朝一番にオンライン会議(建築学会の原子力建築関連です)があるので早朝に登校すると綺麗な果実が四個落ちていました。それらを拾ってきたのがしたの写真です。大きさは例年並みのようですが、大きいものもありました。これから食べようってわけでもないのですが、しばらくは研究室に置いて楽しもうと思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:TMUあんず20240605:IMG_3566.JPG

空うららかに 桜咲くとき (2024年6月2日/3日)

 季節はずれのタイトルですけど、これは迂生の出身中学校の校歌の冒頭です。現代でいうと新宿区のJR新大久保駅と東京メトロ・西早稲田駅とのあいだにありました(当時は地下鉄の駅はまだなかったのですが)。さすがの新宿区も少子化なんだろうと思いますが、わが母校の新宿区立T山中学校もその流れには抗えずに21世紀になってすぐに近隣の中学校と統合されて廃校になりました。ただ、その校舎は取り壊されることなく現在は新宿区立中央図書館としてコンヴァージョンされて使われています。

 区立図書館なので誰でも入れます。メイン・エントランスのわきに下の写真のようにT山中学校の遺産がひっそりと展示されています。ちなみにこれは、以前に同級生の浜ちゃんが諏訪町の交差点のそばで焼鳥屋をやっていたので、その店に行くついでに立ち寄って撮影したものです。浜ちゃんの店は残念ながら今はありません。



 そのT山中学校の同学年会がこの週末に開かれて、久しぶりに行ってきました。当時の一学年は6クラスだったから全部で270人くらいいたのでしょうか。この日は約50名が集まりましたので、まあまあの出席率かな。恩師の先生がたはおおかたは亡くなりましたが、御年95歳(昭和4年生まれ!)の名物先生と72歳の数学の先生が来てくださいました。

 わたくしは小学校は目黒区だったので同じクラスにならなかったひとは基本的に知らないのですが、それでも同じ学校に通っていたのだからなにがしかの接点はあるみたいで、楽しく過ごせました。(名前すら知らずに)初めてお話ししたひとも結構いますし、卒業以来はじめて会ったひとも何人かいました。それはやっぱり懐かしいですね。S田くんとも約五十年ぶりに会って「おおっ!」て握手したのですが、中学校卒業のときに「また会おう」って言って握手をして別れたきりだったことをまざまざと思い出しました。

 いつものように幹事長は松本くんです。毎年この同学年会を企画して開いてくれるのだから、ホント、頭が下がります。彼は有名な落語家の長男だったから、多分、大変なこともあっただろうと思うのですが、当時からすごく明るくてユーモア溢れる男で、それは現在まで続いています。卒業以来、T山中学校の同窓会とは無縁だったわたくしをネット上で探し出して約四十年ぶりに連絡をくれたのは彼でした。

 で、この会の最後に歌詞カードが配られてみんなで校歌を歌いました。メロディもよく憶えているつもりだったのですが、歌い出すとどうも周りと調子が違います。迂生には絶対音感はありませんのでどっちが正しいのか分かりませんでしたが、まあ大勢に合わせて歌いました。

 空うららかに 桜咲くとき
 希望の丘に 立ちて臨めば
 文化の響きの 流るるところ
 緑明るく 道はひらけて
 喜びあふるる この友情
 健やかに ともに行くべし

(二番 略)

 新たに歴史を つくるわれらぞ
 こぞれ いざ 戸山中学校

 作詞は土岐善麿さん、作曲は平井康三郎さんです。当時としては有名なコンビですね。この校歌はちょっと変わっていて、一番と二番とを歌ったあとに全く別のメロディで最後の二行を歌います。これってもしかしてクラシック音楽でいうところのコーダなのかも。

どんよりとした五月晦日に (2024年5月31日)

 台風1号が通過したため、早朝はものすごい雨降りでしたが、登校する頃には小降りになり、今はどんよりとした雲に覆われています。五月晦日になりました。なんだか時の過ぎるのが早く感じるのは、いいことなのか悪いことなのか…どうなんでしょうな。次々とやってくる締め切りに対応しているうちにそろそろ梅雨を迎える時季になってしまいました。

 一年生相手の「建築構造力学1」では、今週は演習問題4問を学生諸君に白板に書いて解いてもらうということをやってみました。古典的な手法ですが、先日、フラっとやってきた角田誠教授が「昔、学生だった頃、西川先生は構造力学の問題を黒板で解かせてさあ、それができないと授業が終わらなくて困ったんだ…」と話してくれました。そうか、その手があったか!ってなわけで、何を聞いても返事をしてくれない学生諸君を相手に、大昔のその手法を採り入れました。藁をもすがるとはこのことか。

 ただ、学生さんを指名するのは禁じ手です。そこで苦肉の策ですが、教室には四列の島があるのでその一列ごとに一問を割り当てて、その列に座っている学生諸君で相談して代表者が白板に解答を書くように言いつけました。すると文句を言うひとはいなくて、解き始めてから15分ほどで全ての問題が白板で解かれました。どうやって白板に出て来るひとを決めたのか知りませんが、出てきたのは全員が男性だったのにはちょっと驚きました。だって、教師の言うとおりに真面目にやるのは大抵は女性ですから…。

 皆さん、しっかり解けたので安心しました(まあ、静定構造の反力を求めるだけなので簡単ですけど)。こうして授業は一時間もかからずに終わりました。うまくいってよかった〜っていう感じです。

 今はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴きながらこれを書いています。先日発売されたディスクでミハイル・プレトニョフのピアノ、ケント・ナガノの指揮でオケはラフマニノフ国際管弦楽団です。聞いたことのないオケですが、これは指揮者でもあるプレトニョフが自身で設立したオーケストラということです。ケント・ナガノが指揮した演奏も初めて聴きます。本盤は2023年のライブ録音なのですが、会場のノイズはほとんど聞こえません。

 冒頭の「ロシア正教の鐘」のピアノがものすごく早くて面食らいました、え〜、そりゃないんじゃないの…。でもそこを除くとナガノは全体にわたってテンポを緩くセットしたようです。特に第三楽章は間延びした感を受けてやっぱりしっくりこないなあ。最後の盛り上がる直前の大太鼓のドン!はちゃんと鳴っていてそこは安心しました。でもその後のフィナーレのラフマニノフ終止に向かっての怒涛の上昇音形のところは、ゆっくりし過ぎていて爽快感がなく、快哉を叫ぶという印象は受けなかったので残念です。



 昨日、日本建築学会の通常総会が開かれ、迂生はオンラインで出席しました。この日をもって業務執行理事・関東支部長としてのお役目を解かれました。いろいろあったのでそのうち書くかも知れませんが、この晩夏に明治大学で開催する大会のお仕事はまだ続きますので、しばらくはやめておくか…。

 思い返すと、二年前に千葉大学教授の高橋徹さんから「騙されたと思って関東支部長を引き受けてほしい」というメールをもらって、結果としてはやっぱりダマされたんでしょうな、あははっ。でも自身の研究活動の中核をなす建築学会でのお仕事に携わってみて、学会員としてのなにがしかの責任は果たせたのかなとは思っていて、それはそれでよかったです。わたくしの後任には東大鉄骨の山田哲教授に引き受けていただきました、ありがたいことです。でも、彼もまた騙されたクチかもね、分からんけど。

 今年度から新規の科研費研究が始まりましたので、先日、共同研究者である晋 沂雄・明治大学准教授の研究室と一緒にキックオフの合同ゼミを開きました。今回は本学に来てもらいました。最近は明治大学と本学とで交互に開いています。

 その席で、晋さんが2013年秋に本学の特任助教に着任したことを話してくれて、あれからもう十年以上が経ったのかと思いました。その頃は遠藤俊貴さんも助教としていましたし、研究室には最大で15名が在籍したこともありました。なんだかとても懐かしく思いました。そんなふうに昔を思い懐かしむようになったら人間もそろそろ終わりかなって、ちょっと寂しく感じた次第です。でも次世代は着実に育ち、その人たちに少しは何かを授けることもできたかな、そうだといいなと思っています。

 あれこれと書いているうちに研究室OBの藤間淳さんがやって来ました。なんでも転勤するので挨拶にということでしたが、わざわざ南大沢くんだりまで来ていただき、ありがとうございます。お仕事の内容なども含めていろいろと興味深くうかがいました。実務の構造設計や現場監理はやっぱり大変だなあと実感しましたね。一級建築士試験については難関なので、彼も悩まされているようでした。わたくし自身は一級建築士はもっていないので偉そうなことは言えませんけど、あははっ。

 藤間さんの活躍譚を聞いていると、そこに彼の同級生である石川巧真さんもやって来ました。これにはビックリです、アポなしかあ〜。でも、よく聞いてみると藤間さんと相談したみたいでしたけど。 いずれにせよ、お仕事を休んで来てくれてありがとう。

 ということで期せずして、かつて一緒に柱梁接合部の軸崩壊を研究したメンツが揃いました。彼らには鉄筋コンクリート骨組の隅柱の柱梁接合部を対象とした三方向加力実験に主担当者として尽力してもらいました。そのときはとても大変でしたが、藤間さんと石川さんとのリーダーシップでやり切ることができたと今でも感謝しています。優秀な若手と一緒に研究できたことはわたくしにとっては貴重で嬉しい財産です。ちょうど五年前、平面ト形の柱梁接合部実験が終わったときに撮った記念写真を載せておきます。藤間さん、石川さん、それぞれの職場で健康に気をつけて活躍されることを願っています。

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水戸へゆく ―水戸市民会館― (2024年5月23日/24日)

 ちょっと暑くなりましたがほどほどに気持ちのよい先日、日本建築学会・関東支部の通常総会が茨城県水戸市で開かれました。水戸を訪れるのは一年半ぶりですが、水戸駅で下車して街なかを歩いたのはおそらく初めてだと思います。東京駅から特急ときわ号に乗ると水戸駅まで80分ほどで着きますので、まあ近いですね。

 水戸といえばすぐ思い付くのが納豆、偕楽園の梅、そして水戸黄門でしょうか。ステレオ・タイプですが、まあしょうがないか…。でも、総会の後の懇親会にご臨席いただいた水戸市長・高橋靖さんの名刺にはこの三つがしっかり刷り込まれていました。それが下の「みとちゃん」です。う〜ん、どうですか…?よく見ると可愛らしいですが、納豆の藁をかぶっているのはちょっと…。葵の紋所の入った印籠もしっかりぶら下げていますね。わたくしは「みとちゃん」を全く知りませんでしたが、どの程度認知されているのかな。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:水戸市長高橋靖さんの名刺2024.jpg

 水戸駅を出たペデストリアンデッキに助さん・格さんを従えた水戸光圀の銅像が立っていました。でも昭和の時代ならいざ知らず、いまの若い人たちにはこの銅像の主従がどんな人たちなのか、「ここにおわすをどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍・水戸光圀公であらせられるぞ!」とか言ってもピンと来ないんじゃないかな、あははっ。

 

 総会の会場である水戸市民会館までは水戸駅からバスで7,8分でしたが、歩ける距離だろうと思います。水戸市民会館は2022年秋に竣工した建物で設計は伊東豊雄さんです。最近の建物らしく木材がふんだんに使われていて、鉄筋コンクリート造、木造および鉄骨造のハイブリッド構造です。かなり複雑な構造ですが、構造設計はオーブ・アラップ事務所が担当しています。

 水戸市民会館のすぐ北側には水戸芸術館が建っています。こちらは1990年1月竣工で設計は磯崎新さん(故人)です。テレビの地震速報で水戸の状況が映るときには必ずここのクネクネした塔が画面に出てくるので、皆さん、知らないうちに水戸芸術館を見ていることになりますぞ。茨城県にある磯崎建築ではつくばセンタービルに何度か行きましたが、ここを訪れるのは初めてです。

 この施設はバブル絶頂の頃に建てられましたので、とにかく広い敷地にゆったりと贅沢に構えているのが印象的です。それに較べると伊東豊雄さんの市民会館は内部には大ホールや巨大な吹き抜けがあってそれなりにリッチなのですが、敷地いっぱいに建っていて周囲の街なみに対しては開いた感じがいまひとつしません。そんなこともあって、迂生としては磯崎建築のほうに興味を抱きました。まあ、単なる好みなんでしょうけど。


写真1 水戸芸術館のデッキから水戸市民会館の北側ファサードを望む

 でもこの日の主役は水戸市民会館なので、まずはこちらから報告しましょう。この日の総会の前にこの建物の見学会が開かれましたので、ひと通り見ることができたわけです。水戸芸術館のデッキから見た外観が上の写真です。写っている北側はこの建物にとっては裏にあたるので面白みがないのかも知れませんが、それでもちょっとなあ…。ただ、夜になると内側が浮き上がって綺麗に見えるようです。残念ながらこの日は懇親会が終わってもまだ明るかったので、夜景は撮れませんでした。

 とは言え、前述のように内部空間はなかなか凝っていて存分に堪能できました。その売りはやっぱり「やぐら広場」でしょう(図1の平面図、写真2)。木の集成材の柱梁を芯ずらしで組み立てた骨太のトラス構造が目に飛び込みます。地震力の大部分は写真2の左にある大ホールの鉄筋コンクリート構造が担っているのでしょうが、それにしても柱が太いなあと思いました。

 「やぐら広場」の吹き抜けに面する2階にはラウンジ・ギャラリーがあります(写真3)。ここは写真2で分かると思いますが、緩やかに傾斜していて手前に向かって床スラブが段々と下がってゆきます。見学したのは午後3時くらいでしたが、多くの中高生たちがこのギャラリーに集まっていて、勉強したり談笑したりしていました。いい光景だと思います。こういう風に使ってくれると建築家はやっぱり嬉しいでしょうね。なかなかに気持ちよさそうな空間でした。この建物のコンセプトは「もうひとつの我が家」ということでしたが、ここはそれを実現できていると思いました。


  図1 1階平面図(右側が北)


写真2 やぐら広場(水戸市民会館)


写真3 やぐら広場の吹き抜けに接するラウンジ・ギャラリー


写真4 3階北側のホワイエ

 上の写真4は3階北側のホワイエですが、木造の柱が一列に連なっていて、空間に方向性を与えています。階段の微妙な曲線がなかなかにいいなと思いました。なおこの鉄骨階段は、踊り場のところで二本の細い鉄材によって吊り下げて支えていました。

 ここまで結構褒めていますが、下の写真5の吹き抜け空間はどうでしょうか(図2の2階平面図では「段々ホール」と表記されたスペース)。上部には木材の梁と吊り用の束材、それに鉄骨のブレースが見えます。細長いウナギの寝床のような吹き抜けですが、奥には階段状に上がる基壇のようなものがあります。また奥には自然光を採り込んでいるため、暗めの手前から奥に向かって光のグラデーションが明瞭に現れていて、空間としてはとてもきれいだと思います。でも、ここはどのような使い方を想定しているのかなあ…。ちょっとした演奏会とか講演とか学芸会とか、ありそうにも思いますが、いま一歩、イメージが湧きませんでした。この見学会では伊東豊雄建築設計事務所の担当者が来てくれたので、聞いてみればよかった。

追記;見学会でいただいた資料によるとこの空間はホワイエの扱いですが、「段々ホール」と呼ぶそうです。幕間の休憩やピアノコンサート等のイヴェント空間を想定しているとのことでした。でも、音響的にはどうなんだろうか…、疑問に感じるけど。


写真5 2階にある細長い吹き抜け空間


 図2 2階平面図(右側が北)


写真6 4階の和室に向かうアプローチ

 写真6は4階の和室に向かうアプローチ(平たく言えば廊下だけど…)です。奥に見えるガラス戸の向こうに和室があるのですが、そこの畳には炉が切ってあって四畳ほどの水屋が誂えてありました。すなわち茶室です。そうです、このアプローチは茶室へと向かう露地と等価ということです。そう思うとなんだか趣深いしつらえに見えてきませんか。左には木で作った腰掛があり(茶室建築の待合に相当)、右の足もとには点々と灯りがともってガラス窓の向こうには白石が敷かれている…。まあ、外の眺めははっきり言って無粋ですが、それは仕方ないよね。

 この和室の先には写真7のような屋上庭園がありました。和室を含めてここはなかなか凝った作りになっています。なによりも真正面に磯崎新のチタンパネルの塔が見えるのが、わたくしとしては嬉しかったですね。ただここの和室やそれに続く板の間がどれくらい使われているのかはよく分かりません。パーティなどを開くような場所とも思えないし、どういう人たちがどういう時間帯に使うのだろうか、これも疑問でした。

 写真5の吹き抜け空間もそうですが、たとえ素晴らしい空間や諸室を用意してもそれらを使うひとがいなければ何の意味もありません。ここは市民会館ですから限られた一部の人たちではなく、市井の人びとに使ってもらうのが最も大切なことでしょう。そのための広報がなされているのであればそれで結構かと思います(わたくしは水戸市民ではないので、水戸市による日常の広報活動については知りません)。


写真7 4階の和室の先にある屋上庭園 水戸芸術館の塔が見える


写真8 南側の国道に面するエントランスと吹き抜け


写真9 2階のホワイエ(南側のエントランス広場の吹き抜けに面する)

 疑問ついでにもうひとつ挙げると、上の写真8のエントランス広場(図1の1階平面図も参照)が今ひとつピンと来ませんでした。左側が市民会館への入口で、右の外は国道50号になります。この空間は1階では空気がツーツーに抜けるので厳密には外部です。それに対して2階では写真9のように、この吹き抜けに面してガラス張りのホワイエがあって、そこからエントランス広場を見下ろせます(図2参照)。でも、ここから下の広場をのぞいても、そこには何もありませんから面白くも何ともないんですよね。このエントランス広場の使い方とか機能とかもピンと来なかったなあ…。

 こんな感じで不思議に思うことも結構ありましたが、総体としてはよく出来ていますし、随所に様々な工夫が施されていて素晴らしいと思うことも多々ありました。やっぱり一流と言われる建築家が作るだけのことはありますな。

 水戸市民会館についてはこれくらいで終わります。ここの北側から見た水戸芸術館が下の写真です。ということで、次は磯崎新さんの水戸芸術館について(そのうちに)書こうと思います。


写真10 水戸市民会館から見た水戸芸術館(磯崎 新 設計)

ブルックナーの第六番を生で聴く (2024年5月18日)

 この冬、サントリーホールにブルックナーを聴きに行ったことをこの二月に書きました。きょうは遅まきながらその続きです。大阪フィルハーモニー交響楽団を聞くのは初めてですし、指揮者の尾高忠明さんにも特段の思い入れはありません。



