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このページは北山の日々の雑感などを徒然なるままに綴るコーナーです。メモランダムというくらいですから日々感じた事とかこまかい出来事とか、他人さまにとってはどうでもよいことどもを勝手気ままに書き散らす、というのがこのページの趣旨でございます。
今日からは2014年版を掲載します。例によって不定期更新ですが、そもそもそういう類いのコンテンツなので宜しくご了承下さい(2014年1月4日)。
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年末小景 (2014年12月26日)
今年は曜日の並びの関係できょう26日が御用納めとなります。ことしはたくさん実験したことを書きましたが、その介あって年内に全ての実験を終えることができたのはとても喜ばしいことです。研究室の教員および学生諸君の頑張りに感謝、です。
さてきのうはクリスマスだったので新しいお酒でも開けようかと思って「屋守(おくのかみ)」という純米の生酒を取り出しました。今季のしぼり第一号の新鮮なお酒です。「屋守」は東京都東村山市にある豊島屋酒造が醸していますが、製造量が少ないらしくて籠屋(和泉多摩川にある酒屋のなまえ)でしか見たことがありません。ちなみにこの酒蔵では「金婚」という銘柄が地元では有名らしいですが、飲んだことはありません。
生酒はだいたい美味しいのですが、保存のために冷蔵庫に入れないといけません。ただでさえ野菜や果物で一杯のところに四合瓶を二本も三本も詰め込むので、家内のひんしゅくを買っています。学生の頃、ワイン好きの小谷俊介先生は自宅にワイン・セラーが欲しいとよくおっしゃっていました。そのときはなぜそんなもんが欲しいのだろうかと子ども心に訝しかったのですが、いまのわたくしにはそのお気持ちがよく分かります。うちにも日本酒専用の冷蔵庫がほしいと思っている今日この頃です。
で、封切りした「屋守」ですが、東京の蔵なのに広島県産の八反錦という酒米が原料で、わたくしは初めて飲みました。このお酒は無調整なのでおりが沈んでいて、瓶を振るとちょっと白く濁ります。吟醸ではないせいか香りはありませんが、口に含むとかなりの甘みがあって、炭酸がプチプチと舌を刺して心地よいです。米の旨味がしっかりあり、飲み口はスッキリしていて、あとにわずかに酸が顔を出してキレてゆきます。アルコール臭さは全くありません。吟醸ではありませんが、評判通りにとても美味しいお酒だと思いました。
なんだか相当に酒飲みっぽいコメントになりましたので、このへんでやめておきます。御用納めのきょうは原子力関係の会議に出て、それから大学に登校しました。振り返ってみるとことしは原子力関係の仕事をかなりやったような気がします。
原子力に対するわたくしの立ち位置はこのページでよく書いていますが、現在建っている建物の耐震安全性をありのままに評価する手法を構築して、それをもって建物の安全性向上に寄与したいというのが基本的なスタンスです。それは純粋に技術的な動機に基づきますが、3・11の原発事故を経験した日本社会には様々な見方があるのは当然で、そのことはしっかりと認識しているつもりです。
ということで、一週間あまりの年末年始のお休みに入ります。皆さん飲み過ぎに注意して(って、わたくしのことですけど)よいお年をお迎え下さい。では、また来年!
飯田橋というところ (2014年12月25日)
今年からプレストレスト・コンクリート工学会(JPCIと略記)という学会(もともとは協会)の理事を務めているので、その事務局がある飯田橋に立ち寄るようになりました。建築学会でこそプレストレスト・コンクリート構造に関する委員会等に参加していますが、JPCIにはほとんど縁がなくて、つい最近会員になったくらいです。
もともとは建築学会のPC界の首領である西山峰広・京大教授から「北山センセ、どうでっか?」(関西弁です)と理事就任のご依頼を受けたのが始まりです。まあ西山先生がやれって言うのだから、わたくしでも務まるのだろうとタカをくくってお引き受けしました。
でもある程度予想はしていましたが、日本コンクリート工学会以上に土木色の強い学会でした。建築分野のわたくしなどほとんど出番はないし、議論されている内容も土木構造物に関するモノが大部分ですので、さ〜っぱり分からんことが多いですな。ケーソンとかポンツーンとか言われても(そのモノはさすがに知っていますが)実物を見たことはないんですから、推して知るべしです。
土木工事はお上が発注するものですから、JPCIに出入りする皆さんは日本経済を牽引しているという自負をお持ちのようです。そのため「土木経済」という用語すらあるようですし(注1)、議論のはしばしに「それ、幾らですか?」とか「メートル当たり五百万円です」のようにすぐにお金の話題が出てきます。とにかく民間建物の建設と較べてゼロの数が二桁くらい大きい金額はザラみたいですから、わたくしのようなプチ市民は目を白黒させることが多いですね。
かなり脱線しました、今日の話題は飯田橋でした。JR飯田橋駅で降りて大久保通りを西に向かって坂を上って行くとJPCIの事務局が入っているビルがあります。その途中にさらに小高い丘みたいなところがあって、そこに筑土八幡神社が鎮座ましましています。その様子がいかにも中沢新一さんの『アースダイバー』(講談社、2005年5月)に出てくる、縄文時代に岬の突端によく作られたという神域のような臭いをぷんぷんと漂わせていました。
で、この日はちょっと早く飯田橋に着いたので筑土八幡神社を訪ねてみたわけです。写真のような感じの住宅街のなかのこじんまりとした階段を登ってゆくと、小さな平坦地があってそこに社殿が建っていました。その社殿から振り返って見たのが右の写真ですが、その昔はかなり景色がよかったのだろうということは分かりました。
ちなみに新宿区民だった中学生の頃、自転車を漕いで大久保通りを東に行くと当時の総理府統計局があって、そこを通り過ぎてかなり遠くの飯田橋まで行った記憶があります。そのときに筑土八幡神社の脇も通り過ぎたのでしょうが、そのことは憶えていません。この大久保通りの真下を都営地下鉄・大江戸線が走っていますが、当時はそんなものはなく、地下鉄がここを通るとは思ってもみませんでした。いやあ、隔世の感がありますなあ。
さらに附言すると、筑土八幡神社がある小丘のすぐ脇で道普請をやっていました。看板を見ると都道でしたが、こんな都会でいまだに道路を作っているとは結構驚きです(まあ虎ノ門の環状二号線の開通が最近ありましたから、そんなに驚かないですか?)。
注1; よく考えたら「建築経済」という用語もありました。わが大学ではその昔、島田良一先生がご研究していたように記憶します。ですから「土木経済」があっても不思議じゃないってことでしょうね。
大学入試の改革 (2014年12月24日)
きのうは天皇誕生日でした。テレビでご尊顔を拝しましたが、ご高齢なのに天皇陛下も大変ですね。天皇とは国民の象徴として憲法に規定された身分ですが、現代の日本人のなかで唯一の世襲制のお仕事といってもよいでしょう。ご自分の意思とはかかわりなく、天下国家のために身を粉にしないといけないというのは見方によってはお気の毒な気がします。
さて、大学入試が2020年度から大幅に改革されるというニュースが流れました。総合的なものの考え方とか高校時代の過ごし方とかを多角的に評価し、人物本位の選考となるような試験にするそうです。また一発勝負ではなくて、年に複数回の試験を実施するそうです。それを聞いていて、わたくしは首をひねったまま考え込みましたな。
確かに謳われている理念は結構なことだと思います。でもそれじゃ具体的にはどうやるのよ、ということになります。小論文とか面接とかがあがっていましたが、そんなものは今まで既にやり尽くされています。東京都立大学時代の建築学科ではかつて小論文と面接とが必須試験として課されていましたが、実施や採点に非常に時間がかかる割にはそれによってなにを見ることができるのか疑問が多かったために廃止になった経緯があります。小論文だけは現在の後期日程入試で採用されていますが、これについても常に廃止論がささやかれています。
また高校でのクラブ活動、ボランティア活動等を大学入試の評価対象とするようになると、そのことに気を取られて本当に自分がやりたいことをやれない、あるいはやりたくないことをやらざるを得ない、ということになりはしないでしょうか。それでは現在よりさらに暗〜い高校生活になるんじゃなかろうかと心配です。前途有望な若者をそんな目先の事柄で縛ってよいとは思いません。
選考の手段として複数人でのディスカッションとかプレゼンテーションとかもあがっていました。でもそんなことをやって、個人のなにが分かるというのでしょうか。わたくしの大学教員としての今までの経験から考えると、明るくてハキハキとものを言えて頭の回転の速いひとがこういう舞台には適しています。それはもちろんひとつの才能ですから評価に値するとは思いますが、それだけでは窺い知れない人間の能力は無限にあります。そういう無限の能力の一部を評価しているに過ぎないとすれば、今までの知識重視の受験問題と本質的にはなにも変わらないと思いますね。
また試験を一年のうちに複数回実施し、記述式の回答も設けるということでした。これも理念としては結構ですが、じゃあ誰がどこで試験を担当するのでしょうか。皆さんはご存じないかもしれませんが、大学にはすでにそんな余裕はないのが実情です。
本学について言えば7月の編入学試験[学部]、8月の大学院入試、11月の推薦入試[学部]、1月の学士入試[学部]、2月の大学院博士後期課程入試と前期日程入試[学部]、3月の帰国子女特別入試[学部]と後期日程入試[学部]、という具合に一年のうち半分の月で何らかの入試業務を実施ています。それらの全てにわたくしたち教員は関わっています。これ以上入試業務が増えたら、研究どころか在籍する学生の教育すら満足に行えなくなるのではないかと非常に危惧します。
本学のような公立大学ですらこのありさまですから、受験者数が多い私学ではもっと過酷なことになるであろうことは想像に難くありません。あれこれと変えてみた挙げ句、これじゃあ今までのほうがまだ良かったね、ということにならないように(なんせ「ゆとり教育」でそういう前科がありますからね)もっと現場の声にも耳を傾けながら改革を考えていただきたい、そんなふうに迂生は思ったりしますが、市井のひとびとはどうお考えでしょうか。
ことしの本 ベスト3 (2014年12月22日)
この年末は例年と較べて寒いように感じます。関東の平野部以外では雪がたくさん降っていて、スキー場は喜んでいるようです。我が家ではワードやエクセルの使い方を一通りマスターした(らしいけど、ちょっと怪しい)女房が、年賀状のデザインをあれこれ悩みながらやってくれました。あとはそれを印刷すればよいところまで来ています。
さて今年も『ことしの本』を書く時期になりました。ことしは、若い頃に読んだ本たちを発掘して三十年ぶりに読み返した本がたくさんありました。福永武彦、高橋和巳および半村良のお三方です。それらの感想めいたことどもは折に触れてこのページに記しましたので、ここでは割愛いたします。半村良の『妖星伝』は文庫本で全七巻ですが、五冊まで読み進みました。
ではベスト3の発表です(って、それほどのものじゃありませんけど)。ことしは悩まずにあっさり決まりましたが、それって新しく読んだ本の数が少なかったということかも知れず、ちょっと複雑な心境でもあります。
第一位は『グランド・ミステリー』(奥泉光著、角川文庫、2013年9月/1998年に単行本)です。文庫本とはいえ千ページに及ばんとする大作で、なぜ分冊化しなかったのかとても不思議です。厚さは約4cm もあるので鞄に入れて持ち歩くのが大変でした。タイトルにミステリーとあるくらいですから謎解きのお話しですが、太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃から航空母艦に帰艦した爆撃機のパイロットが着艦直後に不可解な死を遂げるところから、ミステリーが語られ始めます。
表紙にあるグランド・オダリスクの絵画(19世紀始めにアングルが描いたもの)も重要な鍵となっています。お話しはいろいろなエピソードが複雑に絡み合い、時を遡ったり何度も繰り返したりと非常に重畳的にストーリーが展開して、後半からはそれが著しくなるのでちょっと読みにくいなあとさえ感じたくらいです。それでも、最初の謎がどこにどのように関連しているのか、そしてどのように解決されるのか知りたくて、ページをめくるのがもどかしく感じるくらいに読み進むことができました。そういう点ではエンターテイメント小説として非常によく出来ていると思います。
ちなみにこの本の著者である奥泉光の小説は、これだけしか読んだことがありません。面白かった本だとフツーはその著者の作品を幾つか読むのですが、奥泉光の場合は手頃に読めそうな作品が手に入らなかったというのが最大の理由です。図書館で単行本を借りればよいのでしょうが、なかなかそこまではやれませんから。
第二位は『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ著、富永 星訳、新潮文庫、2013年10月)です。著者はオックスフォード大学数学科の教授ということです。素数が無限にあることはギリシア時代から分かっていたそうです(有名なユークリッドが証明しました)。では、素数が奏でる音楽とはいったいどのようなものなのか。
その素数がどういう法則に従って出現するのか、今もって謎ということです。例によって数学界の巨人・ガウスが最初の大きな貢献を為します。その後、素数の謎とリーマン予想とが密接に関連することが明らかになったことから、この本の大半はリーマン予想を解決しようと苦闘した数学者たち(リーマン、ヒルベルト、ハーディ、リトルウッド、‥‥)の列伝のようなかたちになっています。
ときどき書いているように数学者とはわたくしのような凡人とは異なった思考のできる別人種です。そういったひとびとの素晴らしいアイディアと進歩へのあくなき挑戦とが情熱を持って語られていて、未知への探求という観点からワクワクとさせられました。特に素数と最新物理学の量子カオスとが密接に関わっているというくだりでは、自然ってなんて深淵で相互に関連するものなのだろうかという畏怖の念を新たにしないではいられません。
ちなみにリーマン予想とは「ゼータ関数の零点は -2k(k =1、2、‥)のほかはすべて実部が0.5である」というものです(実部とは虚数a+biのaのことです)。これだけ見てもぜ〜んぜん分かりませんね。そういう数学を分かり易く、分かったような気にさせてくれる著者の書きっぷり(翻訳者のうで?)が素晴らしいということでしょうな。
このように数学者たちの叡智が過去から未来へと引き継がれることによって、リーマン予想もやがて解決するときが来ることを信じたいと思います(生きているうちに解決されるかな?)。しかしそのようなブレーク・スルーをもたらすのは、結局はたったひとりの天才であろうということも事実のようです。
第三位は『蜩ノ記(ひぐらしのき)』(葉室 鱗著、祥伝社文庫、2013年11月)です。この本についてはことしの2月19日に記述しましたのでそちらをご覧下さい。著者の葉室鱗は明らかに腕を上げているように感じます、また読みたいと思わせますから。藤沢周平なきあと、そのあとを継ぐ時代小説家として有望だと考えます。
ここまで書いてきて、同じ時代小説家の飯嶋和一のことを思い出しました。『出星前夜』が2008年に刊行されてから既に六年が経過しました。そろそろ新作を読ませてくれ〜って思いつつ(数年前にも同じことを書いた気がしますが,,,)筆を擱くことにします。
忘年会で飲んだお酒 (2014年12月19日 その2)
忘年会の続きです。皆さん「とりあえずビール」ということでしたが、わたくしだけは最初から日本酒です。つらつら考えるに「とりあえずビール」っていうのはビール君にも失礼じゃないでしょうか。
で、この日飲んだ日本酒は「水芭蕉・吟醸」(永井酒造、群馬県)と「上喜元・純米からくち」(酒田酒造、山形県)でした。「水芭蕉」はこの日の飲み放題コース外でしたが、最初の一杯くらい飲みたいお酒を飲もうと思い、注文しました。一合500円でしたから、まあまあのお値段だと思います。
「水芭蕉」は最近、結構有名になってきて一度飲みたいと思っていましたが、どちらかというと甘口で美味しかったです。上州のお酒は辛口が多いので珍しい部類だと思います。ワイングラスで出されたこともあって、吟醸香をかなり感じました。蔵元のHPによれば精米歩合は50%、兵庫県産の山田錦を使っているそうです。
そのあとに「上喜元」を飲んだのですが、岸田先生はそんなに辛くないですねと言っていましたが、わたくしは「水芭蕉」を飲んだあとでしたからかなり辛く感じました。それでも後味はよくてスルスルと飲めました。美味しい日本酒が飲めたので満足した忘年会でした。
ちなみにいま家で飲んでいるのは「六甲の雫」という大吟醸酒です。これは兵庫県は灘の小山本家酒造・灘浜福鶴蔵が醸すお酒で、今秋、神戸大学で建築学会大会があったときに買った地酒です。冬まで大切に寝かしてあったものを先日、封切りしました。すっきりとした吟醸香があり、ほんのりと甘く、酸はほどよく喉越しもよいですね。かなり美味しいほうだと思います。
年を忘れる (2014年12月19日)
年末ですので昨日、研究室の忘年会を調布で開きました。OBの参加をお願いするには例えば新宿等の都心で開催するべきですが、南大沢から都心に出るのも億劫だったので調布でもよおした次第です。
それでも何人かのOBが駆けつけて下さいました。岸田慎司先生(元助手、現・芝浦工大教授)、深海謙一郎さん、田島祐之さん、白山貴志さんおよび白井遼さんです。皆さんのお話しを伺っているとこのところの建設業の活況を反映して、忙しく仕事にせいを出しているようでした。現場監督の深海さんのお話しでは、現場はホント大変みたいです。それはそうでしょうが、健康が資本ですから体に気をつけて仕事して欲しいと思いました。
一昨日には加藤弘行さんがOB交流会(今年は就職活動が三ヶ月後ろ倒しされたので、就職説明会という名称は使えません)を大学内で開いたそうです。お互いに忙しくて結局会わずじまいでしたが、来年は是非とも忘年会の日に説明会を開いて欲しいと思います。
忘年会が終わるといよいよ来年が近づいて来ます。今年はJCI年次論文を出せるかどうか切羽詰まったところにいます。是非ともM1・星野和也くんには頑張って欲しいです。それとは別にM2・片江拡くんが論文を書いていて、だいたい出来上がりました。三ヶ月近い月日を費やしましたがそれなりの力作になったと思いますね。
以前に書いた方針のとおりに、我が社内では研究推進派とマイペース派とに明瞭に分かれたような気がします。研究したいひとはそうすればいいし、そうでもないひとは自分の信念に基づいて行動すればよいと思っています(あえて書きますが、“信念”が重要です)。もちろん言うまでもありませんが、研究室の学生さんはすべからく我が社のメンバーとして尊重します。こんな風に思えるわたくし自身、大人になったなあと自画自賛しているところですが、皆さん如何お考えでしょうか。
年末に向けて (2014年12月18日)
とても寒いですね。外に出るとスキー場にいるような身を切る寒さに真底ふるえが来ます。街なかにある郵便ポストに年賀状専用のシールが貼られると、なんだかお尻に火がついたように年末感をあおられますな。
さて大型実験棟では、長寿命建築プロジェクトのアンボンドPCaPC柱梁部分架構実験がいよいよ大詰めに差しかかっていて、スラブと直交梁とが付いた十字形試験体に最後の加力を始めました。宋性勳さんたち担当者は、今晩は忘年会があるのでほどほどに切り上げて7階に上がってくるはずですが、とにかく寒いので大変でしょう、ご苦労さまです。
わが大学では2015年4月からの新学長が決まりました(建築計画学の上野淳先生です)。そうすると今度は学部長選びが本格化します。わたくしのような末端教授には無縁の世界ではありますが、それでも自分たちの大学の舵取りを任せる方々ですから、無関心というわけにもゆきません。しばらくはどうなるのか固唾をのんで見守ることになるでしょう(もっとも普段はそんなことはすっかり忘却していますけど、あははっ)。
三年生対象の先端研究ゼミナールですが、結局例年通りに三年生を毎週呼んでミニゼミを開くことにしました。この時期に卒論や修論のほかにミニ研究も見ないといけないので結構つらいです。というわけで、この労度をどうやって分散させるか悩んでいます。今の時期はM1が比較的ヒマでしょうから、彼らに面倒を見させるのはどうかなと密かに考えています(どうなることやら,,,)。
寒い日 (2014年12月16日)
今日は寒いですね。朝1限の授業を終えて教室を出ると、あられのような雪が降っていました。八王子の初雪ということでしょうか。昨年の大雪のことをまざまざと思い出してゾッとしましたね。雪が降らないとスキー場などは困るでしょうが、それでも降らないにこしたことがない、というのが一般大衆の気持ちでしょうな。
昨日、また瑞穂町に行ってきました。きのうはよい天気で、朝の八高線から真っ白に冠雪した富士山がくっきりと見えました。明治以前のお百姓さんは遠くの富士山を仰ぎ見ながら季節の移ろいを感じたのかと思うと感慨もひとしおです。
目的の会議のあと、町役場の方が竣工したばかりの郷土資料館を案内して下さいました。大きなケヤキの木が植わっていてとても立派でした。館内には地形シアターというコーナーがあってこれが売りのようです。水平面に瑞穂町の地形を立体的にかたどったところに、真上からプロジェクション・マッピングによって太古から現代までの町の移り変わりを映像で見せるという仕掛けで、よくできていて楽しめました。一見の価値があると思いました。
そのあとJR箱根ケ崎駅から大学に向かいましたが、この町はシクラメンの名所らしくて駅のコンコースに綺麗なシクラメンがたくさん飾ってありました。せっかくですのでその写真も載せておきます。シクラメンを見るともうすぐお正月なんだなあと思ったりします。
審判の結末 (2014年12月15日)
衆議院議員選挙の結果ですが、まあ予想されていた通りではありましたが、現実として目の前に突きつけられると本当に衝撃を受けますなあ。なんとかミクスの恩恵はどう考えてもわれわれ庶民には及んでいませんから、そのことに目覚めた無党派層が少しは自民党にお灸を据えるだろうと思っていましたが、全くの幻想だったようです。投票率が50%ちょっとというのも与党を利しました。
東京地方の小選挙区で当選した野党候補者はわずかに二人でした。都市部は地方と較べると浮動票が多いとされますが、それにもかかわらずこのあり様です。無党派層の風頼みは空振りに終わったということでしょうか。わたくしが投票したひとも(いつもの例に漏れず)落選しましたが、当選した自民党候補者のわずかに三分の二の得票に留まり、そのことにさらに驚きました。
しかしながらK産党って、一体なにを考えているのでしょうか。全ての事柄にノーって言っているだけで社会を切り盛りして行けると本気で思っているとしたら、ソラ恐ろしい集団のような気がします。この国を変えようとそれこそ本気で考えるならば、一般の市井のひとびとが共感できる政策や主張を展開するべきです。
わたくしの選挙区でも、K産党候補者が獲得した票数をそのまま民主党候補者に加えれば当選できるだけの票数になっていました。主義主張の異なる党派が協力するのは野合である、という彼らの批判は分かりますが、それでももう少し何とかならないのかと思います。正直であることはいいのですが、過ぎたるは及ばざるが如しということも忘れないで欲しいですな。
もっとも今回の選挙では民主党が候補者を立てられなかった選挙区が多数あり、有権者に有力な選択肢を提供できなかったことも事実です。ですから、このような結果となった責任の半分以上は民主党にあると思いますね。仲間うちでゴタゴタやっている場合じゃないですよ、ホントに。
選挙の日 (2014年12月14日)
元禄時代のきょうは赤穂浪士討ち入りの日でしたが、現代のきょうは衆議院議員選挙の日です。驚くほど関心が低いと報道された総選挙ですが、お昼前に投票所に行くと建物の外までひとの列が続いていて、多くのひとが投票に訪れていました。
わたくしが行く投票所は地元の地域センターなのですが、二年ほど前にその建物の隣が、研究室の先輩であるK村壮一さん(元大成建設技術研究所・所長)のお宅であることに気がつきました。こんなに近くに住んでいますが、ここのところお会いしていません、お元気でしょうか。
さて、今にまで美談として伝わる忠臣蔵ですが、本当のところは分かりません。浅野内匠頭がなぜ殿中において吉良上野介に斬りかかったのか、平和な元禄時代に一国一城の主が城地とお家の名誉と家中の人々の生活とを投げうってまでそのような行動に出なければならなかった理由とは何なのか、考えるほどに不思議に思います。
その頃の武士は、武闘派の時代だった関ヶ原の頃から約百年を経過した末に戦争従事者から文官的な官僚への変貌を遂げ、ある意味サラリーマンのような生活をおくるようになっていました。武士のくらしが孫子へと伝わる世襲制となるにつれて、武士の上下関係の基本であった「ご恩と奉公」という概念が薄れつつあったと思います。
そのような平和な時代に、忘れかけられていた武士の意地(あるいはやせ我慢)を示した大石内蔵助たちの行動は、幕閣のみならず江戸の庶民たちの度肝を抜いたんでしょうね。それだからこそ大星由良之助の物語へと姿を変えつつも、忠臣蔵が今に至るまで伝わったのだと思います。
ことの真相は永遠に闇のなかですが、敵役の吉良上野介は現代に至るまで憎まれ役をつとめさせられて、気の毒な感じがします。地元では名君だったとも言われていますが、歴史上に一度定着した印象を覆すことは斯様に難しいということでしょう。
腕のはなし (2014年12月12日)
ちょうど四年前のこのページに「上がらない腕」という小話があったことに気がつきました。そのときは右腕が五十肩で上がらなかったのですが、実は今もその五十肩なのです。でも今回は左腕でして、しかももうそろそろ一年になろうというくらい、今回は長いんですね〜。それでも、左手を上げる角度がわずかではありますが増えていますので、少しづつ快方に向かっていると思いたいです。
なぜ五十肩になるのか、そのメカニズムは知りませんけど(年をとって関節等にガタがくるだけ?)、わたくしの場合には寝るときにどちらかの腕を枕にして横になることが多いせいかも知れません。知らないうちに自分自身で腕を痛めつけているっていうことでしょうか。
さてこの時期恒例の三年生対象の「先端研究ゼミナール」ですが、以前に書いたように今年からくじ引きによる研究室配属をやめました。そのかわり、四年生になってからの卒論執筆のための研究室配属を早めて、各自が希望する研究室でミニ研究に取り組むことになりました。
我が社では定員三名のうち二名が決まりました(12月6日現在)ので、先週第一回めの個別ゼミを開きました。すぐにも研究室での先端研究に取り組んでもらうのが本来でしょうが、さすがにこの時期に新しい研究テーマを掲げることは困難ですし、さりとて現在進行中の研究に割り込むこともできません(なんせ年末から新年にかけては卒論生もM2も佳境に入っていますからね)。
そこで我が社では結局のところ、昨年同様に各自が好きなテーマを見つけて調査・検討をするようにしました。もちろん卒論でRC構造を研究しようとやってきた学生諸君ですから、研究テーマとしては建築構造に関係するものが望ましいとは言っておきました。それに関連する書籍も数冊ずつ貸し出しました。これからどうなるか、まあやってみないと分からないですな。
虹のはて (2014年12月11日)
今朝、家を出ると目の前に大きな虹がかかっていました。雨がちょうど上がったところに雲の切れ目からお日様が照ってきたためだと思います。こいつは朝から縁起がいいや、きょうはいい一日になりそうだなと感じながら電車に乗ったのです。
ところが国領駅で電車は停まってしまいました。人身事故の発生でした。国領駅からバスに乗って狛江駅に行けば小田急線に乗れることは知っていましたが、多摩センターまでは行けてもその先はまた京王線に乗らないといけません。そんなふうにジタバタしても仕方ないと思い定めて、ずーっと電車内に坐っていることにしました。
ちょうど我が社の片江拡くんが論文を執筆中なので、その原稿を添削しながら過ごしました。そのため電車が動かないのは苦にはなりませんでしたが、結局のところ南大沢駅に着くまで約二時間のあいだ、そこに坐って作業をすることになったのです。これだけあれば新幹線に乗れば名古屋まで行けちゃいますな。
年の瀬を迎えて世間には厳しい風が吹いていることをあらためて痛感します。なんとかミクスという政策が市井のひとびとにとっては何の恩恵ももたらさないことは明白な事実だと思います。虹のはてにわれわれを待つものは一体なんなのでしょうか。皆さんはいかがお考えですか。
実験をみる (2014年12月10日)
先日、大林組の技術研究所で行われている原子力関係の実験を拝見に行ってきました。自分のところでの実験が佳境に入っているのに他人さまの実験を見る余裕など本当はないのですが、以前から予定していたプロジェクトですので勇んで出かけました。なお、この日にちょうど建築学会の原子力建築運営委員会(わたくしが主査を務めます)があったので、同・委員でもある今塚善勝さんに終日お世話になりました。