 さて、この日の演奏ですが総体としてはとてもよかったです。大阪フィルは結構、上手ですよ。なにより尾高忠明さんがブルックナーの第六番を完全に掌中のものとして指揮している感が溢れ出ていて、共感を持って聴くことができました。

 第一楽章は弱音の弦が奏でるブルックナー・リズムで始まるのですが、かなり早めのテンポで入ったのでオヤっと思いました。この曲をこれまでCDでたくさん聞いて来ましたが、それらと照らしても、う〜ん、やっぱりちょっと早いんじゃなかろうか…。フルートの語尾がぶっきらぼうに切れるのと、ホルンがちょっと違うんじゃないかというところも気になりました。

 でもトータルとしてはすごい熱演で、第一楽章コーダのトュッティでは指揮の尾高忠明さんは飛び上がらんばかりです。ヴァイオリンもビオラもものすごく弓をジャカジャカと動かすので最後に弾き切って弓を高々と上げる残心のポーズをとったときには、(コンサート・マスターの後ろのヴァイオリンとビオラ首席の)弓の毛が数本切れて垂れ下がっているのが見えたくらいです。

 第二楽章のアダージョはとてもゆったりとしたテンポになり、天使のオーボエもとても美しくてよかったです。このあたりから指揮者もオケも調子に乗ってきたようで、第一楽章でちょっと感じた違和感は全くなくなりました。極上のブルックナー第六番を聴いているようです。第三楽章のスケルツォでは今まで気づかなかったホルンの音を聴きました。中間部のトリオではかなりテンポを緩めて牧歌を唄うようでなかなかによかったです。

 第四楽章では尾高忠明さんの名調子が発揮され、緩急(アゴーギク)がかなり明瞭に付けられていました。フィナーレのコーダではトロンボーンが高らかに歌い上げるところから最後の大団円に向けて大いに盛り上がります。そしてラストはジャ〜ンと引っ張る(こういう録音も多いのですが)ことなく、ジャン!!とスパッと切って終わりました。

 素晴らしい演奏だったと思います。イヤホンで聴くのとは違ってやっぱりナマの演奏を五感を動員して聴くとすごく感動する、ということを再認識いたしました。今回、ナマで聴いたブルックナー第六番の演奏時間は小一時間くらいで、今までCDで聞いてきた録音のなかでは中庸の長さだったように思います(かなりいい加減です。この日は折悪く腕時計が止まってしまい、携帯もホール内では電源オフにするので時間を測れなかったためです)。

 ブルックナーの交響曲ではコラールなどで金管楽器を盛大にぶっ放すのが有名です。ホルン、トロンボーン、トランペットそしてチューバ(後期の曲ではワグナー・チューバ)が一斉に鳴り渡るとものすごい大音量になって、それが陶然とした雰囲気を醸し出すんですよね。金管楽器によるそういう大迫力の演奏は肺活量の大きくない日本の楽団では欧米のそれにかなわない、という言説が流布しています。でも、わたくしがナマで聴いた大阪フィルではそんなことはなく、(舞台脇に座ったせいかも知れませんが)その迫力に大いに満足しました。

 演奏が終わってブラボーが叫ばれ、拍手とお辞儀との交歓がひとしきり終わり、オケのメンバーが退出して聴衆が立ち去り始めたころ、尾高忠明さんとコンサート・マスターの崔 文洙[チェ・ムンス]さんとが連れ立って舞台に戻ってきました。そこでまたもや大喝采を浴びて、それに応えてお二人が挨拶してくれました。わたくしはまだ自席に座って感動の余韻に浸っていたのですが、お二人が出てきたのであわてて撮ったのがしたの写真です。前の席に座ったお陰で(音響的には多分、よくないのでしょうが)お二人のいい写真が撮れたのは幸いでした。



 なおこの日の公演ではブルックナーの前に武満徹の「オーケストラのための『波の盆』」という15分に満たない小品が演奏されましたが、弦楽の美しいきれいな曲でした。短い作品でしたが、銅鑼、シンバル、チェレスタ、シンセサイザー、ハープなど使う楽器は多くて舞台上にところ狭しと並んでいたのが印象的でした。

反応はなくて当然、あたりまえ (2024年5月14日)

 大学での授業中、学生諸君に授業内容が「分かりますか〜」とか「分からないところはどこかな」とか「みんなあ大丈夫〜?」とか問いかけてもし〜んとしてまったく反応がないことをこの前、書きました。そんなことが続くので、大学一年生の愚息に君の大学ではどうなのよ、先生はそういうことを問いかけたりしないのかって聞いてみました。

 そうしたら、愚息の教室でもやっぱり誰も返事をしないで黙っているそうです。「親父〜何言ってんの?そんなの当たり前だよ、当然だろ」「返事がないなら、そのまま説明を続けりゃいいんだよ」だって。はあ…そうですか。そう言われてもなんだか張り合いないなあ。

 でも、あんまり張り合いがないので、先日ついに禁じ手を使ってしまいました。それは学生さんをランダムに指名して返事をさせる、つまり「当てて答えさせる」ってヤツです。金沢大学の先生が書いた本によると学生諸君の嫌いな授業ワースト1が「授業中に当てる先生」ってことは以前にこのページに書きました。そのことは重々頭にあったのですが、どうしても反応を知りたいっていう自身の欲求に負けたことをここに告白します。

 一所懸命に講義の準備をして、小一時間かけて熱心に分かりやすく説明し、そのあと演習問題を解いてもらって、その解答を解説する。この一連の流れを三十年以上続けてきたわけですが、最近なんだかとてつもなく空しい作業に思えてきました。このような境地に到達するとは、大学教師もそろそろ年貢の納めどきかも知れませんな、ちょっと寂しく思いますけど。こころを空にして、精神をフラットに維持したまま、淡々と授業をこなせばよいってことかも知れません。

実篤公園にて (2024年5月11日)

 五月の連休が終わると大学はちょっと落ち着いた感じになって、新入生諸君はそろそろ大学に馴れる頃だろうと思います。ここ数日、夜はだいぶ寒かったのですが、わが家では早々に夏布団に替えていたので、夜中に寒くてたまらんとなって押入れから毛布を引張り出してかけたりしました。でもそのせいでしょうか、体調はすこぶる悪いです。

 さて大昔、中学生くらいの頃かな、国語の教科書に武者小路実篤の『友情』が載っていたかどうか、憶えていますか。わたくしは中学生のときに武者小路実篤の小説が気に入ってずいぶんと読んだ記憶があります。その理由は今となっては全く分かりませんが、手元には新潮文庫の『馬鹿一』と『空想先生』の二冊が残されています。値段を見ると240円と160円でした、なんとお安いことか…。ちなみにその内容も忘却の彼方ですな。



 その武者小路実篤が晩年の二十年を過ごした邸宅と庭園とが今も残っています。東京都調布市が管理して実篤公園となり、一般に公開されています。場所は京王線の仙川駅とつつじヶ丘駅とのちょうど中間で、国分寺崖線(ハケと呼ばれます)の崖下あたりの水はけの悪そうな場所です。実際、すぐそばを入間[いりま]川の小流が流れています。上の写真は仙川寄りの入り口で、国分寺崖線の崖上にありますので、ここから下って行きます。面積は五千平米もあって敷地内には武者小路実篤の邸宅のほかに池が二つもあり、彼の記念館も併設されています。

 迂生の住むところからは歩いて行けるのですが、これまで行ったことはありません。そこでこの連休中に散歩がてら訪ねてみました。わが家は野川沿いにありますので、一旦つつじヶ丘の丘に登ってそこから入間川に向かって下ります。途中、外環道のトンネル工事(関越道と東名道とを結ぶ)によって地下に空洞ができて多くの家屋が傾いた場所を通りました。ここだったのか、という感じです。

 下の写真はつつじヶ丘の丘上から仙川方面を望んだもので、左右の仮囲いは空洞事件の復旧工事に関わって設置されていました。正面奥の水平線には住宅が左右に連なっていますがここが国分寺崖線の崖上にあたり、その斜面にもびっしりと住宅が立ち並んでいるのが分かります。ちなみにこのあたりは高校の同級生だったT原がその当時住んでいたところで、歩きながらその頃を懐かしく思い出したりしました。



 わが家から歩いて約三千歩、時間にして25分ほどでお目当ての実篤公園に到着しました。記念館には入館料200円が必要ですが、公園自体や邸宅内の見学は無料でした。その庭園ですが、予想したよりも広くてかつ自然情緒溢れる豊かな場所でした。池には橋が架かっていますし、木造の風情あるあづまやが二棟も建っています。その一つは右下の写真のように池に張り出した釣殿のような方形屋根の瀟洒な造りでした。

 ひとつの池には鯉が泳いでいましたが、この釣殿がある池に泳ぎ群れている20cmくらいの魚はなんだろうか…、と思って看板を見るとニジマスでした。そう言われるとそんな体色のようにも見えます。それを見てお上さまはシューベルトの「ます」を唄い出しましたが(さすが音楽家!)、わたくしはこれを釣って塩焼きにしたら美味しそうだなって思ったんですよね、あははっ。

 



 武者小路実篤が暮らした木造住宅は今では有形登録文化財に指定されて、昔のままに保存されています。上の写真の右側が玄関で、画面左側が崖になっていて、仙川へとアプローチする道が急坂の登りであることが分かります。住宅は一部に地下室があるものの(斜面に建っているので)基本は平屋建てで、延べ床面積は195平米です。結構広いですよね。敷地の広さといい、この住宅といい、武者小路実篤って相当のお金持ちだったのではないかと思いました。池に小舟を浮かべて楽しんでいる写真も残っていました。

 この住宅の南側にはその当時は池を望めたであろうベランダがあったり(今は木々が鬱蒼としていて池は見えない)、ガラス張りのトップライトがあったり、サンルームがあったりと今から見てもかなりモダンな印象を受けます。北面する門構えは料亭のような重厚さを感じさせます。設計したのは山口芳春という方でした。残念ながらどういうかたなのか知りません。





 身近にこんな素晴らしいところがあるとは不覚にも知りませんでした。なんにつけても無知とは恐ろしきことかな…とちょっと武者小路実篤調になってみる。でも冒頭に記したようにここは水はけの悪そうなジメジメ感が漂う場所でして、これからの季節はヤブ蚊なんかがすごいんじゃなかろうか。ですからこのお庭を楽しむのなら秋から早春までの季節がよかろうと思いました。

風薫る五月に思う (2024年5月5日)

 きょうはちょっと雲が出ていますが少しばかり暑いような気もするこどもの日です。鯉のぼりや兜を飾らなくなってから、もうどれくらい経つでしょうか…。大学生になった愚息はGWくらいのんびりしたいと言って自室でゴロゴロとして過ごしています。いい若いモンがまったく何やってんだろうねえって思いますが、まあそんなものか。

 先日、このページに戦艦大和のことを書きましたが、きょうは吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫、1994年)を読んで思ったことでも書くとするか。この戦争文学は短い作品ですが、簡潔な文語体で書かれておりそれが高潔な内容と相まって格調の高さを醸し出します。この文章を当時わずかに22歳だった若者が記したとは、現代の常識で捉えるととても信じられません。22歳といえば大学四年生くらいですから、日頃彼ら/彼女らと接している迂生からしたら、なんたる違いであろうかと驚くばかりです。

 しかしそれは戦争という人間性にとっての極限状態に臨み、人知の及ばない過酷な体験を強いられた若者だったからこそなし得たのかも知れません。戦争の悲惨さ、愚かさ、無意味さなど現代日本では忘れ去られている事柄がこの作品には書かれています。アジア・太平洋での戦争で敗戦して以来79年、平和ボケした現代の日本人こそがもう一度この書を読むべきだと思います。とりわけ高校生や大学生には、かつて国家によって学園生活を奪われて戦陣に送られ、非命に斃れた先輩諸氏が大勢いたことを是非とも知ってもらいたいですね。

 

 激闘の末に沈没した戦艦大和から脱出し、からくも救出されて九死に一生を得た吉田満氏は次のように内省の言葉を書いています。

 ワレ一瞬トテ死ニ直面シタルカ
 出航以来、死生ノ関頭ニフサワシク、ミズカラヲ凝視セシコトアリヤ
 最後ノ刻々ニ、些カノ生甲斐ヲモ感ジ得タルヤ

 戦艦大和の戦友たちの九割は戦死したのに、自身は生き残ったことに対する後ろめたさのようなものがこの三行には滲み出ているように思います。吉田氏はそのような自省の念を常に抱きながら、学徒出陣して戦陣に散った仲間たちの無念を噛みしめて戦後の混乱期と高度成長期を生き抜いたのでしょう。

 敗戦後のGHQ占領期にこの作品が発表された当初は、戦争肯定の文学とか軍国主義を鼓吹する小説であるというような批判があったそうです。そのことに対する強烈な異議申し立てとして、同書の初版あとがきに吉田氏は次のように書きました(昭和27[1952]年7月)。

「このような昂りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振舞うべきであったのかを、教えていただきたい。我々は一人残らず、招集を忌避して、死刑に処せらるべきであったのか。或いは、極めて怠惰な、無為な兵士となり、自分の責任を放擲すべきであったのか。――戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するのかを教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然過ぎて無意味である。誰が、この作品に描かれたような世界を、愛好し得よう。」

 1945年8月15日の敗戦の日を境として、それまでのただ天皇一人のための国体護持思想に基づく軍国主義から民衆のための民主主義へと価値観が180度転換した戦後日本において、戦争中には鬼畜米英を叫んでいた人たちが時の尻馬に乗って何事もなかったように平和主義を唱え出したそうです。そのことに強い違和感や疑問を抱いた人たちが多くの証言を残していますし、そのことをテーマとした小説や評論が書かれました。吉田氏の上述の文章もそのひとつでしょう。

 いつの時代にも機を見るに敏で節操のないやからはいるものです。現在でも大衆に迎合しながら正論を吐いているように見せかけて他者を非難するひとって結構いますよね。他人の言に左右されず、熟慮の末の信念にもとづいて行動することの大切さを吉田氏のあとがきから読み取れると思いました。心したいと考えます。

上野にて ―東京国立博物館東洋館の構造と空間 (2024年4月29日/30日/10月9日 専門用語などを一部修正)

 この二月に久しぶりに上野に行ったことを書きました(2024年2月19日)。それを契機として、さらには長いあいだの教員生活によって鉄筋コンクリートを使った近代モダニズム建築や現代建築への興味が深まっていたこともあり、この際、東京国立博物館に行って建物たちをもう一度よく見てみようという気になりました。そこで四月下旬のよく晴れた日に行ってきました。

 さて現在の東京国立博物館は以下の六館で構成され、いずれも時代ごとの優れた建築家によって設計されて特色のある建物として建築界ではつとに知られます。

・表慶館 1909年竣工、片山東熊 設計
・黒田記念館 1928年竣工、岡田信一郎 設計
・本館 1938年竣工、渡辺 仁 設計
・東洋館 1968年竣工、谷口吉郎 設計
・平成館 1999年竣工、安井建築設計事務所
・法隆寺宝物館 1999年竣工、谷口吉生 設計


写真1 東洋館のバルコニー下から表慶館(左)および本館(右)を見る 20244月撮影

 こうやって並べてみると錚々たる建築家が揃っていることにあらためて気付きます。それぞれの建物はその時代ごとの様式をまとっていますので、東京国立博物館はその建物群を見て回ることで日本の近代建築の歴史をたどることができるという贅沢な場所なのです。さらに言えば谷口父子の建築を同時に見られるのは金沢を除けばここだけでしょう。

 ただ迂生が大学生の頃(昭和五十年代後半)にここを訪れたときは表慶館と本館を見ただけでしたし、そもそも当時は平成館と法隆寺宝物館とはまだ建っていませんでした。特に法隆寺宝物館はわたくしの大好きな建築家・谷口吉生氏の設計なので、ぜひその空間を体験してみたいと思ったのがここを訪れたいちばんの動機です。

 ということで東博に入場すると(企画展を除いて1000円!お安いです)真っ先に法隆寺宝物館に向かいました。ここは表慶館の裏側に位置するのでちょっと分かりにくいのですが、そのせいか訪れるひとは少なくてとても静かでいい雰囲気でした。その清楚な佇まいと均整のとれたプロポーションには本当に惚れ惚れとするのですが、内部の空間構成とシークエンス体験も素晴らしいものでした。下の写真の左奥にホテル・オークラが経営する小さなレストランがあってそこでひと休みしましたがお客さんの数も少なく、上野公園の喧騒が嘘のような静けさでした。


写真2 法隆寺宝物館へのアプローチとそのファサード 20244月撮影

 こんな感じで当初は法隆寺宝物館の体験を記述しようと思っていたのですが、ここを堪能したあとに入った東洋館(お父上の谷口吉郎の設計)が予想以上にインパクトが強かったことから今回はそのことをレポートいたします。昨年六月に竹橋にある東京国立近代美術館(同じく谷口吉郎の設計で1969年竣工、2002年に耐震補強を含む改修を実施)の保存と再生について記述した(2023年6月25日)ことも念頭にあり、ここ東洋館ではどうなのだろうかという関心が湧き上がりました。なお法隆寺宝物館についてはまた別に書くつもりです。

 東洋館は1968年竣工の鉄骨鉄筋コンクリート造(SRCと略称)3階建て(地下2階)で、柱梁骨組に耐震壁を組み込んだ普通の構造形式です。下の写真がその西面ファサードです。ご覧のように柱梁が強調されて骨格が逞しく、大きな屋根の左右が片持ち梁によって飛び出し、2階部分には高欄が全長に渡って巡らされていることもあって建物全体の水平線が強調されます。木造の柱梁を組み合わせた奈良時代の高倉を思わせるようなデザインにも見え、一見して和風のテイストを醸し出しています。ただ、東博のほかの建物と較べるとその表層のデザイン(見てくれ)はおとなしいように思いますよね。しかしよく見てゆくと構造的な工夫が種々為されていますし、中に入るとその空間構成の妙に驚くことになります。


 写真3 東洋館の西面全景 20244月撮影

 その構造的な特徴を挙げると、大屋根を支持する大梁(桁)と柱との接合がピンによって為されていること、および床面が随所でキャンティレバー(片持ち梁)によって支えられていることです。さらに専門的にみると建物平面の角っこに隅柱がないことにも気が付きました。これはわたくしが隅柱と梁との接合部分を研究対象のひとつにしているせいかも知れませんけど、あははっ。