その実験についてです。わたくしは今まで多様な実験を見てきたし、また自分自身も様々な実験を手がけてきたと密かに自負しているのですが、そんなわたくしの度肝を抜くような実験でした。振動台実験とか三方向加力実験とかではないスタティックな実験なのですが、多分、世界中で誰もやったことのないような実験だと思います。実物を見て説明を伺ううちに、加力に至るまでの多くの問題を一つずつクリアして周到に準備された実験であることが分かりました。
詳しく書けないのが残念ですが(やがて論文になって世に出るはずです)、担当のひとたちがものすごく気を使って、細心の注意を払いながらチームワークで作業をしておいででした。プロの実験のお手本のような姿でしたね。こういう現場を我が社の学生達に見せれば、少しは実験をするということの大変さや重要性が分かるのではないかと思いました。
さてその技研で久しぶりに長沼一洋さんにお会いしました。何度か書いていますが、長沼さんはわたくしにとっては有限要素(FEM)解析のお師匠筋にあたる方です。大学院生の頃にFEMの勉強を始めたときに、最初に読んだのが長沼さんの修士論文でした。我が社のM2・楊森くんがRC柱梁接合部のFEM解析をやりたいというので、この十一月から再びFEM解析プログラム「FINAL」のレンタルを開始したところでした。渡りに船とはこのことでしょうな、長沼さんや米澤健次さんに、また質問するでしょうからどうぞよろしくと挨拶をしておきました。
開戦の日2014 (2014年12月8日)
“ニイタカヤマノボレ”で知られる真珠湾開戦の日から73年目を迎えました。来週には衆議院議員選挙がありますが、自民党政権が再び長期化しそうな雰囲気が世間には漂っているようです。かつての自民党にはそれなりの幅の広さがあって、変な方向に行こうとするとブレーキをかけるひともいて、結果としては今日までの平和と繁栄とを維持することができました。
ところが現政権になってからは、与党内で党首に異論を唱えるようなひとはほとんどいなくなったと側聞します。すなわち今までのような思想的な多様性は影を潜めて、非常に薄っぺらな一つの旗だけを信奉して集合しているように見えます。
さらに悪いことには、与党に対抗すべき野党達がどん底のような状態に没してしまっているため、市井のひとびとは政治に対して希望を持つことができにくい状況に置かれています。そういう絶望感によって、投票に行くのはやめよう、投票したいひともいないし投票したってムダだろう、という行動が引き起こされることは大いにありそうなことです。
しかしながらそれは与党を利するだけであって、結果として政治における彼らの専横をさらに助長することになるでしょう。政府・自民党を強固に支持する階層が存在することは厳然たる事実です。しかしながら今までの選挙で(例えば民主党政権を誕生させたような)“社会の風”を引き起こしたのはそういうコアな階層ではなくて、わたしたち無党派の一般大衆だったということを思い出してほしいですね。
国民が一丸となって先の戦争へと突進した“あの頃”を再び体験することがないように、われわれ個々人が社会の行く末を真剣に考えること、それがいま強く求められていると考えます。はるか昔の戦争ですが、それを亡霊の如く蘇らせることがあってはなりません。
なか締め (2014年12月5日)
寒いなか、大型実験棟では静的載荷実験が続いてます。宋性勳さん、鈴木大貴くんを主担当者とするアンボンドPCaPC柱梁部分架構の実験は、4体めの加力がこの夕方に無事終了しました。長寿命建築プロジェクトの研究統括者である岡安隆史さん(鹿島技研)もわざわざお出で下さいました、どうもありがとうございます。
実験ですので予想外の事どももいろいろと出来しましたが、それもまた実験かな、といった感じです。これからの実験結果の分析に期待しています。来週にはスラブ付きの試験体が入ってきますが、怪我のないように気をつけて作業を続けて下さい。
したの写真には、グーのひととチョキのひとと親指トムのひとがいますね、なんででしょうか、不思議だね,,,。
民意のゆくえ (2014年12月4日)
寒い朝を迎えました。どんよりと曇っていて、これから雨が降る予想らしいです。きょうは卒論発表会(ひとによっては中間発表)ですが例年の通り、くら〜い雰囲気ですね。11号館の教室が少しでも暖かくなっていることを望みます。
さて朝日新聞には、今回の衆議院議員選挙で自民党が300議席を超える勢いであると報道されています。現状を上回る可能性が高いということらしいです。ホント、びっくりします。自民党は一部の高額所得者のための政治をやっているのに、なぜ市井の人びとがそんなに支持するのか不思議に思います。なんとかミクスという幻影がこれから一般民衆の暮らしもよくしてくれるはずだという期待でしょうか。それとも、民主党を始めとする野党たちがあまりにも信頼できないので(やむを得ない)消去法の果ての選択でしょうか。
いずれにせよ、今回の選挙で勝って自民党がこのまま政権を維持し続ければ、今まで以上に好き勝手なことをやることは目に見えています。それは、いつも書いているように日本というわたくしたちの寄る辺を危うくする道であることは間違いありません。自民党を引きずり降ろすことは難しいとしても、批判者がこんなに大勢いるんだぞという民意を示すことは大切だと思うんですけど、いかがでしょうか。
追伸; 境さん、朝早くから大変ですね、ご苦労さまです。わたしは幕張には行けませんが、盛会をお祈りします。
よい日より (2014年12月2日)
昨日は激しく雨が降ったかと思うと陽が差してきたりでへんなお天気でしたが、今日は雲一つない青空が広がりました。西日本は寒いようですが、ここ東京では吹く風はときおり強くなったりはするのですが、基本的には暖かくてよい日和です。
大学での授業ですが、大学院ではなるべく例題や演習を盛り込んだ講義に変えたことは以前に書きました。学部三年生の「鉄筋コンクリート構造」の授業でもやっと梁断面の曲げ解析の説明が終わったので、今回初めて授業時間内に例題を組み入れてみました。三十分ほどの時間をとりました。ある程度予想されたことではありましたが、やはりあまり理解できていませんでした。
でも、鉄筋の降伏ひずみを誰も(って、12名しか出席していませんでしたけど)求められないということを知って、ちょっと驚きましたな。鉄の降伏強度をヤング係数で除すだけですが、その計算式を知らなかったということです。うーん、やっぱりこちらが一方的にしゃべっていてはダメなんですね〜。あらためて反省した次第です。
こういうわけですので授業の進行は多少遅れても、例題の時間をとることの必要性を痛感しました。でも、そうすると当初のシラバスの内容を全て話すのは難しくなります。どの項目を省略すべきか、あるいは説明を簡略にすべきか、頭を悩まさないといけませんな。そうやってこちらが頭をひねって授業を組み立てれば学生諸君の理解が進む、ということであれば、もちろんそれだけの価値はあると思いますけどね。
ことしも師走 (2014年12月1日)
ついに師走になりました。そうなると分かってはいましたが(って、当たり前)、今年もついに残すところ一ヶ月かと思うといろいろと考えることもありますな。しかしそれにしては暖かいなあと思うわたくしです。
大学では卒論の中間発表を木曜日に控えて、すでに中間梗概を提出しました。卒論生の皆さん、ご苦労さまです。でもすこしばかり苦言も。我が社では昨年同様、まずM1やM2の先輩のチェックを経てOKが出たうえで、わたくしのところに梗概の原稿を持ってくるように言いました。
ところが今年はそのチェックがうまく機能しなかった上に、わたくしの手元に原稿を持って来たのが四人そろって提出直前でした。これではわたくしの指摘を受けて幾度も推敲を繰り返す時間がとれず、結局、中途半端なままで梗概を提出せざるを得ませんでした。年明けの最終梗概のときにはこんなことにならないように適切にスケジュール管理をして下さい。
さらに、まだ今年の卒論も終わらないはなから、来年(2015)度の卒論配属がほぼ決まりました。三年生の二人が第一志望で来てくれて、残る一名の枠もなんとか埋まりそうです。来年のことをいうと鬼が笑うと言いますが、まさにその通りの状況になりましたな。
さて、二年前と同様に世間では衆議院議員選挙が行われます。でも予想どおり野党は全く元気がなく、民主党などは政権奪取などはおこがましくて口にしません、百議席とれたら御の字です、などと言う始末です。わたくしの地元(定員一名)では自民党、民主党、共産党など四人が立候補するらしいですが、誰に投票するかは例によって消去法により、もうだいたい決まっています(本当はちゃんと政策を聞いてから判断したいのですが、そうも言っていられません)。
こういう選挙の季節ですから、駅前などでいろいろな主義主張を声高に叫ぶひとびとをよく見かけます。そういうなかには、いかにもひとの良さそうな紳士淑女の方々が「憲法九条を守ろう、子供たちを戦争にやらないようにしよう」ということを訥々と説いたりしています。
まさにその通りだと内心、共感を覚えます。でもわたくしはそのようなポリティカルな運動に加わろうとは思いません。わたくしの信条はどのような党派にも属さないということだからです。どのように高邁な理想を掲げていても人間達がひとたび集まれば、そこに必ず党利党略が芽生えます。自分と完全に同じ考えを持つひとなど存在しませんから、やがては仲間割れやひどいときには内部闘争が惹起します。そんなことに巻き込まれるのはご免蒙りたいですからね。
明日12月2日に総選挙が公示されて選挙戦が始まります。12月14日の投票日までにいかなる風がちまたを席巻するのか、注意深く見守ろうと思います。
孤高のひと 〜横綱白鵬の優勝に寄せて〜(2014年11月26日)
横綱・白鵬がついに大鵬の優勝回数(32回)に並びましたね。千代の富士(優勝31回)のときもすごいと思いましたが、しばらくは抜けないと思われた大鵬の大記録に並んだことは驚異と言ってよいでしょう。
ひと昔前は明らかに朝青龍のほうが強いと思っていました。朝青龍と白鵬とが横綱として土俵に並び立っていた頃には、何かにつけて(いろんな面で)朝青龍が目立っていましたし、彼の勝ちっぷりが北の湖のふてぶてしさにも似ていて、その強さが印象に残っています。
そんな白鵬がひとり横綱となり、やがて八百長問題が発覚し、苦労して大相撲の存立の危機を乗り越えた頃から、白鵬の大横綱へのみちが拓けたように感じます。彼の土俵での姿は、おのれを厳しく律する求道者のそれのようにさえ見えますし、ひとかどの人格者の風貌をも漂わせています。
そうして現在の関取衆を見回してみても、横綱こそ三人いますが、ほかのふたりは明らかに一段、格が下がっていると(現在のところは)見るのが妥当だと思います。もうそうなると、まだしばらくは向かうところ敵なしといった感じで、まさに無人の野をゆくが如き様相です。
かような孤高のひとですし、まだまだ若いですから、今のような精進を続ければ優勝回数を40の大台に載せることも夢ではないと感じますね。かつての貴乃花のように、そういう大横綱を倒してのし上がって行くような新たなヒーローを見たい気もしますし、白鵬の独り舞台をいましばらくは眺めていたいような気もします。あなたはどちらですか?
ことし最終シリーズの実験 加力中 (2014年11月24日 その2)
長寿命建築プロジェクトの実験が進んでいます。プロジェクトの締め切りが迫っているので、宋性勳さん(D2)・鈴木大貴くん(M1)を主担当者とするチームは休日返上で加力しています。ご苦労さまです。ホント大変ですが大型実験棟は寒いですし、危険もありますので気をつけて作業して下さい。
十一月という月 (2014年11月24日)
今日は世間では休日ですがわが大学は授業日になっていて、設計製図の課題(今回は美術館)の講評があって登校しています。十一月も下旬になって随分と寒くなってきましたね。校内の富士見通りにあるケヤキ並木もほとんど葉を落として、寂しげに佇んでいます。
さてその十一月についてですが、一年のうちで月の冒頭と末尾との気温の差がもっとも激しいのが十一月なんじゃないでしょうか。東京の十一月はその始めは木々の葉が色づき始めてかなり秋が進んで来たなと思いますが、酉の市を何度か経て月末も近くなると、もう冬なんじゃないかと思うくらい吹く風も冷たくなります。日が暮れるのも早くなって午後四時を過ぎるともう薄暗くなります。なんとなく物悲しい季節の始まりです。
そうして朝晩の寒さにも慣れた頃、本格的な冬がやってきます。そうなるとあわただしい年末はすぐに過ぎ去って新年を迎え、またひとつ年をとることになるのです。人生を半世紀過ごして来ても、そういう日々の営みに新たな感慨を抱くことに変わりはありません。
実験のとし (2014年11月20日)
11月も半ばを過ぎ、卒論の中間発表用の梗概を提出するまであと1週間となりました。我が社では長寿命建築プロジェクトの一環であるアンボンドPCaPC柱梁部分架構実験が今年最後の実験として始まりました。
先日の大学卒業後三十周年のときに同級生や恩師に報告したのですが、構造実験を生業とする大学研究者はだんだんと減ってきているように思います。その理由はちょっと考えれば分かりますが、実験には専用の場所が必要でさらに費用がかかるし、労働として大変で危険も伴うし、蓄積したノウハウも必要ですから、それらの条件をクリアしたり納得してからでないと取りかかれない代物です。そんなことを意識したことはありませんが、冷静に分析すればそうなります。
そういう(言ってみれば厳しい)状況のなかで実験をしているので、第三者から実験結果を提供してくれと気安く言われると、そんなに簡単に言わないでほしいと思うわけです。もちろん日頃お世話になっている研究者や、学会等で共同してプロジェクトにあたっている方からそういう要請があれば、喜んで提供する場合もあります。しかしそれは結局、Give and Take ということで、双方にとってメリットがあるということが条件になるでしょう。
さて冒頭に書いたように先日から長寿命建築プロジェクトの実験が始まったのですが、またもやトラブルが出来しました。ただ今回は載荷システム全体にかかわるかなり重大なトラブルで、これには(最後のパンチじゃないですけど)完全に打ちのめされた感じです(もうボロボロでズタズタになったわたくし、といった感覚)。その原因は現在究明中なので詳しくは書けませんが、我が社がメインで実験している、この四月以降に実施した柱梁部分架構実験全てに関係するので、ことは重大と認識しています。
ちなみに、まだ年末には間がありますが、今年我が社で実験したのは以下のシリーズです。
・片江くんのRC立体隅柱梁接合部の部分架構実験
・宋性勳さん、晋沂雄さんのアンボンドPCaPC柱梁部分架構実験
・川嶋くんのPRCスラブ付き十字形柱梁部分架構実験
・宋性勳さん、晋沂雄さんのアンボンドPCaPC柱梁部分架構の追加実験
・石塚くんのRC立体隅柱梁接合部の部分架構実験
・宋性勳さん、鈴木大貴くん、晋沂雄さんのアンボンドPCaPC柱梁部分架構実験
書いてみてビックリですが、なんと6シリーズもの実験を2014年には実施しているのです。例年は1シリーズか多くても3シリーズくらいですから、今年は2倍から6倍もの実験をこなしていることになります。これじゃあ、みんな疲れるわけですよね。とにかく大変な一年になったのですが、怪我だけはしないように気を引き締めて実験して下さい、お願いしますね。
この反動で来年以降はしばらく実験しなくてもよい、ということになれば一息つけるのですが、どうでしょうか。来年度以降のことは未定ですので誰にも分かりませんけどね,,,。
寒い教室 (2014年11月18日 その2)
朝晩は冷えてきました。今年から学部3年生の『鉄筋コンクリート構造』の授業は朝1限になったのですが、だんだんとつらい季節になってきましたね(学生諸君も、わたくしも)。で、教室に行くともう冷え冷えとしていて大変に寒々しい。そこにいた学生さんに暖房入れようよ、というと、まだ入っていませんと言うではありませんか。
そうでした、教室の暖房は12月からというのが本学の原則でした。でもあんまり寒くて学生諸君がかわいそうだったので、教室から教務係に電話して暖房を入れるように懇請しました、このままだと学生さんが寒さのあまり眠っちゃいますから、と。
そうして教室に暖房が入るのを期待しましたが、結局、一時間半のあいだ入らずじまいでした。学生諸君も言っていましたが、当局は節約するところを明らかに間違っています。そんな寒い部屋でじ〜っと坐って講義を聴けるものじゃありませんよ。
わたくしは大きな声でしゃべりながら、忙しく板書しているので寒くはありません。それでもちょっと立ち止まると、寒さがしんしんと足元から這い上がってくることに気がつきました。これでは学生諸君がかわいそうです。大学当局にはもっと柔軟に対応して欲しいと強く希望します。同じようなことは毎年書いているような気がしますが、どうして改善してくれないのかホント不思議です。大学の管理当局の方々に、この寒い教室に坐ってわたくしの講義を聴いてみろって言っちゃうぞってば、あははっ。
もう一度、安全を意識する (2014年11月18日)
石塚裕彬くんと山桐美沙樹さんとが担当の鉄筋コンクリート立体隅柱梁部分架構実験(スポンサーは塩原兄貴)が先週終了しました。圧縮軸力と二方向水平力とを同時に載荷する大変な実験でしたので、とにかくやり終えることができてよかったです。お二人ともご苦労様でした。
実験が終わったのはホントによかったのですが、今回は予想外の出来事が多発して、わたくしの心労はここ数年ではダントツでした。10月31日のこのページでいろいろと書きましたが、その後も(残念ですが)いろいろあって、とにかく今回の実験は物入りな結果となりました。断っておきますが本当はそんなことはどうでもいいんですよ、とにかく学生諸君が怪我なく実験を完了したということが尊いことだし、その一点で満足すべきなのです。
だからここから先はわたくしの独り言です(自分自身の戒めとして書いておきます)。デジタル・マイクロスコープが故障したことは書きましたが、先日キーエンスから連絡があって、その修理に相当な金額を要することが判明しました。さらに三体目の実験のときに、不注意から実験装置を壊してしまい、その結果として実験自体も半ば失敗しました。もうショックでしたが最後に追い打ちが来て、ニコンの一眼レフカメラを落として壊してしまったのでした。
これだけ備品がボロボロになった実験も珍しいですぜ。でも繰り返しますがそれは学生諸君のせいではありません。そのような事態を予見できなかったわたくしが全て悪いのです。とくにカメラについては、ああ危ないなあ、落としそうだなあと思いつつ、その状況を改善する策を提示できませんでした。多分大丈夫だろうなという根拠のない思い込みがそこにはあったのです。
これって安全確保の上で一番やってはいけないことですよね。そういうことを自覚しながら対策をうたなかったので、全てはわたくしの判断ミスによっています。人間が怪我したりしたら、それこそ取り返しがつきません。でも、壊れたモノは修理したり買い替えたりすることができます。ですからこれは天がわたくしに与えてくれた警告であると考えるべきなのでしょう。こころしたいと思います。
次の実験にこの経験を活かすように考えたいと思います。もちろん学生諸君も自分たちで安全確保を考えるように知恵を絞って下さい、お願いしますよ。
追伸; 昨日から宋性勳さんたちのアンボンドPCaPC部分架構実験が始まりましたが、実験開始直前のチェック・リストを作って、ひとつづつ確認してゆき、不適切なものは改善するように指示しました。このチェックだけで一時間くらいかかりましたが、本来、試験体ごとにやるべきことだったと今は思っています(またまた反省,,,)。
その理由は? (2014年11月17日)
政治の世界が急にきな臭くなってきましたね。わたしのページにはちょうど2年前、当時の野田総理大臣が解散総選挙を口にしたことが書かれていて、そこにはなんの大義もないというのがわたくし自身の見立てでした(こちらです)。その後の年末の総選挙で自民党が圧勝して政権が交替して、今日に至っています。
そうして今度は攻守を替えて安倍総理大臣が衆議院の解散を画策しているらしいことが報道されています。彼自身は何も言っていないと発言していますが、火のないところに煙は立たないわけでして、解散は総理大臣の伝家の宝刀ですからそうそう簡単に手の内を見せる訳はありません。
で、今回の解散は消費税率引き上げの信を国民に問う、ということがその理由らしいですが、報道によれば首相自身は来年10月の消費税率10%への引き上げを見送ろうと考えているようです。でもそれが本当だとすると、国民に何を問おうというのでしょうか。消費税率を10%に引き上げることの是非を問う、ということであれば分かりますが、引き上げないというのであれば、表面的には誰でもホッとするのではないでしょうか。
ですから本当の理由は別のところにあると見るのがスジでしょうな。今のところ、自民党に対抗できるまともな野党は育っていません。かつての与党だった民主党の凋落ぶりには目も当てられません。小さな政党が乱立している状況で、内輪もめを繰り返しているあり様ですから、多くの国民から信頼されていないのは確かでしょう。
そのような状況ならば現在の与党が過半数を維持してさらに議席を積み増すことが可能と踏んだのだと思います。あわよくば憲法改正に必要な全議席の2/3以上の議席獲得を達成しようという目論みではないでしょうか。この政権のことですから、ここのところ鳴りをひそめているところはあっても憲法改正はなんといっても彼らの党是なので必ず巻き返してくること必定です。
それにしても野党も甘く見られたものです。もっとしっかりとした政策を提示して、それこそ国民の信を問う、くらいの気概を持って欲しいものですが、このままでは無理でしょうな。国民のことを真剣に考える政治家がもっとたくさん出て来ない限り、自民党の天下はしばらく続きそうな気がします、残念ですけど,,,。
追伸; 二年前の総選挙のときには脱原発が大きな争点のひとつでした。その是非は置いておいて、なんにせよ争点があるというのはよいことですよね。では、今回の争点は何なのでしょうか、帰国した首相がなにを言うのか興味津々です。
晩秋の市貝町に行く 2014 (2014年11月14日)
トップページに記したように、二年ぶりに栃木県市貝町に行ってきました。2011年の地震によって大きな被害を受けた市貝中学校ですが、上部構造の耐震補強と基礎構造の被害とのあいだの関係を詳細に検討したい、というのが今回の研究テーマです。
市貝中学校の普通教室棟は連層鉄骨ブレースで耐震補強したにもかかわらず、その上部構造が中破の被害を受けたことに対しては、石木健士朗くん(現・鹿島建設)が修士研究として精力的に取り組んでくれました。それによって得られた成果は評価するに十分値するレベルだと思います。ただし石木君の検討では基礎固定で解析を行っており、杭の損傷は考えていませんでした。
しかし上部構造を耐震補強したことによって相対的な弱点が基礎構造に移ったということは、概念としては十分にありそうです。とくに古い建物では杭の設計など多分簡単にしか扱っていなかったでしょうから、その可能性は強まります。そこで我が社では馴染みのない地盤—杭—建物連成系を扱うことになりました。担当はM1・新井昂くんです。彼は現在、既往の研究や関連する基礎研究を一所懸命に調べているところで、数年前の石木くんと同じような状況ですね。まあ何とかなるだろうと思っています。
説明が長くなりましたがこういう訳で、市貝中学校が建っている敷地の由来や地盤状況について詳しくヒアリングして、関連する資料を拝見するというのが今回の訪問の目的です。それと同時にRC二階建ての特別教室棟(これも耐震補強後に2011年の地震を経験)の現況を調べるため、助っ人としてM1・星野和也くんとB4・松田卓也くんも同行しました。
さて、取り壊された校舎のあとに立派な建物が昨年竣工しており、今回はその新築校舎も拝見いたしました。オープン・クラスとして使えるように廊下を広くとって、教室と廊下との間仕切りも可動式になっていました。ただ先生方からは、そういうオープン・タイプの授業は音がツーツーになってうるさい、とのことで不評のようでした。わたくしが訪問したときには間仕切りもドアも閉め切って、フツーの教室として授業を行っていました。ここでも、設計者の意図と使用者の指向とのすれ違いというよく見かける事実が存在していることが分かります。
でも、ちょっとした集会が行えそうな大階段のスペースとか、各階に設けられた先生コーナーなどは使い易そうだなと感じました。二階の教室には勾配屋根にハイ・サイドライトをつけて自然光を取り入れているのも気持ちがよかったです。
このように復興なった中学校ですが、そこで過ごす生徒諸君が楽しそうに学校生活をおくっているのが印象的でした。これも市貝町教育委員会や地元の皆さんのご尽力の賜物だと思います。
今回の訪問では久しぶりに町長の入野正明さんにもお目にかかることができました。お忙しいなかわたくしどものために時間をとっていただいた入野町長にはとても感謝しております。2011年の地震被害調査で市貝町を訪れたときに初めてお会いしたのですが、そのときと較べてこの日は随分と明るく感じました。お話しを伺って、道の駅の開設によって市貝町の震災復興が一段落したことが分かりました。そういう大任を果たされ、いまはやっと安寧の日々を回復できたんだろうなと感じました。もちろん政治家の苦悩をわたくしのような市井の一般人が理解できるわけはありませんので、あくまでも感触に過ぎませんが。
入野町長からはいろいろなお話しを伺うことができましたが、そのなかでも入野町長の学生時代のお話しは我が社の学生達にとっては度肝を抜くようなものだったと思います。わたくしも記憶にありますが、昔の大学の先生って良きにつけ悪しきにつけ“大人物”が多かったのは確かでしょう。大学教授となった自分のことを思えばすぐに分かりますが、それに較べればいまの先生は小粒になったと言わざるを得ないでしょうね。まあ学生諸君にとってどちらがよいのか、一概には言えないでしょうけど。
また入野町長は自分の町の復興が福島の自治体よりも先に達成できたことをとても申し訳なく思っているそうで、このところ福島の仮設住宅に暮らす人たちの慰問に毎週訪れているとのことでした。なかなかできることではありませんから、そういう実行力のあるところはすごいなと思います。やっぱりたたき上げで政治を志すひとは違うもんだなと感心しました。
市貝町にゆくたびに思うのですが、いつも役場や学校の皆さんには歓待していただき、とても感謝しています。今回も古い資料や写真、設計図などをあらかじめご用意いただきましたし、市貝中学校での視察や調査にも全面的にご協力いただきました。入野正明町長をはじめ、大貫宏衛教育長、高根澤喜一課長、滝田弘行さん、高木さんなど教育委員会のみなさんと市貝中学校の小筆教頭先生には大変にお世話になりました。この場を借りまして御礼申し上げます。
いままでは仕事で市貝町を訪れましたが、これからは遊び心を持ってたずねてみたいと思っています。サシバ(小型のタカの一種で、市貝町の町おこしのひとつ)を見るのは難しいとしても、シバサクラを眺めながら美しい里山でのんびりするのもいいもんだろうなと夢想しています。地元の惣誉(そうほまれ)の酒蔵にも行ってみたいですね。
三十年ぶりの講評会 (2014年11月10日)
ことし2014年は建築学科を卒業してから三十年の節目に当たります。九年前に二十一年会を催しましたが、それ以来の三十年会がこの週末に開かれました。場所は懐かしい工学部一号館の講評室です。フツーの学年ならばそんなところで同窓会は開かないでしょうし、また開きたくても開けないものです。
ところがわが学年では母校の教授を三人も輩出しておりますのでそのなかのひとり、野口貴文くん(コンクリート工学)のお陰でこういう場所での開催になりました。一号館は大規模改修されたために、わたくしが学生の頃の製図室はなくなってしまいました。しかしいずれにせよ、われわれ同期の卒業以来三十年を報告する“講評会”が恩師の先生方をお迎えして開かれたのは感慨深いことです。
各自の足跡を三分で説明せよというのが幹事団からの課題でして、皆さんパワーポイントを作ってきて発表しました。しかし如何せん三分では短く、かつ皆さん熱弁を振るったので時間はどんどんと過ぎました。そうして第一部終了の時間になってもかなりのひとが積み残されましたが、どうしても帰らないといけないという藤田盟児くん(日本建築史)が割り込んで発表しているのが上の写真です。ここには恩師である青山博之先生、秋山宏先生、神田順先生、大野秀俊先生、安岡正人先生が写っています。それから長澤悟先生もおいで下さいました。
五十代になって皆さん、それなりの要職についているようで忙しく活躍しつつも、それなりに定年後についても考え始めていることが分かりました。将来に対するそういう布石も必要ってことでしょうけど、わたくしはまだなにも考えていません。
ゼネコンや大手組織設計事務所に勤めている人たちは中国や東南アジアでの仕事が多いみたいで、外国での活躍潭も楽しく話してくれました。この学年は大学の教員になったひとが多く、約五十人の卒業生中、十二名が大学に在籍しているのも特徴でしょうか。
で、そのあと正門前のレストラン『モンテ・ベルデ』に場所を移して第二部が始まりました。ここには学生時代、よく夕飯を食べにいったものです。ポークジンジャー・ライスとかミート・ドリアとかをよく食べた記憶があります。もっとも小谷俊介先生と一緒に晩ご飯を食べに行くときは森川町食堂(通称、もりしょく)と決まっていましたので、『モンテ・ベルデ』には研究室の先輩・後輩や田才晃先生なんかと一緒に行きました。
ここでパーティをするようなスペースがあったかなと危惧したのですが、貸し切りにして机をほとんど取り払って、三十人くらいがぎゅうぎゅう詰めでやっとのこと入ることができました。そこには建築家の槙文彦先生がお見えになっていて、わが学年の建築家たちがお坐りになっている槙先生を取り囲んで直立不動で立っている姿が印象的でしたね。彼らにとっては槙文彦先生はスター建築家であって、未だにオーラを放っているということがそのあとのショート・レクチュアのときに明らかになります。
恩師の先生方のお話しを仰ぐまえに、積み残しのプレゼンテーションがあって、そのときに建築家の宮本佳明くんが連戦連敗(具体的には3勝46敗だそうです)などと安藤忠雄さんみたいなことを言っていました。アトリエ事務所は大変だなあとあらためて思いましたね。
わたくしの学年で自営の事務所で設計している建築家は伊藤恭行、柴原利紀、千葉学、日色真帆、宮本佳明くらいでしょうか。同級生といえどもコンペでは勝った負けたがあるわけで、その喜怒哀楽の日々をかいま見た思いがしました。したの写真は自作について語る千葉学くんです。千葉の左後ろにいるのが宮本佳明くん、左端に坐って苦笑いしているのが伊藤恭行くんです。ちなみにわたくしの学年で卒業設計の最優秀賞である『辰野賞』をとったのは宮本でした。
ということでなが〜い前座が終わって、これから恩師の先生方の“講義”が始まりました。とくに槙文彦先生(左下)は幹事の要望に応えてパワーポイントを使って自作について語っていただきました。さすがに含蓄のあるお話しでしたが、建築の価値を決めるのは長いあいだにその建物を使い続ける人々である、すなわち「時が建築の最終審判者である」というお考えは、そこだけ聞けばその通りで当たり前かもしれません。しかし槙文彦先生が様々な経験と沈思黙考との末にそこにたどり着いたということでしょうから、その言葉の持つ意味は重いと思いましたね。
槙文彦先生と言えば、最近の新国立競技場のザハ・ハディド案に対する異議申し立てがありますが、槙先生はそのことにはいっさい触れませんでした。野口貴文や安岡正人先生が新国立競技場のコンペについて言及していましたが、そのときにも黙って聞いておいでになるだけでした。それも印象的でしたね。
その次に師匠の青山博之先生(右上)がお話しになられました。そこで青山先生から、なぜ建築学科に進んだのか、そして構造学を選んだのか、そういうお話しを初めて伺いました。そこには青山先生がライバルと任じたある方の存在が大きかったそうです(その方は建築学科ではありませんが、東大教授になられました)。わたしのような弟子達にとって青山先生は神様のような存在ですが(先生の前では未だに直立不動ですゾ)、お若かった頃には普通の(と言っては語弊があるかも知れませんが)若者でそれなりの葛藤もおありだったことを知りました。
そのあとに安岡先生、神田先生、長澤悟先生とお年の順にお話しをいただきました。いずれも楽しく示唆に富んだお話しでしたが、長くなりますので割愛します。安岡先生は音環境がご専門ですが、音は振動ですから構造系の論文発表も聞いて下さり、ときには質問もされていたことを思い出します。
神田順先生は構造系ですし、わたくしが学生だった頃に(どういう経緯かは忘れましたが)神田先生のご自宅に遊びに行ったこともあるので、わたしのことを覚えていて下さいました。長澤悟先生はその当時は助手をされていましたので、設計製図のエスキスを直接見ていただいたのが思い出です。
こうして予定していた四時間はあっという間に過ぎて行きました。青山・小谷研究室の出身者七名のうち五名が揃いましたので青山先生と一緒に記念撮影したのがしたの写真です。青山先生の右横が中埜良昭(東大生研所長)、その隣りが今村晃(東電スペシャリスト)、後列左が溜 正俊(三菱地所設計)、その隣りが山上 敬(みずほ情報総研)の各氏です。
このような素晴らしい三十年会を企画してくれた幹事のみなさん(うえの写真)にはとても感謝しています。左から永谷 隆、稲葉 基、野口貴文、馬場正道、山本朋生、田島 泰、小林利彦の各氏です、どうもありがとう! とくに小林は某大手設計事務所の子会社の社長になったということで、すごいですね。われわれの学年からもそういうトップに立つ人があらわれたかと思うと感慨もひとしおです。
これで三十年会の紹介を終わります。ゲストの先生がたが皆さん仰っていましたが、卒業生たちのパワーには圧倒されるものがあり、自分も頑張らないとと思わせるような、鼓舞されるような雰囲気が充満していました。そういう刺激を貰うのもたまにはいいかなと思いましたね。
さて次の四十年会はどんな会になるのでしょうか。楽しみなような怖いような気がしますが、それが人生そのものですから日々を淡々と過ごすだけでしょうな。皆さんのご健康とご活躍とを祈っています。
追記; 地方から駆けつけてくれた同級生もいて、そういうひとが美味しい地酒を持って来てくれました。馬場正道くんは新潟から「スキー正宗」という上越の一升瓶を提げてきました。本醸造でしたがちょい辛といった感じで結構おいしかったです。誰が持って来たのか分かりませんでしたが、信州の「麗人」の純米吟醸秋あがりもあって、こちらは甘口でおいしかったです。そんな感じで日本酒を飲みながら皆さんの発表を聞いていましたので、トータルにするとかなり飲んだ気がします。
追記2(2014年11月11日); 麗人の「秋あがり」は山上敬くんの差し入れだったことを野口貴文くんが知らせて下さいました。お二人とも、ありがとうございます。
ことしも桐生 (2014年11月7日)
ことしも群馬県桐生市の依頼によってご当地を訪ねました。今回はSRC9階建ての団地の耐震改修プロポーザルの審査です。昨年と同じく壁谷澤寿海先生、楠浩一さんの東大地震研コンビと太田社長とご一緒です。
この日は快晴のよい天気でしたが、それでも赤城のお山から吹いてくる風は(わたくしのような東京者には)冷たく、立冬の日にふさわしいような天候でした。その団地の屋上から撮ったのが下の写真です。赤城の山々が緑豊かに連なるいい景色ですが、さすがに桐生の街中なので周辺には住宅がびっしりです。ちなみに桐生市の人口は12万人余ということでした。
で、市役所の課長さんがおはなしして下さったのですが、桐生市の人口はかなり減少していて、2040年には消滅してしまうと予想される都市のひとつとして挙げられたそうです(といっても、そういう都市は日本中の約半数に及ぶらしいですけど)。高齢化の進展と人口減少とが地方の中核都市といえども無縁ではないことを知らされて、その問題の深刻さを改めて認識したのでした。
桐生に来たらやっぱりひもかわ(幅広のうどんのことです)でしょうということで、お昼に皆さんうち揃って「藤屋本店」というご当地の有名店でいただきました。昨年ひとりで行った「ふるかわ」と較べるとうどんの幅は半分くらいでかなり食べ易かったです。それでも、フツーのうどんのようにツルツルっと食べられるような代物ではありませんな。まあそこそこ美味しかったです。
それよりもそのお店では「十四代」とか「田酒」とか「而今」といったふだんはお目にかかれないようなレアな日本酒を置いていることに驚きました。特に「十四代」はべらぼうなプレミアがついているそうで、そうそう買えるお酒ではありません。仕事じゃなかったら迷わず飲んでいるところです。まあ、仕方ありませんけど,,,(ちなみにわたくしはそんな呑んべいではありません)。
ことしの研究室選び (2014年11月5日)
昨日まで大学祭できょうは後片付けの日なので講義は休講です。さてトップ・ページに載せているように、来年度の卒論のための研究室選びが三年生対象に始まっています。昨年度とはうって変わって、ことしは構造系の人気が全くないということを数人の学生さんから聞きました。学年によってそんなに違うものかと今更のように驚かされます。
そういうわけで我が社に話しを聞きにくるひとは例年にも増してあまりいないのですが、そういう数少ない学生諸君のなかで「研究室をどうやって選んだらよいのか分からない」という困惑を訴えたひとが数人いました。これは今までになかったことで、わたくしのほうも実際のところ困惑しています。
専門教育を受け始めてまだ二年くらいなわけですし、日頃受けている講義の内容と卒論とは(全く無関係とは言いませんが)一般には異なっていますので、確かに彼らのいうことも分かります。しかし、確かに授業から得られる情報は限られていますが、そういうなかから触発された事柄を図書館で調べるとか、世間で問題となっていることを認識してそれについて関心を持つとか、自分自身でできることはたくさんあるはずです。
そういう能動的な活動を行っているのかなあ、という疑問はありますね。でも根底には自分自身のことを今まで真剣に考えて来なかったという日常があるのではないかと思っています。自分の人生ですから本人が決めるしかないのですが、そういう意識が今までは希薄だった、というか、自分自身でなにか重大な決断をしたことがなかった、というのが原因のような気がします。
ですから彼らの困惑に対して、あなたが興味を持っていることはなんですかとか、あなたは自然界を全て理解できたと思っていますか、というふうに聞いています。わたくしだって彼らの問いに対して明確な回答を持ち合わせている訳ではありません。先日のFDセミナーで「教えないことも重要である」ということを三浦先生がおっしゃっていましたが、たしかにそういうこともあるんだなと思います。
FDセミナーにて (2014年11月4日)
先週、学内でFDセミナーが開かれました。昨年に引き続き、出席してきました。去年よりはギャラリーは多かったような気がしますが、それでも教室はガラガラでした。今年から新入生向けの基礎ゼミナールを担当するようになったので、アクティブ・ラーニングに関する専門家のお話しは役立つだろうと考えて参加しました。
ことしは例年とは異なり、学外からのゲスト・スピーカーがお二人呼ばれていました。公立はこだて未来大学の美馬のゆりさんと関西大学の三浦真琴さんです。さすがに専門家のお話しだけあって、わたくしのような教育の素人にとっては新鮮で示唆に富む内容が多くあって有益だったことは確かです。
例えば、教室で「教える」ことから脱却して「ひきだす」ことに努めようとか、学生が主体的に学ぶために失敗を勧めようとか、学生に自分で問題を考えさせてそこから他分野の知への可能性を引き出そうとか、なるほどそうかあとは思いました。
それでも、アクティブ・ラーニングは手法ではないと強調されたときには、そうは言っても教室の現場で具体的にいったいどうやったらよいんだろうかという困惑をぬぐえませんでした。
ですから、今回のセミナーでは概念的なことや理念についてはそれなりに理解が進んだのですが、関西大学での具体の試みを聞いてもそれは非常にハードルの高い(ものすごくご苦労されて全学的な試みとなっていることもあって)、わたしには実践できそうもないようなことで、参考にしようがないなというのが感想でした。
ちなみにFDセミナーのFDとはFaculty Development の略ですが、講師の三浦真琴さんはこれをFuture Design と呼ぶようにしていると仰っていました。先端を走っているひとはやっぱり考えることが違うなあと感心しましたね。
ことしの基礎ゼミナールでは、本を読ませてそこから触発されたことや疑問をふくらませて、そのあとに調査する内容や問題設定を各自に考えさせましたが、あまりうまくゆきませんでした。考えるに、なにが問題として立ち上がるのかということをもっと学生さんと議論して、彼らの頭脳をインスパイアするような教員としての活動が必要なんでしょうな。まあ、それがうまくゆくようならば苦労はないんですけど,,,。
実験は大変だ 2014年バージョン (2014年10月31日)
10月も晦日になりました。明日からは11月です。ということは今年も残すところあと二ヶ月ということで、早いものだなと感じます(もちろん、日々忙しいので数日前のことなど遥かに遠い昔のように思えますけど,,,)。
さてトップ・ページでも実況しているように、鉄筋コンクリート立体隅柱梁接合部試験体に3方向載荷する実験が現在進行中です。チーフのM1・石塚裕彬くんはとてもよくやっています。この4月に我が社に入って来て、いきなり最先端の研究を担当することになったのですから、相当に勉強・努力したことと思います。その介もあって、M1の秋口に実験ができるというのはとても立派なことだと思います。もちろん同一テーマを担当する先行者であるM2・片江拡くんのアシストも大いに寄与しています。
でも、いつも書いているようにすんなりと予定通りに進んでゆく実験など、ほとんどありません。特に我が社での実験は博士前期課程の大学院生が主担当者になることが多いので、毎年実験するひとが変わります。もちろん先輩から口伝えで受け継がれるノウハウもたくさんありますが、細かいところまでは伝達できないようで、初歩的なところで問題が出来することが多いようです。
で、今回の石塚くんの実験でもいろ〜んなトラブルに見舞われています(現在進行形です)。最初は電気信号に関することで、スイッチ・ボックスとかデータ・ロガーには必ずアースをとらないと安定したデータを採取できないのですが、それができていませんでした。そうして実験を開始したのですが、翌日に晋沂雄さんがやってきて、荷重の出力が大きくぶれていて安定しない、と報告してくれました。
アースはちゃんととったのにおかしいなあ、と訝しみながらも実験室に行ってチェックを始めました。不安定な信号はある荷重だけであることが分かったので、もしかしたらそれがつながっている動ひずみ計のアースがとれていないのではと疑いました。その機器からのアース線は電工ドラムのアース口にちゃんと接続されていました。ところが、その電工ドラムのコードが差し込まれた壁際のコンセントのところでアース線がちゃんとつながっていなかったのです。で、それをつなぎ直したところ、荷重の変動はピタッとなくなりました。
次に驚いたのは、電工ドラムに大出力のヒーターをつないで(急に寒くなって来たので実験棟にあったヒーターを使おうとしたようです)、そのドラムからのコードをパソコンをつないでいる電工ドラムのコードと同じコンセントに差し込んでいたことです。そんなことして過電流が流れたらブレーカーが落ちて、データを収録しているパソコンも落ちちゃうじゃありませんか! そういう失敗は過去に何度も起こっているのですが、二年も経つとメンバーが入れ替わってそういう失敗の経験が伝承されないのです。
つぎはデジタル・マイクロ・スコープです。これはハンディな電子顕微鏡といってもよいもので、光ファイバーの先にあるレンズをコンクリート表面にあてるとひび割れ幅を測定できるという便利なモノです。非常に高価で精密なものですが、我が社のような破壊実験ではコンクリートが落下したり、埃が舞ったりします。で、今回、試験体のかぶりコンクリートの塊(約500グラム)が落下して、マイクロ・スコープ本体を直撃したそうです。
そのマイクロ・スコープはしばらくは動いていましたがやがてフリーズするようになって、ついに起動しなくなりました。そこでキーエンスの担当者を呼んだところ、そのときには何事もなかったように起動したそうです。どうなっているんだろうとは思いましたが、やっぱりダメで結局、修理に出しました。
そして最新のトラブルはパンタグラフです。これは試験体が柱の材軸回りに回転するのを防ぐために、試験体と周囲の載荷フレームとを水平に接続している装置です。パンタグラフは全てがヒンジになっているので、試験体に水平二方向加力しても試験体の動きに追従でき、かつその回転を防ぐことができる、という原理です。
ただこの実験では、やむを得なかったのですが、そのパンタグラフの接続のやり方にちょっとばかり難点がありました。そこでパンタグラフが変な動きをしないかどうか確認するために、パンタグラフにひずみゲージを貼って、その値をモニターするように言っておいたのです。
で、先週実験しているときにパンタグラフを触ってみると、どうも張力が入っているような気がしたので、そのひずみを見ると結構な値になっています。これはどうもおかしいとは思いましたが、その数値を信用して実験を続けました。しかし変形が大きくなるに連れて、そのひずみも大きくなり、やがて降伏ひずみに達したのです。
これは(それが本当なら)明らかに異常な事態でした。それ以上実験を続けるとなにが起きるか分からないという危険を認識しましたので、試験体はもうかなり壊れていたこともあって実験を終了したのでした。そのときわたくしはとても緊張して、変なことが起きやしないか、ドキドキしながら実験に立ち会っていたのです。
ところがその後、石塚くんからのメールを見て唖然としました。わたくしがみていたひずみの値が、実はくだんのパンタグラフのひずみではなくて、全く無関係の別のところのひずみだったというのです。ええっ、じゃあ、わたくしがビクビクしながら実験していたのはなんだったのか、ということになります。
話しを聞いてみると、どうやらひずみをモニターに出力するときに当該ひずみゲージの番号を間違えた、ということらしいですが、そんな初歩的なミスが起きるとは正直、思いもしませんでした。完全に想定外でしたが、なにせ彼らは初めて実験を担当するのですから、よく考えればあり得ることだったと、いまはわたし自身の至らなさを反省しています。
実験はまだ1体残っていますから、これからもいろいろと出来するのでしょうが、平常心で臨めるように鍛錬しようと思っています。でも心臓にはよくないですぜ、ホント(学生諸君、あんまりわたしを心配させないでね)。
PC鋼材を引張る (2014年10月30日 その2)
今年度も長寿命建築プロジェクトの一環として、アンボンド・プレキャスト・プレストレスト・コンクリート造柱梁部分架構実験を担当することになりました。お声かけいただいた関連協議会の皆さまにはあらためて御礼申し上げます。
で、その試験体をいまアシス株式会社にて作製中ですが、先日、プレキャストの鉄筋コンクリート梁および柱を所定の位置にセットして、そこを串刺しに通したPC鋼材を緊張して柱と梁とを圧着接合する作業を行いました。我が社の担当はD2・宋性勳さん、M1・鈴木大貴くんおよび特任助教・晋沂雄さんです。
PC鋼材を緊張するときに、そのひずみや引張り力を測定することが必須なので、大学からデータ・ロガーやスイッチ・ボックス等測定機器一式を持ち込みました。試験体数が多いので、夜遅くまで作業したようですが、怪我等もなく無事、作業が完了してよかったです。田島祐之さんや金本清臣さんともども、ご苦労さまでした。
このあとさらにスラブのコンクリートの打設があり、それが済んでやっと大学に搬入という段取りです。それでも今回はアンボンド(シース管にグラウト材を注入しない)なので、工程がひとつ省略できます。上手くゆけば十一月中旬くらいから加力開始というのが今後の予定です。だんだんと寒くなってきましたが、皆さん、健康に留意してお過ごし下さい。
なんとかの一丁目 (2014年10月30日)
きのうは原子力発電所関係の会議があって、某役所に出向きました。そのオフィスに行くには地下鉄南北線の六本木一丁目という駅で降りるのですが、わたくしにとっては初めての場所でした。日頃、八王子の田舎に籠って教育・研究に励んでいるので、こんな大都会に行くと(われながらこっぱずかしいのですが)頭がクラクラきちゃうんですよね〜、こりゃあ、おいらの領分じゃないやと。
昔の悪党はよく、ここは地獄の一丁目だぜ、などと捨て台詞を吐いていたものですが、わたくしにとってはここが鬼門となりました。六本木一丁目の駅を降りてから、目安の建物までどうやって行ったらよいのか、ぜ〜んぜん分からんのですよ。仕方がないので地下の駅からかなり上がっていって、後ろを振り返ったのが下の写真です。中央奥を水平に横切っているのは首都高速のようですな。
どうやら辺り一帯が再開発されて小綺麗に整備されたようですが、それがかえってアダとなっていて(というのもその広大な敷地内の通路はグーグルの地図なんかには載っていないんですよ)、もうどっちに行ったらよいのか、迂生はホトホト途方にくれましたな。こちとら東京都民のはしくれなのに、おのぼりさん同然にキョロキョロと周囲を見回すばかりでした。
主催者が民間のひとならばそういうことには気が回って、行き方を丁寧に教えてくれるのが通例ですが、なんせ相手はお上ですからね。な〜んにも教えてくれませんでした(下車駅さえも、ですよ。仕方がないので自分で調べました)。
で、なんとか目的のビルにたどり着きました。多分こんなことになるだろうと思って時間に余裕を持って来ましたので、遅刻せずによかったです。でも、ここでまたもや関所が待っていたのです。
守衛さんのところでまず用紙に必要事項を記入せよと言われました。用紙ってどこにあるのかときくと、あっちの机の上にあるからあそこで書いて持って来い、と言うんですよ。こちとら頼まれて会議に来ているのに、会議の主催者がそれくらい予め伝えてスイスイとことが運ぶようにやるのが普通でしょう。かなり頭に来ましたが、我慢してその用紙に記入して、再度その守衛さんに渡しました、これでいいんですかと。
そうしたら今度は身分証明書を見せろ、ときました。相手がお上だから(って、こっちだって地方とはいえ“みなし公務員”ですけどね)仕方ないのかも知れませんが、もう完全に頭に来ましたな。久しぶりに怒りが込み上げてきて、とはいえ、身分証明書を見せないと入れてくれないので、わたくしのそれを放り投げて見せてやりました。
それからその守衛さんは今度は会議の主催者に電話し始めました、こういうひと(私です)が来てますけどどうしますか、などとはなしているのです。ああ〜、もうダメだこりゃ。「あんた、テロリストが来るとでも思ってんの?」って思わず言ってやりました。その守衛氏のことばや態度はいかにも丁寧なのですが、慇懃無礼とはこのことでしょうな。
で、やっとのことで話しがついたようでしたが、その後もしばらくガサゴソやっているので、もういいから入れて下さいといって押し入ろうとすると、ダメダメと再度制止されました。それからおもむろにビジター・カードとA5サイズの紙を渡されて、やっと入れてくれました。この紙きれはなんだと聞くと、会議先の担当者のサインをもらって退出するときに提出せよということでした。おいおい、なんだよ、いくらなんでもやり過ぎなんじゃないでしょうか。
ということでやっと高層階にある会議室に入れてくれました。ところがさらに予期せぬ事態が出来しました。こちとら八王子くんだりから出向いているのに(何度も言うけど,,,)、主担当者である○○官とかいう役職の方がなんと健康診断に行っていていません、というではありませんか。大学教授をなんだと思っているんでしょうかね。そんなにヒマでもありませんし、ボランティアする義理もなければ義務もない。ひとを自分のオフィスに呼びつけておいて自分は健康診断に行くという、その無神経さがわたくしの神経をひどく傷つけましたが、もはや諦めの境地に達しましたな。
一事が万事でしょうが、そもそもそういう体質の組織なんでしょうね。もう馬鹿らしくなったので、それでも同席したO林組の皆さんにはなにも罪はないので、会議では気がついたことなどを発言して退散しました。そうして退出する際にくだんの守衛さんに例のカードと用紙とを渡そうとしたら、それは向こうに出して下さいと言われて、すかしっ屁(汚くて失礼)をくらいました。最後まで腹立たしくて気に食わないところでした。ですのでもう金輪際、そのオフィスには行くまいとこころにかたく誓って、その鬼門たるなんとか一丁目をあとにしたのでした。
シーズン終了 〜連敗更新〜 (2014年10月27日)
東京六大学野球はまだ来週に早慶戦を残していますが、東大は全ての試合を消化してシーズンを終了しました。今期はホームランもチーム合計で4本打ったし、久しぶりに三割バッターも輩出したし、結構点もとったのでいけるかなあと期待しましたが、結果は残念ながら10戦全敗でした。最後は今期、絶不調の法政大学が相手だったので、もしかしたらとちょっとばかり期待しましたが結果はそんなに甘くはなく、こてんぱんにやられてしまいました。
やっぱり投手が踏ん張れないと野球は厳しいですな。東大のピッチャーはいかんせん四球が多過ぎます。スピードはあまりなくてもコントロールで何とかするというのが東大の戦術だったはずですが、それができないと玄人相手ではつらいでしょう。
それにしても86連敗はちょっと悲しいですね。一年に春と秋、それぞれ10試合ですから、四年以上も勝利から遠ざかっていることになります。今期の四年生は一勝もできなかったということですから、彼らの無念さは察するに余りあります。この長いトンネルを抜けるためには投手陣の奮起に期待するしかありません。
でも、ほかの五大学は高校野球で活躍したセミ・プロみたいな選手ばっかりですから、そのようななかで高い志を持ってプレーしている選手諸君は素晴らしいし、よくやっていると思います、ホント。ですから、これにめげることなく来年に向けて精進して下さい。
狭山の丘 (2014年10月22日)
先日また、瑞穂町の町民協議会に参加してきました。今回は瑞穂町の町役場の現状を視察しました。建物が分散していて不便なうえに、市民サービスに供するスペースが絶対的に不足しているように見えましたね。
庁舎も旧耐震の建物は見るからに柱が細かったし、新耐震直後に建てられた新棟(といっても建設後30年以上経っていますけど,,,)も執務空間を大きくとるために建物中央部の柱を設けていないので、かなり不安を感じました。その途中で、きゃしゃで見るからに恐ろしげな外部鉄骨階段を登って屋上に行って見回した景色が、したの写真です。
瑞穂町の人口は三万四千人余ということで、町役場の回りには住宅がびっしり建っていますが、町役場のすぐ北には写真のような緑の丘が広がっていて、これが狭山丘陵の一部ということでした。
この丘陵のすぐ南に立川断層が通っているかと思うと、ちょっとこわい気がします。このあたりの断層については東大地震研究所が文科省のプロジェクトとして現在調査中ですので、そのうち最新の知見が公表されると思います。
しかし南大沢から箱根ケ崎に行くのは不便ですな。なによりも八高線が三十分に一本しかないのが困ります。この日はたまたま須永修通先生と一緒になったのですが、二人揃って八高線に乗り遅れて、そうなると必然的に三十分遅刻ということになります。須永先生ともどもホームで呆然と立ち尽くしちゃいました、ああイヤだなあ〜(協議会の皆さま、遅刻してすみませんでした)。
耳ネタ October (2014年10月21日)
巷ではクリント・イーストウッドが監督した『ジャージー・ボーイズ』という映画が公開されています(わたしは見ていません)。これは1960年代にアメリカで活躍したフォー・シーズンズというポップス・グループを描いたものだそうです。そのメンバーのひとりがフランキー・ヴァリ(Frankie Valli)で、その特異なファルセットの歌声に最近はまっています。
このページに何度か書いていますが、ボーイズ・タウン・ギャングの『君の瞳に恋してる』が1982年にヒットしました。ただこの曲は彼らのオリジナルではなくて、元歌を歌っていたのがフランキー・ヴァリだったのです(これは最近になって知りました)。
ちなみにこの歌の英語タイトルは『Can't take my eyes off you』ですが、正しい英文では「Can't take my eyes off of you」というふうに”off”と”you”とのあいだに”of”が入ると思います。” off of “という具合に重なるとタイトルとしては語呂が悪いということでしょうか。
具体的に書けば ”off” は副詞で、この場合には ”take” と組み合わされて取り除くとか逸らすとかを意味します。そのあとの ”of” は前置詞で ” of you” は「あなたから」という意味になります。ですからこのタイトルを和訳すると「あなたから目を離せない」という感じになります(こんな風に書くと身も蓋もない気もしますが,,,)。
ただアルバムに入っている歌詞カードを見ると、歌のなかにも ”of” は入っていません。それでもヴァリの歌を聴くとちゃんと”〜 off of you” と言っているように聞こえます。まあ、細かいことですからどうでもいいんですけど、内藤流の英語教育を受けたわたくしには気になるんですね〜(注)。
このフォー・シーズンズやフランキー・ヴァリには名曲が多いのですが、いまわたくしが一番気に入っているのがフランキー・ヴァリがソロで録音した『Native New Yorker』という曲です(こちらをどうぞ、興味のある方は聞いてみて下さい)。フランキー・ヴァリの歌声も素晴らしいですが、コーラス・アレンジが絶妙です。これは「Lady Put The Light Out」(1977年)というアルバムのちょうど真ん中に入っている曲ですが、そのほかも甘美な感じの曲ばかりでなかなかGoodなアルバムです。
『Native New Yorker』のメロディ・ラインは素人にとってはかなり複雑で、その心地よいVibration を口ずさもうとしても、うまく真似できないことがすぐに分かります。以前に須藤薫さん(故人)のことでも書きましたが、そういう音の揺らぎみたいなものが聞くひとにとっては気持ちがよい、ということなのでしょうね。
注;Macintoshに付属する辞書で ”take” のところを見ると、
He can't take his eyes off Emma.