 一般的な鉄筋コンクリート構造では梁と柱とを一体にしてコンクリートを打設し、剛接合とするのが通常です。しかし東洋館ではそれをわざとピン接合にしました。ピン接合にすると大梁から曲げモーメントが伝わらないために(軸力とせん断力は伝達される)、柱頭を細くすることが可能になります。実際、東洋館では鉛筆の先端を削るように柱頭に面落としを施し、上にゆくに従って細くしたことで水平な大屋根が浮かんで見えるような視覚効果を獲得しました(写真3)。

 最上階の内部の展示室において内柱(「うちばしら」と読みます。建物の内部にあって四面に梁が取り付く柱のこと)がライティングされていたので撮ったのが下の写真4です。表面は打ち放しではなくて、塗布した何かの材料を小叩きして微小な凹凸を施した仕上げになっています。面取りされた柱頭が細くなっていることがよく分かりますね。なお柱頭のピンは鉄板に覆われているらしく見ることはできません。この内柱頭部の見た感じは面タッチのローラー支持のようにも見えますので、部位によって支持条件を使い分けているのかも知れません。なお写真4の右側のガラス面は2013年のリニューアルの際に新設されたシースルーのエレベータです。

 柱頭をピン接合にする利点を書きましたが、剛接合の骨組と比較すると地震時に生じる柱頭の水平変位が(弾性時では)最大4倍大きくなることには注意が必要でしょう。水平変位が大きくなれば柱に生じるひび割れ本数が増えたりその幅が拡大したりしますし、内部の間仕切り等の非構造部材の損傷が大きくなる可能性があります。そのぶん、展示物の耐震対策は(これは想像ですが)念入りに施されているのだろうと推察します。

 
写真4 東洋館内部の柱 柱頭はピン接合    写真5 東洋館 南西隅の拡大 20244月撮影

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 図1 東洋館 1階平面図(竣工当初)左が北
 奥平耕造編著「美術館建築案内」(彰国社、1997年2月)よりコピー

 東洋館の南西隅をクローズアップしたのが写真5です。図1の1階平面図では赤丸で囲んだあたりです。2階の外周を巡っているベランダの高欄がなんだか木造の寝殿造にそっくりですよね。画面中央には面取りされて断面が不規則な十角形になった柱が二本、近接して立っています。桁行(長手)方向には、最西面の骨組(1通りとする)の3メートルほど(注1)内側にもうひとつの骨組(2通りとする)が構えられていて、それぞれの通りの端部に写真5のように同一規模の柱が立っているわけです。ちなみに裏側の東面も同様の構造になっています。

 そもそも1通りと2通りとの間隔が3メートル足らず(注1)というのは普通の鉄筋コンクリート構造に対する感覚からするとかなり狭く、今の標準からすれば疑問です。吹き抜けになった内部の大空間を安全に保持するために当時の構造設計者(氏名は伝わっていません。建設省関東地方建設局営繕部の技術者でしょうか…)が配慮したことと、谷口吉郎のデザインがそれを要望した、ということかと想像します。

注1:2013年の改修設計を担当した安井建築設計事務所が作成した図面(新建築2013年3月号に掲載)を見たら、この部分の心芯間距離は4メートルでした。現地で見たときにはそんなにあるとは思えなかったけど…。

 通常、平面が矩形の建物では四隅に柱があって(隅柱[すみばしら]と呼びます)、x方向およびy方向の直交二方向から梁が貫入します。すなわち建物の隅の柱は通常は一本なので、地震発生時にはそこに二方向の水平力および変動軸力が集中し、設計が苦しくなります(断面が大きくなったり、配筋量が増えるということ)。ところがこの東洋館のように隅部に柱を二本設ければ(図1の赤丸)このような応力の集中を緩和でき、そのことが建物の耐震性能の向上をもたらします。実際、現代の高層RC建物等ではフツーの隅柱は用いずに、東洋館のように二本の柱を隣接して配置する構造計画がなされることが多いみたいです。東洋館のこの隅部をしげしげと見ることによってこんなことを思い出したわけです。

 張間方向(写真5のx方向)の梁端部の木口を見ると、中央に空隙のある二重梁になっています。鉄筋コンクリート造でこのような形にするには型枠製作や配筋の手間暇がかかるだけであまり合理性はないと考えます。それに対して木造の合わせ梁ではこのような形態が簡単に実現できますので、ここにも谷口吉郎による木造へのオマージュが現れているように思いました。

 東洋館の構造的な特徴として「床面が随所でキャンティレバー(片持ち梁)によって支えられている」ことを挙げました。これは建物内部の大吹き抜けをみるとよく分かります。下の写真6は1階から吹き抜けの天井を見上げたもので、最上部にはトップライトが見えますね。画面中央の二本の柱から片持ち梁が左右にそれぞれ3メートルほど飛び出して中3階の展示室の床スラブを支えています。同様に2階床および3階床も片持ち梁で支持されています(写真7)。

 なお展示室はスキップ・フロアになっていて、1階と2階との間には中2階が、2階と3階との間には中3階があって都合5層になっています。それらの各フロアを縫うように吹き抜けが設けられていて(図2の断面図を参照)、そのことが東洋館の空間体験をとても魅力あるものにしています。その反面、いま自分がどのフロアにいるのかが容易に把握できないという欠点も産んでいますが…。


写真6 東洋館内部 中央ホールの天井までの吹き抜け 20244月撮影


写真7 東洋館内部 左下は2階、右側は中3階、左上は3階 20244月撮影


図2 東洋館 中央ホールの断面図 「新建築」1968年12月号よりコピー

 上の写真7のように吹き抜けの中央にはガラス箱のエレベータがあります。これは前述のように2013年の改修工事によって新設されたもので、バリアフリーを達成するためのものです。この吹き抜けがある中央ホールは各層の展示室を巡るときには空間の結節点になっています。1968年の竣工当初は吹き抜けの西側にあるガラス開口とトップライトとから自然光を取り入れて明るい場所だったようです。そのことは竣工当時に撮影した写真8で分かります。それに対して中央ホールの南北にある展示室は自然光をシャットアウトした暗い空間になっています。展示順路に従ってそこから出て中央ホールに至ると眩しい陽光が燦々と降り注ぎ、再び暗い展示室へと入って行く…、このように明瞭に区別された空間を体験できたと思われます。

 ところが改修後の今は、西側の2階より上にあったガラス面が遮光スクリーンで完全に覆われた(写真9の右上のグレーの部分)ことで吹き抜け空間が薄暗くなってしまい、南北の展示室との区別が付かなくなってしまいました。中央ホールの展示物を落ち着いて鑑賞するとか、展示品の太陽光による劣化を防止するという観点からは有益だろうと考えますが、空間体験のシークエンスとしては明らかにプアになったと思うのですが、どうでしょうか。


写真8 東洋館 竣工当時の中央ホールと吹き抜け
「現代日本建築家全集 6 谷口吉郎」(三一書房、1970年12月)よりコピー


写真9 東洋館内部 中央ホールから中2階へ上る階段 右上は2階床スラブ 20244月撮影

 そうは言うものの、改修工事によっても谷口吉郎の基本的な空間構成は保持されました。大吹き抜けと片持ち梁で支持された展示スペースとのダイナミックな関係はそのままに残ったのです。このことは慶賀すべき事柄であると思います。東京国立近代美術館でも当初は東洋館と同じように吹き抜けとその両脇の展示スペースとが階段によって繋がれていましたが、2002年の改修では展示面積の増床が優先されて吹き抜けに床スラブが張られてしまい、空間のダイナミズムは跡形もなく失われました。谷口吉郎によってほぼ同じ時期に設計された美術館たちがこのように対照的な運命をたどったというのにも数奇さを感じます。

 なんだか随分とたくさん書いて来ましたが、まだまだ書き足りません。耐震補強、空間構成の妙、建物の細部のディテール、サンクン・ガーデンなど、書こうと思ったことに至りませんでした。それらについては稿を改めてまたいずれ書こうと思います。

せせらぎが出現する (2024年4月26日)

 ゴールデン・ウィーク直前ですが、初夏の陽気になって暑いですね。いま、三年生が対象の「鉄筋コンクリート構造」の授業を終えて戻ってきたのですが、学生諸君に何を聞いても呼びかけても反応がないのはどうしたもんでしょうか…。分かる?とか大丈夫ですか?とか聞いても答えがないのはしょうがないです。でも、講義の半ばになって休憩のつもりで、有名建築を15件ほど示して皆さんが聞きたいものを写真付きで紹介しますから、どれか一つを選んで言ってください、と問いかけても教室中が黙っているのには心底困りました。

 ほら、寄席なんかで落語家が会場からお題を頂戴してなぞかけなんかを答えるのがあるじゃないですか。それと同じようなノリで、こちらとしては学生諸君へのサービスのつもりで問いかけたのに、教室中がシーンと静まりかえっています。せっかくそんな小ネタまで準備してこちとらは授業に臨んでいるのに、なんだかな〜っていう失望感で胸いっぱいになりましたな、さすがに。なんだかアホらしくなってきたので、誰も聞きたくないみたいなのでやめます、と言ったらひとりの学生さんが「表参道ヒルズ」って小声で答えたのでした。

 こんな感じで授業を終えてブルーな気分のまま教室を出ると、なんだか水の流れのような爽やかな音が微かに聞こえて参ります。なんだろうと思って二階から下をみると、なんとそこにせせらぎの清流が出現しているではないですか。そこで教室棟から下に降りて撮影したのが次の写真です。

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 写真 せせらぎが流れている場所の昔の様子 2020年12月撮影

 この流れをたどってゆくとそこには11号館前の池がありました。なるほど…そういうことか。でも、自慢じゃないけどわたくしはこの大学に三十年以上も在籍しているのですが、ここにせせらぎが流れていたことは一度もありませんでした。三年ほど前にこの辺りを散策したときの写真を上に載せます。ゴツゴツとした岩が不規則に置かれているとは思いましたが、ここが池からの小流れを通すせせらぎとして計画されていたとは夢にも思いませんでした。それが今になって通水し始めたのはこりゃまたどういう塩梅なのか、いやあ不思議だな。

 せせらぎは気持ちがいいもので癒されます。でも如何せん、この場所にゆくには虫が飛び交う草木を抜けないと行けないし、なによりも学生さん達がフツーに歩く通路からはよく見えません。流れの水はポンプで循環しているようですから電気代もかかるでしょう。このせせらぎに容易にアクセスできるように周辺を整備して、さらにベンチ等を置いてくれると憩いの場になるのに勿体ないなあって思いますよ、ホント。

 都立の大学だから仕方は無いのかも知れません。ただ、私立大学並みにしろとは言いませんから、キャンパス内をもう少し魅力的かつ気持ちよい場所として整備してくれたらいいのになあって思う次第です。

豆腐におもう (2024年4月23日)

 図書館で『豆腐の文化史』という岩波新書を借りて読んでみました。日本酒とか味噌などの発酵食品については奥が深くて知的欲求を駆り立てられるので、豆腐も究めると楽しいのではないかと思ったからです(でも残念ながらこの本は「ハズレ」でしたけど…)。ちなみに豆腐には「腐る」という漢字が当てられていますが、作る過程で発酵を利用するわけではありません。

 ところで皆さんは豆腐って日頃食されますか。こう書いておいて気が引けるのですが、わが家ではほとんど食べません。味噌汁の具にちょこっと、あとは麻婆豆腐で絹ごしを、すき焼きをするときに焼き豆腐を一丁くらいかなあ…。いっときは作りたての寄せ豆腐が美味しいと思って食べたこともありましたが、豆腐ってスーパーで売っているくらいでして、特段に贅沢な一品というものではありません。たぶん、お高くてこだわった豆腐はきっと美味しいのだろうと想像するのですが、残念ながらそういう名品に行き当たったことはないように思います。

 昔は近所にお豆腐屋さんがどこにでもあったと思います。小学校の同級生だった浅野くんのお宅がそうでした。遊びに行ったときに見た記憶があるのですが中庭に井戸があって、それを使って豆腐を作っていたのだと思います。ただそこのお豆腐を食べたことはありませんでした。外で遊んでいると夕方の裏寂しくなった頃に自転車に乗ってチャルメラみたいなラッパを吹いて豆腐を売りに来るおじさんもいましたよね。その当時の豆腐作りは朝早く起きないといけないし、うまく凝固しない失敗もあるし、その日に売り切らないといけないしで、大変な重労働だったみたいです。

 ところが今では機械化が進み、個別にパック詰めした状態で大量生産できるようになって値段もお安くなりました。でもそういうお豆腐が美味しいかと言われると…、どうなんでしょうかね。豆腐ってもともと淡白なので調理法によって如何様にも美味しくできるってことかもしれませんが(江戸時代には『豆腐百珍』などという豆腐料理のレシピ本がいくつも出版されたそうです)、豆本来の香りと職人技の食感とを楽しむという食本来の味わい方は追求されなかったのでしょうか。まあ、豆腐を食べないわたくしですからどうでもいいんですけど…。

 あとは高野[こうや]豆腐のように凍らせたり、乾燥させたりして長期間保存できるようにした堅い豆腐が日本各地で作られたそうです。そうそう、わが家では子供がまだ小さい頃にアンパンマンの顔を描いた高野豆腐を食べていたことがあります。水に入れて電子レンジでチンして戻すのですが、それとて美味しいという感じではありませんでしたな。でも、広い日本のどこかには人知れず美味しいお豆腐が埋もれているかも知れません。この読書によってそういう関心は呼び起こされました。

八重の花ふぶき (2024年4月19日)

 夜中の雨も上がり、晴天の爽やかな朝を迎えました。清々しくて気持ちがいいですね。陽射しはすっかり初夏の様相でしてこれから暑くなりそうです(って、まだ四月中旬ですけど…)。

 朝早くに本学の教務委員会があるのでいつもよりはだいぶ早くに家を出て野川沿いを歩くと、強い風に乗って薄いピンク色の花びらが吹き寄せてきました。ソメイヨシノはすっかり早緑色に覆われましたが、今は八重桜がちょうど見頃になっていました。街路樹のハナミズキも白や薄紅の花が盛りを迎えています。しばらくは目も鮮やかな景色を楽しめそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:野川の八重桜_TMU八重桜_11号館前の池からの水路20240419:IMG_3082.JPG

研究室活動がスタート (2024年4月18日)

 トップページに記載したようにM2・藤村咲良さんが執筆した日本コンクリート工学年次論文が無事に採択されました。手前味噌ですがよくできた論文だと思います。今年一月に投稿した原版ではわたくしとして気になるところがあって、査読者にそこを指摘されるとちょっと困るなあと思っていたのですが、三月になって査読結果が戻ってくると、その部分をいの一番に指摘されていました。査読者の皆さんがしっかり読んでくださったということなので、それはありがたい限りです。

 ということでその指摘に回答して論文を修正することが採択の条件になりましたので、藤村さんと晋沂雄先生とであれこれ相談して修正論文を提出した、という次第です。それは論文の本質に関わる重要な論点でしたので完全に解答することはできず、今後も検討を続けることになります。

 昨日、2024年度最初となる研究室会議を開きました。宇都宮大学時代にならってKick-off Meetingと呼んでいます。当時の田中淳夫教授は名うてのスポーツマンでしたからこういう呼称がお好みだったのだと推測します。それに較べて迂生はスポーツとはほど遠い人間ですからなんだかなあ〜とは思うのですが、四十年近い慣習をそうそう変える気にもならないので、ま、いいか。

 Kick-off Meetingでは今年度の研究課題を開示して、皆さんに選んでもらうといういつもの形式です。ただ今年は大学院生全員が建築学会大会に梗概を提出したので、彼女/彼らに各自の梗概を説明してもらいました。それにつけてもいつも思うのですが、学生諸君は自分の研究を他人に説明するのが下手くそですねえ。それじゃ誰にも通じないし、その研究の魅力も全く伝わらないよって言っているのですが…。そういうたびに厳しかった小谷俊介先生の発表練習を懐かしく思い出します。

 還暦を過ぎてジジイになってくると、なんにつけ怒る元気も無くなってきてそういう発表を聞いても、仕方ないなあ、でも、よくやったね、などという物分かりの良い反応で終始することが多くなりました。そんなことでは若いひとの為にならないよっていう小谷先生から大昔にいただいたご助言(苦言かな?)を折に触れ思い出します。全くその通りであるとは思うのですが、生理的に体が反応しないのだから、まあ仕方ないか…。って、こんなふうに自分に甘いのはいけないですね。新たに科研費もゲットできたことなので、ここらで一丁気を引き締めるか、なんてね(多分、無理…)。

授業が始まる (2024年4月10日)

 きのうの春の大嵐が過ぎ去って今朝はいいお天気になりました。満開だった桜が土砂降りの雨に流されて散ってしまったのではないかと心配でしたが、大学わきの桜は幸い大丈夫でした。今週いっぱいくらいはお花見できそうです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU南大沢_満開で大雨の翌日の桜20240410:IMG_3072.JPG

 本学では去る日曜日に東京フォーラムで入学式があって、今週から前期の授業が始まりました。新一年生は入学式の翌日にいきなりわたくし担当の「建築構造力学1」という専門科目があったので、面食らったかも知れません。久しぶりの授業だったので、終わったらすごく疲弊したのもいつもの通りでした。

 わが社OBの片江拡さんと井上諒さんとが連れ立って来校しました。会社のリクルータです。このお二人は学年では八年の隔たりがあるので、一緒にいることにちょっとした眩暈を感じました。とはいえこの二人の研究テーマは鉄筋コンクリート柱梁接合部の降伏破壊だったり軸崩壊だったりの同類であり、同じように立体柱梁部分架構の実験を担当してくれましたので、わたくしにとってはひと続きに連なっているんですけどね。

 お二人とも社会人として活躍しているようでよかったですし、来学してそういう近況を知らせてくれて嬉しく思います。現場では危険なこともあるでしょうから、安全および健康に留意しながらスキルを磨いてください。

日本人の好きなもの ―戦艦大和の沈没から79年― (2024年4月7日)

 この日曜日は薄曇りながら暖かくなってお花見日和になりました、よかったです。わが家のそばの桜も見頃になってきれいです。ときどき書いていますが、桜の木々の下にみんなで集って飲み食いしたり放歌高吟したりする習性は日本人だけのものです。しかもワッと咲いてパッと散る桜にもののあはれを感じて、さらにそこに国体護持とか忠君愛国とかの思想性が賦与されたのは明治時代以降であってそんなに大昔からの習慣でもありません。

 下の写真は昨年に「スライドの時代」というタイトルで数回に渡って紹介したジェラルド・ワーナーのスライド集にあったもので、「多摩川での花見」と題されていました。1950年4月(敗戦から約四年半後)に撮影された一連の写真ですが、大勢の人出それ自体を被写体としているのが明らかです。とくに男性たちが酒瓶を中央に並べて車座になった写真には「Sake」と書かれていましたので、アメリカ人のワーナーがこういうお花見を珍しいものとして見ていたことを教えてくれます。





 それから七十年以上を閲した現代でも、皆さま総じて桜がお好きなのは変わらないようでして、三月になると桜の開花はいつなのかという予想がテレビ等でしばしば報道され、さらには「開花宣言」などという形式ばったものがたいへんに注目されます。別に身近の桜が咲いてりゃいいじゃんって迂生などは思うのですが、世間さまでは靖国神社の標本木なんてどうだっていいじゃないかとはならないのが不思議ですよね〜。

 日本人の好きなものとして大昔には「巨人、大鵬、卵焼き」というのが流行ったそうです。わたくしの蔵書に『現代〈死語〉ノート』という小林信彦著作の岩波新書(1997年1月)があるのですが、それによると1961(昭和36)年のことでした。現代ではプロ野球人気の凋落とともに巨人一強の時代は遠い昔のノスタルジーとなり、大鵬の孫の王鵬は(今のところは)そんなに強くもなく注目されていません(まあ、祖父は大鵬とは言いながら父が貴闘力だからしょうがないか)。卵焼きに至ってはお弁当の定番として存在はするものの(わが家でもお上さまがときどき作ってくれます)、注目される品でもないわな。なお小林信彦の同書によれば1961年の流行語の王様は「レジャー」だそうです、へえ〜そうだったんだあ。でも「レジャー」って今でも使いますよね?死語じゃないと思うけど…。

 わたくしは山田洋次監督の寅さん映画が大好きで(わが家では何が面白いのか分からないって言われていますけど…)、先日もBSでやっていた吉永小百合がヒロインのやつを久しぶりに見たのですが、もう何度も見ているはずなのに必ず大笑いできるし、ホロっとするんですよね。そこには古きよき昭和の日本の原風景が映っていて、おいちゃん・おばちゃんをはじめとして人情に厚い日本人が描かれています。寅さんは日本人にとってのソウル・シネマにさえなったと思うのですが、いかがでしょうか。

 こんなことを考えているうちに話しは広がり、日本人の好きなものとして戦艦大和もあげられるように思います。松本零士の漫画に『宇宙戦艦ヤマト』があって(波動砲充填120%!っていうのがとてつもなく懐かしい…)、現在までその続編が作り続けられているように、日本人にとっては馴染み深い名前であろうと考えます。昔、愚息が小さい頃にそのリメイク版?のアニメを一緒に見ていたら、出てくる宇宙駆逐艦の名前が「雪風」でして、それって1945年4月の沖縄水上特攻に加わったがほとんど無傷で生き残った駆逐艦「雪風」と同じだなって思った記憶があります。なお武運抜群だった駆逐艦「雪風」の生涯は豊田 穣著作の『雪風ハ沈マズ』(光人社NF文庫)に詳しいです。

 戦艦大和は戦前・戦中は軍の極秘事項だったので一般民衆にはそういう名前の軍艦があることさえ知らされていませんでした。ですから戦艦大和が人口に膾炙するようになったのは戦後のことです。今から半世紀以上も前の大むかし、わたくしが小学校低学年だった頃、従兄弟のシンちゃんが長さ1メートルくらいもある戦艦大和のプラモデルを作って「どうだ、すごいだろう」って見せてくれたことがあります。それが欲しくて同じプラモデルを祖父に買ってもらい(買ってもらうまでにはひと悶着あったことをよく憶えているのですが、ここでは触れない)、自分では組み立てられなかったので父親に作ってもらったことがありました。

 こんな具合に戦後も昭和の時代には、戦艦大和は誰でも知っているような名前でした。それは日本の技術の粋を集めて建造した巨大戦艦(排水量は約七万トン!)だったにもかかわらず、当時最大だった直径46cmの主砲を打つこともほとんどないままに水上特攻隊として沖縄に向かうところを撃沈されたという悲劇性が日本人の琴線に触れるせいだろうと思います。繰り返しますがそういう事実は海軍でも一部の人たちしか知らず、市井の人々にとっては無縁の出来事だったのです。

 その戦艦大和に電探(レーダーのこと)担当の海軍少尉として乗り組み、沈没した大和からかろうじて脱出して生還したひとに吉田満氏がいます。ちなみに同じ水上特攻に参加した護衛部隊の旗艦だった軽巡洋艦・矢矧[やはぎ]に乗り組みこの戦闘を生き抜いて生還した士官に池田武邦さん(海軍兵学校を卒業した職業軍人でした)がいました。彼が戦後に東大建築学科を卒業して日本設計という大会社を作ったことは以前にこのページで紹介しました。

 戦艦大和を世間に知らしめたのはこの吉田満さんだと思います。彼は東京帝国大学法学部在籍中に学徒動員されて海軍に配属された若き学徒兵でした。戦後、実家が疎開していた東京都青梅[おうめ]に暮らしたときに吉川英治に出会い、請われて戦艦大和の体験を語ったことからそれを記録として残すことを勧められます。その後、小林秀雄の熱いオファーによって『戦艦大和ノ最期』という小説として世に出たそうです。吉田さんはその後、文筆家としてではなく日本銀行の社員となって経済人として日本を再建し、高度成長期を生き抜きました。

 『戦艦大和ノ最期』は漢字とカタカナ混じりの文語体で書かれていてちょっと読みにくい感じがしますが、読み始めるとそれが極めて簡潔かつ明晰に書かれていることに気がつきます。戦艦大和がこの無謀な水上特攻によって東シナ海で撃沈されたのが79年前のちょうど今日(四月七日)でした。

 太平洋戦争は日本海軍の真珠湾奇襲によって始まりましたが、それはこれからの戦争は軍艦同士の戦いではなく航空機が主役になった戦闘であることを世界に知らしめました。そのことを実証した当の日本が、実は大艦巨砲主義を捨て去ることができずに最後まで戦艦大和による活躍を妄想したことに悲劇と滑稽とが同居するのです。戦闘機による護衛もなく空からの攻撃に対しては丸腰といってよい状況で大和部隊は出撃しました。そんな無為無策で成算のない戦いに参加させられた祖先たちを思うと本当に気の毒になります。

 2018年の春に広島県呉に旅行しました。ここは今でも海上自衛隊の基地がありますが、当時も日本海軍の一大軍港でした。そこに大和が建造された海軍工廠もありましたが、今は大和ミュージアムが建っています。その展示の主役が戦艦大和の十分の一スケールの模型です。行って実際にいろいろな角度からしげしげと観察しましたが、ホントよくできています。


写真 戦艦大和の1/10スケール模型 呉の大和ミュージアムにて 2018年撮影

 大和ミュージアムにはこの巨大な模型以外にも零戦(琵琶湖から引き上げられた62型、珍しい…)や特殊潜航艇の実物が展示されています。人間魚雷・回天で特攻出撃して戦死された塚本太郎氏(海軍少尉[戦死後大尉]、享年21歳)の肉声を遺言として録音したテープが流れていて、わたくしはしばらくそこを動けなかったことを憶えています。この方は慶応義塾大学から学徒出陣させられて戦陣に散りました。「僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ…、みんなさようなら。元気で征きます」と家族に残していました。とても悲しいです…。

 とても貴重な記録で大切なものと思うのですが、子供には分からないでしょうし、大人でもここで足を止めたひとはほとんどいませんでした。そのことにも悲しい気持ちにさせられました。戦争の悲惨さに気がつかない人たちが戦争をするんじゃないですかね…っていう気分をかき立てられます。

 呉に行くには広島から船で一時間くらいです。ちょっと遠いですし、結局のところこの日は呉での観光で終わりましたので一日仕事です。それでもこの大和ミュージアムは一見の価値があると思いますので、ぜひ、お出かけください。だってあなた、大和がお好きでしょう? 大和が好きじゃなくても、呉には美味しい日本酒もありますよ〜なんてね(「雨後の月」がおいしいよ)。


写真 大和ミュージアムの零戦と特殊潜航艇 2018年撮影

花冷え (2024年4月5日)

 今日は真冬に戻って寒い雨降りです。真冬のコートを着て、マフラーを付けて登校しました。冬物の服たちをクリーニングに出さなくてよかったあ〜。

 わが家のそばを流れる野川沿いのソメイヨシノは、木によって異なりますがだいたい七分から八分咲きといった感じで、もうすぐ満開を迎えそうです。それに対して大学のある八王子市南大沢の桜は三分から五分咲きくらいで、やっぱり南大沢は寒いです。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:野川_南大沢の桜_TMUキャンパス20240405:IMG_3054.JPG 説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:野川_南大沢の桜_TMUキャンパス20240405:IMG_3057.JPG

 きのうは9階の建築ロビーで学部新入生の歓迎会がありました。わが家の愚息と同じ学年かと思うと、赤の他人とはいえ皆さんがかわいく思えてくるので不思議だな。そして今日は大学院進学者の履修ガイダンスを担当しました。これだけ微に入り細に入り、手取り足取り説明しても、毎年、履修登録漏れの学生さんが出現するのはどういうわけか。

 今年度の建築学域長である鳥海基樹先生(パリの都市計画学者)がことしは履修登録漏れの学生さんを救うことはしない!って宣言しましたので、学生諸氏はどうか気を付けておくんなさい。とは言え、履修登録を忘れるのはたいていの場合、こういうガイダンスに出席していない輩のことが多いので、どうしようもないのですが…。

 それが終わって、これから成績不振者との面談に出掛けます。七、八分も歩いてわざわざ6号館まで行かないといけないのですが、さらに言えば設定された時間帯はそのブースに座って当該学生が来るのを待っていないといけないのが、どうにも気に食わんなあ。そもそもその学生さんは来るのだろうか…、なんだか虚しい思いでいっぱいなんだけどな。

…………

 当該の学生さんは幸いなことに面談しにやって来てくれました。まあ、事情は分かったのですが、基本的に能力はある方のように見受けましたので、とにかく頑張って履修しましょう、月に一度、履修状況を報告するように、ということで約一時間の面談を終えました。でも、相手がどういうひとか分からないので、とても気を使って疲れました。

ことしはまだ咲きはじめ (2024年4月4日)

 新年度が始まりました。ことしの三月が寒かったせいか、南大沢の桜はやっと咲き始めたばかりです。昨年の今頃はすでに花びらが舞い散って青葉が出始めていましたから、それに較べるととても遅いのですが、よく考えれば今年が昔の平年並みのような気もします。

 昨日は日本建築学会大会の梗概提出の締め切りでした。ことしは我が社の大学院生は全員、梗概を執筆して提出できました。別に大したことではないのですが、沈滞していた我が社にとっては久しぶりの快挙だと思います。でも、皆さんもう少し早めに取りかかればバタバタとせずに済むのに、というのは毎度のことか…。

 特に新M1・小川さんの初稿を見たときにはこりゃダメだ、無理だよって思いました。そういうふうに彼に暗に話しもしましたが、彼が(どういうわけか)すごくやる気を出したみたいで「頑張ります!」って言うものだから、若者がそこまでするっていうのなら、じゃあ仕方ないからこちらも本気出すか、ってなりました。そんなわけで、ウンウン唸りながら(って、なんで迂生がそこまでするのかとはチラッと思いましたが…)久しぶりに深夜や早朝に原稿を添削してやり取りして、なんとか形になって投稿できた次第です。でも、提出できたのだからその努力は多として認めましょう。

 この提出がお昼前に終わったので、そこから先は気が楽になって、新しく採択された科研費・基盤研究Cの予算申請などの書類作成に勤しみました。三年ごとのルーチン・ワークなのですが、ほとんど忘れているので三年前のファイルを横に開きながら作業しました。途中で共同研究者の晋 沂雄さん(明治大学准教授)とメールで相談しながら研究計画を練りました。でも、こういった決まり切った作業もこれが最後かと思うと少しばかり感慨を抱きますなあ…。

 わたくしの先輩の何人かは、定年で大学を退職されたあとにも科研費をゲットして研究を続けています。そのお姿をワールド・ワイド・ウェブ越しに拝見するとすごいな、偉いなと思うのですが、どういうわけか自分はそうしようって思わないんですよね。考えることは人それぞれなのでいいんですけど、わたくしって志が低いのでしょうか、なんてね(そんなこと思ったことないわ、あははっ)。

 きょうは午後から新入生の履修ガイダンスと歓迎会とがあります。彼女/彼らが卒業する頃には迂生はもうこの大学にいないことを考えると、うーん、どうなんでしょうね。来週早々にスタートする『建築構造力学1』の進め方も今年から変えました。もう演習の添削はやめて、解答例を配布することにしたのです。いちいち添削して返却する手間のわりに効果が見られなかったことがその直接の理由ですが、上述したようなことが頭の片隅にあったことは否めないような気がします。まあ、人間だから仕方ないか…。

年度末の小景 (2024年3月29日)

 きょうは三月末の金曜日なので年度末になります。来週月曜日(四月一日)からは新しい年度になって新入生を迎えます。大学人にとっては周知の一年がまた始まるのだなあと思うだけですが、当の新入生たちは人生の門出のハレの日を迎えて嬉しがるのでしょうから、その状況認識のギャップにはちょっと驚いたりします。

 きょうの午前中はものすごい雨降りで風も轟々と吹いて恐ろしいくらいでした。これじゃ身の危険を感じて出歩けないので、自宅の机に向かって来週にある新入生の履修ガイダンスのためのパワーポイント・コンテンツを一所懸命に作っていました。

 その作業に没頭しているときにたまたま晋沂雄さんから携帯に電話がかかって来て、建築学会の委員会が始まっていることを教えてくれました。プレストレスト・コンクリート部材の耐震性能を評価・検討するための小委員会でして、東工大教授の河野進さんが主査の会議です。全く忘れていたのですが(ごめんなさい)、オンライン会議なのでZoomを立ち上げるだけで会議室に入れるのだからホント便利ですね〜。

 それがちょうどお昼に終わって、お上さまが作ってくれたソース焼きそばを食べている頃からだんだんと雨が小降りになってきて、そのうち陽も差して来ました。きょうの午後はわが社の学生さんと建築学会大会梗概について議論することになっていたので(今ごろになって大丈夫かと思うんだけどな…)、いそいそと大学へ出かけた次第です。雨が上がって投稿、じゃなかった登校できてよかったです。

 研究室に積んであった図書館所蔵の本が三冊ほどあったので、今、図書館に行って返却して来ました。卒業式と入学式との狭間のこの時期ですから、図書館にはほとんどひとがいませんでした。そこで久しぶりにいろいろな棚を経巡って、立ち読みしながらよさそうな本を選んだら五冊になりました。建築関連が三冊、歴史物が二冊です。一ヶ月では到底読み終わらないのですが、適宜延長しながら拾い読みするのだろうと思います。

 昨日、大学院進学を希望する他大学の学生さんがわが社を訪問しました。意欲にあふれて優秀そうな方でした。もうそんな時期なのかと思います。学内から大学院進学を希望している学生はいないようなので、外部から来てくれるかたは大いに歓迎です(いつも書いている通りです)。でも、こういう風に言ってよいのもあとわずかかと思うと一抹の寂しさを感じます。今は早いところ定年を迎えて自由の身になりたいなんて思っていますが、いざそうなったときにどのように感じるのかは想像の彼方にあって曖昧模糊として霞んでいるような気がします。

 野川沿いや南大沢の桜はまだ固そうな蕾のままです。でもこの週末は暖かなよい天気になるという予報ですから、桜も少しずつ咲いてくるでしょう。ということで皆さん、よい年度末をお過ごしください。

つづくハレの日 (2024年3月22日/25日掲載)

 今週は寒の戻りで冷たい日々が続き、昨年の今頃は桜が咲いていたのに、ことしはまだ固い蕾のままです。それでも晴天で風が強かったので花粉はすごくて、この数日、鼻が詰まって寝ていられずに夜明け前には目が覚めてつらい一日を過ごしています。

 さて今週は卒業式が続いて、めでたさも二乗でやって来ました。まず春分の日に愚息の卒業式があって、学校まで出かけました。この日は大荒れの天気でして、それまで晴れていたのに急に暗雲が垂れ込めたかと思うまもなく冷たい雨が降ったりしました。

 思い起こすと三年前はまだCOVID-19の蔓延の最中だったので、入学式には保護者は参加できず、オンライン中継されたのでそれを書斎のパソコンで見ていました。三年も経つとさすがに世情も変わって、卒業式は保護者も出席できてよかったと思います。

 さてその卒業式ですが、私立校のせいなのかどうか分かりませんが、壇上に日の丸の旗がないことに気がつきました。以前に書きましたが公立の学校では必ず日の丸があって、挨拶するひとは必ずそれに向かって一礼したりしていたのが気になっていましたので、今回はそんな虚礼がなくて清々しく思いました。さすがは在野の精神溢れる校風だな。



 卒業証書の授与は、上の写真のように各クラスが起立して代表生徒に証書を渡すという形式で行われました。とはいえ12クラスもあるので、この儀式が終わるのにはかなり時間がかかりました。男子校なので卒業生は全員男子ですが(って当たり前)、こんなに多くの若衆が密集しているのってわたくしは見たことがなくて結構な壮観でした。

 そのあと院長先生(わたくしの高校の先輩であることが判明!)の祝辞および大学理事の教授先生のはなむけの言葉がありました。大学教授のかたの挨拶はとても立派な内容で感銘を受けました。同じ教授でもわたくしにはあんな風に訓話を垂れることは到底無理だと思いましたな、あははっ。

 最後に校歌斉唱があったのですが、なんと歌詞カードが配られて父兄も起立して歌えって言われたのにはちょっと驚きました。つながっている大学の校歌がそのまま使われています。東京六大学野球なんかで東大の対戦相手側から流れてくるのでその歌自体はよく知っていたのですが、まさか自分がその校歌を歌う日が来るとは思わなかったな。でも、それはそれで結構嬉しかったですよ、まあ単なる親バカだけど。このあと十日もすれば上がった大学の入学式があって、大学生活がスタートします。それを思うとかなり慌ただしい感じがしますなあ。

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 ついでに自身が高校を卒業するときのことを思い出そうとしましたが、どんな行事だったか、どこで卒業証書を手渡されたか、全く憶えていません。もちろん嬉しかっただろうとは想像しますが、その頃は国立大学の合格発表は3月下旬くらいでしたから、その前に卒業式があったので嬉しさも中くらいだったのかも知れません。