彼はエマから目を離すことができない
とありました。ですから“take my eyes off you” という言い方でもよいのかもしれません。
悲の器 (2014年10月20日)
昔の読書シリーズです。高橋和巳の『悲の器』(新潮文庫、昭和42年発行、昭和55年29刷)を読み終わりました。彼の代表作ともいわれる長編小説ですが、生硬な文章で相変わらず読みにくかったです。古い文庫本なので活字が小さいことがそれに拍車をかけました。
高橋和巳の小説は現代の書店では全く見かけませんから、ほとんどが絶版になっているのでしょう。ところが最近、彼の『邪宗門』という小説が二分冊の文庫本となって再発売されました。大学生協の店頭でそれを見て正直驚きましたね。活字は大きくて、行間もゆったりしていたので読みやすそうでしたけど。
高橋和巳の残した小説とかエッセイとかに人生を豊かにする示唆に富む思想が豊富に盛り込まれていたことを、わたくしはもちろん知っていますが、現代の若者たちにそのお堅い文章が受け入れられるかどうかはちょっと疑問です。その時代背景も、豊穣でデカダンス的な現代とは全く異なっていますから、高橋が生きた当時の社会の喧噪とか熱気とか(安保闘争や戦後高度経済成長の始まりなど)を知らない若者にとって果たして理解可能なのかどうか。
さて『悲の器』ですが、旧帝大(多分、東大だろう)の法学部長として斯界で権勢を振るっていた男性教授が、恩師の養女だった妻の死没後に家政婦との情事が露見して裁判沙汰となり、そのスキャンダルを契機として学部長職のみならず教授職をも奪われて大学からの退転を余儀なくされ没落してゆくという、こういうふうに書くと身も蓋もないような内容です。
しかしそこには、戦前の息苦しい暗黒の時代をなんとか生き抜き、卓抜した持論によって斯界の第一人者にのし上がった主人公のそこに至る苦悩とか、学生紛争が始まったばかりだったのでしょうが、そういう大学生達からの攻撃によって精神的に傷つけられてゆくさま、あるいは主人公が蹴落としていった先輩や後輩の思想的背景とかの随所に高橋和巳らしい心情あるいは思想があらわれていました。
昭和20年8月15日の敗戦を機に180度転換した世相を背景として、その時代を生きたインテリがそのような思想的断絶をいかにして乗り越えたか、あるいは乗り越えられなかったか、というのが高橋が筆を執った根本原理のひとつだとわたくしは思っています。
『悲の器』の主人公である法学部教授もそういう観点からいえば、時代の流れに翻弄された被害者のひとりであったといってよいでしょうね。しかしそのような思想だけでは人間は生きることはできないわけでして、そこに家庭生活とか愛情とか憎悪とかが入り込んできます。高尚な理論を声高に叫んで斯界でのしていったところで、人間も結局は生物に過ぎませんから、食事や排泄、家庭での営み等の生理的欲求から逃れることはできません。
ですからこの小説のタイトルである悲の器とは、それは結局、人間自身のことにほかならないのだとわたくしは感じました(もちろん、これが高橋和巳の意図したことかどうかは分かりませんけど)。
建築都市コース主催の講演会 (2014年10月17日)
昨日、建築都市コース主催の講演会を本学の教室で開きました。講師はピーエス三菱の福井剛さんです。講演タイトルは「プレストレスト・コンクリート建築の魅力」で、文字通りアピールしてプレストレスト・コンクリート構造のファンを増やそうという内容でした。
我が社ではここ十数年ほど、プレストレスト・コンクリート骨組の地震時挙動の把握や耐震性能評価の研究に取り組んでいますが、実務の世界ではまだまだプレストレスト・コンクリート構造は認知されていないようです。そこで、その利点を強調することによってまずは意匠設計者や構造設計者にプレストレスト・コンクリート構造を採用してもらいたい、というのが本音でしょうね。
(右端で立って質問しているのは、権藤智之准教授・・建築都市コースの最若手)
で、わたくしにとってはファミリアなプレストレスト・コンクリート構造ですが、福井剛さんのお話しを伺っていて、なるほどなあというところが随所にありました。特に構造設計の手法の観点からは鉄骨構造と鉄筋コンクリート構造との中間にプレストレスト・コンクリート構造がある、というお話しには大いに感心しました。わたくしはプレストレスト・コンクリート構造の研究はしていますが、具体的な設計はしたことがありませんので、そういう観点で見たことはありませんでしたから。
そのほかにプレストレスト・コンクリート建物の実例をたくさん紹介していただき、構造系の学生のみならず意匠設計を志望する学生諸君にとっても刺激になったことと推測します。参加者は三十名程度でしたが活発な質疑応答もできましたので、とても有意義な講演会だったと思います。福井さんのご説明もとても分かり易くてよかったです。
お忙しいなか、わざわざ講演していただいた福井剛さんにあらためて御礼申し上げます。また、ご参加いただいた芳村学先生、高木次郎先生、多幾山法子先生、権藤智之先生、晋沂雄先生と多数の学生諸君にも感謝いたします。
科研費申請の季節 (2014年10月12日)
今日は石塚くんの実験が佳境に入りそうなので(試験体が過激に破壊すると困るので)、日曜日ですが登校して実験を見ています。これから層間変形角2%の載荷に進みます。
さて、10月になってJSPSの科学研究費補助金の申請書を作成する時期になりました。わたしは現在基盤研究Cをいただいていますが、今年が最終年度なので来年度以降の採択に向けて、書類作りにいそしんでいます。これは相当なストレスでして、三年前の同じ時期のこのページを見るとその苦労や大変さを何度もこぼしていました。
先日、同僚の角田誠さん(教授、建築生産学、東大でいうと11号館八階と同じテーマ)がわたしの研究室にフラッとやってきたときに、書きかけの研究調書がモニターに映っているのを見て「俺より進んでいる!」と言われました。そうかなあ、角田さんのほうがずっと進んでいたはずなのに、いつ追い越したんだろうかと訝しく思いましたが、誰でも(とはいえ、それは真面目なひとだけでしょうけど)この苦行に呻吟していることがこれで再確認できましたね。
さて科研費に関連して、先日、文部科学省から2014年度の科研費採択状況(文書のタイトルは「配分状況等」)についての報告書が発表されました。それは100ページ近い膨大なPDFでしたが、今年度から研究テーマ(科研費の言葉では「細目」)ごとに採択件数上位10機関が発表されるようになりました。過去五年間に新規採択された研究課題を研究機関ごとに集計したものだそうです。
で、わたくしが応募するのは「建築構造・材料」という分野ですが(報告書の76ページです)、そのトップ10を興味津々、見てみました。すると1位はダントツで京都大学(33.5件)でした。2位は東工大(25件)、3位は東北大(23件)、ここまでアレッと思いましたが、その次の4位にやっと東大がありました(19件)。5位北大(17件)、6位千葉大(14件)とつづきます。
これは採択件数のランキングですから、その研究機関に有力な研究者がどれだけ所属しているかで決まります。例えばわが大学の建築都市コースには構造系の専任教員は6名しかいませんから、ひとり当たり1.5件採択としてもたかだか9件です。ベスト10の第10位が10件採択でしたから、わずかに届かない勘定ですね。
そう考えると旧帝大のように附置研究所をたくさん持っているところがこのランキングにはやっぱり有利ということになります。まあ、ランキングなんてある一面を表しているに過ぎませんから、それをもって一喜一憂するのもバカらしいことこの上ありません。
でも、なんにつけランキングは独り歩きし、世間ではそれが絶対的な順位付けのように捉えます。そのことを思うとき、文部科学省がこのようなランキングを初めて発表した意図を忖度(そんたく)せざるを得ません。大学同士が切磋琢磨して自分たちの学問を磨くことには大いに賛成です。しかしランキングを上げることに地道をあげるようになったら大学も終わりでしょうな。良識ある大学人として振る舞えるように心がけたいと思います。
誰もこない (2014年10月10日)
いやあ、久しぶりに驚きましたな。2015年度卒論配属のための北山研説明会を今日のお昼休みに開いたのですが、だ〜れも来ませんでした。十年くらい昔にはそんなこともあったような気がしますが、少なくともここ数年はトータルで十名から二十名の三年生がわたくしの話しを聞きに来ていましたし、しょっぱなに誰もこないということはありませんでした。
それを思うとのっけから危機的な状況のような気がして来ましたね。先端研究ゼミナールの講義でも我が社の先端研究について説明してあったのですから、それを勘案すると尚更ですな。とは言うものの、こればっかりは学生さん次第ですからどうしようもありません。再び不人気研究室に転落!ということでしょうか。それも身から出た錆でしょうから、まあ、しかたありませんけど,,,。
神 秘 〜月食におもう〜(2014年10月9日)
今朝はちょっとひんやりとして肌寒かったですね。いっきに秋が進んでいるように感じます。さて、昨晩は皆既月食だったそうです。でも昨日の朝、子供が見ているETVの番組で月食と言っていたので初めて知ったくらいです。で、晩になるとあいにくの空模様でお月様は見えませんでしたが、ちょうど帰宅するときの午後8時過ぎに雲の切れ間からぽっかりと見えたのです。
その姿はうすぼんやりとしたオレンジ色で、なんとも不気味な感じがしましたね。もし月食だということを知らなかったなら、相当驚いたことは請け合いです。現代に生きる私たちは、それが地球の影によって引き起こされることを知っています。でも、近代科学が発達するほんの数世紀前までのひとびとは、それまで白や黄色だったお月様がそのときだけうすぼんやりと赤味を帯びたことにひどく驚いたことでしょう。その姿に不吉な前兆を予言したり、天変地異の前触れだと思ったり、あるいは逆に吉兆だと考えたりしたのも当然だと思います。
月食に限らずおしなべて自然現象というものは、その原因や理屈が分からなければホントにそら恐ろしく感じるものです。それゆえに古代のひと達が自然を崇拝し、そこに神の意思を信じたとしても、それはごく自然な心性の発露だったんでしょうね。人間と自然とのそのような関係を改めて認識させてくれた月食でした。皆さん、見ましたか(見たって、とくに何ということもありませんけど,,,)。
茶室・忘筌のこと (2014年10月6日)
神戸大学百年記念館からの切り取られた眺望を見て、茶室・忘筌(ぼうせん)を思い出したことを先日書きました(こちら)。この茶室は大徳寺の塔頭のひとつである孤篷庵(こほうあん)にあります。茶室・忘筌は茶室建築に興味のあるひとなら必ず知っていると思われるほど有名でしょうが、通常は非公開です。しかしわたくしは一度だけその忘筌の畳に坐って、建具類によって切り取られたお庭を見たことがあるのです(写真がないとイメージが湧かないでしょうから、ネットにあったものをとりあえず貼っておきます)。きょうはそのときの懐かしい思い出を語ろうと思います。
(ネットにあった写真を拝借)
それは建築学科に進学した三年生の夏休みでした。同級の黒野弘靖くん(現・新潟大学、建築計画学が専門)と一緒に奈良・京都に旅行したときのことです。その際、桂離宮や修学院離宮を見たかったので少しだけズルをしました(もう時効でしょうからここに書きます)。その当時からこれら宮内庁管轄の離宮を見学するには日時は指定できませんでした。しかしそれだと時間を有効に使えないので、わたくしの叔母の知り合いだったさるお役所の高官にお願いしたのです。
で、その方が紹介して下さったのが京都のさる役所にお勤めの林良三郎さんでした。林さんのお陰で両離宮だけでなく、京都御所と仙洞御所とも見学できました。林さんは自分の父親くらいの年齢の方でしたがそれは親切なかたで、初対面のわたくし達をご自宅に招いて夕食をご馳走してくださいました。
さらには、東国の大学で建築を学ぶ若者達の役に立つだろうと仰って、ある人物を紹介してくださったのです。それが数寄屋大工の棟梁だった中村外二さんでした。晩夏のある一日、中村棟梁と林さんとは貴重なお時間をさいて、わたくし達若輩者ふたりの相手を終日してくださいました。
そのときに中村棟梁が案内してくださったのが孤篷庵だったのです。さすがに数寄屋大工の第一人者だった中村棟梁だけあって、いろいろなところに顔が効いたのだと思います。ただ、孤篷庵の内部は写真撮影が禁止されていたのでしょうか、忘筌の写真は残念ながら手元にありませんでした。
写真 孤篷庵入り口の石橋(1982年夏)
写真 大徳寺にて(1982年夏)
左から林さん、中村棟梁、北山、黒野くん
孤篷庵のほかに同じ大徳寺の塔頭の聚光院(千利休のお墓があります)や真珠庵、それから南禅寺のそばにある野村邸(別名・碧雲荘、一般には公開されていません)にも案内していただきました。どれも一流の建物やお庭として有名ですが、当時のわたくしがそれをどの程度理解していたかはちょっと疑問ですな。なによりも中村外二棟梁が斯界でいかに活躍されていたかをわたくしは知りませんでしたから(今のようにネットでチョコッと検索できる時代ではありませんでしたし,,,)。
そうして締めは俵屋旅館でした。俵屋は古くから続く老舗の旅館ですが、その新館を吉村順三が設計していて、造作や作庭等に中村棟梁が参加したのだと思います。晩ご飯をご馳走になったのがどこだったか憶えていないのですが、そこで中村棟梁は建築をつくるということについての心構えみたいなものを懇々と説いてくれたように記憶します。残念ながらその内容については全く憶えていないのですが、それでも中村棟梁の建築に対する熱意を強く感じたことだけは確かです。
写真 俵屋旅館(1982年夏)
今にして思いますが、林良三郎さんも中村外二さんも見ず知らずの若者たちになぜそんなにも丁寧に接して下さったのでしょうか。不思議な縁(えにし)としか言いようがありません。子供や孫の年代に当たるわたくし達に少しでも役に立てばそれでよい、という心持ちだったのでしょうか。そういう篤志家っているものなんですね。
ちなみに林さんとはその後も親交が続きました。わたくしが東京都立大学の助教授となって学生諸君を奈良・京都旅行に引率したとき(その責任者は石井昭先生[東洋建築史]で、当時助手だった山田幸正先生もご一緒でした)、林さんに頼んで聚光院を見学させていただきました。またこれはわたくしだけですが、東大寺お水取りの寒い晩に二月堂の中に入れていただき、僧侶達が自分のからだを床に叩き付ける五体投地の修行を間近で見せていただいたりもしました。もの凄い迫力でしたが、わたくしにとっては底冷えのする板床に坐って芯から冷えたことがこたえましたな(そういう生理的な出来事って忘れないものです)。
ということで神戸大学百年記念館の切り取られた風景からはなしがここまで飛躍いたしました。このお話しをまとめるとすれば、それは今に至るまで多くの方々からいただいたご好意のおかげで現在のわたくしがある、ということでしょうか。先人からいただいたご厚情は後輩に返すというのがわたくしの主義ですから、林さんや中村棟梁ほどの人物にはまだまだなれませんが、少しでもそういう先輩方の真似ができるようになりたいと日々念じております。
台風きたる (2014年10月6日)
後期の授業が始まったばかりというのに、台風がやって来たため大学では終日休講になりました。まあその判断は妥当ですし、わたくし自身も風雨のなか無理して登校しなくてよいのでホッと安堵の吐息を漏らしました。以前に何回か痛い目に会っていますので、その教訓を活かして外出は控えました。
でも、きょうは二年生の設計製図のしょっぱなで、課題の出題やわたくし担当の構造ガイダンスが予定されていました。設計製図のスケジュールはびっしり組まれているため、一週遅れるとどうやってリカバリーすればよいのか、ちょっと困りますな。来週のハッピー・マンデーは例によって授業日ですから、その日にやるのでしょうか。まあ主担当の先生にお考えいただきましょう。
追伸; お昼を過ぎてから急激に天候が回復して晴れて来ました、よかったです。電車は遅れていましたが出勤できました。
発問する 〜文学と芸術〜(2014年10月3日)
境有紀さん(筑波大学)が漱石の『こころ』を再読し始めたそうで、それを契機として「文学ってなんだろう」という発問がなされていました。確かにそれは重要な問いですね。それに関連する境さんの考察のなかに「文学を言語を使って情報を伝達するものではなく,文体からなる一つの芸術作品として見てみる」というくだりがありました。
なるほど、そういう視点があるのかと感心しましたが、わたくしの頭のなかでは文学と芸術とがうまく重なり合わないところがあります。文学にもいろいろあって、例えば詩(ここでは大和ことばで書かれた散文詩を指しています)であれば、その短い日本語のなかに語調などのリズムも含めて、読むひとに無限の想像や多様な解釈を可能にするような世界が広がっています。十七字の俳句や三十一文字の短歌はその究極のすがたでしょう。
それに対して小説は多少とも説明的なところがあって、どうしても作者の意図をなぞるような思考を促されます。作者の敷いたレールに乗って読み進むと言ってもよいかもしれません。もちろんそうやって読み進むうちに、登場人物たちがどのような気分でいるのだろうかとか、なぜそんなことをしたのかとかいろいろと考え、じ〜んとしたり感動したりもするのですが、先述の詩や短歌を読んだときと較べて、活性化する脳内の部位が異なっているような気がするんですねえ。
まとめますと、わたくしにとっては詩や短歌は芸術といってもよいのですが、小説は芸術とはちょっと違うのかな、という気分です。結局、情動的(エモーショナル)な感慨を励起させるようなものがわたくしにとっては芸術であって、少なくとも漱石の『こころ』はそういうものではなかった、ということでしょうか。
もちろん小説を読んで、こころが打ち震えるような体験はよくあるわけですから(例えば、浅田次郎の映画化された『柘榴坂の仇討』を先日読み直しましたが、やっぱりじ〜んとして涙腺がゆるんじゃいました)、全てが万事そうだというわけでもなさそうです。あれっ?、漱石と浅田次郎を較べちゃいましたね、ちょっと突飛だったかな?(これってまさに境さんが指摘する「今の時代にあった面白い小説」の典型でしょうな)。
研究室ショッピングはじまる (2014年10月2日 その2)
トップページに記したように、来年度の卒論研究のための研究室配属を決めるプロセスが10月1日から始まりました。これから11月末まで三年生諸君は各研究室を巡って(ショッピングと呼んでいます)、配属の志望先を決めることになります。
昨年まではこのショッピングは年末から年明けの1月に行っていましたから、約3ヶ月の前倒しということになります。このように変更した理由は以下の通りです。三年生後期の『先端研究ゼミナール』という授業のなかで、くじ引きによって個別指導を受ける研究室を決めていたのですが、このシステムの評判が学生・教員の双方ともによろしくありませんでした(わたくしはその意見には与しませんが,,,)。それならばいっそのこと志望する研究室を決めてしまって、それ以降は四年生になっての卒論も含めて各研究室で指導しよう、ということになったのです。
わたくしは鳥海基樹さんの言うように、論文の作法とか書き方をしっかり教えることが重要だと思いますから、必ずしも三年生後期からの研究室配属にはこだわらないのですが、コース内の大勢は上述のようなことになりました。ということで、これから三年生諸君がはなしを聞きに研究室にやって来ます。四年生諸君の卒論の目鼻立ちも整わないうちから来年度のことを考えるのも、どうなんだろうなあとは思いますけど。まあ、そういう次第ですのでやってみましょうか。
かなり伝奇的 (2014年10月2日)
昔の読書シリーズです(ついにシリーズ化されました)。福永武彦の『夢見る少年の昼と夜』(昭和47年、新潮文庫)を再読しました。この作品を最初に読んだのは大学に入学した年でしたから、今から三十年以上も前のことです。なんでそんなことが分かるのかというと(当然ながら)憶えている訳ではなくて、文庫本の末尾に読了した日付が残っていたからです。
この本は短編小説を集めたもので、タイトル作を含めて十一編が納められています。そのなかには福永ゆかりの戸田(へだ、西伊豆にある小さな漁村)や御浜(戸田の内湾にある東大のプライベート・ビーチ、その脇に東京大学運動会の寮が福永が学生の頃からあった)、そして弓道部などが登場して、福永らしさを感じました。
ただ多くの小説は結構おどろおどろしくて、伝奇小説と読んでもよいくらいだと思いました。先日読んだ長編の『風土』はそんな具合ではありませんでしたが、それでも脇役の少女が妄想にふけったり、ヒステリックに振る舞ったりするシーンはかなりその気(け)を感じましたね。あるいは夢と現実との境が曖昧で両者が入り組んだような構成とか。
これらの短編は福永のかなり初期の短編ですから、こういうような試みもあったということでしょうか。代表作の『草の花』なんかはとにかく甘美で青春の素晴らしさを感じさせるような小説でしたから、かなりのコントラストを感じます。わたくしの感想としては残念ながらこれらの伝奇的な小説はGoodとは思いませんでした。
ある建築家の情念 〜岩元禄の遺したもの〜(2014年10月1日)
もうじき始まる漱石の『三四郎』の予告が朝日新聞に載っていました。読むまいと心に決めたにもかかわらず、その予告を読んでしまいました。その最後に『三四郎』に登場する広田先生のモデルになったのは一高教授だった岩元禎(いわもと・てい)である、と書かれていました。その名前を見てわたくしはピンと来たんですね。その苗字と一文字の名前、それが岩元禄(いわもと・ろく)という夭逝した建築家を思い出させてくれたのです。禄さんは東京帝大・建築学科の助教授を拝命したものの三十歳直前の若さで亡くなりました。
で、調べてみるとやはり岩元禄は岩元禎の弟でした。岩元家は薩摩藩の士族の出らしく、その縁戚は西南の役で西郷軍に加わったりしたようですから、一時は賊軍に身をやつしたのかも知れません。禄さんがその岩元家の何人目の息子かは知りませんが(後述の向井覚さんの著作を調べると、その名前のとおり六男でした)、とにかく彼は建築学科を卒業して当時の逓信省営繕の技手になりました。
そうして逓信省の建築設計をいくつか手がけましたが、夭逝したこともあってその作品数は少なく、現存するのは京都・西陣にある旧中央電話局分局の一棟だけです。この建物は1921年に建設された鉄筋コンクリート(RC)構造で、日本のRC建物としては初期の部類に入ります。日本におけるDOCOMOMO100選に入っていて、平成18年には重要文化財に指定されました。
写真 京都・西陣の旧中央電話局分局(岩元禄設計、2005年撮影)
側面にNTTのマークがついているところに時の流れを感じる
写真 ファサードの丸柱の上にある裸婦のトルソー(岩元禄設計、2005年撮影)
この建物のファサードは非常に特異で、写真のように三本の丸柱の上に半円状の浮き彫りがあり、そこには一面に天女の舞のレリーフが敷かれています。また三本の丸柱の上には裸婦のトルソーが彫りつけられています。
禄さんは結核で亡くなったのですが、この建築を見るといつでも、健康に不安を抱えて自身の思いを完全燃焼させることのできないもどかしさが沸々と湧き出ているように感じます。常軌を逸したとまでは言いませんが見るひとのこころをざわざわと波立たせるように感じるそれは、建築家の情念と言ってもよいと思います。見るひとにそのような感情を引き起こす建築をわたくしは他には知りません。
さらに附言するとこのような特異な装飾を持つ建築が、電話局とはいいながら国家(お上)の建築として建てられたことに驚きを禁じ得ません。だってファサードにふくよかな裸婦像が三体も彫りつけられているのですから、当時の京都のひとはきっと驚愕したんじゃないでしょうか、お上の建物なのにけしからん!みたいな感じで,,,。
ちなみに禄さんの生涯については電電公社(現NTT)にお勤めだった向井覚さん(故人)の著書『建築家・岩元禄』(相模書房、1977年)に詳しく書かれています。向井覚さんとは面識はありませんでしたが、わたくしが子供の頃に住んでいた家のすぐそばに居を構えておられましたのでお会いしたこともあっただろうと思います。わたくしの父が向井さんと同窓だったことからその著作をいただいたようで、その御本は今わたくしの手元に蔵されています。
その後の神戸 (2014年9月29日)
建築学会の大会で神戸を訪れたことは前に書きました。せっかくの機会ですから、発表やPD等の合間をみて神戸のまちを歩いてみました。魚崎のあたりではポートライナーの橋脚が連なる川に沿って公園が作られていましたが、そこに写真のような銘板を見つけました。
「阪神淡路大震災」という表題のしたに地震の規模やその特徴が簡潔に書かれています。東灘区は震度7とあって、そのときの揺れの激しさを改めて認識しました。それから三宮駅に移動して眺めたのが下の写真です。右側にあるのが当時、中間層崩壊したサンチカ・ビルです。また中央遠くに映っているのは神戸市役所の高層棟です。
さらにポートライナーの三宮駅わきのVia-duct (高架橋)のところを見ると、上の写真のようなダンパーが至るところにたくさん設置されていました。銘板を探してみると2013年11月に製造された粘性ダンパーだったので、設置はそれ以降であることが分かります。型式の数字から推量すると容量は2000kN、ストロークは100mm のようです、間違っているかも知れませんけど。たぶん高架橋の制振補強なのでしょうが、惜しげもなくダンパーを多量に設置したその度量に驚きましたね(もちろん、計算上それだけ必要だったのでしょうけど)。
試験体の搬入 (2014年9月26日 その2)
今年何度目の搬入なのかすぐには思い出せませんが、鉄筋コンクリート試験体を大型実験棟に搬入しました。今回はRC立体隅柱梁部分骨組試験体三体(スポンサーは塩原等兄貴です)で、そのうち一体にはスラブが付きます。非常にバランスの悪い試験体ですので、搬入や移動にはとても気を遣います。
搬入にやってきたトラックは11トンを超えるような大型で、こりゃあ実験棟に突っ込めないなと思って一瞬ヒヤッとしました。でも、そのかわりに大型のクレーンを自装していたので、そのユニックでうまく大型実験棟に格納することができました、よかったです。運転手さんがとても丁寧なひとで、吊るときのバランスと安全とをしっかり確認しながら搬入作業をして下さったので、見ていて安心でした。
試験体がやって来ましたので、これから実験準備に取りかかれます。担当はM1・石塚裕彬くんおよびB4・山桐美沙樹さんで、それにお目付役として先任のM2・片江拡くんがつきます。けが等のないように細心の注意を払いながら、実験が上手くゆくように作業をして下さい。秋口ですから季節は最高ですね。その点、よかったと思います。
連載のおわり 〜「こころ」を読み終わって〜 (2014年9月26日)
朝日新聞に連載されていた夏目漱石の『こころ』が終わりました。ついに、というか、やっと、というべきか、とにかく最後まで付き合って読んだ自分を今は褒めてあげたい気分ですね。なんだか終わり方も唐突で、これって本当に名作なの?と思いますね(もっとも百年前の小説ですから、その当時は名作だったのかもしれませんけど)。
でも中学生のときに初めて読んで以来、二度目の通読だったわけですが、(以前にも書いたとおり)こんなに詰まらない小説だったかなあという感想ばかりが先に立ちました。中学生のときの『こころ』は国語の教科書でしたから、それこそ明治の文豪の名作をさあ読みなさいとばかりに、先入観の塊のような状態で読んだのかも知れません。
でも人生も半世紀を閲したところで読んでみると、この「先生」って一体何者なんだったんだろうという疑問(というか反感)が最後までついて回りました。結局このひとは人生のなんたるかを少しも理解せずに、また他人にも何ら示唆を与えること無しに死のうとしている、単なる臆病者じゃないんだろうかというのがわたくしの結論です(感想として、ちょっとひど過ぎますかね)。なによりも『こころ』に出てくる人物で共感できたひとはひとりもいなかったということが、この作品に対するわたくしの評価を物語っています。
『こころ』については批評家や文学者が縷々語っていますが、もしこれが夏目漱石というビッグ・ネームの作品でなかったならば、これだけ多くのひとが読んだでしょうか。極論すると日本人なら必ず読むべきだみたいな風潮さえ感じますが、それに値するような小説なのでしょうか。でももしかしてこれも朝日新聞お得意の民心操作かもしれません。というわけで本作は“こころ”して読まないといけないでしょうな。
つぎは『三四郎』の連載が始まるそうですが、どうしようかなあ。これも昔読みましたがその内容はすっかり忘れていますので、また読むんでしょうか。その挙げ句にいまのような感想を抱くようであれば時間の無駄という気もして迷っています。
トップ (2014年9月25日)
この週末には子供の学校の公開授業があって、いつものように出かけてきました。45分授業ですが2コマ続けて聞いたところで足が疲れてしまって、もういいやってな感じで退散いたしました。いやあ、ヤワですね〜我ながら。でも自分が講義しているときは90分間立ちっぱなしですから、これってどういうメカニズムなんでしょうか。ひとの言うことをじ〜っと聞いているのは疲れるけれど、自分で考えてベラベラしゃべるのは大丈夫ってことでしょうか。
国語の授業では漢字の偏と作りを勉強しましたが(もちろん子供が、ですけど)、木偏の漢字を八個書きなさいなどと先生に言われて皆さん苦労していました。そういうわたくしも八個なんて書けませんでしたけど、あははっ。
さて九月もお彼岸を過ぎて、私学では後期の授業が始まっているようです。私のところは十月一日から授業開始ですのでまだ少し間があります。この時期だけは教科書が売れるのですが、わたくし達が執筆した『初めて学ぶ鉄筋コンクリート構造』(市ヶ谷出版社)という本がアマゾンのコンクリート工学分野で第一位になっているのを偶然発見しました。二位は建築学会の定番であるJASS5ですから、それを差し置いての一位は手前味噌ながらなかなかのものだと思います。建築・土木工学分野でも37位でした。
ただ、アマゾンのサイト内でどのようなロジックによって順位が付けられているのか、また“ランキングは一時間ごとに更新”とありますがそんなに刻一刻と順位が変わるものなのか、という大いなる疑問はあります。でも、何にせよ第一位になるのは大変なことでしょうから、その一点だけで満足しましたね(これこそ自己満足ですけど,,,)。
追伸; 岸本一蔵さん(近畿大学教授)にはこの本を教科書として使っていただいています、ありがとうございます。で、先日おはなしを聞いたら授業は後期だそうで、二百人以上の履修者がいるそうです。これで拙著が第一位になった訳が分かりました。近畿大学の学生諸君のおかげだったということでしょうね。岸本さんにはお酒をしこたま飲ませる、ということではなしがついております、あははっ。
お酒のあじ 〜テシさんのパーティにて〜(2014年9月22日)
先日、勅使川原正臣先生(名古屋大学教授)の日本建築学会賞(論文)の受賞記念パーティがありました。180人近いひとが一場に会するという大盛況でした。勅使川原先生は岡田研のご出身ですから直接の接点はないのですが、わたくしが修士一年の夏休みに建研(当時の建設省建築研究所のこと)に遊びに行ったときに、初めてお会いしてそのままテシさんの官舎に泊めていただいて以来、今日に至っています。
そのときのはなしは以前にこのページのどこかに書きましたが、テシさんのところにお子さんが生まれたばかりだったので、そのお食い初めのビデオを「どうだ、可愛いだろう」と言いながら延々と見せられたのには閉口したことをよく憶えています。今思い返すと大学の後輩とはいえ、初対面の人間をよく泊めてくれたなと思いますね。そのあたりが武藤先生以来、連綿と続いて来た研究室の人気(じんき)なんだろうなと今にして思います。
さてそのパーティですが、そういう立食の場ではたいがいはビールとワインそれにウイスキーが主で、日本酒なんかはほとんどないというのがフツーですよね。ところがテシさんの会ではさすがに酒飲みの集団ですな、美味しい日本の地酒が多数揃えられていたのです。いやあ、嬉しかったですね。危うくテシさんにお祝いを言うのを忘れてお酒を飲み続けるところでしたよ(もちろん、ちゃんとお祝いは言いました)。
樽酒もありました。司会の楠浩一さん(東大地震研究所)が披露してくれた通り、酒樽の木の香りがお酒にほとんど移っていない状態で、お酒本来の旨味がよく分かってわたしには美味しかったです。銘柄は蓬莱泉とかいったかな?
また、日本各地の地酒が四合瓶でずら〜っと並んでいて(兵庫の龍力とか東京の澤乃井とか)、どれにしようかと迷いましたが、飲んだことがなかった獺祭(旭酒造)の磨き二割三分を始めにいただいてみました。精米歩合が23%(すなわち、お米粒を磨きに磨いてその約3/4は捨てて、残った1/4だけを使う)という贅沢な純米大吟醸ですが、さすがに雑味のないクリアな感じのお酒でした。美味しかったです、でも正直に書くと精米歩合23%のお酒ってどれだけ美味いのだろうか、どのくらい突き抜けているのだろうかとワクワクしたのですが、まあ精米歩合40%くらいの大吟醸とあまり変わらないなと感じましたね。
現在は淡麗辛口のお酒が多くて一般的にも支持されているようですが、以前に書いたようにわたくしはちょっと甘口でお米の味がしっかり出ているようなお酒が好きです。今ちょうど家で飲んでいるのがそういうお酒で、笹の誉(笹井酒造、税抜き1650円)という純米吟醸(精米歩合は55%)です。これは信州松本に出張したときに買って来た地酒で、日本酒度はー4なので数値的にもちょい甘な部類ですが、食中酒としてもいけるのでいいお酒に出会ったなと密かに喜んでいます。
阪神電鉄に乗る (2014年9月18日)
建築学会大会で神戸に行きました。初日のPDが終わって、バス乗り場が分からなかったので歩いて駅までいこうかと思ってタラタラと校内を下ってゆきました。すると途中の崖に建っている神戸大学百年記念館に大きなピロティがあって、神戸の海までが一望できました。いやあ、茶室・忘筌(ぼうせん)のように見事に切り取られた風景ですな。まさに絶景とはこのことです。
写真 切り取られた神戸の街の風景
やがて住宅街のなかのすごい下り坂にさしかかりました。でも、この道でいいのかなあとふと思って、なにげなく振り返ったんです。すると目の前のひとが「あれ?北山くんじゃないの」というではありませんか。誰だろうと思ってよく見ると、それは大学のときの建築学科の同級生だった石井透くん(現・清水建設技研)でした。やあ、久し振りだねえとはこのことです。でも、その偶然の邂逅にふたりとも驚いたのでした。
せっかくの再会でしたのでじゃあ晩ご飯でも食べに行くかということになり、神戸大学から真っすぐ南に下ったところにある神戸酒心館という、酒蔵「福寿」が併設するお店に行きました。そこで美味しい大吟醸酒をチビりチビりやりながら、久し振りで懐かしい思い出話や仕事のこと、生活のことどもなど大いに語り合ったのでした。彼はわたくしと同じく建築構造を研究対象としていますが、大学生の頃から建築に対する一廉の考えをお持ちで、そのことは今でも変わってないということが分かって嬉しかったですね。
さて、神戸酒心館から約10分ほど歩いて阪神電鉄・石屋川駅にたどり着きました。ここでわたくしは梅田行きの各駅停車に乗ってそれで梅田まで行こうと考えたのですが、これがとんだ間違いでした。途中のどこかの駅で急行とか特急とかにバンバン抜かれて、ずーっと停まっています。ほろ酔い気分で乗っていましたが、さすがにこれではいつまでたっても梅田に着かないと思って、急行に乗り換えました。
すると今度はその急行が停車した駅で、特急の待ち合わせをするというではありませんか。いやあ驚きました。仕方がないのでかなり混んでいる特急に乗ってやっと梅田に着きましたが、石屋川駅から約一時間もかかりました。途中甲子園球場を通過しましたが、球場を見るとカクテルライトが煌煌と灯ってプロ野球をやっていました。それが終わる時間にぶつからなくてよかったなあとホッとしましたね。
まあわたくしがいつも乗っている京王線だって、各駅停車に乗ると特急とか急行とか快速とかにバシバシ抜かれますので同じことなんでしょうが、なにせ神戸の土地勘がすっかり失せていましたので、石屋川から梅田までがそんなに遠いという認識がなかったのが敗因でした。
ちなみに石井くんの奥方さまは今年の日本建築学会賞(論文)を受賞されました。おめでとうございます。おかげですっかり有名人になったようでした(朝日新聞にもけっこう大きな記事が写真入りで載っていました)。ご夫婦で今後もどうか活躍して下さい。
ことしの大会2014 (2014年9月17日)
一年に一度の建築学会大会が先週末に終わりました。例年この時期は暑いうえに会場にたどり着くまでにひと苦労することが多くて、苦行としか思えない行事なのですが、ことしは結構涼しくて朝晩は肌寒いくらいでしたのでしのぎ易くて楽でした。ただ、神戸大学キャンパスは六甲のお山の中腹に建っていますので、駅(会場に最も近いのが阪急の六甲駅)から歩いて行く気にはなれず、超満員のバスに乗る気にもならず、じゃあタクシーで、ということにしました。
わたくしは新大阪に泊まったのでJR六甲道駅から通いました。ここの北口のタクシー乗り場は駅前からちょっと離れたところにあり、だ〜れもいなかったので待たずに乗れたのでよかったです。ジャスト千円でした。
神戸大学のキャンパスの道路を挟んだ向かいには親和学園という私学があります。ここも急斜面に校舎が建っているのですが、1995年の兵庫県南部地震のときに渡り廊下が落下したり、比較的新しい校舎が傾斜したのでわたくしが調査したのでした。その校舎は杭が折れ曲がったことが分かって、結局取り壊しになりました。
発表のほうですが、ことしは二年に一度の原子力建築部門のPDを開催する年にあたっています。わたくしは運営委員会の主査なので(専門とは無縁ですが)主旨説明してから、討論にも参加して「原子力発電所建築物の寿命はどれくらい?」という難しい質問に回答したりしました。
PD最後のまとめは丸山一平さん(野口貴文くんのお弟子で、名古屋大学准教授)にお願いしましたが、お若いのに見事なまとめを披露してくれて、やっぱり頭のいいひとは違うもんだなと感心しました(もっともご本人もこんなに頭を使ったのは久しぶり、なんて言ってましたけど、あははっ)。
我が社の発表のほとんどは最終日の午前および午後にありました。最終日はひとがどんどんと減ってゆき、午後のセッションは文字通り発表者しか参加していないという、うら寂しい限りでした(これも例年通りですけど)。D1の宋性勳さんは日本の学会デビューでしたが、日本人よりも上手な日本語で発表してくれました(以下の写真)。
大会ではいろんな方にお会いしますが、研究室OBの白井遼くん(戸田建設)がわたくしを訪ねてくれました。構造設計の現場で活躍しているようで何よりですが、とても忙しいようでした。健康に気をつけてほどほどに仕事して下さい。
こうして終わった学会大会ですが、年齢を重ねて来て、だんだんと億劫になってきたのが正直なところです。大会では修士1年のときから毎年発表を重ねていますが、いつまで続けようかなあと考えるようになりました。以前は生涯現役じゃないですけど研究を続ける限りは発表しようと思っていましたが、そんな決意など人間の加齢にともなう精神状況の変化には吹き飛んでしまいそうです。
とはいえ、来年の学会でも多分発表するんだと思います。ですからそれなりの研究成果を出してくれるように研究室のメンバーには期待しています。ちなみに来年の大会は神奈川県平塚の東海大学で開催されます。
迷走の果て (2014年9月16日)
先日、朝日新聞の報道態度について書きましたが、さらにその迷走ぶりをいっそう際立たせるような事態になりました。福島第一原発の所長だった吉田さんの調書をスクープとして報道した記事がなんの裏付けもない誤報だったというのです。
この記事についてはわたくしも5月21日にこのページに感想を書きましたが(こちら)、そのとき強烈に感じた違和感はなんとガセネタによってもたらされたものだったと知って心底驚きました。そのことに対する謝罪が社長名で為されていて、それを読むと一部の記者たちだけの見解であったという説明になっています。
でも、日本を代表する大新聞がそんな基本的な過ちを犯すものだろうか、という疑問のほうが大きかったですね。その報道には、朝日新聞としてもっと大きな意味を持つ内容が隠されていたのではないか、具体的に書けば、原発絶対悪というひとつの思想を強固なものとして広く国民に植え付けたい、という意思です。でもそんなことは口が裂けても書けないでしょうから、取材源の秘匿という分かり易い理由を作り上げたのではないでしょうか。
わたくしのようにもの心ついたときから朝日新聞を読んできた(朝日新聞にとってはコアな読者といってもよいでしょう)人間ですらこんなに反感を抱くのですから、いわんや政府・自民党おや、というところでしょうな。
さらに書くと、社長名の謝罪のなかに「吉田調書は、朝日新聞が独自取材に基づいて報道することがなければ、その内容が世に知らされることがなかったかもしれません。世に問うことの意義を大きく感じていたものであるだけに、誤った内容の報道となったことは痛恨の極みでございます。」というくだりがありました。痛恨の極みと言っているので今回の事態を悔やんでいることは分かりますが、吉田調書の報道自体には意義があるような言いっぷりですね。
そりゃそうかもしれませんが誤った内容を一面に掲載したのですから、そのような功績は帳消しだと思いますけど。こんなことになったのも、当事者である吉田・元所長が既に亡くなっていて、この記事の正確性をすぐに指摘できるひとはいないというふうに考えたのではないかと忖度(そんたく)します。
こんな具合では、まだまだなにか出てきそうな気がします。迷走の果てに朝日新聞はどうなるのか、その行く末を見守るしかありません。でも、M日新聞は昔読んだことがありますがすぐにイヤになったし、Y売新聞はジャイアンツ一辺倒でわたくしの肌にはあわないので、ほかにどの新聞を読んだらよいのか分かりません。どうしたものでしょうか。
留学をめぐって (2014年9月9日)
きょう九月九日は重陽の節句です。古来、中国ではめだたい日とされていて、わが国でもいにしえには菊の花を浮かべたお酒をいただいて優雅に過ごしたようです。しかしながら現代の日本では誰も見向きもしないようで、殺伐とした世情をあわせ考えると寂しい限りです。
さて、大学教育の国際化をめぐって最近、学部学生を対象として海外の大学への留学を必修化するような動きが新聞等に取り上げられています(例えば一橋大学とか)。そういう試みに対して、もろもろの制度を整備してもっと積極的に推進すべきというような有識者(大学の先生が多いですな)のコメントが載ったりもします。
たしかに頭の柔らかい若いときに国外に出て異文化に触れ、ことなった信条を持ち、多様な宗教を信奉する異邦人たちと交わることはとても有益だと思います。そうした体験がそのひとの精神的な血となり肉となることは間違いないでしょう。
でもそれを学部の単位として必修化する、というのには相当な違和感を抱きます。そうやって強制的に海外に出向かせることが重要である、というのがそういう試みを押し進める大学側の言い分でしょう。でもそういうことに重きを置かず、ほかのことに注力したいという志を持った学生さんだっているでしょうし、以前に書いたように誰も彼もが国際的に活躍するエグゼクティブになりたいと思っている訳ではありません。良識ある市井の一市民としてひっそりと、誰にも迷惑をかけることなくこの日本で生きていきたい、そう考えているひとにまで海外留学を必修として課す必要があるのでしょうか。とても疑問に感じます。
ときどき書いていますが大学進学率が60%に達するというこの時代に、大学生全員に同じような教育を施そうと考えること自体が不可能である、というのがわたくしの持論です。やる気があって、かつ能力のあるひとならば、一年間くらい海外の大学で学んで来いといって安心して送り出すこともできるでしょう。でも現状で全員に留学させようとしたら、われわれのような大学教職員が何から何までお膳立てしなければならず、そのような状況において学生さんは一体なにを体験できるというのでしょうか。
学生諸君の海外留学だけではなく、大学での講義を英語で行うとか、教員人事について海外の有識者の意見を問うとか、大学における国際化の試みがいろいろと言われるようになっています。それもまあ結構ですが、多くの大学が横並びで同じような試みに四苦八苦している状況をみると、なにやってんだろうなあという一抹の空しさを感じるのはわたくしだけでしょうか。
このような試みのさきにあるのは、極端な反動なのではないかと密かに考えます。たとえば、うちの大学では母国語である日本語を講義で使います、そして日本の文化を下敷きとして日本という国に適応した良識人を育てます、みたいなアカデミック・ポリシーを唱える大学が出現するとか、ね。もっとも、それが悪いとは全く思いません、そういう多様性が大学にも必要でしょうから。
レガシー発見 (2014年9月8日 その2)
今朝、とっても貴重な論文を発見した。それは私にとっては伝説と言ってもよい論文である。構造系の最年少の准教授・多幾山法子さんが機械・建築実験棟の整理整頓に取り組んでくれていて、いらなさそうなモノがたくさん出てきたので、その選別をして欲しいと依頼された。
で、わたくしの知らないような鉄骨の破片とかH型鋼とかがたくさん積まれていて、それらは多分前任者たちが残したものだろうからまとめて捨てるようにお願いした。その傍らに段ボール箱がいくつか積まれていて、そこにはわたくしの書いた「この山、保管」という紙切れが載っていたのである。それは多分十年くらい前にわたくしが音頭をとって実験棟を整理したときに取捨選択したのだろうが、未だに中身を見ていないということは、もういらない、不要である、という証左であろう。
そこで、それらの段ボール箱も思い切って捨てましょう、ということになった。ただちょっと気になって、そのわたしの手書きの紙ペラをのけてみると、そこから件の論文が姿を現したのであった。これもなにかの因縁か、それとも天の配剤か(大げさですなあ)。
それが以下の写真である。表紙にはローマ字でデカデカとSAKEと書いてある。わたくしが日本酒が好きなので、これはお酒の論文ではなかろうかと不審を抱く方もいるかもしれない(って、そんなことはないだろうが,,,)。
これはわたくしの師匠である小谷俊介先生がイリノイ大学に留学されたときにソーゼン先生の指導のもとに執筆された論文で、SAKE というのはRC骨組の非線形地震応答解析のためのコンピュータ・プログラムの名前であった。執筆されたのは1974年11月とあったので、今からちょうど四十年前である。そうかあ、記念すべきSAKEの誕生から今年で四十年経ったのである(小谷先生ご自身はご存知だろうか)。
というわけでさすがにこれは捨てられないなと思ったので、積もったほこりを払いのけて自分の研究室にお運び申し上げた。ちなみにこの論文には「西川研究室」のシールが貼ってあったので、わたくしの前任者の西川孝夫御大が所有していたものなのだろう。
さらにもう一冊、江戸宏彰さん(本学のOBで、元・大林組技研)の博士論文も出てきた。それは武田スリップ・モデルの開発に関わる論文なので、それも引き上げてきた。こうして偉大な先輩方の貴重な遺産が発掘され、廃棄をまぬがれたのであ〜る、ああよかった、ということでひと安心(それらの中身を真剣に読むかどうかはまた別である、あははっ)。
斜陽?の朝日 (2014年9月8日)
ここのところ朝日新聞が一部のメディアから叩かれているみたいで防戦一方の様相を呈しています。さらに先日は自紙に連載していた池上彰氏のコラムの掲載を一旦差し止めたことから、そのことに対する猛烈な批判が一般読者からもあがりました。
権力にくみせず常に庶民の立場から論じて来た朝日新聞には、わたくしもそれなりの信頼を寄せてきました。それが2011年の東電・福島第一原発の爆発事故からなんだかおかしくなり始めました。原発事故は人災であるという見方は確かにあるでしょうが、原発は全面的に悪であるというような極端な論調が紙面を支配していることには、それはちょっと違うだろうという感想を抱いています(そのあたりの理由は折に触れ書いています)。
公明正大な新聞であるならば、物事を一面からだけでなく多角的にいろんな視点から見て論じるというジャーナリズムの鉄則に従うべきではないでしょうか。少なくとも原発に関連する報道についてはその鉄則から相当に逸脱していると考えます。
そして今度の従軍慰安婦強制連行問題です。従軍慰安婦が現実に存在したのは厳然たる事実でしょう。しかしその事実を“補強”するためになぜひとりの人間の証言にそんなにも重きを置いたのでしょうか。そしてそれが虚言であることが分かったときに、なぜすぐに訂正しなかったのかとても不思議です。
その経緯を説明した今年の八月の紙面をわたくしも読みましたが、それが何を言いたいのか当初は分かりませんでした。どうやら自分たちの誤りを認めてはいるようですが、それがストレートに伝わるような文章ではありませんでした。
で、池上彰氏はそういったことをあからさまに批判した記事を書いたのですが、その掲載が当初は差し止められたそうです。自紙を批判する記事は載せたくないという心情は分かりますが、日本を代表する新聞としてその狭量で独りよがりの態度はいかにもまずかったでしょうな。
こうした出来事の積み重ねによって、朝日新聞に対する信頼は相当に低下したと思います。彼らの記事は必ずしも真実ではないのではなかろうか、という危惧を抱かせるようになったのです。朝日でさえこのような有様なのだからこれから一体なにを信用すればよいのか、ちょっと困ったことになったなあというのが率直な感想です。
もうすぐ大会 (2014年9月5日)
年に一度の建築学会の大会が来週末に迫りました。我が社では昨日、発表練習を行いました。全部で七名の大学院生諸君が練習したので三時間近くかかって、そのあとすぐにプロジェクト研究コースのゼミがあったので、相当に疲弊しました。
ことしの大会は神戸大学で開かれます。神戸大学での開催は何度目でしょうか。そのキャンパスは六甲の斜面に所在しますから、坂が結構きつかった記憶があります。わたしは出遅れたため神戸近辺のホテルはとれずに、しかたがないので大阪に泊まることにしました。約二十年前の兵庫県南部地震の被害調査では大阪に泊まって被災地に通ったことを思い出します。
今年の建築学会大賞は研究室の大先輩である柴田明徳先生が受賞されますが、その柴田先生とペアになって被災地の住宅を一軒ずつ回ってその安全性をチェックしたのでした。柴田先生はそこに住むひと達のはなしを親身になって聞きながら、建物の状況などを丁寧に説明されていました。まだ若造の助教授だったわたくしにはとてもその真似はできなかったので、柴田先生のそういうお姿を今でもよく憶えています(こちらです)。
そのような大災害からもう二十年近く経ったということに、あらためて感慨を抱きます。今回の大会では復興を遂げた神戸の街を拝見するとともに、当時被害調査に行った建物も(時間があれば)訪れてみたいと思っています。
次のステップへ (2014年9月3日)
九月になりました。とてもしのぎ易い日々が続いていますが、そのうち夏の暑さが戻ってくるのではないか、戻ってくるに違いないとちょっとビクビクしながら過ごしています。建築学会大会の頃に暑さがぶり返すとイヤだなあとも思います。
さて建築学会で出版の準備をしてきた『鉄筋コンクリート構造保有水平耐力計算規準(案)・同解説』ですが、主査の和泉信之先生(千葉大学教授)の熱意とご尽力のおかげで八月末についに構造本委員会の査読へと駒を進めました。条文作成の一部を分担した当事者として、ついにここまで来たかという感慨もひとしおです。
わたくしが主査を務めるWGでは柱および梁部材を担当したのですが(具体的には17条から19条)、最初のWGが開催されたのが2008年9月10日でしたから(議事録を引張り出して調べました)、成案を得るまでには六年の歳月を必要としたことになります。六年といえば相当に長い日月でして、そのあいだにわたくしを始めとして前田匡樹さん、河野進さん、岸田慎司さんが准教授から教授に進みました。それくらい歳をとった、ということなんですね。
ちなみに建築学会での出版物では、幾つかの指針類の作成やRC規準の改定作業には従事したことがありますが、なにもないところから全く新しい規準を作成したのは初めての経験でした(「規準」と「指針」とでは、「規準」のほうが格上というのが建築学会での了解事項のようです、詳しくは知りませんけど)。
「規準」として世に出れば、現在のRC規準がそうであるように、やがてはお上の法律(建築基準法のことです)を具体的に実践する方法のひとつとしてお墨付きを得ることになるのだろうと予想します(もちろん、全ての内容がオーソライズされるとは限りません)。そうだとすると、日本国内の構造設計の現場に与える影響は非常に大きいと考えられますから、規準を作るほうもこころしてその任に当たってきたのです。などと肩肘を常にはって来た訳ではありませんが、心情としてはまあそういうことなんですね。
構造本委員会の査読はお二人の先生にお願いしました(これは構造本委員会の主査・幹事が指名します)が、なんせ400ページを超える“新作”ですので査読するのは大変なことだろうと拝察します。わたくしもこのあいだ荷重指針の査読を担当したばかりですので、そのご苦労は身に沁みて分かります。
そして査読結果をいただいて、そのご意見等に全て回答を付して適宜、本文等も修正した上で再度査読者のチェックを受けます。それをパスするとやっと発刊へと向けた事務作業がスタートとなります。というわけで早ければ2015年の晩秋から暮れにかけての発刊が予定されています。それにともなって日本全国で講習会を実施する予定も組まれました。
ここまで保有水平耐力計算規準(案)のことを書いてきましたが、この作業と並行して実はもうひとつ別の指針(案)の作成にも取り組んでいます。それは『鉄筋コンクリート造建物の等価線形化法を用いた耐震性能評価型設計指針(案)』という名称のこちらは指針でして、主査は勅使川原正臣先生(名古屋大学教授)です。ちなみに和泉さんとテシさんとのお二人は大学の同級生同士ですので、そのお二人が期せずしてほぼ同時に規準・指針類の作成をご担当されているのもなにかの縁でしょうか。こちらの指針(案)のお話しはまた別の機会に、ということで。
涼しい日々 (2014年8月29日)
八月もそろそろ終わりですが、ここのところ晩夏を一足飛びに通り過ぎて秋のような涼しさ、というか肌寒いくらいの日々が続いています。なんだかセミの声が季節外れのような物悲しさを感じさせますな。今までの猛暑が嘘のようで、涼しいことはありがたいのですが、気温の差が大きくて体にはやっぱりこたえます。じわじわと涼しくなって欲しいんですけど,,,って贅沢でしょうか。
さて、我が社では現在二シリーズの試験体を作製中ですが、そのうちのRC立体柱梁接合部試験体(担当はM1の石塚裕彬くんです)は本日コンクリート打設の予定です。ちょっと遅れましたが、まあギリギリのタイミングですから予定通りに加力できると思います。担当の石塚君、卒論生の山桐さんが暑い時期に頑張ってくれました。試験体ができ上がれば研究の半分は終わったようなものですから、よかったです。
ちなみにこの実験研究は塩原等先生(東大教授)の科研費がスポンサーでして、昨年度に引き続いて立体柱梁接合部パネルの破壊性状を検証するための研究です。昨年度の片江拡くんの実験結果と合体させれば、かなりの成果を得られるはずだと思っていますので、実験の実施からデータの分析、そして論文の執筆とスムーズに進むことを願っています。
わたくし自身の科研費は今年が三年計画の最終年度に当たりますので、実験はありません。そろそろ次期の科研費の申請をする時期ですので、次の研究計画を練らないといけません。やりたいことはたくさんありますが、狙いをしぼって魅力的な研究計画をたてないと採択はおぼつきません。これまでの研究実績との関連とか、研究の流れとかも重要です。研究調書の作成には毎回相当に苦しみますから、今年もその苦行を積まなければならないかと思うとちょっとげんなりいたします。
でも研究調書を書いて採択されれば、それによって複数年度の研究費をゲットできるわけですから、それだけの価値はありますし、またそれくらいはやって当たり前だとも考えます。いずれにせよ全力を傾注して書類作りにいそしもうと思います。
酒席考 (2014年8月27日)
日本の宴席では必ずといっていいくらい「とりあえずビール」と言って、ビールによる乾杯で始まります。もちろんそうでない場合もあって、たとえば結婚式ではたいていはシャンパンの乾杯です。しかしそのほかのお祝いの会だとか同窓会だとか、そのほか諸々の小宴にいたるまでビールで始まることが多いのはなぜでしょうか。
なかには頼まれもしないのに「とりあえずビール、生の中ジョッキで人数分持ってきて」などと席に着くなり注文してくれちゃう人もいたりします。それは親切心から出たごく自然の発露なのかもしれませんし、早く乾杯したい、喉を潤したいという欲求から発したものなのかもしれません。
確かにビールの中ジョッキくらいだと乾杯するときに多少荒々しくジョッキをぶつけ合っても割れたりする心配がありませんし、なによりも大きなグラスを高々と掲げて乾杯すると一場の絵になって、宴会が盛り上がる気はします。
これが日本酒のお猪口だったりすると、乾杯といっても杯をちょっと持ち上げるくらいで、他人の杯とぶつけあったりはまずしませんな。それはそれでしっとりと落ち着いた場を醸し出しますが、反対に陰気な感じをもたれるかも知れません。
ビールは明治維新以降に日本に入ってきて、戦前には軍隊でも飲まれていたくらいですからその頃には一般社会にもかなり浸透していたと思います。ただ電気冷蔵庫などない時代ですから、いつでもどこでも冷えたビールを飲めた訳ではなかったでしょう。
今のようにビールの乾杯から酒席が始まるようになったのは、確かなことは分からないようですが、戦後の高度成長期にサラリーマンが“のみにケーション”とか言って会社の同僚達とちょいと一杯という時代になってからだと思われます。
でもビールが心底好きでその乾杯のジョッキを掲げているひとは一体どのくらいいるのでしょうか。これまでの経験から言えば最初に発せられる「とりあえずビール」という呪文(?/!)に対して、いやあ俺は日本酒が飲みたいんだが,,,と言うのには相当の勇気が必要です。わたくしもここ数年こそ最初からひとりだけ日本酒を頼んだりするようになりましたが、それは同僚とか学生とかと一緒のときだけで、先輩やえらい先生方と一緒のときには、そのような“わがまま”は控えます。
ところでフツーの居酒屋なんかだとお品書きには日本酒の銘柄も記されてなくて、ただ燗酒とか冷や酒とかしか書いてないことが多く、そういうお酒を頼んでもたいがいは美味くないですなあ。美味しい日本酒好きの私にとってはそれがとても残念です。ワインではテイスティングしたりするのに、日本酒はなんでもよいと思っているひとが多いとすると、それは日本酒がもたらした日本の文化に無頓着ということを表しているようでとても残念に思います。
わたくしが一番気になるのは、宴席の場では全員の飲み物が揃って乾杯するまで原則として口を付けないという暗黙のルールです。その理由は分かりませんが、そこに打ち揃った仲間たちの一体感を醸成するために必要な儀式に過ぎないという気がします。その昔、侍たちは戦場に出るまえにめいめいのかわらけに酒を注いで皆で一気に飲み干して、そのかわらけを地面に叩き付けて割ってから出陣したといいます。そのなごりでもあるのでしょうか。
よく知らない、あるいは面識のない多数の人たちが集まるパーティの場などでは、ビールで乾杯するのも仕方が無いかなとは思います。それがなぜ日本酒ではないのか、ワインではないのか誰にも分からないはずです。ビールはわたし自身にはあわないということを知っていますので、そういうときにはウーロン茶で乾杯に参加することにしています。しかし気の置けない勝手知ったる仲間たちと飲むときには自分の好きなお酒を好きなペースで飲みたいと思う、今日この頃です。
夏の終わり (2014年8月26日)
ここのところ曇りや雨降りの日が続いて、今日は暑くもなくて、ときおり涼しい風さえ感じるほどです。そろそろ夏も終わりかという感慨をおぼえますな。
夏の終わり、というとわたくしはすぐにオフコースの同名タイトルの曲を思い出します。小田和正の透明な声が行く夏の儚さを悲しげに歌っている、そんな感じの曲です。蜩の鳴き声が聞こえてくる夕方にこの曲をふっと思い出すことがあります。
ちょっとせつなくてセンチメントなその歌詞を聞くと、立原道造のソネットを読んだときのような若かった頃の甘酸っぱい記憶が蘇ってくるのです。それは彼らの『青春』という曲にも通じるのですが、若かった頃を甘美さと少しばかりの後悔とを抱いて懐かしむ、そんな曲なんですね。
夏は冬に憧れて
冬は夏に帰りたい
あの頃のこと今では
素敵に見える‥‥
そっとそこにそのままで
かすかに輝くべきもの
けしてもう一度この手で
触れてはいけないもの (オフコース『夏の終わり』より)
ちなみにこの『夏の終わり』は1978年発売の「Fairway」というアルバムのB面冒頭に納められていました。わたくしが高校生の頃に買った数少ないLPレコードの一枚です。『夏の終わり』では夏と冬とが登場しますが、春と秋とが登場するのが彼らの実質的なデビュー作となった『僕の贈りもの』という曲でした。
夏休みの宿題 〜ゲルマニウムの憂鬱〜(2014年8月25日)
八月も下旬になり、子供の学校がもうすぐ新学期を迎えます。で、今年こそは夏休みの宿題の自由工作を是非とも提出するべく、女房から号令がかかりました。って、もちもろん子供の宿題なんですが、なんでわたくしがやらにゃいかんのでしょうか。そう反論すると家内は「夏休みの自由工作は親のつとめ、って担任のA先生が言ってたよ」と言うではありませんか!