 卒業式の後に大学合格がありました。その後、一・二年生のときの担任だった内藤尤二先生のご自宅に岡谷くんと一緒に遊びに行ったのですが、うちの母親が高知から送られて来た土佐文旦(ばかデカイ日本最大の柑橘類)を手土産に持たせてくれたこと、内藤先生の御宅では先生と当時大学生だったお嬢さんと麻雀をやったこと、などは鮮明に憶えています。

 このとき一緒に出かけた岡谷くんですが、それ以来、一度も会っていません。彼も東大に進みましたが本郷はおろか駒場キャンパスでも会った記憶はなく、今どうしているのかなあ…。彼とは高校三年の受験クラスで一年間一緒でした。このときの担任は数学の本橋先生でしたが、受験のためのクラスということもあってクラスメートと交流した記憶があまりありません。そんななかで岡谷くんとはどういうわけか親しくなったみたいです。ちなみに後年、このクラスのクラス会は一度も開かれていません。

 「うなぎいぬ」っていうあだ名の先生(ごめんなさい、本名を思い出せません…)の英語の授業で毎回冒頭に小テストがあったのですが、ある日、何を思ったのか岡谷が「みんな知ってるかあ〜?、これってIt is a pity that…って言うんだぜ」って大きな声で答えを叫んじゃったので、「うなぎいぬ」が怒っちゃって彼に向かって「教室から出てゆけ〜!!」って怒鳴ったら、岡谷も岡谷で謝りもせずに出て行ったという事件がありました。どういうわけかよく憶えているので不思議です。

 この当時の都立高校には学校群という悪名高い入試制度が敷かれていて日比谷高校の凋落が顕著でしたが、まだ名物教師と称されるような先生がたが棲息していたように思います。多くの先生は親しみを込めてあだ名で呼ばれていて、「カバさん」「かにたま」「ペヤング」「イトカン」「イトチリ」「うなぎいぬ」「ヨーゾー」「ジェン」なんかをすぐに思い出します。古きよき時代でしたなあ…。

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 ありゃ、脱線したので話しをもとに戻して、この翌日、今度はわが大学の卒業式がありました。東京都立大学ではキャンパスがいくつもに分かれているため、全学部の卒業生全員が一堂に会する卒業式は有楽町の東京フォーラムで午前中に開きます。それが終わると皆、南大沢とか日野とか荒川とかの自学部のキャンパスに戻って、午後にはそこでまた学部の全体会が開かれます。それが終わった午後三時からやっと建築学科の卒業式・修了式となって、迂生のようなヒラの教授はこれに出席します。

 こちらは学部卒業生および大学院修了者がひとりずつ名前を呼ばれて、壇上で学科長(今年度は建築家の小泉雅生教授)が証書を授与するというやり方です。大学院修了者の場合には学位論文の題名が記載されていますが、小泉学科長がそれをいちいち読み上げたので結構な時間がかかりました。馴染みのない専門用語がたくさんあって大変だったと思います、お疲れさま〜。

 そのあと学科長から祝辞があって全体で記念写真を撮影して終わりです。撮影は山村一繁助教が担ってくれましたが、それじゃあ山村さんが写らないので、壇上に座った迂生が舞台向かいの操作室にいる彼を撮ってあげたのが一番下の写真です。壇上に勢ぞろいした学生諸君に向かって、顔が見えないとかあれこれ指図してくれているところです。山村さんは学生の頃からカメラ小僧でしたが、その趣味は今も続いていると見えてなかなかのカメラマン振りでした、ご苦労さまです。





 今年の学部卒業生は2020年4月の入学です。その直前にCOVID-19のせいで志村けんさんが亡くなる等、その猛威が席巻し始めました。そうして入学式などは中止になり、大学の講義もいつ始められるのか分からず、とにかく不安な時期でした。本学では五月からZoomを使ったオンラインの授業が始まりましたが、新入生たちは大学には通えず、同級生と対面することもできずにつらくて不安な大学生活のスタートだったと思います。彼女/彼らの一部が対面できたのは、わたくしの「建築構造力学1」の期末試験を大学の教室で実施したときだろうと思います。

 そのような不安定な状況は段階的に解消されて行きましたが、苦難の時期を乗り超えてこの佳き日を迎えることができ、わたくしも感慨深いものがあります。とにかくよかったです。卒業・修了、おめでとうございます。

 このように今年はハレの日が二日続きました。そのこと自体が慶賀すべき事柄でしょうが、わが家の子供の卒業にはやっぱり格別の感慨を抱きます。そんなわけで東京都立大学の卒業式でちらほらお見かけした父兄の皆さまには心のなかでおめでとうございますって言っておきました。



宇宙で建築 (2024年3月16日/18日掲載)

 ここのところよいお天気で気温も上がり気味でいいのですが、花粉がすごくてつらいです。

 さて、宇宙で建築などと言うと突拍子もないと思いますよね。わたくしにとって宇宙と言ったらそれはやっぱりアーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』とかレイ・ブラッドベリの『火星年代記』のようなSFの世界です。とはいえ、今から三十年ほど前に某ゼネコンは月でコンクリートを作るっていう「ルナ・コンクリート」を研究していましたし、21世紀初頭には地上から衛星までをエレベータで結ぶという「宇宙エレベータ」の提案もありました。そして時は流れて21世紀も最初の四分の一がほぼ経過した現在、そんなに荒唐無稽とも夢物語とも思われていないようです。

 昨晩、日本建築学会関東支部の主催するシンポジウムが田町の建築会館でありました。主催者を代表する迂生も例によって挨拶かたがた参加しました。そのシンポジウムのお題が『宇宙居住への挑戦』だったのです。そのポスターを下に貼っておきます。





 このシンポジウムでは建築分野でない方々をお招きするのが恒例だそうで、今回はJAXAの惑星物理学者、民間の宇宙ビジネス・ウーマン、そして建築側代表として大学の先生のお三方が講演および討論をしてくださいました。わが建築学会にも宇宙建築に関する特別研究委員会が組織されていたことを今回初めて知りました。

 なにしろこちらは門外漢ですから聞くこと見ることが全て物珍しくて、へえ〜っていう驚きとか発見とかのオン・パレードです。特にJAXAの物理学者の方がいろいろと興味深いことどもを話してくれました。主に月(Moon)のお話しでしたが、月についての最新の知見などを伺うのは知的好奇心を掻き立てられてとても面白かったです。

 でも最も印象に残ったのは、宇宙居住を実現するためには「工学者と理学者とが常に対話することが重要」という彼の発言でした。わたくしのように工学に携わるものからすると、理学の研究者はそれこそ出来もしないようなことを平気で言うわけです。工学と理学とでは文化が異なるというのが多分、両者共通の認識だと思います。しかしそんなことを言っていたら、どんなブレーク・スルーも実現できません。ですから異なる文化をすり合わせて、ひとつの目的を達成するために互いに議論を重ねて協同することが大切なんだ、という工学者にとっては当たり前のことをJAXAの物理学者の方が言ったのです。それを聞いて、このひとはそういう調整に苦労して来たのだろうなと思いましたね。なんと言っても最後にモノを作って実体化しないと目的を達成できません。理論だけじゃそれは不可能で、先端技術を使ってこそ可能になるのですから。

 結局のところ月に人類が居住することは可能みたいですが、それがいつ実現するのかは見通せないようでした。今の感じではまあ、そうでしょうな…。

 ところでこのシンポジウムは午後七時から約二時間に渡って開かれました。金曜日の午後七時といったらサラリーマンのゴールデン・タイム?ですよね。田町の小路にも飲み屋に向かうらしい人たちが群れ歩いていました、これから一杯飲るんだろうなあって感じです。

 そんな時間帯での開催にもかかわらず、建築会館に来場してくださった方が80名以上、オンラインでの参加者は100名以上という盛況だったことに迂生は驚きました。ちなみにこのシンポジウムは有料でして、(建築学会員ではない)一般の方の参加費は2000円(オンラインだと1500円)です。この時間にお金を払って参加しようってひとがそんなに大勢いたことに少なからず驚いた次第です。宇宙に建物を作って暮らすっていうことがそれくらい魅力的ということでしょうか…。いずれにせよ宇宙への関心の高さをうかがい知れる出来事でした。

あれから十三年 (2024年3月11日/14日掲載)

 東北地方太平洋沖地震の発生から13年が経ちました。そのとき迂生は東大本郷キャンパスに出向く途中で、地震発生後に小谷・塩原研究室のある工学部11号館7階で青山フォーラムに参加しました(このときの経緯は「はじめての帰宅難民」という小文に書きました)。

 この13年が長いのか短いのか、人それぞれだろうとは思います。ただ、この間に冥土へと旅立った人たちがいたことを思うとき、それはやっぱり長かったのかなとも思います。下の写真はフォーラムが始まる前の輪講室の様子ですが、右手前に中田慎介先生がいてその横に久保哲夫先生が座っています。お二人ともすでに故人となったことを思うとき、やっぱり人生の儚さを感じずにはいられません。しかしそれは生命の持つ宿命であって、いずれは誰もがその列に加わるのです。「人生は死への前奏曲(プレリュード)」とはよく言ったものだなあ…。

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  2011年3月11日 地震直後の東大工学部1号館

三四郎池の畔で (2024年3月9日/13日掲載)

 よく晴れたせいで花粉もバンバン飛びまくるこの日、東大の塩原等兄貴の退職記念パーティがあって山上会館に出かけました。ここに来るのはいつ以来かなあ…、多分、小谷俊介先生の退職記念シンポジウムが開かれたとき以来かと思います。

 もうすぐ東北地方太平洋沖地震の3月11日がやって来ますが、2011年のこの日、わたくしは本郷の東大に向かっていました。都営地下鉄新宿線の小川町駅で降りて、丸ノ内線の淡路町駅へ向かうためにエスカレータに乗って上がっているときにちょうど地震が発生したのです。そこから歩いて本郷の11号館7階に行き、小谷・塩原研究室で青山フォーラムをやったことは13年前に書きました。あのときとほぼ同じ時期に再び本郷を訪れることになり、感慨を新たにいたします。

 さて、山上会館は三四郎池の畔に建っていて(正確に言えば三四郎池を見下ろせる高台のわきです)、わたくしが学生の頃には古ぼけた木造建物だったと記憶しますが、1986年に建て替わりました。前川國男の最晩年の設計で、上品な石質タイル貼りや芸の細かい造作が前川らしさを醸し出しています。先日のこのページで前川國男の東京都美術館を紹介しましたので、山上会館をあらためて観察するのも目的のひとつです。



 三四郎池に行くのも本当に久しぶりです。昨日に雨や雪が降ったせいでしょうか、池はうすい緑色に濁っていました。水が溜まって池になっているくらいですからここだけ谷のように窪んでいるのですが、それでも結構山深い感じがして都会のなかの別世界といった趣きでした。この日はお天気がよかったせいでしょうか、池の畔で写生をしている人たちがいたりして明るい雰囲気でしたが、わたくしの学生時代の記憶ではなんだかうす暗いところという印象です。



 山上会館の三四郎池側では、キャンチ・レバーの先端にサイクロイドのような曲線がつらなっていますが(上の写真)、これは室内にもそのまま現れていて(すなわち、天井を張らずに)、そこに上品な照明がぶら下がっています。下の写真でその様子がよく分かります。ちなみにこれは、名古屋工業大学の楠原文雄先生が乾杯の挨拶をするぞ〜っていうときに撮ったもので、卓の前に司会の大西直毅さん、その奥に塩原兄貴ご夫妻が見えています。



 この日のパーティは塩原研究室の卒業生が主体で、わたくしのような青山・小谷研究室の後輩とか先輩は少数派でした。いつも書いていますが、塩原兄貴はわたくしよりも三つ上の学年で、迂生が卒論生として青山・小谷研究室に入室したときにD1でした。今思えばこれがわたくしの研究人生の始まりだったわけですが、その基礎を丁寧に教えてくださったのが塩原兄貴でした。その意味では塩原さんもまたわたくしの恩人のひとりです。特にキーボードのブラインド・タッチができるようになったのは塩原さんのお陰です。

 研究室に入って、塩原さんがこちらを向いてニコニコしながらキーボードも見ずに機関銃のようにバコバコと英文を打ち込むのを見たときにはすごく驚きました。こんなことができるのかあっていう感じですよ。その凄技を身に付けたくて塩原さんに手ほどきをお願いしました。でも彼から教わったのは手を置く基本位置(ホーム・ポジション)とどの指でどのキーを叩くかというルールだけでした。あとはひたすら英文を打ち込む練習をしなさいということでして、まあそうだよな…。

 そういう偉大な先輩が周囲の予想とおりに母校の研究室に戻ってそこを継ぎ、めでたく定年をお迎えになりました。塩原兄貴の独創性あふれる研究については書くまでもないでしょうから触れません。今から二十年以上も前に塩原さんが鉄筋コンクリート柱梁接合部の降伏破壊理論を提唱したとき(その頃迂生はそんなことないだろって考えていたのですが)、小谷先生が「塩原先生のすごさがよく分かった」って仰ったことをよく憶えています。実際にそのとおりだったことは皆さんご存知の通りです。

 こうして楽しかったパーティが終わり(ただ、久しぶりの立食だったので足腰が痛くなって疲れました)、塩原兄貴からお土産にもらった紙袋に入っていた『建築構造解析』(塩原等著、数理工学社、2024年2月、税抜き2,950円)っていう出来立てホヤホヤの教科書を電車内で拝読しながら帰途についたのでした。うーん、でもお土産に教科書っていうのもなんだかちょっと…。まあ、いいか。

 でも、せっかく教科書を書くのだったら、ご自分が教室で講義しているあいだに出版して学生諸氏にそれを使ってもらえばよかったのにってフツーは思いますよね。いただいた教科書を見るとしっかりとした造りで294ページもあるのに2,950円っていうのもお安いように思います。でもそういう下世話な?事情を超越したところがやっぱり塩原兄貴のすごいところなんだろうなあ、分からんけど。

 最後に、塩原兄貴の後継者である田尻清太郎准教授が撮ってくれた集合写真を載せておきます。右側がかなり暗くて見えにくいのはちょっと残念でした。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:東大山上会館_塩原退職パーティ20240309_東大田尻研による撮影:146_original.JPEG

久保哲夫先生の訃報に接して —懐かしき蟹かな— (2024年3月7日)

 わたくしの研究室がある9号館では今朝、防火シャッターの点検があって全てのシャッターが降りています。一年に一回なのでシャッター表面の塗料の匂いが廊下一帯に漂います。毎年春の恒例行事なので、もう一年過ぎたのかという感慨を抱きますな。

 そういう初春の一日、久保哲夫先生の訃報に接しました。とても悲しく思います。久保先生はわたくしにとっては恩人のおひとりで、原子力建築の世界に導いてくださったのが久保先生でした。梅村・青山・小谷研究室の同門ということで非常にお引き立ていただきました。思い出を掘り起こすと1998年に横浜プリンスホテルで日本地震工学シンポジウムがあったときに(その当時、このシンポジウムは四年に一度の開催でした)、その実行委員を久保先生から承ったのが最初だろうと思います。

 その後、21世紀の初頭に日本地震工学会が設立された際、その論文集委員会の主査に就任された久保先生からまた委員として呼ばれました。そこで二年間くらいでしょうか、久保先生の指示に従って査読要領とか論文フォーマットとか細々とした規則類を整備した記憶があります。

 それと同じ頃、今度は日本電気協会・耐震設計分科会の下部組織である建物・構築物検討会の主査だった久保先生から、その副査として検討会に参画してほしいという要請をいただきました。いま思えば、われわれの師匠である青山博之先生から主査を引き継いだ久保先生が次の世代につなぐべく若手の副査を探していたのだろうと想像します。

 余談ですが、この頃からそういう依頼は全てメールで為されましたが、久保先生は電話でお話しされたかったらしく、いつ電話してもいないってメールに書いてありました。わたくしの研究室に電話がないことはこのページで書いていますが、まあ評判はよくなかったわけですね。

 それまで、原子力施設の建物の耐震設計については武藤清先生および梅村魁先生がその制定から携わっておいででしたので、原子力建築の世界においては東京大学・鉄筋コンクリート構造研究室がそのメイン・ストリームとして認識されていたであろうことは想像に難くありません。そのような潮流のなかでお声かけいただいたことにとても感謝していますし、その責任の重さをひしひしと感じます。もちろん、それまで原子力建築にはほとんどかかわっていませんでしたので、それこそ「村のオキテ」じゃないですけどそういう特殊な文化に馴染みはなく(今も馴染んでいるわけではないけど…)、久保先生をはじめとして検討会の皆さまに教えていただきながらのスタートでした。

 その後、久保先生が上述の耐震設計分科会の会長に就任するタイミングで迂生が建物・構築物検討会の主査を引き継ぎ、新しい副査に同門の楠原文雄先生を指名したことは以前にこのページに書きました。このように久保先生のお導きによって原子力建築の世界に足を踏み入れ現在に至っています。皆さまご承知のように久保先生は博識でこの世界のことにもお詳しく、わたくしなどはその足元にも及びません。ですから、いつも久保先生が後ろで見守ってくださり、おかしなことにならないように監視していただいたので、わたくしとしてはかなり気が楽でした。でも、もうそれも叶わなくなってしまいました…。

 今から十数年前の晩秋に、久保哲夫先生とご一緒して敦賀にある原発の見学に行きました。そのときに日本海の蟹に舌鼓を打ちましたが、久保先生の楽しげで穏やかなお顔が蘇って参ります。久保先生、今までありがとうございます、そして数々のご厚情に対して深く御礼を申し上げます。どうか永遠の休暇を安らかにお休みください。ご冥福をお祈りします…合掌。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:敦賀原発視察2010:CIMG0779.JPG
 写真 在りし日の久保哲夫先生 2010年撮影

内藤記念館へゆく (2024年3月6日)

 昨晩から冷たい雨が降り続いています。わたくしの住む多摩東部では雨のままでしたが、今朝、南大沢にある大学に登校すると地面には雪が残っていました。やっぱり八王子は寒いんだということを再認識いたしました。

 さて、2023年度の卒論でわが社の許斐茉莉さんが村野藤吾[むらの・とうご]設計の世界平和記念聖堂の構造設計について調査・検討してくれました。広島にあって1954年に竣工し、戦後の鉄筋コンクリート建物としてはたぶん初めてだろうと思いますが2006年に重要文化財に指定された教会建物です。なお、この建物の構造設計は内藤多仲[ないとう・たちゅう]博士によるものです。内藤先生は早稲田大学教授だったので、早稲田大学建築学科を卒業した村野藤吾とは懇意だったようです。


写真1 世界平和記念聖堂(設計:村野藤吾、構造設計:内藤多仲) 2012年撮影

 この建物については以前にもこのページで紹介しました。2019年に清水建設によって耐震補強が行われましたが、その詳細については文化庁のHPくらいしか情報がなく、もともとどの程度の耐震性能を保有していたのか、具体にどのような耐震補強がなされたのか疑問に思ったのがそもそもの始まりです。

 そこで許斐さんの卒論として、まず基礎資料の渉猟から始まりました。とはいえ、わたくしにも特段のつてはないので、許斐さんが広島のカトリック教会に問い合わせたり、ネット上の様々な情報を当たったりしました。その結果、この聖堂の構造図が早稲田大学に保管されていることに行き当たり、ここからさらに許斐さんが頑張って調べて、ついにその保管場所と管理されているひとに行き着いたのです。

 それは早稲田大学の理工学術院総合研究所にありました。管理されているのは早稲田大学名誉教授の山田 眞先生です。でも、その総合研究所ってどこにあるのだろうか…。それは早稲田大学喜久井町[きくいちょう]キャンパスにあったのですが、それってどこなのよ?