いやあ驚いたな、まったく。確かにそうだろうとは(うすうす)感づいてはいましたけど、担任の先生御自らそのようにのたまうとは思いもしませんでした。仕方がないのでじゃあなにか作ろうかと子供に言っても、他人事かのようにな〜んの返事もありません(やる気ゼロです、とほほ,,,)。
自分が子供の頃のことをつらつら思い返していると、電源の不要なゲルマニウム・ラジオを自作したことを思い出しました。これだっ、電池もないのにイヤホンからラジオが聞こえるなんて、あら不思議っていう感動は子供には強烈な印象を残すはずです。八畳間のたんすの上に登って自作のラジオを一心に聞いていたころが今も脳裏に浮かびます。当時は秋葉原の電気街にあるジャンク屋で抵抗とかコンデンサーとかの部品を一つずつ購入して、ケースなんかも自作していろいろと作ったものでした。
そこでネットを検索するとゲルマニウム・ラジオの作り方がたくさん出ていました(今は便利な時代になりましたな)。わたしが子供の頃には『ラジオの製作』とかいう月刊誌を購入しては、そこに出ている記事を頼りに電子工作をやったもんです。
そこで必要なゲルマニウム・ダイオードとかイヤホンとかの型番をメモって何十年振りかで秋葉原の電気街に出かけました、仕事の帰りということもあって子供抜きです。しかし予想はしていましたが、秋葉原の変貌は驚くばかりでした。変な格好をしたおねえさんが道々に溢れていて、なにかの勧誘をしています(メイド・カフェってやつ?)。目を合わせたらなにを言われるか分からないので、早足ですり抜けました。
なんとか昔のようなジャンク屋がある一角を見つけましたが、バリコン(選局するのに使うヴァリアブル・コンデンサーの略です)とかクリスタル・イヤホンとかがどうしても見つかりません(もう売っていないのかも?)。そこでその日は(暑かったこともあって)早々にあきらめて作戦を練り直すことにしました。
多分、ゲルマニウム・ラジオの製作キットが売っているだろうと当たりをつけて、再度ネット検索するとやっぱりありました。それは秋葉原の秋月電子というお店で値段は600円です。安いしこりゃいいや、ということで、日曜日に今度は家族連れで秋葉原にチャレンジしました。ねらい通りに秋月電子に行って棚を見ると、お目当てのゲルマニウム・ラジオだけが売り切れていました。がーん、やっぱり皆さん考えることは同じみたいで、わたしのようなオトーサンが買っていったんでしょうな。
で、お店のひとにもうありませんか、と聞いたところ「そう言えば今日入荷したような,,,」とか言うので、じゃあ探して下さい!ってもう藁にもすがるとはこのことか。幸いなことに倉庫にあったようで、どうにかお目当てのキットをゲットできました、あ〜良かった。
それさえあれば、あとは説明書(って、これが中国語と英語なんですが)の通りにハンダ付けしてアンテナを引き回せば一丁上がり、ってな感じで、これで夏休みの宿題も軽くクリアーだなと思ったのでした。そのあと秋月電子のうらにある老舗のトンカツ屋さんでかなり並んでお昼ご飯を食べました。その界隈では有名なお店のようです。まあ美味しかったのですが、子供に感想を聞くと、いつも調布パルコで食べる「さぼてん」のトンカツのほうが美味しいとのことで、ガックリしたのでした。
さてゲルマニウム・ラジオのほうですが、そのあと子供と一緒に組み立て始めました。ハンダ付けはまだ難しかったようで、ほとんどはわたしがやりました。途中、コイルの銅線があまりに細くて途中で切れてしまい、フェライト・コアに巻き付いた銅線の一部が脱落したりしてあわてました。
さていよいよ出来上がったラジオを聞くところまできました。自身の経験からアンテナとアースは必須であることを知っていましたので、買っておいた10mのリード線をアンテナにして、子供部屋の高いところに張り回しました。アースは困りましたが、幸いコンセントの下にアース端子が付いていたのでそこに接続しました。
よーし、これで準備完了、聞こえるかな、とワクワクしながらイヤホンを耳に当てます。するとザーっというホワイト・ノイズが聞こえましたので、おっこれはいけるかなと思いました。そうしてバリコンをゆっくりと回してゆきました、なにか聞こえてくれと祈りながら。
でも残念ながらな〜んにも聞こえません。うーん、おかしいな〜、アンテナが短いのかなと思ってもっと延長したけどダメです。場所が悪いのかなと思ってベランダとか庭とかにアンテナを張り直してやってみましたが、やっぱりダメです。こういった一連の作業は全部わたしがやって、子供はもう早々に見切りをつけてゲームをしたりしています、なにやってるんだろうなあという徒労感がいや増すだけでした。
結局何も聞こえないラジオが今も子供の部屋に転がっています。どうすんのよ、と家内が言いますが、新学期になったらその聞こえないラジオを持ってゆけばいいでしょ、失敗したのもいい経験なんだから、とかなんとかいって言いくるめました。もっとも子供はいざとなったらそんなのイヤだようって言ってダダをこねるかも知れませんから、そのときの修羅場を思うとそら恐ろしい気がするオトーサンでした。
運転と読書 (2014年8月21日)
若い頃は車を運転するのが楽しかったし好きだった。しかしだんだんと年齢を重ねてくると、車を運転するのがおっくうになってきたのである。もちろんいざ車を運転するとなると、乗り心地がよくてハンドルの切れがシャープでタイヤが路面に吸い付くように安定している、そういう車に乗りたいと思う(って、かなり贅沢でしょうか?)。そうであれば fun to drive を実践できるからである。
でも、最近はホントに車を運転しなくなった。そして、今年度になって一度も車で出勤していないことに今気がついた。老眼になってきたし、動体視力は明らかに低下しているので、若い頃のような(ギリギリ・マスターのような)運転はできなくなったし、怖くてできない。
車を運転しない理由として、さらにもうひとつ、そのあいだの時間の使い方がある。運転中はラジオを聞いたり、iPodの音楽(イヤホンで聴いているわけではありません、ちゃんとスピーカーからです)を聴いたりしていて、それはそれで楽しいひとときではある。
でもそのあいだは読書はできない、当たり前である。いつも書いているように電車内では読書をたしなむ。一日往復1時間は乗っているので、一年間に200日出勤するとすれば200時間を読書に使えることになる。200時間といえば8日以上に相当する。これはかなり有効な時間の使い方であろう。実際、かなりの冊数を電車内読書で読破している(もっとも、こむずかしい話題や長たらしいセンテンスにぶつかると途端に寝ちゃったりしますけど、がははっ)。
というわけで車の運転の楽しさと電車内での読書の有益性とのふたつを天秤にかけて、最近では読書のほうが優っているということだろう。
図書館にて2014 (2014年8月20日)
クラクラするほどの暑い昼下がりに大学の図書館に行ってみた。統計学についての調べ物をするためである。大学の図書館に入ったのは一年ぶりくらいかな。夏休みなのですいていたが、それでも熱心に勉強している学生さんたちがちらほらいて、えらいなあと思ったりした。
図書館に行くといつも感じるのだが、たくさんの本たちに囲まれてこころがワクワクするというか、楽しいげな気分が溢れ出すというか、とにかく独特の高揚を感じるのはどうしてだろうか。
当初の目的の統計学に関する本を物色して、なるべく分かり易そうな(って、出来の悪い学生みたいですが)書籍を二冊選んだ。でもせっかく来たのだから、ほかにも楽しそうな本を借りようかなと思い立ち、何冊借りられるのかカウンターの方に聞くと15冊だと言う。ええっ、そんなに借りていいんですかあと驚いた。
そうして先日、建築学科の先生方との暑気払いがあったときに芳村学先生と久しぶりに論談したときのことを思い出したのである。例によって芳村先生が赤ん坊が初めて歩き出すときのことから人類の二足歩行の誕生について話し始め、遺伝子とか進化とかに話題が向かった。
そのときわたしはちょうど電車内読書で『やわらかな遺伝子』(マット・リドレー著、中村桂子・斎藤隆央訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2014年7月)という本を読んでいたので、それを芳村先生に見せたのである、いまこんな本読んでますよって。
すると芳村先生がさも驚いたように「ほう、君、意外と知的だねえ」と仰る。ちょっとムッとするが、酒席のことだからまあいいか。そのあとひとしきりドーキンスとかダーウィンとかが話題に登ってあれこれ論じてから「それじゃあ、グールドはどうだい?」と芳村先生に聞かれた。
え、グールドって、あの音楽家ですかあ?ってわけないだろ。それは進化生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドのことだったのだが、わたしは不覚にもそのひとを知らなかった。知らなければその著作も読んだことがないので、はなしはそこで途切れてしまった。うーん、まだまだ芳村先生には太刀打ちできませんぜ。もっとも以前に数学者のジョージ・ガモフのことをはなしたときには、芳村先生はご存知ないようだったので、まあ、おあいこということで(負け惜しみです)。
そのことを図書館で思い出したので、じゃあスティーヴン・ジェイ・グールドの本でも読んでみるかと思って館内検索するとたくさんあった。で、それがある開架のところまで行って『ぼくは上陸している(上)』(早川書房、2011年8月)というのを借りてみた。下巻もあったが面白いかどうか分からないので(以前読んだR.ドーキンスの『Blind Watchmaker』で痛い目にあっていたから)、とりあえず上巻だけにしたのである。
で、その本だがとても綺麗なのはいいのだが、どうやら誰も借りたことがないということに気がついた。芳村先生の言を待つまでもなく、スティーヴン・ジェイ・グールドは一般向けの科学書で有名な方のようだから、その本をわが大学の学生諸君は誰も読んでいないということに思い至って、うーん大丈夫かなあなどと思った。もっともわたくしも知らなかったのだからひとのことは言えないが,,,。
結局この日は全部で5冊借りた。お昼ご飯を食べたあとに手ぶらでフラッと図書館に入ったため、カバンや袋を持っていなかったのでそれくらいでやめておいた。
渋谷へ行く (2014年8月19日)
ことしのお盆は天候に恵まれずスッキリせずに雨が降ったりするあいにくの日和が続きました。我が家では遠出することはせず、渋谷のオーチャード・ホールの下にあるBunkamuraザ・ミュージアムに「だまし絵」展を見に行ったくらいでした。渋谷に行くときはフツーは渋谷駅で降りるのでしょうが、オーチャード・ホールは渋谷の中心街からはちょっと離れていますので、井の頭線の神泉駅で下車するとほとんどひとが歩いていないし近いので便利です。でも神泉駅があるところは有名な円山町ですから、夜遅くに歩くのは勘弁プリーズといったところですな。
その「だまし絵」展ですが、お盆の暑い時期なので都心の美術館はガラガラですいているだろうとタカをくくっていたのですが、あにはからんや、子供を含めた多勢の来場者で賑わっていたのには驚きました。チケット売り場から並んでいましたが、我が家では株主優待のタダ券を持っていたのでスイスイと入ることができたのは良かったです。会場内では熱心にメモをとったり、スケッチしている子供達を見かけましたから、夏休みの課題かなにかになっていたのかも知れません。
いろいろな絵や映像は子供にとってはとても面白かったみたいです。もっともあまりにひとが多くて、短気な私は他人の頭越しにそれらの「名作」をチラッと見たくらいで足早に通り過ぎました。で、人だかりのない作品ばかりをじっくりと見ましたので、あとから家内に「そんなつまらないモノ見て、どうするのよ」なんて言われたりしましたけど。ダリとかマグリットとかの“名作”は並んで見るんだよ、ということのようです。
「だまし絵」展の最後のほうの場所にa-haというロック・グループの『Take on Me』という1985年にヒットした曲のビデオ・クリップが放映されていました(こちらをどうぞ)。軽快なリズムと透明なボーカルが印象的な曲です。なんでも当時としては斬新な手法で作られた映像だそうで、わたしもその頃みた記憶がありましたので、とても懐かしかったです。今みるとそれはちょっとアニメ風に見えますが、手書き風の絵コンテと実写映像との組み合わせが秀逸で、いまでも鑑賞に足る映像だと思いました。
そのあと、子供がラーメンを食べたいというので女房が昔よく行ったという「龍のひげ」というラーメン屋を探したのですが、宇田川町の交番(エドワード鈴木の作品です、知ってましたか?)で聞くともうつぶれたということで、仕方がないのでスペイン坂の登り口そばにある「一蘭」という豚骨ラーメンのお店に行きました。わたしはラーメンはとくに好きでもないのでほとんど食べませんから、ある意味なんでもいいわけです。
お店に入ると昔、博多で田島祐之さんに連れて行ってもらったラーメン屋のようにひとりづつ仕切り板があって、豚骨ラーメンってこういう雰囲気で食べるものなんだとミョーに感心しましたね。もっともその仕切り板をはずせることにあとで気がつきました。で、ひとりづつ長細い紙に好み(麺の堅さ、スープの辛さ、ネギの種類、ニンニクの量など)を赤ペンでマークして呼び出しボタンを押すと、お店のひとがとりに来てくれてそれで注文が終了します。
ラーメンが届くと今度は目の前のすだれがスルスルと下がって、さあ食べて下さいと言わんばかりのサービスです。そんな一連の“しきたり”にへえーっこうやるんだ、と感心しきりの我が家でした。でもラーメン自体はフツーの豚骨味っていう感じで、まあ美味しかったですけど、チャーシューは薄くてあんまりいただけませんでしたな、わたくしにはラーメンを語る資格はありませんけど。これで一杯790円というのもどうなんでしょうか、ちょっとお高いような気がしますが,,,。
それにしても渋谷のまちって、どうしてあんなにゴチャゴチャとしているのでしょうか。細い道にクルマがひっきりなしに続いてて危ないし、人間がもうウジャウジャいるんですよ。そのくせ街なかのある一角がぽっかりと空いていて(昔の地上げを思い出しますな)、猥雑なまちの真空地帯みたいになっているのが不思議でした。
和をもって‥ (2014年8月15日)
また終戦の日が巡ってきました。今年は自民党政権によっていとも簡単に憲法解釈が改悪されて、海外での戦争への道が再び開かれました。この調子だと徴兵制施行も夢(われわれにとっては悪夢ですけど)じゃないと思わせるような時勢です。
さて昨日、ロシアが北方領土での軍事演習を始めたそうです。それによって日本とロシアとの関係は一挙に険悪になるのではと危惧されています。しかしなんでこうも隣国たちとのあいだで緊張が高まるのでしょうか。中国、韓国ときて今度はロシアです。ロシアのクリミアやウクライナでのやり方には疑問を感じます(もっとも本当のところはよく分かりません)が、二国間の関係悪化は一方だけが悪いということはないのだろうと考えます。
領土問題や歴史認識にはそれぞれの言い分があって容易に歩み寄れるとは思えません。ですから各国の先人たちはそういったきな臭いものは棚上げして、関係改善を進めてきた歴史があります。自分たちに都合のよい論理だけを声高に叫んでも誰も聞いてくれませんし、納得もしてくれません。そのあたりは人間同士の関係と同じです。
どの国も国内でいろいろと問題を抱えていて、国民の不満のはけ口を海外に求めようとするのはいつの時代でも常套手段です。しかし21世紀は帝国主義の時代ではありませんし、いわんや戦争の時代でもありません。そういうことは全て20世紀に膨大な流血を代償として経験したはずです。各国の首脳はそのことをもう一度認識しなければなりません。和をもって尊しと為すという聖徳太子の遺訓を今更ながら思い出して実践して欲しいものだと思う、ことしの夏です。
基礎ゼミナール通信 番外編 (2014年8月13日 その2)
昨晩から今朝にかけてはとても涼しかったのはどうしたわけでしょうかね。さて、やっと「基礎ゼミナール」の成績付けも終わってホッとひと息ついたところですが、忘れないうちに反省会をやろうということで、建築都市コースの最若手・権藤智之准教授に私の研究室に来てもらいました。
権藤さんは基礎ゼミ歴二年なので、その点ではわたくしよりも先輩になります。で、彼の二年目の改良点やいろいろな工夫について苦心談を根掘り葉掘り伺いました。まあ予想していましたが、とても頭を使ってあの手この手で学生さんを議論に引き入れようとしたことが分かりました。その努力には頭が下がりましたね。
ひと様の試みとかその成果を聞くことはとても参考になります。なかでもグループを作って建物の調査に行かせて報告させるとか、発表会のときには質問票を各自に配布して授業終了後に回収するとかは是非、来年度はとり入れようと思いました。また発表会の場に自分の研究室の卒論生を連れて行って質問させるというのもとてもよいアイディアだと思いましたので、我が社でも来年はそうしようと思っています。
こんな感じでいろいろと啓発されましたので、忘れないうちに来年度の講義の骨格を作ってみました。ただテーマ設定まで変えてしまうと、また一から出直しになってつらいですから、それは思いとどまりました。ほんとうは授業のときに学生諸君とお茶でも飲みながらアット・ホームにできればよいのですが、準備に手間がかかるしお金も必要ですから多分それはやらないと思います(自分の研究室でのゼミのときにさえ、そのようなことはしていませんから)。
掃除機 (2014年8月13日)
我が家でいま使っている電気掃除機(東芝製)がどうも調子が良くなくて、ときどき止まってしまったりする。吸い込み力もあまりよくなくて、掃除機の掃除をするとその直後は快調なのだがすぐにウィーンといって能力がダウンする。お手入れ不要という宣伝文句に惹かれて七、八年前に(よく覚えてないが)六万円くらいの結構なお値段で購入したのだが、よく考えたらメンテナンス不要なんてことはあるはずがない。
どうにも吸い込み力が低下して掃除機としての機能を果たさなくなると、仕方がないので(マニュアルを見ながら)分解清掃しないといけない。それがとてつもなく汚くて大仕事であった(いえのなかではとてもできないので外で掃除した)。家内はそんなことには無頓着なのでいつも私が掃除機の掃除をしてきたのである。長〜い髪の毛がいろんなところにからみついていて、それを取り外すのにひと苦労する。
そんなこんなで、もういい加減新しい掃除機に買い替えるかということになった。排気がきれいなほうがいいので今度はサイクロン式にすることにした。サイクロン式といえばダイソンである。でもいろいろ調べたけど、集塵ボックスがヤワで扱いにくいなんてコメントもあったし、なによりお値段がべらぼーに高いのでやめにした。
で、結局、三菱電機の「風神」というネーミングのサイクロン式掃除機(テレビのコマーシャルでやっています)を四万四千円ほどでゲットした。使ってみるとこれが面白いくらいにゴミがとれるのである(まあ、新品なので当然かも知れませんが)。ただ集塵ボックスの容量が今までよりも小さいので、こまめにゴミ捨てしないといけないようだ。うちの家内はいつも満杯にしたまま掃除しているので、ちゃんと捨ててねとお願いしておいた(まあ、多分ダメでしょうけど,,,)。
さて今まで使っていた掃除機だが、家内は捨てるというのだが調子は悪いとはいえまだ動いている。そこでわたしは気がついた、大学の研究室のお掃除に使えばいいんじゃないかと。自慢じゃないが研究室には掃除機どころかほうきもないのでとっても汚い。そのことを家内に話すと、うわあばっちい!と驚かれる始末。
というわけで研究室に運ぼうと思っている。ただ研究室のどこに置いたらよいものか、ちょっと困ってはいる。室内にむき出しに置いておくと、どうにも所帯臭くて研究する雰囲気ではないでしょ? これはロッカーを整理するしかないな、夏休みにはちょうどよい作業かも知れないし,,,。まあ、しばらく考えてみるとするか。
ことしのお盆2014 (2014年8月11日)
ことしもお盆週間がやってまいりました。東京では台風が去って、吹く風は相変らず強いものの暑い太陽が戻ってきました。朝の通勤電車はかなり空いていましたが、わが大学では夏期集中講義が始まったので、結構学生さんが登校していました。私の所属する建築都市コースでは大学院の入試も終わったので、今週はひと息ついている先生方が多いと思います。
そういうわけでわたくしもたまった仕事をこまごまと片付けています。たとえば大学院のレポートの採点がたったいま終わりました。ことしは10名の大学院生諸君が履修しましたが、全体としては出来がよくてホッとしました。例年だとどうしようもないレポートがいくつかあって成績が付けられないような事態で頭を抱えたりしましたが、ことしはそんなことはなくて良かったです。
さて大学院の入試ですが、今回は我が社の卒論生が全員就職するため(それ自体はとてもめでたいことですけど)内部からの進学者はありませんでした。そうなると途端に危機に瀕するのが悲しいところです。幸い学外の学生さん達が興味を持ってくださったおかげで、数名の方が我が社を志望して受験してくださいました。今回は外国人の方が多かったのもいままでにない特徴となりました。
皆さん我が社のホームページをみてその存在を知ったようで、今更ながらネット情報の威力を感じます。そのようにインターナショナルになったのはよいのですが、残念ながら公用語は日本語なのでちょっと申し訳ないように感じますね。ただ日本に留学するひとは日本語をマスターすることを当然と思っている方が多いので、まあお許しいただけるかなとも思います。
それでもお隣の韓国や中国の言葉を少しくらいはしゃべることができればよいと思っていて、以前に王磊さんが中国語会話のテキストを探してくれたりしましたが、とんと勉強できません。その国に留学するとかなにかの外圧がないとやっぱりまじめに取り組めないものなんですねえ、悲しいけれど。
耳ネタ August 2014 (2014年8月9日)
お盆に入りました、台風が来ていて時おり雨が強く降ったりしていますけど。この時期は例年、前期の授業のレポートの採点とか成績入力とかで忙しいのですが、ことしはあとは大学院のレポートの採点を残すのみとなりました。
さてそんな休日のなかで久しぶりに今井美樹のアルバムを取り出してきて聴いています。彼女のアルバムはまだ一枚もわたしのiPodには入っていませんが、数えたら10枚もCDがありました。1988年から1997年のあいだにリリースされたもので、その期間によく聴いていたのでしょうね。
で、今回久しぶりに聴いたのは、1989年6月発売の『Mocha』というアルバムです。ジャケットはプラスチック・ケースではなくて、写真のように紙製のパタパタと開いていく形式でしたが、さすがに四半世紀も経っているので紙が黄ばんでしまってあまり綺麗とはいえません。とはいえそんなに昔のことですから、今井美樹のポートレートには幼ささえ感じます。
でも収録されている曲たちはなかなかの名曲ぞろいでした。当時、東北自動車道を疾走する車中でこのアルバムをよく聞いていたことをまざまざと思い出しました。どの曲も電子楽器だけで構成されていて、シンセサイザーによる打ち込みが多用されているところなどはこの時代を感じさせます。それでも音のゆらぎが耳に心地よく響いてくるのは、やっぱり今井美樹の歌声が素晴らしいということでしょうか。
ハイファイセットのメンバーだった大川茂がadditional vocal として参加している曲がアルバムなかほどにあって、懐かしかったです。でも参加しているメンバーを見ると既に黄泉の国の住人となった方が何人かいて、ひとの世の無情を感じましたね。彼女のアルバムをこれから少しづつiPodに入れて再び聴こうと思います。
おどろく差 (2014年8月8日)
きのうは立秋でした。きょうは台風が近づいているせいかどんよりとした曇り空で、気温もいままでよりは低いみたいです。もっとも、蒸し暑いことにかわりはありませんけど。
初歩の静定力学をあつかう『建築構造力学1』の講義ですが、何度か書いているように建築都市コースのカリキュラム大改定にともない、それまでは2年生に教えていたのを1年生に降ろしました。そのため、今年だけは2年生および1年生の合同講義としました。ちなみに以前このページに書いた、受講態度のよくない学生さんはすべて2年生です。
さて七月終わりに期末テストを実施してその結果が出たのですが、(まあうすうす予想はしていましたが)それは驚くべきものだったのです。以下の表の平均点をご覧下さい。当然ながら2年生および1年生とも同じ試験問題ですが、1年生の平均点が71点(105点満点)だったのに対して、2年生のそれは55点でした。
この差は約15点ですが、どう考えてもこれは有為な差であると判断できます。参考までに首都大学東京となってから入学した学生さんたちの過去の『建築構造力学1』の平均点等も載せてありますが、今年の1年生が過去最高の平均点であることが分かります。
|
満 点 |
受験者数 |
平均点 |
2014年 1年生 |
105 |
62 |
71 |
2014年 2年生 |
105 |
60 |
55 |
2013年 |
103 |
63 |
66 |
2012年 |
103 |
64 |
57 |
2010年 |
103 |
60 |
63 |
2009年 |
103 |
68 |
65 |
2008年 |
105 |
71 |
56 |
2007年 |
103 |
71 |
50 |
2006年 |
101 |
66 |
58 |
この表を見ると、今年の2年生の平均点(55点)は2008年の試験での平均点(56点)と同じです。また昨年度の平均点(66点)よりは相当に低いですから、今年の2年生は全体としては出来は良くないけれども、過去にそれくらいのレベルの学年もあったことから、まあ2年生としてはこんなものなのかと思います。
ということで、今年の1年生の出来が非常によかったと褒めてあげてよいでしょう。では、なぜそんなことになったのか、というのが本題です。
今年から始まった新カリキュラムでは、1年生前期の建築専門科目はわたくしのこの講義だけです(もうひとつ『環境と建築』という科目がありますが、これは全学の教養科目群に位置付けられています)。そのため、大学に入ったばかりの学生さん達が希望に燃えて(?)『建築構造力学1』に熱心に取り組んでくれたのではないか、ということが最初に考えられます。この仮説が正しいかどうかは、多分、来年入ってくる1年生の成績を見れば判断できるでしょうね。
それに対して2年生になると、設計製図やほかの建築専門科目がどんどん入ってくるので、『建築構造力学1』はone of them とみなされて注がれる時間も相対的に減少することは明らかです。構造系の科目は数学や物理学等を駆使する難しい授業であるという誤解がよく言われますが(もちろん分野によってはそういうものもありますが)、『建築構造力学1』では微積分はおろか三角関数さえも使わない、単なる加減乗除の世界です。すなわちうちの大学に入学するレベルの学生さんであれば、まじめに積み重ねていけば誰だってできる内容なんですね。
ということで、鉄は熱いうちに打てじゃありませんが、少なくとも建築構造力学は入学したばかりの1年生に履修させるのが有効なのではないかと推察します。もっとも4年生になって卒論を履修する頃には静定力学などすっかり忘れてしまうということも起こるかも知れませんので、その功罪についてはまだしばらくは留保しておきましょう。とにかく今回は驚きました。
駆け抜ける 〜現代の甲州街道〜 (2014年8月7日)
このあいだ、夏休みをとって信州に旅行に行ってきました。高原に行ったり、山岳路をドライブしたりしてリフレッシュできましたが、例によって帰路が大変でした。夕方前に中央高速に乗って家路についたのですが、笹子トンネルの数キロ前から渋滞にはまりました。さらにお決まりの小仏[こぼとけ]トンネルや八王子〜調布間などトータルすると40 kmちかい渋滞が表示されていました。
まあわたくしひとりならどうにでもなりますが、家族と一緒なのでおトイレなどの心配もあります。その渋滞に突入すべきかどうか相当に迷いました。一般道に降りればコンビニやガス・スタンドなどがそこそこにあるでしょうから、いざとなればそこのトイレを借りることができます(実際、このあとそうなりました)。そこでちょっとどうかなとは思いましたが、大月インターチェンジで降りたのでした。
そこからは甲州街道(国道20号)をひたすら東に向かって走ります。大月の一般道なんて通ったことがありませんので、しばらくは物珍しくキョロキョロしました。わたくしの感覚では甲州街道は東京の大動脈のひとつなので片側二車線は当然ですが、このあたりでは(田舎なので当然ですが)一車線です。
一般道なので信号はありますが、しばらくはそれなりに走れました。この調子ならナビのいう通り二時間四十分くらいで家に着くかなと思いました。しかしそうは問屋は降ろしてくれませんでした。上野原を過ぎてしばらく行ったところで、バッタリと動かなくなったのです。しばらくはもうウンともスンとも動きません。このころになると陽が落ちてすっかり暗くなっていましたので、車列のライトが延々と続いているのが見えて、家族一同激しく落胆したのでした。
その渋滞はJR藤野駅あたりがピークで、我が家のおトイレ事情もピーク直前でしたので、やっとのことで見えて来たガス・スタンドに突撃しました。で、そこの兄ちゃんに渋滞の原因を聞いたところ、一車線でウネウネとしている上に、中央高速から降りて来たサンデー・ドライバーがわんさか集まったためであると言われました。そっかあ、皆さん考えることは同じだったということですな。
でもその渋滞も相模湖の中ほどまでくるとウソのように解消して、その先は自分のペースで走れるようになりました。いつも書いていますが渋滞のメカニズムって本当に不思議です。しかし一難去ってまた一難、そのときは知らなかったのですが、実はこの先に難所が待ち構えていたのです(ナビって便利ですが、そこまでは教えてくれませんからネ)。甲州街道はどんどんと山道になってカーブが連続するようになりました。それは神奈川県と東京都との境にある大垂水[おおたるみ]峠という悪路でした。
これが東京へと続く大動脈(甲州街道のことです)とは到底信じられません。街灯の無いまっ暗な不案内の道を走るのは、この歳になると辛いですな。当然のことながら安全運転でそろそろと走りましたが、しびれを切らしたスポーツ・カーがブイーンといいながら追い越してゆきました。
でもこの峠道は片側一車線のくせに、左に寄って後ろの車を先に行かせるための退避路は全くなく、いわんやお店とかコンビニなどもないので、遅い車がいるとそのうしろに長蛇の列となってしまいます(その遅い車がわたくしなんです)。いやあ、うしろからのプレッシャーと、先頭を走っているために先が見えないことによる不安とで、久しぶりにハンドルを持つ手が汗ばみました。
で、やっとのことで峠に到達するとそこから先は今度は下りになって、高尾山の脇を駆け抜けます。そうして高尾山口の駅前に到達しました。高尾山には何度か行っていますが、駅前の道が甲州街道だったとは迂闊にも気がつきませんでした、だって高尾山には京王電鉄で行きますから。高尾駅を過ぎてさらにしばらく行くとようやく二車線になったのでした。
さらに相当走って調布を過ぎたところで甲州街道から外れたときにはホントにホッとしました。結局、大月から約四時間も要しました。これなら高速に乗っていたほうが早かったかもしれません(トイレの問題は別ですが,,,)。
しかし甲州街道がこんなに激しい山道になっているとは不覚にも知りませんでした。中央高速がいつもあんなに渋滞するのも理解できたような気がします。もう大垂水峠はこりごりです。あとで調べるとこの峠は東京近郊の走り屋にとってはかなり有名なところらしいです。そんなところを所帯持ちのおっさんがとろとろ走っちゃ危ないですよね。
口直しに信州の地酒のはなしを。諏訪にある麗人酒造の純米吟醸酒を飲んでみました。四合瓶で1700円くらいでした。酒米は長野県ではポピュラーな「ひとごこち」で、精米歩合は59%です。見た目も涼やかなブルーのボトルでした。そんなに華やかな香りはありませんが、夏のお酒らしくスルスルと喉越しよく飲めました。こういう辛口のお酒が好まれるのかもしれませんが、そういうお酒ばっかりだとやっぱり飽きが来ます。たまには甘めでフル・ボディの吟醸酒を飲んでみたいですな。
原爆の日2014 (2014年8月6日)
きょうは広島への原爆投下から69年目の日です。2011年の福島第一原発でのチャイナ・シンドロームによって大勢の方々が平穏な生活を奪われて以来、原子力発電に対する目が厳しくなっていますが、原子力の戦争利用については絶対に防がなくてはなりません。
いつも書いているように科学技術を平和目的のために利用するようにコントロールすること、それがわれわれ人類に課された義務であります。どのような技術でも悪用しようと思えばできますから、それをさせない理性と監視態勢との両方が必要になります。それも結局は市井のひとびとの不断の認識と努力とがあってこそ、達成可能なのでしょうね。そういう思いをつねに抱き続けたいと考えます。原爆によって無念の死をもたらされたひとたちへ、合掌。
2012年7月撮影
大学院入試はじまる/迎賓館参観落選のはなし (2014年8月5日)
8月になりました。暑さが本番という感じでうだっていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて本学の建築学域では今日から大学院博士前期課程の入学試験が始まりました。ホント暑いのにご苦労なことです。こんなに一年でもっとも暑い時期になんで入試をやっているのか、また学部入試は一年の最も寒い時期に入学試験がありますから、不合理なこと極まりないですな。
もし秋入学が普及すればこのようなことは解消されるでしょうから、真剣に考える価値はありそうです。もっとも大学入学時期に関しては日本社会全体のシステムに関わっていますから、(東大の例を見るまでもなく)そんなに簡単にはゆかないことは当然ではありましょう。
さてはなしは変わりますが、迎賓館赤坂離宮の一般参観に六月初めに応募しました(もちろんネット経由です)。その結果が七月末にメールで通知されましたが、残念ながらあえなく落選しました。赤坂離宮は日本の最初の建築家のひとりである片山東熊の設計になる宮廷建築ですが、あまりにも華美であったために明治天皇に嫌われたというエピソードがあるようです。