 いつも書いているように新宿区西早稲田はわたくしにとっては父祖の地であり、その近くが育った場所なのでよく知っているつもりです。しかしその喜久井町キャンパスなるものは寡聞にして知りませんでした。そこは地下鉄東西線の早稲田駅を降りるとすぐそばにあって、早稲田通りに面して入り口がありました(写真2)。へえっていう感じです。ちなみに新宿区喜久井町は夏目漱石の生誕の地でこのキャンパスの脇には夏目坂があり、近くには漱石山房記念館もあります。


写真2 早稲田大学喜久井町キャンパスの入り口 2024年撮影

 話しが先走ったのでもとに戻して、わが社の卒論生の許斐さんが八方手を尽くして山田 眞先生に連絡したところ、資料を貸してくださるということになって彼女が受け取りに伺いました。それは昨年六月中旬でしたが、山田先生は四時間近くも丁寧に説明してくださったそうで、さらに紙版の資料とデジタル資料とを貸してくださいました。

 それを聞いたとき、迂生は相当に驚きました。だって早稲田大学の学生ならいざ知らず、初対面のどこの誰だか分からない学生にそんなに親しくあれこれ解説していただき、あまつさえ貴重な資料を借用書もなく貸与してくださったからです。付言するとわたくしは山田先生とは面識はございません。それにもかかわらず、赤の他人の許斐さんが卒論を書けるようにご配慮を賜ったわけです。文字とおりにありがたいことですよね。そこに至る機微についてわたくしには分かりませんが、世界平和記念聖堂の構造設計について知りたいという許斐さんの熱意と至誠とを山田先生が汲み取って下さったとしか思えません。

 こうして山田 眞先生からお借りした資料を用いた分析が始まりました。そうして資料を読み進めるうちにそれらはまことに貴重であり、実に素晴らしいお宝であることに思い至りました。内藤多仲博士の自筆の構造計算書もありましたし、建築家・村野藤吾が内藤先生に宛てた自筆の手紙もありました(でも、その手紙は達筆すぎて読めません)。それらの大切な資料を早稲田大学では大事に保管していたのですね。とても感激しました。

 ということで内藤多仲博士が世界平和記念聖堂をどのように構造設計したのかがほぼ分かりました。内藤先生は1923年竣工の日本興業銀行を設計して以来、構造設計の実務に従事して精通されていたので、この聖堂の構造計算書はかなりあっさりとしたものでした。正直に書くとこれだけ?っていう感じでした。しかしそこには地震動によって建物に作用する水平力をどこにどのくらい分担させるかという卓抜した構造計画があったのです。それは豊富な経験からくる技術者としての直観と知恵ということだろうと思います。

 ちなみに聖堂本体の身廊部分は水平震度0.25(建物自重の0.25倍の大きさの水平力が作用すると想定)で短期許容応力度設計されていました。建築基準法が発布されて水平震度0.2で許容応力度設計することを義務付けたのが1950年です。内藤先生が聖堂の構造設計をしたのは1949年以降ですから、新しい基準法の水平震度が0.2になること(それ以前の市街地建築物法では水平震度0.1だった)はご存知だったろうと思います。その数値よりも25%増しの地震力を想定したのは内藤先生の経験から来る判断だったのでしょうね。

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 こうして許斐茉莉さんは無事に卒論を執筆できました。全くもって資料を貸与して下さった早稲田大学名誉教授・山田 眞先生のおかげです。そこで卒論発表も終わって春が間近に迫った頃、お借りした資料の返却方々、御礼と卒論の報告とを差し上げるために冒頭の喜久井町キャンパスを訪いました。内藤多仲博士の遺産が保管されている山田先生の研究室は内藤記念館にありました(したの写真3)。


写真3 早稲田大学喜久井町キャンパスの内藤記念館 2024年撮影

 ここで余話ですが、東大の内田祥哉先生(故人)のお弟子である松村秀一先生(建築構法学、甲斐芳郎さんと同級)が東大建築学科を定年退職後に早稲田大学に移られたのですが、その研究室がなんとこの建物内にあります。松村先生が2024年の木葉会(東大建築学科の同窓会)の名簿に載せた随筆「100年前の同窓会」によると上の写真の内藤記念館は1957年竣工で、意匠設計は早稲田大学教授だった明石信道先生で構造設計は内藤先生ご本人ということです。なおわたくしがここを訪れたときには松村先生はお留守でしたので、お会いできずに残念でした。

 さてこの内藤記念館ですが、鉄筋コンクリート構造の三階建てのように見えますね。正面に幅広の鉄砲階段(踊り場のない、一直線の階段のことです)がついていて、二階からアクセスするのが特徴でしょうか。この階段の左側にはシャッターが降りていましたので、一階は実験室のような用途だったのかと想像します(松村先生の随筆にもそのように書いてありました)。

 既述のように山田先生とは初対面でしたが、とても気さくに和やかにご対応いただきました。ありがたいことでございます。予想した通りにとても誠実で親切なかたであることがすぐに分かりました。この建物の二階に「内藤名誉教授研究室」という名札のお部屋があって、そこに内藤先生の遺したお宝類が山のように保管されていました。それを見た瞬間は息を飲みましたな、こりゃあ、すごいぞって。初対面だというのに迂生があんまり嬉々として目を輝かせているものだから、山田先生もさすがに呆気にとられたかも知れません、どうも失礼いたしました。

 それらの貴重な資料類は山田先生によって丁寧に分類されて机の上とか本棚とか書類入れとかに置かれていました。そして山田先生はそれらの(多分、代表的と思われる)資料を一つずつご説明くださいました。そういうお話しはわたくしにとっては全てがとても興味深く、いやはやこれはすごいところに来たものだと感激もひとしおでございます。山田先生がまたものすごく博識でいらして、次々に出来事とか人名とかがポンポン飛び出して参ります。でもノートをとったりするヒマはないですから、ハアハアなるほどそうですかなどと生返事をしているあいだに次の話題に移ってゆきます。

 そんな感じで約二時間、山田先生のお話しを伺うことができて迂生にとっては至福の時間となりました。でも、同行した許斐さんにとっては多分、チンプンカンプンだったのではないかとちょっと気の毒に思いましたが、まあ、仕方ないか…。最後にこの部屋に掛けてある内藤先生の肖像画の前で山田先生とご一緒に撮ったのが下の写真です。


写真4 内藤名誉教授研究室にて 山田眞先生と 2024年撮影

 山田 眞先生にはお忙しいなか、どこの馬の骨とも知れぬ者どものお相手をしていただき誠にありがたくかたじけのう存じます。お話しされたところでは、内藤多仲博士の遺した資料類をまとめたご本を執筆中とのことで、いずれ拝読できるのを楽しみにしております。でも百年近く前の紙の資料はパリパリになっていたりするのでその扱いは大変でしょうし、膨大な資料を整理して関連づけるのも根気のいる作業だろうと思います。そのご努力には本当に頭が下がりました。

 内藤名誉教授室には、ちょうど百年前(1924年)に内藤先生たちが催した帝国大学建築学科の同窓会の様子を描いた巻物が残されています。前述した松村先生の随筆「100年前の同窓会」にそのことが書かれていて、そういうものの存在を初めて知ったのですが、その現物を拝見してまたもや腰を抜かしました。

 それはクレヨンか色鉛筆か分からないのですがとにかく綺麗に着彩されたユニークな絵でして、それが色鮮やかに目の前にあるのですよ。とても百年前に描かれたものとは思えませんでした。その巻物には水墨画のように墨だけで描いた線描画なんかもあって、とにかく楽しげなんですね。今と違ってネットもなければテレビもない、ラジオすらまだなかった時代に先輩たちがどうやって楽しんでいたのかが垣間見られて、いとおかしゅう存じます。なおこの巻物の一部は山田先生から許可を得て写真に納めましたが、山田先生のご著作が世に出たらいずれ公開しようと思いますので、しばらくお待ちください。

吉報きたる (2024年2月29日/3月2日)

 ことしは四年に一度のうるう年なので2月29日があります。一日余計にいただいたという感覚ですが、だからと言って特段、嬉しいということもないですなあ。だんだんと陽が伸びてきて春の到来が待ち遠しいのは確かですが、それに連れて花粉の攻撃が激しくなるのは御免被りたいと願っています。

 そんな二月晦日に吉報が届きました。昨年の八月末に申請したJSPS科研費の基盤研究Cがめでたく採択されました。いやあ、やっぱり嬉しいです。今までは実験の実施を主体として研究計画調書を書いてきました。でも今回の申請では、我が社に蓄積されてきた実験の結果を今一度見直して精査することから始めて、マクロ・モデルの創出とか有限要素解析やばね系モデルを用いた骨組解析などの解析を前面に出した書きっぷりといたしました。

 いつも書いていますが、わたくしはやっぱり実験研究者として(多分、この学界では)認識されているでしょうから、誰もやったことのない実験をするんだ〜という気迫(?)と新規性とによって今までの科研費は採択していただいてきたように思います。そういうウリを今回の申請では奥側にしまいましたので、大丈夫かなあという不安は多少ありました。

 採択された研究課題名は『曲げ降伏破壊から軸崩壊に至る鉄筋コンクリート柱梁接合部の破壊機構の究明』というもので、このテーマについては手前味噌ながら迂生は先端研究者のひとりだろうと自負します。ですから、審査される方がこの課題の重要性を納得してくださればたぶん採択されるだろうなとは思っていました。とは言え科研費では競争相手も多いですし、個々の審査者の判断に依存しますので、採択していただいたことを嬉しく思いますし、とても感謝しています。

 ということで、2024年度から三年間、さらに研究費をいただけることになりました。このお陰で本学の定年まで自分のやりたい研究を継続できますので、ありがたいことこの上ないです。また、最近の本学では科研費のような外部資金への申請および獲得実績を基本研究費の配分額に反映させるという(本気かって思うのですが…)方針がとられ始めましたので、それに対しても安心できます。

 明治大学の晋沂雄准教授には引き続き研究分担者として一緒に研究を担っていただきますので、どうぞよろしくお願いします。あとはわが社の学生諸君がどのくらい積極的にこのプロジェクトに参加してくれるかにかかって来ます。ぜひとも、創意工夫を持ってこの研究の共同研究者として参画してください。一緒に研究に精を出してくれることを期待します。

オペレーションの無理と無知 (2024年2月27日)

 本学の前期・大学入学試験がきのう終わりました。毎年この時期になると再認識するのですが、あれだけ多数の問題を短時間に解くことのエネルギーたるや極めて特質すべきものがあると思います。受験生の皆さんはこの試験に自分の将来のかなりの部分がかかっていることをよく理解していて、青年だけが持つ瞬間的な爆発力を発揮することによってそれが可能になるのだと、老年に差し掛かったおのれは思います。

 そういう入学試験ですが、わたくしが仰せつかった仕事では滅茶苦茶にストレスがかかりました。特段変わった作業ではなく、入試業務では決まり切った仕事ですが(こう書くと大体お分かりでしょう)、マニュアルを一見したときからそのオペレーションが劣悪で時間内に完了するのは明らかに不可能でした。作業量に比して人員が少なく、それに反してやることは膨大なため、オペレーションには無理がありました。そのことを事前に担当者に話したのですが、とにかくマニュアル通りにやってください、との一点張りで仕方ありません。

 ということで現場に出向きましたが、案の定、時間内に作業を完了できずそこから先はマニュアルから外れますのでその都度の判断になりました。いやあ、こんなことでいいんでしょうか…。入試はたいへんに複雑な業務ですから、その詳細を構築して差配する関連部署の方々のご努力には本当に敬服します。でも、机の上で計画した通りに現場が動けるかどうかについては、ちょっとばかり想像力を働かせていただければ、と思うんですよね。今回の件は、現場で担当者がどのように動き、そのためにはどれくらいスペースと時間とが必要なのかについて、計画立案者は残念ながら無知だったと言わざるを得ません。

 こんな感じで今回は後味の悪い入試業務になりました。受験生諸氏にとっても迷惑だったかも知れません(とはいえ、彼女/彼らから直接に苦情を言われたわけではないので、これは想像です)。当局には今回のオペレーションの不具合についてお話ししましたので、今後、改善されることを切に希望します。

上野にて ―前川國男の東京都美術館―(2024年2月19日)

 Long, long time ago 宇都宮大学に勤めていたころ、東北新幹線の始発駅はまだ上野でした(現在は東京駅です)。その頃はまだ大学院での研究の続きといった感覚で青山博之先生および小谷俊介先生のもとで実験研究を行なっていたため、宇都宮と本郷とを足繁く行き来していました。宇都宮大学の学生たちを連れてきていたため大体は彼らを乗せて車で通いましたが、何かのついでに都心で会議があったりすると東北新幹線を利用しました。

 そういうときに日が暮れてから本郷の青山研究室を出ると、東大構内を東へとずんずん進んで二食(第二食堂のこと)と東大病院とのあいだを通り過ぎて坂を下ると、やがて不忍池[しのばずのいけ]に行き当たります。さらにそこを突っ切って弁天堂のわきをすぎるとまた台地上に登り、しばらく行くとJR上野駅にたどり着きます。ここまで歩いて20分くらいだったように記憶しますが、夜は人気がなくて寂しいところということしか憶えておりません。わたくしにとって上野はかようにうら寂しい雰囲気の街だったわけです。

 しかし言うまでもなく上野公園には動物園もあれば美術館もあるしホールとか博物館もあるので、一般には祝祭の地として認識されていることでしょう。でも、わたくしがそういうハレの場所に行ったのは大学生以前の頃まででして、大学教員になってからは全く寄り付かなかった場所でした。

 ということで先日、晴れた日に何十年振りかで上野公園に行ったのですが、完全にお上りさん状態と化してしまいました。そもそもJR上野駅の公園口のまん前に東京文化会館が建っていた(写真1)ことさえ忘却していました。上野駅公園口の正面を通っている道路は迂生の記憶では車がツーツーと通過できる代物でしたが(信号機のある横断歩道があったはず)、いまは駅改札の正面で分断されてその左右にロータリーが設けられていました(写真2)。歩行者は今じゃ駅改札を出ると自動車を気にすることなく上野公園へ向かって旅立てるわけです。すなわち改札を出てあたりをキョロキョロと見渡しながら物珍しげに歩き出すお上りさん(って、わたくしです)には優しい都市構造に生まれ変わっていたのです、よかったあ〜。


 写真1 JR上野駅公園口の正面にある東京文化会館(前川國男設計)


 写真2 JR上野駅とその公園口の北側に設けられたロータリー

 この日、上野を訪れたのはうちのお上さまが東京都美術館で開催されている「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵」展を見たいと宣ったためにそのお供でくっついて行ったのです。正直に言いますが、わたくしは印象派の絵画に特段の興味はございません。さらに言えば、この展覧会のタイトルをよく見ると気がつきますが、印象派と銘打ってはいるものの展示の主題はアメリカに伝播した印象派風の絵画にあるわけでして、余計に食指は動きません(ファンの皆さん、ごめんなさい)。



 そんなに興味がないのになぜ行ったのかと言えば、それは展示会場そのものに興味があったからでございます。東京都美術館は前川國男の設計で1975年に開館し、2010年から2012年に大規模改修された建物です。改修前のこの美術館には多分、行ったことはあると思いますが(全く記憶はないけど…)、改修後に行くのは初めてです。この建物は地上2階建て(対して地下3階)の鉄筋コンクリート構造で、展示棟の地上部分は耐震壁フレーム構造で地震力に抵抗します。台地上にあることから地盤はそこそこよいらしくて(N値15〜30の砂層)直接基礎で支持されています。ちなみに構造設計は横山不学先生(よこやま・ふがく、昭和3年、東京帝国大学・建築学科卒業、前川國男は同級生でそのほかに市浦健や谷口吉郎がいる)の設立した横山建築構造設計事務所です。

 この美術館の特徴は下の写真3で分かるように、四つの公募展示棟が雁行して建っていて、奥に向かって自然と歩み入ってゆくようなアプローチにあります。いやあ、なんだか知らんけどワクワクするなあっていう感覚ですよ。そこはエスプラナードと呼ばれる広場(写真4)で、さらに進んでゆくと下に降りる階段・エスカレータがあって、地下1階に設けられたサンクン・ガーデン(中庭)に導かれて美術館のエントランスへと誘われます(写真5)。そこに至るまでのシークエンスはさすが前川建築だけあって秀逸ですので是非、ご自分で体験してみてください。


 写真3 東京都美術館の入り口(前川國男設計)


 写真4 東京都美術館の正門から続くエスプラナード(広場)


 写真5 地下1階の中庭と美術館のエントランス(右側)

 ということで美術館に入り、企画展示室に行ってお目当ての絵画を見て参りました。平日の朝だというのに相当に混んでいて、特に入り口では人々が群れていて気持ちよくないので(三密は回避すべし!)、そういうところはサッサと通過してずんずんと進みます。でもそうすると予想よりも早くアッという間に見終わってしまいました(お上さまからは「アンタ、なに見てんのよ」って言われました、はいっ建築を見ていました)。印象派展とはいっても目玉はモネの『睡蓮』だけみたいで、それも思いのほか小さな淡い絵画でした(猫に小判とはこのことか、あははっ)。

 東京都美術館は上述のようにエントランスを含めてかなりのボリュームが地下にあります。今回の「印象派」展をやっている企画展示室や公募展示を行う四つの展示室にアクセスするためにはこの地下1階に広がるロビーやホワイエを介するのですが、そこには吹き抜けのような空間の抜けがありません。古い建物ということもあり階高が低く、脇には中庭があってそこから光が差すとはいってもやはり圧迫感は拭えないように感じました。でも写真6のようにロビーの天井は丸みを帯びたボールト状になっていて、素敵な照明が柔らかな光で照らすことでそういう圧迫感をいくらか緩和してくれます。そういうところはやっぱりよく工夫されていると思いますね。


 写真6 地下1階のエントランス・ロビー


 写真7 東京都美術館の東側の小庭からサンクン・ガーデンおよび公募展示棟を望む(右側は中央棟)

 早々に印象派展を見終わったので、家内との待ち合わせ時間にはまだ一時間半くらいたっぷりとあります、よしよし。そこで1階のアートラウンジでコーヒーを飲んでひと休みしてから、建物の周囲をグルっとひと通り見て回りました。写真7は美術館の東側の小さな庭に立って一段下がった中庭越しに公募展示棟を見やったところで、右側の灰色の水平線の部分は1階がアートラウンジで2階はレストランです。東京都美術館の構成を如実に表すのがこの写真だと思ってひとり気に入っています。ただこの小さな庭は敷地内からは階段でしかアクセスできないので、車椅子の方がここに来るには美術館の外に出てぐるっと回る必要があります。2012年の大規模改修によって主要な場所にはバリア・フリーが施されましたが、まあここは仕方ないか…。

 外壁は前川國男お得意の打ち込みタイルで化粧されています。それに対して地下1階に相当する中庭の外周はコンクリートのはつり仕上げになっていてそこは白っぽく見えます(写真5および8)。そういうコントラストにも前川の心配りが為されていて、芸が細かいですよね。なお写真8の左端に写っている企画展示棟ですが、2012年の大改修時に地上から上の部分はすべて取り壊して新しく建て直されたそうです。

 企画展には地下1階から入りますが、展示に従ってエスカレータによって段々と上に導かれ、最後はまたエスカレータで1階に降りてちょっと目を休めてから(写真9)、さらに地下1階に降りて元に戻るという順路になっています。その帰路の部分には特段の展示もないのでちょっと迂遠な感じがして、そこだけ間延びした空間のように思いましたが、皆さんはいかがでしょうか。


 写真8 左から企画展示棟、中庭および公募展示棟(正面奥が正門)


 写真9 企画展示棟1階 右側のエスプラナードに面してガラス張りになっている

 こんな感じで前川國男による東京都美術館の空間を堪能しました。いつも書いていますがやっぱり巨匠と言われるひとの建築はひと味違うことがよく分かります。建築学科の学生諸君にはよく話すのですが、見てくれのデザインにとらわれずに空間を体験しその構成を理解すること、それがよい建物を設計するためにはいちばん大切なことだと思います。

 改修後の東京都美術館の模型がアートラウンジに展示されていましたので、以下の写真10に載せておきます。実はこの隣りには改修前の模型もあって、それらを比較するのはとても興味深かったです。現地を訪れたらこちらもぜひご覧下さい。


 写真10 東京都美術館(前川國男設計) 大規模改修後の模型

サントリーホールにゆく (2024年2月14日)

 春のような暖かさになりました。それは嬉しいのですが、今日から花粉ちゃんが本気になって飛び回り始めたようでして、急に具合が悪くなりました。いやあ、たまらんですわ、ホント。

 さて、先月、東京都心にあるサントリーホールに行きました。地下鉄の六本木一丁目駅あるいは溜池山王駅から歩いて10分かからないくらいのところにあります。東京生まれの東京育ちなのに、サントリーホールに行くのは(おそらく)初めてです。そういう華やか(そう)なところにはもともと縁がない人種ですから、わたくしは。

 女房がオーケストラでヴァイオリンを弾いていた頃には(オケの拠点の関係で)渋谷のオーチャード・ホールや初台の東京オペラシティが多かったので、わざわざサントリーホールまで行かなかったのかも知れません。いずれにせよこんな都心には滅多に行かないので、サントリーホールの隣にテレビ朝日があることも今回初めて知りました。

 下の写真はアーク・カラヤン広場越しにサントリーホールの正面玄関を撮ったもので、金色の円が重なったオブジェは「響」と名付けられています。中央右の円形階段状のところにカラヤン広場の赤色のプレートがあって、その右側がテレビ朝日です。大きなアーケードがかかっていて雨降りのときには便利です(この日はしばらくして小雨が降り出したので助かりました)。






 よく憶えていませんがクラシックのコンサートに行くのはいつ以来でしょうか。二十年近く行っていなかったような気がします。とはいえ、それ以前も自分でチケットを買うことはなくて、女房のオケのコンサートでチケットが売れ残ると招待券が出ることがあってそれをもらって出かけたり、亡き母のお供でオペラに行ったりしていたので偉そうなことは言えませんけど…。

 ということで今回、多分生まれて初めて聞きたいクラシック曲を自分自身で選んでコンサートのチケットを買いました(注1)。この日の演目は、ときどきこのページで書いているブルックナーの交響曲第六番です。ことしはブルックナー生誕二百年の節目なので、ブルックナー・ファンの多い日本では(英国やフランスでは逆にそのファンは少ないらしい)そのコンサートが多くなっていると思われます。指揮者は尾高忠明さん、演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団でした。

注1;厳密に言えば、例えばホルストの『惑星』(全曲)とかスメタナの『わが祖国』(全六曲を通しての演奏)は聞きたかったので、女房に頼んでチケットを購入したことがあります。

 尾高忠明さんの指揮は多分、幾つか聴いてきたと思うのですが、なんせ上述のように余ったチケットをタダでもらっていたので、どこで何の曲を聴いたのかさっぱり憶えていないんだなあ、これが。手元には彼が指揮した東京フィルハーモニー交響楽団のブルックナー交響曲第七番のCD(1987年録音)があるのですが、そんなに感動した覚えもありません(尾高さん、ごめんなさい)。いずれにせよ彼がまだ若い頃の演奏でしょうから、喜寿に近い年齢に達した今では心境なり曲の解釈なりが変わった可能性は大いにあると想像します。

 サントリーホールは下の写真のようにステージの周囲を客席が取り囲む形式でした。音響的にはどうなんでしょうかね…。そしてわたくしは舞台正面の左側、前から二列目に座りました。でも開演になってもその島の最前列には座っている人はほとんどいませんでしたし、わたくしの両隣も空席でした。ネット予約したときにはもうほとんど埋まっていたのに、なぜなんだろうか…。





 迂生が座ったのは、舞台の縁に配置されたファースト・ヴァイオリンの第三プルトのちょうど前あたりで、指揮者の尾高忠明さんがちょっと左を向くとそのお顔がよく見えました(上の写真の手前の右端に譜面台が立っていますが、ここにコンサート・マスターが座ります)。ただ、管楽器やティンパニは全くといってよいくらいに見えなくて、その点はかなり残念でした。ホルンの金色とかオーボエの一部とかがかろうじて見えました。

 大阪フィルの演奏を聴くのは初めてですが、ヴァイオリン奏者に女性が多くてビックリしました。指揮者の右隣に座ったヴィオラの首席奏者(男性)がよく見えたのですが、すごく体を揺すって演奏する方でその直接音がよく聞こえましたし、とにかく熱演なのには驚きました。

 ブルックナーの第六番はその交響曲のなかでは人気がないことになっていますが、その一方でこの曲を熱烈に愛するファンが多いとも言われています(迂生もそのひとりに数えられるのかも、知らんけど)。なにが真実なのかは分かりませんが、この日の演奏会では八分くらいの入りだったので、それなりに関心を引いたのではないかと思います。もちろん尾高忠明さん個人のファンや大阪フィルのファンもいるのだろうとは思いますが…。

 ということで、この日の演奏の感想はまた別に書こうと思います。

真空時間にやること (2024年2月13日 その2)

 真空時間にどっぷり浸かっているのですが、この貴重な時間を使って溜まっていたレポートの採点を一気に片付けました。三年生後期の「構造設計演習」は二コマ続きの演習科目で、通常は高木次郎教授と折半して担当していて、前半は高木先生が鉄骨構造を後半はわたくしが鉄筋コンクリート構造を対象としています。ところが今年度は彼がサバティカルでお休みだったので、半期通して迂生単独で授業をやりました。さすがに鉄骨構造の設計をやるのは大変なので、全部鉄筋コンクリート構造です。

 このような経緯から、例年の二倍の量を負担しないといけなくなって、今までやっていた新築設計の課題だけでは足りません。そこでウンウンとうなりながら考えた結果、学生諸君が自身で設計したRC建物を耐震診断してもらったり、兵庫県南部地震(1995年)で倒壊した具体の建物を耐震補強するにはどうしたらよいか考えてもらったり、磯崎新のアートプラザのスパン26メートルの大梁(千葉大学・村上雅也先生が構造設計した物件!)の安全性の検討などを課しました。

 ということでそれらのレポートを採点しようとしたのですが、まず最初に自身で模範回答を作らないといけません。それがやってみると思いの外に大変でして、学生諸君のレポートを見ながら、ああそうだね、それも検討しないといけないなあとか気がつきながら、わたくしなりの回答を作るのに結構な時間を費やしました。そうして学生諸君のレポートを採点しながら、これらの課題が結構、頭を使うよい訓練になっていることに思い至りました(われながらいい課題だなあとか自画自賛しているわけです)。

 そうして、これらの課題にさらに肉付けしてレベルアップすれば、大学院科目の演習にピッタリなような気がして参りました。いやあ、いいアイディアだなあと今、悦に入っているところでございます、はい。

真空時間 (2024年2月13日)

 長くてハードな学事ウィークが終わると、わが建築学科にはつかの間の静寂が訪れます。論文執筆と発表に精魂疲れ果てたのかどうかは知りませんが、研究室には学生諸氏の姿もなく閑散とします。そういう真空時間のなかで、もちろんわたくしも一息入れてホッと安堵の気分に浸ります。

 わが社の今年の卒論生たちは久しぶりに豊作だったことを嬉しく思います。エンジンがかかるのが遅すぎというひともいましたが、最後はかなりしゃかりきになって研究が一気に進んだように見えました。でも、ここまでやって来てやっと真理の探究のとば口に立てたのにこれで卒業してしまう、というのもなんだか勿体無いように思いますけどねえ(本人たちはそうは思わないのでしょうが…)。

 発表練習を三回やったのも久しぶりでした。でも、その効果は如実にあったようで四人とも立派な発表ができました。ちゃんとポインターで指して説明できましたし、スライドも分かりやすくて良かったと思います。やっぱりちゃんと練習しないとダメということを再認識しました。

卒業設計を採点する (2024年2月7日)

 今朝のテレビ・ニュースできょうが「北方領土の日」であることを報じていました。北方四島が日本固有の領土であることは歴史的に正しく、1945年8月の終戦以降にソヴィエト連邦が北方四島に侵攻して不法に占領したという事実は覆しようがありません。ひどい話しですが、そういうことは世界中で未だに厳然として存在しており、人類の変わらない愚行にはただ驚くばかりです。

 さて月曜日に降った雪も少しずつ溶けてきましたが、先ほど国際交流会館に行って卒業設計の採点をして来ました。今年は17名の学生諸君が作品を提出しました。いつも書いていますが、図面(A1サイズ)の枚数がどんどん減って来ていて、ことしはなんと2枚!っていうひとが現出いたしました。6枚貼ってあると多いと感じるくらいのレベルに成り下がっていて、こんなことで果たして本当に宜しいのでしょうか。

 建築界では図面に表現したことが全ての情報です。それを読み手に伝えられるように設計者の意図を表現することが求められていて、建築学科ではそのための教育を四年に渡って施しているつもりです。模型はわりとよく出来ているひとが多くて、それはよいこととは思うのですが、いずれにせよ図面が第一であることを忘れないで欲しいですね。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU卒業設計採点2024_国際交流会館20240207:IMG_2729.JPG

 ことしはやじろべいのようにゆらゆら動く椅子を設計して、実物を木工製作した学生さんが現れました。物理的によく考えられていてそれ自体は興味深かったですし、なによりも実際に座ってゆらゆらを体験できる実物を展示したインパクトは大きかったと思います。でも…、これって建築学科の卒業設計としてはどうなんでしょうか。家具職人を要請する職業学校の卒業制作とか、インテリアデザイン学科の卒業設計ならばいいのでしょうが、建築学科の成果としてはやっぱり物足りなく思いました。

 ということで今年も辛口のコメントになってしまいました。図面に全てを語らせること、そして卒業設計としては図面が9枚程度以上は必要であることを履修者にはそろそろ事前にアナウンスしたほうがよいかと思うのですが、いかがでしょうか。

発表会いろいろがスタート (2024年2月5日)

 今週は月曜日から木曜日まで修士論文、修士設計、卒業設計および卒業論文の発表会が開かれる学事ウィークです。この日を目指して研究活動に勤しんてきた学生諸君にはその集大成としての発表の場ですからベストを尽くしてほしいと思います。

 いま、大学院・構造系の発表が終わって研究室に戻ってきました。二年間の成果をわずか11分で説明しないといけないのですが、フツーに考えればそんなことは無理な話しですよね。そこで何をどのように発表するのか知恵を巡らして欲しいわけです。ところが、大方の発表は自分がやったこと全てを発表しようとするらしく、ものすごい早口でさらにはスライドを指して説明することもせずに突っ走っちゃうんですね〜。それじゃ、分からないし伝わらないってば。

 そうすると質問するって言っても、当たり障りのない簡単なことを聞くだけか、そうじゃないといくらやりとりしても議論が噛み合わないという事態に立ち至って、お互いに不幸を味わうことになります、あぁいやだな、ホント。もっと工夫して発表の題材を吟味し、スライドを作り込んで指しながら説明する、という基本をしっかり守って欲しいよなあ…。

 そんなふうに落胆して正門脇の小講堂から外に出ると(正午過ぎです)、ものすごく寒くてすでに雪が降り始めていました。ありゃ、天気予報よりもかなり早い降り出しだなあとか思いました。7階にある研究室から撮ったのが下の写真です。牡丹雪のように一つひとつの雪片が大きめなせいか全体が真っ白になっていて、普段は見える京王線の高架が全く見えませんでした。ひどくならないうちに早めに帰りたいとは思いますけど、どうだか…。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU雪の南大沢20240205:IMG_2726.JPG

十年以上活動して (2024年1月30日)

 今朝は暖かくなりましたね。いいお日和だったので調布駅まで歩きましたが、梅の花が咲き始めているのに気がつきました。そろそろ花粉も飛び始めるみたいで、そうと聞くだけで鼻がムズムズして参ります…。

 さてこの一月末に、日本建築学会から『原子力施設における建築物の耐震性能評価ガイドブック』がめでたく発刊されて、建築会館ホールで講習会を開きました。原子力施設の建物を主な対象としていることもあって一般の関心はあまり引かないかも知れません。それでも講習会には現地参加者が七十名程度、オンライン参加者が五十名程度いてまずまずの入りだったと思います。わたくしはこの耐震性能評価ガイドブックを作成する小委員会の主査を務めたので、講習会では司会を仰せつかりました。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:Desktop:AIJ原子力_原子力施設における建築物の耐震性能評価ガイドブック_表紙20240125.jpg

 この耐震性能評価ガイドブックの表紙はなんだかすごいピンク色でして、講師の皆さんとなんでこんな色なんだろうねって話していました。日本建築学会の規準や指針と較べると本書は格下の出版物なのでサイズもA4版で大きいです。

 このガイドブックですが、完成するまでに十数年を要しました。そもそもの発端は2007年の中越沖地震で東京電力の柏崎刈羽原子力発電所において設計地震動を超える大きな地震動を受けたものの主要な建物の健全性が確保された、という事実にあったようです。それ自体は慶賀すべき事柄でしょうが、じゃあ原子力発電施設の持っている耐震性能の“真の実力”って一体どれくらいなのよ、という疑問がもたげて参りました。

 そこで(迂生の記憶では)日本電気協会に次期耐震設計規定策定準備作業会というのが設置され、久保哲夫先生(当時東大教授)を主査としてわたくしや前田匡樹さんが委員になって、原発建物の耐震性能評価についての現状や疑問点を洗い出すという作業を行いました。その報告書は2009年に日本電気協会から出されています。

 その後、日本建築学会に原子力建築運営委員会が設置されたこともあって(初代主査は瀧口克己先生)、この作業を実質的に建築学会で引き継いだということになります。2012年頃の小委員会の議事録を見ながら「耐震裕度」という表現を原子力ムラの人びとが使っていたことを思い出しました。でも建築構造分野においてさえ「耐震裕度」という言い方はポピュラーではなく、どう考えてもムラ特有の方言としかわたくしには思えませんでした。

 そこで「耐震裕度」ではなくて「耐震性能評価」という表現を使うようにムラの皆さんに求めましたが、根強い抵抗にあったこともまたよく覚えています。このガイドブックを電気協会から発刊するのであれば迂生もそんなに強くは言わなかったと思うのですが、今回は個々の研究者の集合体である日本建築学会から出すわけですから、そういうムラ独特の用語を使うべきではない、というのが迂生の判断でした。そういうわけで本書のタイトルを「耐震性能評価ガイドブック」にしてもらった次第です。

 本ガイドブックの内容については触れませんが、耐震性能の具体の明示法として確定論的手法のほかに確率論的手法も導入しているのが一般建築とは異なる点です。その点では、今後、一般建築でもその耐震性能を確率論的に評価して社会に分かりやすく説明する際には参考になるかと思います。

 このように建築学会のなかで十年以上も活動してきた成果を世に出すことができてとても嬉しく思います。執筆したのは電力会社や大手ゼネコンのエリートたちですから、出来がよいのは当然かなと思っています。でも、かつての議事録などにすでに鬼籍に入った方のお名前を見い出したとき、ここに至るまでに結構な年月を費やした事実にも気がつきました。わたくしのお役目もそろそろ終盤に近づいたように思います。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:むつ市リサイクル燃料貯蔵施設振動試験2013:CIMG3312.JPG

 すでに亡いS氏とともに訪れた下北半島で恐山を写したのが上の写真です。もう十年以上前の夏でしたが、真夏とは思えないくらい肌寒くて恐山が荒涼とした感じに見えたことをよく憶えています。実は今、ショスタコービッチの交響曲第八番(ゲルギエフ指揮、マリインスキー・オーケストラ)の第一楽章を聴きながらこれを書いているのですが、おどろおどろしい曲の感じがこのときの印象にぴったり一致するのが奇遇です、レクイエムかも…。

御茶ノ水を散策する (2024年1月26日/28日)