東京の真ん中にある由緒正しい建物ですから、一般の方の興味を多大に引いているということがよく分かりました。例年、八月の暑い時期に一般参観を企画しているようですので、もうちょっと配慮してくれよとは思いますが、来年もまたトライしてみようと思っています(忘れなければ、のはなしですけど、あははっ)。
抜け殻 (2014年7月29日 その2)
今朝、登校するときに蝉の抜け殻を二つ見つけました。梅雨あけして、蝉のなき声がだんだん目立つようになってきましたね。これから夏本番を迎えるんだなあという感慨があります。ずいぶん昔ですが、我が家の車のタイヤに蝉の抜け殻がくっついているのを見たことがあります。今朝も抜け殻のひとつは民家の石塀にへばりついていましたから、彼らにとっても住みにくい世の中になったのかも知れません。
ところできょうは土用の丑の日なんですね。お昼ご飯を買いにスーパー・マーケットに行ったら屋台でうなぎを焼いていたので、ああそうなんだあと気がつきました。でも、我が家では先週食しましたので、きょうは食べないんだろうと思いますけど,,,。
学生さんお客様論 (2014年7月29日)
先日の新聞の土曜版に学生がひどくて講義ができない、という大学の先生からのお悩み相談が載っていました。講義中に私語、スマホ、化粧などをしていて、いくら注意しても聞いてくれない、というものでした。いやあ、身につまされますな〜。私の大学ではさすがにその相談者の大学ほどひどくはありませんが、それでもそういう学生さんは確実に増えています。
わたくしの授業でも、いくら注意しても授業内の演習をやらないとか、講義後の演習の時間になるとエスケープするとか、そういう学生さんが今年は目立ちました。最後の講義のときにも教室の後ろのドアから“脱出”しようとする学生さん達を見つけました。それまでにも三度くらいは注意していたので、さすがに頭に来ました。
マイクのスイッチをオンにすると「こら〜、まだ授業は終わってないゾ、教室に戻れ〜」と怒鳴ったのです。そう言われた彼らはスゴスゴと戻ってきました。そしてシーンと静まりかえった教室内でひとりずつ名乗るように言いつけて、名前を言わせました。ボソボソと聞こえないような声の学生には、もっと大きい声で言えよ、と追い打ちをかけました。もしかしたら、これがいけなかったかも知れません。
で、授業が終わったら、後ろのほうから大勢の学生さんがワラワラと教壇のところにやって来て、半円状に私を取り巻きました。エスケープを阻止されて、名乗らされた学生さん達でした。何を言いにきたのかと思いましたが、要はエスケープしようとしたのではなくて、授業が終わったと思ったから退室しようとしただけであるから、あのように名乗らされたのは心外である(とは言いませんでしたが、言外にそう言ってました)、取り消してくれ、ということでした。
同じ行為に対してそれまでも何度も注意してきたのに、なにをゴチャゴチャと屁理屈を言ってるのかと思いました。いい加減うんざりしたので、とにかく取り消さない、それは私の判断である、君たちに指図されることではないと伝えました。
そのときひとりの学生さんが「じゃあ取り消してくれなくてもいいですけど、エスケープするつもりはなかったという気持ちだけは信じて下さい」と言いました。そうか、このひとは気持ちのことを言っているのか、それなら信じてあげてもいいかなと思い直して、(本当はそのひとだけでよかったのですが面倒だったので)そこにいた7、8名の学生さん全員のエスケープ認定を取り消したのでした。
実にいや〜な気分でした。ホントーにあと味の悪い出来事でしたね。今までこのようなことはありませんでしたから、これも大学大衆化の負の影響が顕在化したものに違いありません。私語は注意すればやみますが、スマホや内職などは結構見かけます(これらは面倒だからもう注意しませんけど)。
さて新聞のお悩み相談に戻ると、評論家の岡田斗司夫さんの回答がふるっていました。大衆化した大学では学生が「お客様」化しているが、そのような「お客様」を「学生」に育てるのが教育である、と書いていました。同じ大学教員として、なんとも含蓄のある回答ですな、なかなかの慧眼だとも思いました。
わたくしの大学でも、学生さんはお客様なのだからお客様目線に立って彼らの要求を聞いてあげるべきだ、というようなことをのたまう先生が時々おられます。それは一見、リベラルな主張のように思えますが、こと大学に関しては教育の役割を放棄した考え違いであるとわたくしは考えます。
一例を挙げると、卒論の研究室選びのときに学生さんの希望通りに(彼らの言うがままに)配属してあげよう、というようなことです。でもそんなことをしたら、一部の人気研究室に学生さんが集中して個別指導が成り立たなくなるとともに、学生さんが行かない研究室では研究活動が停滞することにつながります。そんなワガママは聞かなくてよろしいというのがわたくしのスタンスです。
すなわち、わたくし自身は大学生を「お客様」とは考えていないのですが、岡田斗司夫さんの回答を敷衍すると、学生自身が教員の思いなどとは無関係に自分たちを「お客様」と位置付けているというのです。う〜ん、そうだとすると相手は一段と手強くなったといわざるを得ません。
でもときどき書いていますが、教育というものは手間ひまをかけて、教師と学生とが全人格をかけて向き合い、情熱をぶつけ合うところから始まると思うんですよ。そのためには教育の場に濃密な空間が存在しなければなりません。そのような場に「お客様」はいかにもそぐわない。だって「お客様」は一方的に自分の要求だけ言い立てて満足すれば去って行くだけですから、そこには人格に基づく双方向の場など存在し得ません。
すなわち彼らが自分を「お客様」だと思っている限り、ちゃんとした教育を施すことは難しいし、その延長としてちゃんとした研究もできないということになります。と、ここまで書いてきて、研究室での先端研究にあまり興味を示さず、研究する気力もみせない学生さんが最近増えてきた理由が分かったような気がしました。教師が情熱を傾けた教育の場に参加するのではなくて「お客様」としてそこに「いるだけ」という思考でいる限り、なぜ研究なんかしなくちゃいけないの?っていう気持ちなんだと推量します。うーん、問題の根はとてつもなく深いですな〜。ことは教育の崩壊ということにまでつながっているのですから。皆さん、いかがお考えでしょうか。
明治の頃の日本や太平洋戦争直後の日本には上述のような学徒はいなかったわけで(その頃の大学生は少なくとも自分でものを考えて、エリートになろうという志を持っていたはずですから)、このような「お客様」が大学に目立つようになったのも世の中が豊かになったことに起因するとすれば、なんとも皮肉としか言いようがありません。現代の大学とは?という大問題に取り組むことを考えないといけないでしょうな(そんな時間はないんですけどね〜,,,)。
でも、それでは彼らはなんのために大学に来るのでしょうか。大学に何を求めているのでしょうか。いつも書いているようにそれが“よい企業”に就職するためだけのものだとすれば、それは大学ではなくて専門学校や予備校ということです。それだけのものしか求められていない私たち(大学教員)って、とっても寂しいとは思いませんか。
健康診断2014 (2014年7月28日)
大学での健康診断に行ってきました。健康診断も仕事のうちなので受診するようにという放送がここのところ毎日二回あります。午前中はすごく混んでいて長蛇の列になっていることが多いので、きょうは午後3時前に行ってみました。
するとなんとだ〜れもいないではありませんか! 健康診断に従事される皆さんが手持ち無沙汰で所在なげに待っていました。こんな貸し切り状態はこの大学に赴任して以来初めてですな。というわけで、右から左へ流されてゆくように検診を受けることができました。結局、約15分で全てのメニューが終わりました。所要時間としてはそれくらいで済むわけです。
これに味をしめましたので、これからは初日の午後3時くらいに受診することにしようっと。でも血圧測定は心臓がバクバクいって気持ちが悪いし、採血もあんまり気分のよいものではありません。体にストレスをかけない、もっとよい方法はないのでしょうか。検診することによって具合が悪くなってはなにをやっているのか、本末転倒でしょ、ということになりますからね。
失 望 (2014年7月26日)
以前にH田尚樹氏の『永遠の0』を取り上げました(どこに書いたか忘れましたけど,,,/文庫本のメモを見たら、2010年9月27日のこのページでした)。相当の長期間ベストセラーになり、映画にもなったヤツです。そのときはまあ好意的な感想を抱きましたが、どうやらそれは間違っていたらしいということに最近になって気がつきました。
先日の朝日新聞に政治家の野中広務氏のインタビューが載っていましたが、そのなかに『永遠の0』の著者は戦争に反対ではなくて「強い日本という正反対の方向を向いている」(野中氏談、これをわたくし流に解釈すれば、戦争を肯定するような思想の持ち主であるということか)、『永遠の0』を読んで泪を流してバカをみた、というようなことが書かれていました。あれっ?ってな感じでした。
そして昨日のニュースです。H田尚樹氏がNHKのニュース番組の内容に異議を唱えた、ということが報道されました。戦前に朝鮮人が日本に強制連行されたというのは間違いではないか、と言ったそうです。
もしそれが本当であれば、恐ろしいほどに歴史を歪曲して見ているとしか思えません。そういうことを平気で言うひとは多分、南京虐殺もなかったとか、さきの戦争はアジアを解放するためだったとか、言うんでしょうね。確かに日本にはそういう思想の持ち主がある程度存在することは事実です。それゆえ別に驚くことではないかもしれません。
ですから、たとえH田尚樹氏がそのような思想の持ち主であってもそれはその方の自由なので、あれこれ言う筋合いのものではありません。私が残念だったのは、彼の『永遠の0』を読んだときにはそのようなゆがんだ根本思想を全く読み取ることはできなかったということです。特攻のことを書くひとが戦争を賛美するわけがない、という思い込みに強くとらわれていました。
そういう自分自身を恥じるとともに、そのような歴史認識および基本思想に基づいて著作活動を行っているH田尚樹氏に激しく失望したのでした。彼の著作はもう永遠に読むことはないと思います。
雷雨と停電 (2014年7月25日)
昨晩はものすごい雷と雨降りでしたね。我が家では子供にブラインドを降ろすように頼んだときにちょうど部屋の灯りが消えたので、最初は子供が(いつものように)電灯のスイッチをいたずらしたのかと思いました。
ところが家中の電気が消えているし、外を見ると街灯もまっ暗でしたので、停電だということが分かりました。そこでかねて準備してあった手回し充電式のランタンをともし、懐中電灯も取り出して点灯しました。このあたりは2011年の東北地方太平洋沖地震のときの教訓が役立ちました。ただエアコンが止まったのでだんだん蒸し暑くなるのが分かりました。
幸い、停電は5分くらいで解消して電気が復旧しました。でも、いろいろな電気機器に不具合が生じたのはいたしかたないのでしょうか。一番多いのは内蔵タイマーが狂ったり、リセットされたことでしょうね。いちいち時計を合わせないといけないので面倒なことこのうえない。またわたくしの愛用のMacも具合が悪くなって、ネット接続できなくなっていました。これはしばらく放置してから再起動したら解決しましたが、マシンが異様に熱くなったのでちょっと心配です(と言いながら、この文章を書いていますけど)。
それにしても雷のエネルギーって今更ながらすごいですね。ちょうど我が家の真上で雷が鳴ったのですが、木造の家がビリビリと鳴動するのがはっきりと分かりました。ああ、恐ろしい〜。日頃、電気に頼り切った生活をしていますので、こんなときに電気のありがたさを再認識します。
基礎ゼミナール通信 ファイナル (2014年7月24日)
昨日、基礎ゼミナールの全プログラム(って言っても、わたし自身が組み立てたものですけど)が修了しました。いやあ、嬉しかったですね〜。受講した学生さんにとっても大変だったでしょうが、わたくしにとっても毎回がストレスの連続でした。今まで書いてきたように、授業の大部分は学生諸君の発表とか議論とかで成り立つので、わたしがドライブできる部分はかなり限定されます。すなわち、成り行きによって授業がどうなるか分からないというリスクが常に存在します。
そのことがわたくしのように気の弱い人間にとっては苦痛なんですねえ。で、その危惧ですが、残念ながら現実のものとなりました。とくに最後の二回は最終発表会として、ひとり10分の持ち時間で発表および討論を試みたのですが(二回に渡ったのは受講者数が多くて一回では終わらないため)、もうどうにもなりませんでした。ある意味、『授業崩壊』という様相を呈したと言ってもいいかも?
皆さん発表はそれなりに上手になってきましたが、如何せん、議論が成り立ちません。質問した学生さんは結局四人だけで、それも各々一回だけでした。この授業のひとつの目標が議論のためのスキルを磨く、というものでしたから、それについては全く達成できなかったことになります。
もちろん、彼ら・彼女らを上手くおだてて議論の場に引き出せなかったのは、教師たるわたくしの力不足のせいでしょう。その点はお詫びしたいですね。でも、これだけは正直にいいますけど、ホントにお手上げでした。お通夜のようにシラ〜っとした雰囲気を想像して下さいよ、どうすりゃいいの、“そして僕は途方に暮れる”,,,(これ知ってますか?大沢誉志幸の1984年の名曲のタイトルです/大学院生の頃に、同級生の定本照正くんと渋谷公会堂にライブ見に行ったなあ)。
こういったアクティブ・ラーニングの教授法については、蓄積した経験知がものをいうはずですが、残念ながらわたくしにはそのようなものはありません。アクティブ・ラーニングについての懇談会に出たり、それに関する書物をひもといたりはしましたが、残念ながら未だ血肉とはなっていないようです。
わたしの大学ではこれから英語での授業を進めようとしているらしく、教員を対象とした英語での授業法についての研修会などを企画し始めています。でも私に言わせれば、そんないつのことになるやら分からないことに多大な時間とお金とを使うよりも、現在進行中の基礎ゼミナールを担当する教員(何人いるんだかしりませんけど、とにかくたくさんいることだけは確かです)に双方向授業のためのスキルを身につけられるような救いの手を差しのべて欲しいと思いますね。
と、ぶつぶつ愚痴を言ったところではじまりません。とにかく数年はこの基礎ゼミナールを担当するのですから、来年度に向けて今から考えないといかんなあ〜というのが現在の心境です。学生さんたちが書いてくれた授業アンケートの結果がかえってきたら、本格的に考えようかなと思います。いずれにせよ、試行錯誤の連続で当分は(って、いつまでやる気?)ぶちあたるしかありませんな。
さてはなしを元に戻して、最終発表会のことです。わたしのゼミでは、教員たるわたくしが彼らの発表を評価するだけでなくて、学生さんたち自身にも友人達の発表を評価してもらいました。そうやって発表終了後に採点結果を集計したのですが、学生さんたちが評価した第一位とわたしのそれとが一致したのです! これって、学生諸君も真剣に他人の発表を聞いて判断をしていた、ということかなと思いました。これはとても嬉しかったですね。
まあ大学に入って来るなり、いきなり知らない学生さんたちが集められてそこで議論しろと言われても、それはそれで結構難しいかもしれませんな。そのことを思えば、彼らのほうも彼らなりに苦悩したのかもしれません。このゼミでの経験がどれくらい学生さんの役に立つのか、なんとも言えませんが、レポートとか論文とかを書くときになって少しでも覚えていてくれれば、それは教師としてわたくしの無上の喜びと為すところです。皆さんの今後の活躍を期待しています。
最後に発表会および優秀賞の顕彰が終わって晴れ晴れとした(?)学生諸君の写真を載せておきます(TAの星野くんに撮ってもらいました)。みなさん、お疲れさま〜!
写真 基礎ゼミナール修了記念(6号館301教室にて)
モワッと (2014年7月23日 その2)
昨日、梅雨が明けましたが、いきなりの暑さになりましたね。外を歩いているだけで汗が滲み出てきます。さしずめ室内温水プールのプールサイドを歩いているような感じで、水蒸気がモワッと体にまとわりつくようで不快です。
我が社では現在試験体を作製中でして、いまもM1・石塚裕彬くんをチーフとするグループが暑いなかで作業をしています。水分補給には気をつけるようにメールを送りましたが、急に暑くなって体が慣れていないので心配しています。作業に夢中になると水分補給がおろそかになりますので注意するように言いました。なんせ試験体はいずれは完成しますけど、一度そこなった健康はなかなか回復しませんからね。とにかく健康第一でお願いします。
また読み始める (2014年7月23日)
この一年くらい、実家で“発掘”した高橋和巳を再読していることはこのページでときどき書いています。生硬な文章なので読みにくいのですが、人生について、また人間について深い洞察が高橋自身の苦悩とともに記されていて引き込まれます。三十年前にそれらを読んだときには若すぎたし仕事もしていませんでしたし(学生でしたから)、なによりも人生について真剣に考えることはなかったと思います。
しかし半世紀以上人生を生きてきて、前途洋々たる未来がひらけているような年齢でもなくなり(イヤな言い方ですが先が見えるようになって)、高橋和巳の文章の味わい深さが少しは身に沁みるようになったのでしょうね。
で、“発掘”したのは高橋和巳だけではなくて、半村良もたくさん持ち帰っています。彼の代表作は『妖星伝』だとおもいますが、これは文庫本で7冊もあります。そのほか「伝説シリーズ」や「闇シリーズ」もたくさんあって、こちらは高橋和巳と違ってお気楽に読めますので、いろいろな読書の合間にすでに八冊ほど再読しました。
そのほかに福永武彦もつい最近、読み直し始めました。彼の作品ではなんといっても『草の花』が有名ですが、読み始めたのは『風土』(新潮文庫、昭和47年)です。まだ半分くらいですが、ゴーギャンを題材とした絵画論を始めとして、日本で洋画をものにしようとすることの困難さや苦悩などが描かれています。それは結局は人生とは何かということに繋がってゆきますから、それはそれで味わい深いものがあります。
でもそれよりも結局は既に失われた若き甘美な日々への憧憬と哀惜とが主題となっているようでもあり(『草の花』をはじめとして福永の作品の多くはそれが主要なモチーフとなっていると私は思います)、主人公の過去のジリジリとこころが焼けるような歯痒さを追体験させられます。こんな感じは多分若いときには抱かなかっただろうとも思います。
それにしてもいつも書いていますが、学生時代に読んだ本の内容はほとんど憶えていません。鮮烈な記憶があるのは、高校生の頃に現代国語の教科書に載っていた有島武郎の『生れ出づる悩み』くらいかなあ。読書は人生を豊かにすると言われますが、これだけ“忘却の河”(これも福永武彦の小説のタイトルです/読みましたが全く憶えていません、がははっ)を流れ去っているからには、なんの役にも立たなかったのでしょうか。そんなことはないと信じたいですけど、どうだかなあ,,,。
わたくしは一度読んだ本は基本的には読み返さないというスタイルで今まで来ました。しかしながら高橋和巳の再読以来、上述のように若い頃に読んだ本を読み直し始めました。音楽にしてもハイファイセットやオフコースをiPodに入れて愛聴しています。かように過去に回帰するのも結局は年齢を重ねて、以前に親しんだモノに安心して寄りかかりたいという保守的な態度からでしょうか。
蘇る建築 (2014年7月22日)
日本コンクリート工学会の7月号の会誌を見ていたら『海のギャラリー』という建物のカラー写真が掲載されていました。鉄筋コンクリートの折板構造でそのコンクリートの厚さはわずかに80mmということです。設計は林雅子先生で1966年の竣工です。
わたしが大学三年生のときの住宅の設計課題のときに、その林雅子先生が非常勤講師のひとりとしてお出でになりました。住宅設計のための参考に、ということでしょうが、林さんのご自宅を皆で見学した記憶があります。建築家の自宅ですからかなり変わっていて、当時としては斬新だったんでしょう。
さて、その『海のギャラリー』ですが会誌の写真を眺めているうちに、どうも見たことがあるような気がしてきました。そして手元の古いアルバムをめくっているとその建物が出てきました。いまから三十年以上も前にそこを訪れていたのです。
大学三年の春休みに建築学科の課外授業として奈良京都見学旅行がありました。それが終わってから柴原利紀(現・建築家)、黒野弘靖(現・新潟大学)、長谷部完司(現・竹中工務店)の三人の同級生とともに建築を巡る旅に出かけました。柴原くんの所有する赤いマツダ・ファミリアに乗っての道行きです(余談ですがこの当時、ハッチバック・スタイルのマツダ・ファミリアがすごく流行っていました)。そのときは九州にある磯崎新、黒川紀章や香山壽夫先生(当時・東大助教授)などの設計した建物を見て回りました。
そのあと彼らとは別れて、当時父親が住んでいた高松に向かいました。そして今度は家の車を自分で運転して、四国をグルッと時計回りに一周する旅に出かけたのです。そのときに四国の西南端の足摺岬に建つ『海のギャラリー』にも立ち寄っていたのでした(すっかり忘れていましたけど,,,)。そこは現在でもとても不便なところらしくて、車じゃないと行けないようなところらしいです。
そのときに撮った写真を載せておきます。なんせ大昔のカラー写真ですから色が褪せてしまっていますが、それを割り引いても、なんだか冴えない感じが漂ってきますね。当時の写真ではご覧のように『貝類展示館』となっていて、『海のギャラリー』のようなおしゃれなネーミングではなかったのかも知れません。
コンクリート工学の会誌によれば、その後、廃館の危機を迎えたそうですが、2003年には近代建築のDOCOMOMO100選に選定されたこともあって、建物を所有する土佐清水市が改修して保存することになったそうです。
その介あって現在も『海のギャラリー』は当初の目的のままこの地に建ち続けています。ただ上述のように不便なところなので来館者は相変わらず少ないようで、保存活用するための苦難は続いているようです。名建築といえどもそれを維持するためにはお金もいるし人手もかかります。
ですから文化的価値が高いと言っても、その建物を顧みるひともいないようであれば、やがては朽ち果ててゆくのが自然の理かも知れません。結局は人間の営みの一環ですから、生まれるものがあれば滅びるものもあるというのは至極当然のことに過ぎないとも言えるでしょう。もちろん建築に携わる人間のひとりとしては、すばらしい鉄筋コンクリート建物がいつまでも美しいままで使い続けられることを望んでいます。
データの流出 (2014年7月17日 その2)
ベネッセの顧客データの流出が大きく報道されていますが、その件に関するお詫びの封書が先日我が家にも届きました。こどもが幼稚園のころにいっとき、毎月送られてくる(子供が喜びそうな)付録満載の冊子をとっていましたので、そのときの顧客情報が残っていたのでしょう。
それを見た家内は憤ってベネッセに電話したそうです、我が家の個人情報をすぐに削除して欲しいと。そうしたら電話の先の相手は何と言ったと思いますか。もう噴飯ものなんですよ、それが。我が家の個人情報を削除したら、今回みたいな情報漏洩があったときに個別に連絡できなくなっちゃうんですけど、それでもいいんですか、とのたまったそうです。
ええっ!これってどういうことなのよ、ってな感じですね。データを削除したのにそのデータが漏洩するって、どういうことでしょうか。ということは、見た目は削除するけど、どこか深〜いところにはデータが残っているということでしょうか。よく分かりません。それともただ単にデータを削除したくない、というだけでしょうか。全く意味不明でして、家内も唖然としたと言ってましたな。ゴチャゴチャ言わないでとにかく個人情報は削除するように再度伝えたそうです。
しかし現在の情報ってヤツは全て電子化されていて、持ち出そうと思えば簡単にできちゃいます。いくらセキュリティのレベルをあげても、そこにアクセスできる人間は排除できませんから(そんなことしたらデータの意味がありませんから)、結局は人間の善意と良識とに依存します。でも皆さんご承知のように、どこにでもそれから逸脱する人種はいるわけでして、このような情報漏洩は無くなることはあり得ません。
そう考えると、重要なデータはなるべく知らせないように自衛するしかないですね。もっとも、役所にある個人情報が漏洩したらおしまいですけど,,,。ただ自衛にも限りがあります。銀行で新しく口座を開設するときに、身分証明書とか免許証をコピーさせろと言われます。わたしはイヤだと言ったことがありますけど、そうすると口座は開設できません。いやいやコピーを許可しましたけど、万事がこんな具合で個人情報って意外とスルスル出ていってしまうものなんですねえ。
おとなの会議 (2014年7月17日)
先日、建築学会の構造本委員会という会議に出てきました。私はその傘下の原子力建築運営委員会の主査なので、自動的に構造本委員会のメンバーになっています。構造本委員会にはたくさんある運営委員会(数えたら13もありましたぞ!)の主査や各支部の代表等が集まります。JSCAや国土交通省からも委員が出ているらしいです。言ってみれば、建築学会の構造関係の管理運営にあたる総元締みたいなところでしょうか。
ただ建築構造学とひと口に言っても(われわれにとっては)分野がいろいろありますので、存じ上げない委員の方のほうが遥かに多いですね。名簿をみたら28人の委員のうちでわたしの存じ寄りはわずかに8名でした(青研の先輩がお二人いるというのが私にとっては心強いです)。ということは逆に言えば、多くの方々にとってはわたしはどこの馬の骨?ってな感じでしょうな。
その昔、若い頃にはこのような「おとなの会議」があることも知らず、その存在を知るようになってからも、そこでどのようなひとがどんな事柄を議論しているのか、とんと無頓着でした。でも、いざ自分がその会議に出るようになってみると特別な感慨もなく、お役目なので出ているようなものでして、むしろ雑用(といっては語弊がありますが、まあボランティアですな)が増えるだけでいいことはあんまりないという気がいたします。
ある程度は経験を積んでいますが年齢と職層とがそのような「おとなの会議」向きになったというだけで、昔ここに列席していたえらい先生方と同じとはとてもじゃないけど思いません。こういう会議に向いているのは、組織のなかでイニシアティブを握ろうとか、自分の思うように組織を動かしたいとかの“野望”を抱いているひとじゃないでしょうか。
でもまあ、そうそう出られる会議でもないし、出たくても出られないひともいるでしょうから、任期中は堅実に務めないといけないよね、などと殊勝に思ったりするわたくしでした。
はじめての教師 (2014年7月16日)
高校野球の東東京地区大会で昨日、わが母校が敗れた相手は安田学園という学校でした。この名前を聞いて懐かしい思い出が蘇りました。それは大学院の博士課程1年生になった頃だったでしょうか、よくは憶えていないのですが、8階(工学部11号館のことです)の坂本功先生(木構造)からある学校の非常勤講師をやって欲しいと依頼されたのです。
そのころは坂本研の大学院生で遠藤さんという方(調べたら現在は工学院大学の教授でした)がその仕事をやっていたのですが、その後任として講師を引き継いで欲しいということでした。それが墨田区横網にある安田学園の夜学の建築科だったのです。坂本先生のお話しは、その学校には教育の権化のような素晴らしい先生(シブイチ先生だったかな?)がおいでになるよ、というような内容だったと思います。
ということで週に一日、夜学ですから夜にその工業学校(?、正式な名称は忘れました)に教師として通いました。本郷からは都バスで一本で行けますが、帰りは遅くなるし家に帰るには不便だったので、自分の車(と言っても家の車ですけど)で行って学校の前の道路に路上駐車したりしていました。学校に登校する学生さん達はみな社会人ですから車で来るひともいて、路駐の情報を聞いたりしたこともあります。
そこではRC建物の構造設計をひと通り教えましたが、教材は学校側が長年使っていたものがあったのでそれをベースとして、主としてRC規準の設計例に沿って説明したように思います。そうした説明のあとに学生さんに自分で設計をしてもらうというスタイルです。
学生さんにはいろいろなひとがいて、年齢も職種もさまざまでした。もちろん私よりもずーっと年長の方もいましたし、私よりも若い人もいましたから、教えるときには結構気を使ったように思います。人数はもう忘れましたけど、十数人くらいだったかな。そんな具合で個人指導をするにはやりやすい人数でしたから、すぐに皆さんと打ち解けて仲良くなりました。
わたくしだってその場では教師ですけれども実体はアルバイトの大学院生に過ぎませんから、そんな年若の世間知らずを「先生」と呼ばなければならない齢を重ねた学生さんにはホントに気の毒だったと思います(当時もそのように申し訳ないなと感じていました)。でもそんな「学生さん」たちと一緒にお酒を飲みに行ったりもして、それなりに貴重な経験を積むことができました。
このように教卓のまえに立って学生諸君に説明するという非常勤講師を二年間つとめて、宇都宮大学の助手として本職の教員になりました。この安田学園・夜学での経験は、分かり易くかつ簡明に教えようというわたしの教授スタイルの母体になったのだと、今にして思いますね。
ちなみにわたくしが安田学園を去るにあたって後任を引き受けてくれたのが境有紀さん(現・筑波大学)でした。
交 替 (2014年7月14日)
サッカーのワールドカップ・ブラジル大会が終わりました。朝起きるとすでに延長戦が始まっていました。両チームとも相当に疲れているように見えましたから、これはPK戦勝負かなとチラッと思いました。でも、ボールを奪ってからトップスピードになるまではさすがに早かったです。
朝ご飯のしたくをしながら見ていましたが、延長後半のドイツのゴール・シーンはたまたま見ていました。決勝ゴールを決めたドイツの選手は22歳ということですから、大学4年生と変わりません。それが一躍スターにのし上がった訳ですから、すごいなあと思いますね。だって、大学のキャンパスを歩いていたらただの学生さんと同じなんですぜ。
で、そのシュートですが、矢のようなクロスを胸でトラップしてそのままボレーでゴール右隅に蹴り込みました。わたしもちょこっとサッカーをやっていたから分かりますが、あんなに早そうなライナーみたいなボールを胸でトラップしてコントロールするのはとても難しいものです。普通にやっていれば堅い胸にぶつかったボールは大きくバウンドしてどこかに飛んで行ってしまい、自分の足元にキープするなんてことは困難ですから。まあ世界レベルのトップ・プロだから出来て当たり前、みたいに皆さん思うでしょうけど,,,とにかくすごいシュートでした。それを見られただけでもラッキーでした。
これでサッカーは終わって、それにかわって高校野球の季節になりましたな。すでに東京地方では地区予選が始まっています。で、わが母校の都立A高校は今日が初戦でしたが、私立の強豪高相手に残念ながら2-12で6回コールド負けを喫しました。いやあ残念です。でも頑張った選手諸君の健闘を讃えたいと思います。
わたしが高校3年生だったときには4回戦まで進出して、学校の向いの神宮第二球場で試合をすることになったので、受験勉強そっちのけで応援に行った記憶があります。相手は確か早稲田実業だったと思います(早実は当時は東東京地区に所属していました)。もちろん(?)負けましたけど、大学野球の応援みたいに双方がエールを交換したことを憶えています。
というわけでこれから8月のお盆あけまで、高校生諸君の白球を追った熱闘が繰り広げられることになります。熱く(暑く?)なっている選手諸君には悪いですけれども、クーラーの効いた部屋で冷やした吟醸酒でもチビチビ飲みながら楽しもうと思っています。それもまた善きこと哉、です(なんのこっちゃ?)。
台風ののち (2014年7月11日 その2)
夜のうちに台風が過ぎ去ってくれてよかったです。幸い、我が家の周辺ではそんなに激しい雨も降らず、台風一過の青空が広がっています。その代わりと言ってはなんですが、陽射しが強くてべらぼうな暑さになりそうな感じですね。まあ贅沢は言ってられませんけど。
さて、西川孝夫御大が免震構造協会の会長を退かれました。結構活躍されていたし、まだまだお元気ですからもっと続けようと思えばできるでしょう。でも西川先生ご自身が考えるところがおありだったのだと思量いたします。西川先生、長いあいだご苦労様でした。
で、西川先生の免震構造協会でのご尽力に感謝する会が今晩都心で開かれる予定です。台風が去ってこれで心安んじて宴席に連なることができようというもので安堵いたしました。わたしは免震構造協会では原子力免震建築関連の委員会の委員長を務めているだけでほとんど貢献していませんが、大学では西川先生の後任がわたしということで慰労会に呼んでいただいたのかなと思っています。
現代の高等遊民 (2014年7月11日)
高橋和巳の『現代の青春』ですが、きのう車中で読んだところに“電車に乗って揺られていると天啓の如くにアイディアが湧き上がってくる”とあって、そのような貴重な空間で読書をしているひとが理解できない、という趣旨のことが書かれていました。なんだかなあ〜、そう言われてもこの本を電車内で読んでるんですけど、わたくし。どうしたもんでしょうか,,,。
で、昨日触れた高等遊民です。このページを見てくださったさる方がご自分のページで自分は高等遊民だったことに気がついたとお書きになっているのを見て、びっくり仰天しました(そのページには“高等”のあとに?印がついてましたけど)。
だって高等遊民は昭和20年の太平洋戦争の終結とともに絶滅したとばかり思っていたからです。それが現代のそれも身近なところに“生息”していたことが分かって驚いたのです。おまけにそのひとは「こころ」の先生のようにブラブラしているわけではなく、精力的にお仕事をしている(と世間では思われている)方です。それなのにどうして高等遊民なんだろう?