 ことしの日本建築学会大会を明治大学駿河台キャンパスで開催することは以前に書きました。わたくしはその大会を運営する委員会の代表を務めていることから、先日、その委員会を現地で開くことにして御茶ノ水に行ってきました。高校生や大学生の頃には御茶ノ水にはよく行きました。当時住んでいた新宿区百人町からは大久保駅で黄色い電車に乗って一本で行けますし、文京区本郷からは言うまでもなくすぐ近くです。駿台予備校があって高校生の頃には模試とか夏期講習で通いましたし、建築学生にとってはレモン画翠とか南洋堂書店が馴染深いですから。

 大学四年生になって鉄筋コンクリート構造の研究室に入ってからは建築模型を作らなくなりました。それでもここに来るとやっぱり懐かしいんですよね、レモン画翠が。まだあるかなって思いながら昔の記憶を辿って歩くと、その場所に今もちゃんとレモン画翠は建っていました、よかったです。このお店で、パースを着彩するための紙とかインレタとか模型の材料などを買ったものでした。


 

 さて、この夏の建築学会大会の懇親会を神田明神ホールで開くことになったので寄ってみました。JR御茶ノ水駅を降りて聖橋を渡るとすぐです。聖橋(右上の写真)は分離派建築会を約百年前に結成した建築家・山田守が設計しました。鉄筋コンクリート製の橋ですが、その当時の表現主義的な丸みを帯びた曲線でデザインされているのが特徴です。左上の写真は聖橋の下を通る国道17号わきの歩道ですが、その部分のデザインも同じモチーフで統一されていることが分かります(ここも聖橋の脚部の一部です)。

 神田明神は本郷台地の端に立地していて、その北側は谷底に落ちてゆきます(中沢新一のアース・ダイバーの世界です)。御茶ノ水駅からのアプローチは下の写真のように、大通りに面して鳥居が建っていてビルの谷間のような細い参道を通って入ってゆきます。平日の午後早い時間でしたが、参拝する人やお土産?を買い求める人たちが群れていて驚きました。神田明神ホールはガラス張りの新しい建物で、約三百人を収容できるようです。懇親部会ではクロークのスペースが狭いことを気にしていますが、それを除けばまずまずの条件みたいです。駅から近い都会のど真ん中ですから、それなりの費用がかかるのは仕方ありませんね。でも、あんまり会費を高くすると誰も来てくれませんので、ギリギリのところの値段を設定しましたが、どうでしょうか…。




 すぐ近くに湯島聖堂があるのでプラっと立ち寄ってみました。ずっと東京に住んでいて御茶ノ水も上述のように馴染みのある場所だったにもかかわらず、湯島聖堂を訪れるのは多分初めてのような気がします。左下の写真は孔子廟(大成殿)で、説明板には1935(昭和10)年に鉄筋コンクリート造で再建されたとありました。右下の入徳門は1704年の建立です。江戸時代の学問の中心に相応しく、その学問場に入るための門に「入徳」という名前を付けたのでしょうか。

 

 そろそろ明治大学に行こうかと思って歩き出すと、緑色の丸っこいドーム状の屋根が見えてきました。それで、ここにニコライ堂があることを思い出しました。看板を見ると正式の名前は東京復活大聖堂というそうで、国の重要文化財に指定されています。うろ覚えですがこのドーム屋根の部分はジョサイア・コンドル先生が設計だか監修だかをしたのだと思います。この建物も有名ですがしげしげと見たのはこれが初めてですし、なかには入ったことがありません(この日ももう時間がなかったので入れなかった)。いつでも行けると思うとなかなか行かないものですな…。




 ということでここから明治大学駿河台キャンパスに向かい、そこのグローバルフロントという建物の17階で大会委員会を開きました。建築学科の小山明男教授が会議室を確保してくれました、ありがとうございます。ちなみに明治大学建築学科は川崎市にある生田キャンパスが本拠地ですから、この建物に来ることはあまりないそうです。そこの17階から見る都会の眺めは素晴らしかったです(上の写真、左奥が新宿副都心だと思う)。さすが私立大学の雄だけあって都心の一等地に立派な校舎を所有しているなあと感心しました。

 会議が終わって、大会当日は個別の発表会場となるリバティタワーに行って、教室とか講堂などを拝見しました。今回は建築学会大会として初めての高層ビルでの開催になりますので、上下方向の移動にどのくらい時間がかかるのか読めません。リバティタワーではエレベータのほかに17階まではエスカレータが設置されているので、試しに17階から1階までエスカレータに乗って立ったままで降りてみると六分くらいで下まで行けました。これくらいならまあいいんじゃないかなと思いましたが、いかがでしょうか。

 そのエスカレータを降りてゆくあいだ、窓ぎわのところどころに小ぢんまりとしたヴォイド(吹き抜け)があることに気がつきました。よく見るとそこは学生諸氏のための休憩とか打ち合わせとかのスペースになっていました。それが下の写真です。気持ち良さそうに学生さんが横になっていましたぞ。明治大学、すごいですね〜。その壁の脇に「▼ 63.5m タージ・マハル(インド)」とか「▼ 62.2m クイーンエリザベス2世号」等の表示板が張られているのがおもろいです。この場所はそれくらい高いんだぞってことを明治大学の学生諸君に知らしめるためでしょうか…。



 ところで建築学会大会の実行委員会ですが、かつて東京都立大学建築学科の教員だった門脇耕三さん(明治大学准教授、建築構法)や権藤智之さん(東京大学准教授、建築生産)にもその幹事や部会長を務めていただいていて、久しぶりにリアルでお会いしました。お二人ともにそれぞれの大学で大いに活躍していることが分かってとても嬉しかったです。大会の実施に向けて実行委員会のお仕事はこれから段々と忙しくなってゆくと思いますが、何卒よしなにお願いします。

あれから二十九年 (2024年1月18日)

 きのうは兵庫県南部地震が1995年に発生した日でした。このお正月に能登半島地震が発生して、今も救助を求めるひとたちがいるという非常事態は続いていますので、阪神大震災のときのことがいっそう鮮烈に蘇って参ります。

 写真は地震発生から十日目に現地に行って撮影したもので、三宮駅北口の日生ビルです。鉄筋コンクリート(RC)建物の中間部の柱がせん断破壊して軸力を支持できなくなり、その層が潰れて上の階がストンと落ちる形で崩壊しています。いわゆる中間層崩壊ですが、当時、最先端の技術を誇った日本でこんな致命的な破壊が生じると思っていたひとは専門家でも多分、ほとんどいなかったのではないかと思います。わたくしもそのひとりでして、これを自身の目で見たときには心底、驚きました。確かこのちょっと前にアメリカでノースリッジ地震があって、近代的なRCの構造物が激しく破壊されたのですが、その映像を見たときにはこんなことは日本では起こらないよなって(まさしく対岸の火事を見るかのように)思ったことをよく憶えています。でもそれは大きな間違いだったのです。



 ただ冷静に考えれば、新耐震基準が施行された1981年以前に設計された建物であれば、耐震性能が劣っていることは明らかだったので、こういう崩壊が発生してもおかしくはなかったのでしょう。この地震では、神戸の中心街でこのような中間層崩壊を生じた建物が多かったこともあって(神戸市役所の中層市庁舎もそのひとつ)、世間の驚愕を呼んだことと思います。

 いつも書いていますが、人間の知恵とか知識とかは偉大な自然に較べればちっぽけで些細なものに過ぎません。そういう事実を忘れずに、自然に対しては常に謙虚でなければならないという教訓を(少なくとも迂生に)与えてくれた災害のひとつがこの地震でした。

安藤ストリートのほっとする建物 (2024年1月14日)

 調布市仙川に安藤忠雄さんの建築が群立しているストリート(下の地図の都道松原通り)があることを、昨年のクリスマス・イブにこのページでお話ししました。それらのアンタダ(安藤忠雄さんのことをわたくしが大学生の頃にはこう呼んでいた)建築はテクスチャーが統一されて端正ではありますが、街に対しては閉鎖的で冷たい感じがすることを書きました。

 ところがこの安藤ストリートに沿って、それらのアンタダ建築とは異質のテイストを醸し出す建物が建っています。そのことを今回は語りたいと思います。それは下の地図に赤色で示した仙川アヴェニュー北プラザおよび南パティオの二棟です。この二棟とアンタダ建築とのお施主さんはどうやら同じ方のようですが、経緯としてはこの二棟が先に1988年に建設されました。調べてみると設計した建築家は中地正隆さんという、師匠・小谷俊介先生と同級のかたでした。


 中地正隆さんが設計した北プラザ(写真1)および南パティオ(写真2)はコンクリート打ち放しでそこだけ見れば安藤さんと同じですが、この二棟は街に対して広く開いていて懐が深いということがアンタダ建築との最大の違いです。整形な鉄筋コンクリート骨組によってカチッと構成されていますが、ところどころがオープン・フレームになっているので視線の抜けが得られて、建物の奥行きの見通しをよくしています。


写真1 仙川アヴェニュー北プラザの西面全景(左端は安藤忠雄のシティハウス仙川)


写真2 仙川アヴェニュー南パティオの北面全景

 なによりも二棟ともに小さいながらも中庭が設けられていて(写真3・4)、そこに面して北プラザでは喫茶店や飲食店などが、南パティオでは居酒屋(調布では有名な焼き鳥のチェーン店)がそれぞれ構えているので、通りに対して積極的にコミットした設計になっています。道ゆく人びとがふら〜っと入りやすい雰囲気を持っているのです。通り(安藤ストリート)の北側から南下すると冷たい感じの建物群が続くのですが、ここまでくると街に対してあたたか味のある構えを持った建物たちに出くわすので、多分誰もがほっとすることと思います。


写真3 北プラザのオープン・フレーム越しに中庭を望む


写真4 南パティオの中庭から北西を望む(右のガラス面は空き店舗)

 お施主さんがなぜ建築家を中地正隆さんから安藤忠雄さんに代えたのかは不明です。前稿で書いたようにアンタダ建築が建っている敷地はいずれも細長くて不整形なので、道路に面したパブリック・スペースを取りにくかったということはあるかも知れません。しかし安藤さんほどの建築家がそれをできないとは思えませんので、街に対して閉ざした設計は彼が意図して行ったことだろうと考えます。

 先に建てた北プラザと南パティオが持つ居心地のよさを捨てて冷たい硬質な建物群をアンタダに依頼したお施主さんの気持ちがどうにも解せません。下の写真を見ると、お店に続く中庭やピロティ部分に椅子やテーブルを置いて人びとのくつろげるスペースが用意されているのが分かります。こういった些細な小道具が街を活き活きとさせるということにお施主さんは気がつかなかったのでしょうか。残念ですが儲かればいいっていうのを多分、優先させた結果に過ぎないんでしょうけどね…。


写真5 北プラザの中庭から小ホール(中央奥のかまぼこ屋根)を望む


写真6 南パティオの西面(右隣は安藤忠雄の仙川アヴェニューアネックスII

久しぶりに投稿する (2024年1月8日)

 この週末の三連休は自分の書斎に座って過ごしました。日本コンクリート工学会(JCI)の年次論文の締め切りが今日の午後三時で、それへの投稿を目指してM1の藤村咲良さんが論文の執筆を進めていました。正直なところ、数日前の状況を考えると投稿は厳しいかと(ひそかながら)思ったりしました。でも、わたくしの指摘する内容を藤村さんがよく理解してくれて、昨日から一気に進みました。もちろん藤村さんが一所懸命に努力した成果だと思います、ご苦労さまです。

 ということで昨日からメールでの原稿のやり取りが俄然、活性化しました。折に触れて共著者の晋沂雄先生(明治大学准教授)にも原稿を見ていただき、有益な指摘をいただきました、ありがとうございます。その甲斐あって、手前味噌ながらまずまずの論文に仕上がったと思っています。もちろん未解明の問題や課題が残っているのは確かですが、そういうものが明らかになったという点でも今回の論文執筆は有益だったと考えます。

 藤村さんがわが社のフラッグシップたる研究課題に取り組み、その成果である論文を首尾よくJCIに投稿してくれて、ホントに嬉しかったです。思い返すと、わが社の学生さんが第一著者となった査読付き論文は2019年の李梦丹さん以来、五年振りなので、嬉しさもひとしおでございます、はい。これでわが社の研究室活動を少し立て直すことができたような気がします。

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 この元旦に発生した能登半島地震では今でも救助を待つ人たちがいますし、その被害の全貌は未だに明らかになっていません。空路も海路も使えずに寸断された陸路を頼りにして救援活動が進んでいると聞きます。わたくしの所属する日本建築学会の研究者たちが現地に入って、それぞれの視点から速攻でまとめた調査速報のレポートをどんどんと送ってきてくれます。金沢から現地に入るまでに7時間かかった等の報告を拝見するにつけても大変だなあと本当に頭が下がる思いです。

 そうではあるのですが、道路の使用は人命救助と救援物資の輸送とに優先されるべきでしょう。地元の首長さんたちからは激しい道路渋滞を避けるために一般人の能登半島への訪問は控えてほしいとの要請が出されました。地震被害調査は今後の防災・減災活動に非常に有益なので、その調査に従事する研究者が上述の「一般人」に含まれるのかどうかは一概には判断できませんが、いずれにせよ、そういうなかでの現地調査はかなり微妙な立ち位置にあるようにも思います。その辺のバランスをよく見ながら、自身の安全も確保したうえで調査をしていただければと思います。

 わたくし自身は2011年の東北地方太平洋沖地震以来、耐震補強された建物がどのようなパフォーマンスを発揮したか、あるいは発揮できなかったという点に興味があって、そのような研究を進めて来ました。能登地方にも耐震補強された鉄筋コンクリート建物は学校校舎をはじめとして公的建物には多くあるはずです。機会があれば、この検証にも取り組みたいと考えています。

新しい年の授業が始まる (2024年1月5日)

 本学の所在する八王子市南大沢はよく晴れました。そんなに寒くもありません。青空がとても綺麗だったので、正門脇の光の塔でも撮るかと思ってデジカメを取り出そうとしていたら、駅のほうからドドっと学生諸君がやってきて驚きました。それで今日から新年最初の授業が始まることを認識いたしました(わたくしの授業は来週火曜日からです)。

 きのうは御用始めで朝からさっそく教室会議があったので登校しました。ことしは研究室の学生諸君もかなり登校して来て、お正月あけ早々に三人の学生さんと研究の相談をしました。こんなことはこの数年なかったことなので、忙しいとは思いつつもやる気のある若者に付き合う清々しさを久方ぶりに味わって、ちょっぴり幸福感にひたりました(われながらジジくさいと思いますけど…)。

説明: Macintosh HD:Users:KitayamaKazuhiro_2:写真:TMU光の塔20240105:IMG_2634.JPG

 このお正月は能登半島で大地震があり、羽田空港では飛行機同士が衝突するという大惨事が起こって世情が騒然としたまま終わりました。国内がこんなふうだとガザでの虐殺やウクライナでの侵略についての報道がほとんど見られなくなることに気が付きました。まあ、そうですよね。遠くの他人よりも身近な同胞、ということになるのは人情としてやっぱり仕方ないことでしょう。グローバルの時代にそんなヴァナキュラーなことを言っては怒られるのかもしれませんけど。平凡でも毎日が淡々と過ぎてゆくことの幸せを思わずにはいられません。

お正月 (2024年1月1日/3日)

 穏やかに晴れたよいお正月を迎えました。このような日々がゆったりと気分よく流れてゆくことを祈りたいと思います(が、その夢も元旦の夕方にあっさり破られることになるのは皆さん、既にご承知のとおりでございます)。

 ことしはアントン・ブルックナー(1824-1896)の生誕200年の記念の年になります。そのせいか数年前からこの二百年祭を目指してブルックナーの交響曲を新規に録音したり、既存の録音を再発売したりする動きが目立っています。マレク・ヤノフスキ(ポーランドのひと)が指揮してスイス・ロマンド管弦楽団の演奏したブルックナー交響曲全集が昨年の暮れに再発売されたのでタワーレコードで購入しました。CD10枚で約五千円でした、まあお安いですね。演奏自体は2010年前後に為されたものです。

 この元旦に彼らの演奏する交響曲第六番(2009年録音)を聴いたのですが、全体として木管楽器群がよく鳴っていて、とてもよい「録楽」(演奏&録音のこと)だと思いました。第一楽章(マエストーソ)と第二楽章(アダージョ)はかなりゆったりとした遅いテンポですが、第三楽章(スケルツォ)と第四楽章(フィナーレ)は一転して快速になります。ヤノフスキは理知的な指揮をしていて、曲想に応じてテンポを落とし緩急のメリハリを明瞭に付けています。フィナーレ終結のコーダの入りはすごくゆっくりになりますが、そのあとは快速で飛ばしてそのままテンポをほとんど落とすことなくスパっと切れて終わるのが爽快です。新年早々、よい音楽をきけてとても満足です。



 こんな感じで、書斎コーナーで好きな音楽をイヤホンで聴いたり本を読んだりしてまったり寛いでいたのですが、午後4時12分くらいに体がなんだかゆっくりと揺れているように感じます。しばらくはめまいかと思いましたが、とても不快です。でも、吊るした洗濯物を見るとやっぱり揺れていますし、外の電線もユラユラ揺れていました。

 こりゃ長周期地震動が来たのではないかと思ってネットを見たところ案の定、午後4時10分頃に石川県能登地方で震度7の地震が発生したことを知りました。マグニチュードは7.6で震源はごく浅い(その後、深さ16kmと訂正)ということなので、かなり大きな地震です。その前後に震度5強の地震が震源深さ10kmから20kmのあいだで頻発しています。時間の経過ごとに見ると震源位置は能登半島先端を東から西へと移動し、また東に戻ったりしています。

 京都大学防災研究所の境有紀先生のサイトによれば、建物に大きな被害をもたらす1-2秒応答の計算値がとても大きいとのことです。彼のページに掲載された加速度応答スペクトルのグラフを見ると、K-NET穴水で観測された地震動の1-2秒応答の最大応答加速度は兵庫県南部地震(1995年)のJR鷹取波と同等でした。JR鷹取波はその当時、建物へ大きな被害をもたらした地震動として有名であり、今回の地震でも石川県穴水付近で建物の被害が生じている可能性が高いと思いました。

 その後(いまは1月3日です)、現地の状況が明らかになるにつれて振動だけでなく津波や火災による甚大な被害が生じたことを知るようになります(まだ被害の全容はつかめません)。被害を受けた皆さまには心よりお見舞いを申し上げます。楽しい団欒の時間を断ち切られ、寒空に投げ出された方々のことを思うと本当に気の毒で胸が痛みます。いつも思うのですが建物の耐震構造を研究しているとはいえ、地震は本当にイヤなもので、その被害の状況をうかがうにつけ気分が塞ぎます…。



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