でもよく考えたら、そもそも高等遊民とは精神のあり方に大きく依存するので、表面はどうであれ自分自分の心底でそうだと思えるのであれば、それは現代の高等遊民であると言ってもよいのでしょうね。その方の“高等遊民”が、時代の転換期にさしかかった現代において共有可能な価値観の喪失やパラダイムの再構築と関係があるのかどうか、わたしには分かりません。
しかし少なくとも漱石の生きた時代には西洋の新しい文明が怒濤のように日本に流れこんできて、それまでの日本文化のアイデンティティが根底から覆されました。そして心あるひとは(それが当時の高等遊民だったと思うのですが)根無し草になってしまうことへの不安を抱えながら、異なる二つの文明の相克に苦悩したのだと思うのです。
そのように考えると、明治期と現代とは不安定で揺らいでいるという点でよく似ています。このような時代に生きて人間や人生について深く考え、生きることの意味を真摯に探求するひとほど、現代でも高等遊民になる可能性があって、そのひとりが彼なのかなあとぼんやりと思った次第です。では翻ってわたし自身はどうなのかということについてはまたいずれ書きたいと思います。
高等遊民 (2014年7月10日)
このあいだ夏目漱石の「こころ」について、先生と呼ばれる超エリートが仕事もせずにブラブラしているのが不思議だと書きました。ちなみに朝日新聞の100年ぶりの連載はまだ読み続けています(我ながら忍耐強いと思います)。
これとは無関係ですが、今、高橋和巳の『現代の青春』(旺文社文庫、昭和52年)というエッセイ集を電車内で読んでいます。若い頃に読んでいた文庫本を実家で発掘したので、例によってもう一度読んでみるかというあんばいです。本の最後にわたし自身が書き付けたメモによれば高校2年生の冬に読了していました。おそろしく昔のことですな。
ちなみに本のタイトルに“現代”とありますが、書かれていることは相当程度に普遍性がありますので、四十年近く前の“現代”だということを感じさせません。
さてそのなかに「夏目漱石における近代」という小論が載っていました。そこで「こころ」の先生のようなひとを高等遊民と呼んでいることを知りました。なるほどなあ、ってな感じです。高橋和巳によれば「こころ」だけでなく「三四郎」や「門」などの漱石の作品群には日本の近代化の担い手であったインテリゲンチャの悲劇性がよくあらわれていて、それはとりもなおさず漱石自身の苦悩の軌跡でもあるそうです。
帝国大学で教育を受けたエリートが物事を深く考えて突き詰めた結果、社会の抱える矛盾とか自己の為すべきことの虚無性とかに気付いてしまって、なにごとかを為そうという気概を失ってしまう、というのが高橋和巳のいう“インテリの悲劇”なのかなとわたしは解釈しました。
明治維新以降の急激な西洋化あるいは近代化がもたらした様々なひずみやゆがみに、誠実が故にはまり込んでしまった憐れなインテリ、そういう(恵まれているが故にそういう境地に到達してしまった不幸な)インテリを高等遊民と呼ぶとは、なかなかに素晴らしいネーミングだと思いました。
注; 「高等遊民」をネットで検索するとぞろぞろ出てきます。それによれば明治末期から昭和の初めにかけて使われた用語らしいです。ということで「高等遊民」は高橋和巳の造語ではありませんでした。ただし高橋がこの漱石論で使った「高等遊民」の意味は当時一般に受け取られていたそれとは明瞭に異なっているようです。そういえばわたくしが大学に入学した頃、野田秀樹の主宰する劇団名に「夢の遊民社」というのがありました。“遊民”ってここから採ったのかな?
石を金に (2014年7月9日)
学士会会報を読んでいたら『石を金に変えてはいけないわけ』(武田雅哉著、第906号、2014年)というお話しが載っていました。中国の仙人が石を金に変えて飲み屋の支払いをしました。その金貨は五百年後にもとの石に戻る、ということを聞いた神様が、君は五百年後にそれを手にしたひとがどれほど辛い目にあうのか考えないのか、と非難しました。それを聞いた仙人はこれはいけないと悟って、その後は石を金に変える術を使わなくなった、という小話です。
これは2011年の地震によって発生した原発事故を踏まえて、それでもなお原子力発電を使い続けるのか、という寓意を含んでいることが読んでいるうちに分かりました。確かに原子力発電によって生じた放射性廃棄物の処理は進んでおらず、未来の世代にツケとなって残ります。今を生きるわたしたちが幸福を追及することによって、子孫たちが苦しむようなことがあってはなりません。
そのことはよく分かっています。ただ現在の技術ではすぐに解決できなくても、将来の科学技術の発展によって解決できるということもあるはずです。人類の歴史にはそのようなブレイク・スルーがたびたび起こって、文明がここまで進歩したというのもまた事実なのです。
すなわち、石を金に変えてもぼやっとしていればそれは五百年後にはまた石に戻ってしまいますが、それを金のままであり続けるように努力すれば、永遠に金のままにすることも可能な場合がある、ということです。それを可能にするのはひとえに人類の叡智にほかなりません。問題解決に向かって私たちが不断の努力を傾けることによって道は拓けるのです。
著者の武田さんは北海道大学の先生だそうですが、昔、仙人になりたかったのに未だに仙人にはなれないでいる、というふうにその小文は終わっています。仙人にはなれなくても、世のためひとのためになるようなお仕事はされて来たのではないでしょうか。ですからつぎは、金になった石の行く末について是非ともお書きになっていただきたいと思いました。
七夕と師匠と (2014年7月7日)
今日は七夕ですが、台風8号が近づいているせいか、あるいは単なる梅雨のせいか、小雨まじりのどんよりとしたあいにくの天候でした。子供が幼稚園の頃には短冊に願いを書いて笹の葉にくくり付けたりしましたが、いまでは特段の行事もなく平穏に暮れてゆきました。
さて,折に触れて英語の教育について書いていますが、小学校の英語を正規の授業に格上げして5年生および6年生に勉強させようという動きがあるそうです。全くもって誰がそんなろくでもないことを考えているのか迂生はトンと知りませんが、英語を神仏のように崇め奉るのもほどほどにしてくれと言いたくなりますな。
英語を自在に操って世界で活躍できる人材を育てるというコンセプトには反対しません。ある一部の人たち(エグゼクティブとかセレブとか言われる人々)にとってはそれは必須の能力であることも認めます。でも、だからと言って、母国語である日本語をまだ満足に操ることもできない児童に外国語を教えようという、その発想が理解できません。
自分の国の言葉を理解するとともに母国の文化や歴史についてある程度知った上でなければ、他国の言葉や文化に興味を持つことはできないし、あまつさえそれらに対して尊崇の念を持つことは難しいと思います。そのような未熟な状態で英語を勉強させることにどれだけの意義があるのか、さらには勉強の効果が上がるのか、ちゃんとした調査なり何なりの裏付けのある説明をしていただきたい。
と、まあ英語についてはこんなふうに考えるわけです。ここから先はわたくしのことです。これもよく書いていますが、私にとっては高校のときの担任だった内藤尤二先生から教わった英語が現在までの基礎となっています。そして大学のときの師匠である小谷俊介先生からは英語で研究論文を書くことの基礎を教わりました。
最近、小谷俊介先生と鉄筋コンクリート梁部材の耐震性能評価に関してメールのやり取りがあって、小谷先生の作成された英文の文書を送っていただきました。小谷先生の英文は私にとってはいつでもお手本となったもので、その英文の簡潔で明瞭なことといったら昔のままで、切れ味の鋭い日本刀のような凄みさえ感じました。いやあ、到底そのような境地には到達できそうにもありません(当たり前か)。
こう書いているうちに思い出しました、大師匠である青山博之先生にも英文を添削していただいたことを。それは私が大学院に入ってM1になった年の夏頃だったと思います。アメリカのImperial County Services Buildingの耐震診断をやって、その概要を英文でまとめて下さい、というものでした(調べてみたらこの建物は1979年10月の大地震によって大破したものでした)。
これは青山先生が外国での会議かなにかで発表されるための資料で、当時の青山・小谷研究室ではそういった先生がお使いになる資料や発表用のスライド・コンテンツなどは研究室の大学院生が主体となって準備していました。このときは私を含めて三名のM1がこの作業を依頼されましたが、英文作りはほとんど私が担当した記憶があります。
耐震診断ももちろんこのとき初めて目にして、その基準書を見ながら必死で計算して(当時はもちろん手計算です)、それを英文にしました。今から思えば相当にひどい英語だったと思いますが、青山先生はいつものようににこやかな表情のまま、(当時はまだ手書きだったと思いますが)わたしの原稿をどんどん直して下さいました。
そして最後の結論のあたりで「北山くん、hitherto という言葉を知っていますか、ここにはこれを使いましょう」と青山先生が仰ったことをどういうわけか鮮烈に憶えています。もちろん” hitherto”などという単語は知りませんでしたが、このとき以来、ときどき使わせていただくようになったのは言うまでもありません。
このときの作業ファイルが保管されていたことを思い出しました(上の写真の分厚いファイルです)。今はすっかり忘れていますが、その作業は結構大変だったのでしょうね、捨てるには忍びなかったのだと思います。そのなかに青山博之先生の手書きの赤入れが残っていました!なんだか奇跡のようです。三十年前の自分に出会ったようで気恥ずかしいですが、以下にその草稿を載せておきます。
こんなことがあってから、今度はニュージーランド・アメリカ・日本三国による柱梁接合部セミナーが開かれることになり、そのための英文レポート作りが実験担当者になったわたしに課されました。その頃にはまだ博士課程に進もうとはちっとも考えていませんでしたが、こうやって一所懸命に英文を作っていたことが多少は認められたのか、博士課程に進んでもよろしいというお許しが出て、これが現在のわたしにつながって行ったのです。
七夕の日に英語のことを考えているうちに、いつしか師匠の英語へと話題は移り、最後は昔の自分のことになってしまいました。これって結局、英語は大事だよ〜ってことでしょうか、そんなことを言おうとしたわけではなかったのですが,,,。
また始まる (2014年7月5日)
七月になってまた某学会のコンクリート技士研修会が始まり、その講師として講演してきました。私自身は鉄筋コンクリート系建物の耐震性能を研究している人間なので、コンクリート材料の物性を専門としているわけではありません。
そんな人間が日々コンクリートを扱っている専門家たちにコンクリート材料についての講義をする資格があるとはとても思えません。もちろん研修会のための立派なテキストがちゃんと作られているのですが、その内容ははっきり言って私にとっては全くもってファミリアではないわけです。
でも、テキストを棒読みするだけの講義ほどつまらないものはありません。そんなことを求められているとも思いませんので、わたくしだからこそできる講義をやってきました。まあ簡単に言えば、木造や鉄筋コンクリート造の建物の地震被害の様相と簡単な力学、そして来るべき東南海地震をどうやって迎えるかというような話しです。そのような完全オリジナルな講演ですから、コンテンツは全て自分で準備しました(テキストを説明するためのパワーポイントは研修会の委員会で準備して下さっていましたが、上述のような次第なので全く使いませんでした)。
聞いていらっしゃる方々にとってははた迷惑で知識の押し売りかもしれないのですが、会場を見渡したところ寝ている方は見られませんでしたので、それなりのインパクトをもって受け入れていただけたのかな、とは思います。
で、講演が終わってから、三十代くらいの男性がわたしのところにやってきて、画面にあった小学校のなまえの漢字が間違っていますと教えて下さいました。それは茨城県内にあって2011年の地震で震度6強を観測した小学校だったのですが、その方はなんとその学校の卒業生だったのです。世間は意外と狭いということを実感した研修会でした。
似ている (2014年7月3日 その2)
日本の国がついに戦争に巻き込まれるかも知れません。そんな事態が対岸の火事ではなくなりました。A倍首相がついにやりました、解釈によって平和憲法をねじ伏せたのです。今まで歴代の自民党内閣でさえ、そんなことはしませんでしたし、たとえやろうと思ってもできなかったことを、いとも簡単に乗り越えたのです。
ここにいたるまでに、もちろん最初は憲法第9条自体を改憲しようという正攻法を試みて頓挫しましたが、その後に方針転換してからは相当スムーズに事が運んだように見えます。とにかく野党はだらしがないですな。これに反対するような声はほとんど聞こえてきませんでしたから。
なぜA倍首相はこのような暴挙を達成できたのか、そんなことを考えています。つらつら考えるに、このひとは常に情緒的なことを強調して唱えてきました。「日本を取り戻す」とか「美しい国へ」とかいった類いの言説です。これらが一体なにを言いたいのか、受け取るひとが自分の好き勝手に解釈できるというのが、A倍首相にとってはうま味であるのでしょう。彼自身の本音は隠しながら、耳障りよく一般民衆に伝わってゆくからです。あれれっという感じで、ここまですんなり来てしまったように思えます。
そこには卓抜したアジテーターとしての彼一流の話法が感じられますね。でもそれって、どこかで見たような光景です。そうです、ナチス・ドイツが台頭するきっかけとなった独裁者・ヒトラーそのひとにほかなりません。はじめは一般大衆のための政治をとなえて民心を掌握した彼が、その後何をしたかは皆さんご承知の通りです。
願わくば、日本の現在の宰相がそのようなみちを辿らないことを祈ります。太平洋戦争という過去を認識してさえいれば、そのような事態になることはないと思いますが、相当に心配ですね。先日も書きましたが、ここから先はわれわれ市井のひとびとの良識におおきく依存しています。それが大きな声となって政治家たちへ届くよう、努力しなければならないでしょう。
基礎ゼミナール通信3 (2014年7月3日)
さて、第12回の基礎ゼミナールの授業です。いよいよ終わりが見えて来たこの日は、今までの調査結果を中間発表としてまとめてパワーポイント4枚以内で発表してもらいました。履修者数は18名ですが4名が欠席して、1名は準備ができずに発表しなかったので、結局13名が発表しました。
討論を活発にするために座席を三つのグループに分けて、発表ごとに各グループが最低ひとつは質問するように言い渡しました。そうすれば(やむを得ずとはいえ)討議が交わされると意図したからです。
ところがや〜っぱり質問が出てきません。そんなに意固地になって質問しないと授業が終わらないよと言ってみても、皆さんだんまりです。なんとか学生諸君を促して質問させるのはもう大変でした。質問が出ないあいだ、わたしが勝手に質問したり、しゃべったりして間をもたせないといけないのも困りました。
そんな具合ですから、時間だけがどんどん過ぎてゆきました。でもこちらから言い出した手前、質問無しでは発表を終わりにするわけにもゆかず(半分は後悔したのですが)、結局13名の発表が終わったときには授業の時間を40分近くもオーバーしていました。ただそんな状況でしたが、なかには立派な質問をするひともいて、そのことには関心しましたし、一条の光をみた気がして救いを感じました。
で、驚いたのですが、この日から教室にやっと冷房が入ったのは良かったのですが、正規の授業時間である午後4時10分を過ぎたところで、なんとその冷房がパッタリと止まってしまったのです。教室にあるリモコンには鉄のケースが付けられていて、そこには鍵がかかっているために誰も触れません(学生さんのみならず教員たるわたくしも、です)。
討論は低調だし、教室はどんどん暑くなるわ、空気は悪くなるわで、もうホントに悲しくなりましたね。なんでこんなにまでしてアクティブ・ラーニングを実践せにゃならんのでしょうか。笛吹けど踊らずとか、水を飲みたがらない馬には飲ませることはできないとは、まさにこの状況ですな。
愚直なまでに真面目に基礎ゼミナールに取り組んでいる迂生が、ほとほとバカのように思えてきました。でも教員がそんなことを言ってはせっかく履修している学生諸君も不幸ですから、気を取り直してあと3回の授業に臨もうと思います。でも受講している諸君の奮起も必要だと思いますけどね,,,。
新潟地震から五十年 (2014年7月2日)
ちょうど五十年前の1964年6月にマグニチュード7.5の新潟地震が発生しました。このとき、砂地盤の液状化によってインフラ・ストラクチャーや建物の被害が多発して、そのことが都市災害に対する大きな問題を提起したのでした。
先だっての報道が、このときの新潟市内の被害の様子を撮影した写真が「再発見」されたことを伝えていました。貴重な写真なので見てみたいなあと思っていたのですが、このたび日本地震工学会がその写真と関連する地図やコメントを公開しました(こちらです)。
写真を撮影した方は竹内寛(たけうち ゆたか)さんで、1964年の新潟地震当時は新潟明訓高校の3年生だったそうです。その写真はまず母校の様子から始まっていました。校庭内の噴砂の様子や信濃川護岸の崩壊など興味深い写真が満載で、食い入るように見続けてしまいました。是非、ご覧下さい。
現在でこそ、地震災害時の避難訓練などは熱心に行われていて、学校であれば先生方の初期対応もマニュアル化されているでしょう。でも当時の様子を見ると、先生が率先して生徒を避難させたようには見えません。思い思いの方角に逃げて行ったようです。浸水深は低かったとは言え津波も来たのですから、初期避難が重要であったことは明らかです。
五十年前ですから、車の数は明らかに少ないようでした。道路に放置された(あるいは地割れに突っ込んで傾いた)車が随所に写っていましたが、現代であればそのような車が道路に溢れて、避難や緊急自動車の通行に支障を来すであろうことは想像に難くありません。
地盤の液状化による建物の傾斜等の被害は2011年の東北地方太平洋沖地震でも多くの地域で出現して、ひとびとの生活に多大な悪影響を与えました。そういう点では五十年前の教訓は残念ながら活かされていなかったわけですが、避難のあり方は少しは進歩したのではないでしょうか。いずれにせよ往時を偲び、そこから得られる貴重な教訓を今一度噛みしめてみること、それこそがいま必要であると思いました。
七 月 (2014年7月1日)
七月になりました。梅雨らしくどんよりとして、憂鬱な天気が続いています。梅雨だからしかたありませんが、天候不順のこの頃は例年、だいたい調子が悪くなります。今年は大丈夫かなあと思っていたのですが、やっぱりダメでした。どこが悪いというわけでもないのでしょうが、わけもなく疲れますな。夜、仕事が終わった帰り道、駅を降りると歩くのがしんどいです。
さて川嶋くんの実験ですが、六月末に終わった(よう)です。何も報告がないので正確には分からないのですが、私が見に行ったときにはあと少しで終了と言っていましたから。そのときに撮った記念写真を載せておきます。たまたまアシスの村上雄四社長がおいでになったので、特別ゲストとして入っていただきました。
三月末に試験体を大型実験棟に搬入してから随分かかったような気がします(途中でほかの実験を強引に差し込んだのでやむを得ない面もありました)が、とにかく無事にけが人もなく実験を終えることができてよかったです。これから実験データを分析して、先輩方に負けないような立派な論文に仕上げて欲しいですね。
昨日、ある会議でお会いした某部長さんが、おもしろい趣味を披露してくれました。出張や旅行で行った先々のローカル郵便局で小額の貯金をして、そのときのスタンプを集める、というものです。その成果である貯金通帳を見せて下さいました。なんの変哲もない(面白味のない)文字だけのものが多いですが、なかにはご当地の名産をあしらったり、名勝を描いたりした楽しいスタンプも多々ありました。私の大学のある南大沢郵便局もあってびっくりしました(これは単なるスタンプで、つまらないものでしたけど)。
授業に臨む (2014年6月26日)
たびたび書いている『建築構造力学1』の授業ですが、今年はカリキュラムの大改訂によって今まで2年生対象だったものを1年生対象へと降ろしたため、今年度だけは1年生と2年生との2学年合同の授業になりました。そのため、毎回120名近くの学生さんの出席をとっています。
いまは応力図の作成を伝授するシリーズで、だいぶ慣れて来たので白板での説明は40分くらいで終えて、あとは演習の時間にしています。残りの50分を有効に使ってもらって、分からないところは個別に質問してもらおうという趣旨です。なので私自身は内職をすることなく、ず〜っと教室内を動き回っています。
ところが何度言ってもわからないヤツはいるらしく、演習途中でエスケイプする学生がいるんですね〜。それも、授業の内容を十分に分かっているならともかく、できなくて演習を提出しないような学生さんに多いようです。こちらが親切に(って恩着せがましく言うのもどうかと思いますが)サービスしようと言っているのに、その親心が分からないのでしょうか。なんだか心底、悲しくなります。
でもそうやって教室のなかを回っていると、いろいろと質問してくれて、その度に迷える子羊(学生さんのことです)のひとりを救済できるので、とても嬉しくなりますね。そうやってひとりづつ、地道に分からせるようにしないといけないのは手間はかかりますが、結局、教育ってそういうもんだろうと思って納得しています。
授業が終わったらすぐに教室から出て行くのはよくない、ということがバークレーの授業改善アイデア集に載っていましたので、最近は授業終了後も三十分近くは教室に残って皆さんの質問に答えるようにしています。そうやって相手の疑問を丁寧に聞いていると、それぞれ分からないところが違っていて、そんなことが分からなかったのか!とこちらが驚くこともしばしばです。でも大抵の場合には、ちゃんと講義で説明していることなんですけどねえ。とにかく辛抱強く、同じことを何度でも繰り返して教えることが大切なんだと思いました。
実 力 (2014年6月25日)
ワールドカップ第三戦のコロンビア戦が終わりました。残念ながら1−4で敗れて一次リーグ敗退となりましたが、前二戦よりもいい試合だったとわたしは思いましたね。朝起きたときにはもう後半が始まっていましたが、そのときには1−1の同点でした。かなり攻め込んでいたし、ゴール前での決定的なチャンスも何度かありました。
で、テレビ中継のはなしです。サッカーのテレビ中継など見ることはまずないのですが(ほぼ四年に一回くらいかな)、解説者がひどいですね。あれじゃ解説者じゃなくて、熱狂的な日本ファンとしか言いようがありません。「カウンターはしかたがない、もう腹くくって攻めましょう」とか「おい、ファウルだろうっ!!」とか、もうこれじゃ信仰に近い感じで、聞くに堪えませんでした。日本のサッカーは進歩しているのでしょうが、それを解説するひとのほうを何とかしてくれ、と言いたくなったワールドカップでした。
これは勝負の世界ですから負けるのは仕方がありません。運がなかったと言うひともいるようですが、運も実力のうちですから、力の差はあったということでしょう。多分そういうことはプレーした選手たちが一番よく分かっているはずです。彼らは実力の世界でのし上がってきた、まさにプロなのですから。全力でプレーした彼らをねぎらってあげようではありませんか。
あるお祝い (2014年6月24日)
先週後半、岸田慎司さん(芝浦工業大学)の教授就任のお祝いをしました。ごく親しい人たちだけのこじんまりとした集まりです。岸田さんは東京都立大学時代の北山研究室における三代目の助手でしたが、本学が首都大学東京となる直前に栄転しました。本学のそこに至る状況と統合後のゴタゴタを考えると、とてもよいタイミングだったと思っています。
若くして教授職についた岸田さんですが、これからは大学運営や社会貢献などにかなりの時間を裂かないといけないでしょうから、これを好機として仕事のマネジメントを見直すことをお勧めします。なんといっても時間は誰にでも平等で、ひとり一日24時間は変えられませんからね。こんな具合でどんどん忙しくなるでしょうが、これからの益々の活躍を期待しています。
岸田さんが教授に就いたことで、北山研究室でかつて助手を勤めて巣立っていったお三方(あとのお二人は李祥浩さんと小山明男さん)は全員が母校の教授となりました。よくこのページで書いていますが、皆さん優秀な方ばかりでそのときどきの我が社の研究・教育に力を尽くしてくれました。そんな彼らにはいつも感謝していますし、彼らのことは私にとっては誇りでもあります。そういう貴重な人材を得ることができたのは、半分は偶然ですが、残りの半分は必然だったと自負しています。
さてそのお祝いの会で、栃木県の『大那 特別純米 夏の酒 蛍』という地酒を飲みました。一合950円でした。ネットで調べると四合瓶が1500円ほどでしたから、飲み屋で飲むとやっぱり高いですな。でもそんなに辛くなく、香りもよく(吟醸酒といってもよいでしょうね)おいしかったので満足です。
(写真は狛江にある秋元酒店のHPより)
なぜ戦争を‥‥ (2014年6月23日)
今日は太平洋戦争での沖縄戦が終結したとされる日です。もちろんこの日以降も旧日本軍による個別的戦闘と沖縄の人々の苦難とは終戦まで続きました。日本固有の国土で戦われたこの悲惨な戦争から今年で69年、沖縄を始めとして日本各地には未だに米軍基地が多数残っており、戦後は未だに継続しているというのが現実です。
さて日本国の現在の政府はとにかく戦争をしたくてしかたがないように思います。あらゆる理由(というか、屁理屈)を動員して、海外での戦闘に参加しようとしています。日本の自衛隊は外国から見れば紛れもない一流の軍隊ですが、それでも今まで海外でひとを殺すような戦闘に遭遇したことはないと聞き及んでおります。
自衛隊が大地震とか水害のような災害時には大挙出動して、救難活動とか復旧活動に尽力していることは誰もが知っています。そのような人助けのための「軍隊」であるならば、市井の人びとも大歓迎だと思います。
そのような(今のところは)平和的組織に対して、どうしてそんなに戦争をさせたがるのでしょうか。A倍首相が声高に主張している事柄はどれも極めて情緒的で、ロジカルな議論にはなっていません。まさか本気で殺し合いがしたいとは思いませんが、自分が唱えていることが結果としてはそうなることに気がつかないのでしょうか。
靖国神社で英霊に参拝するならば、そのような英霊がなぜ誕生しなければならなかったのかという日本の歴史にも思いをいたしていただきたい。少しでもそういう思考があれば、海外で戦闘行動に参加するなどという発想は生まれて来ないはずでしょう。
武力に対しては武力で、という発想はもはや二十世紀の遺物です。そんな帝国主義の亡霊からはおさらばしましょう。そして全世界の信義に信頼した地球社会を目指した真のコスモポリタンになることが、二十一世紀にはふさわしいと思います。
結局、A倍首相の狂躁を食い止めるためには、つぎの選挙で国民全体でノーを突きつけるほかなさそうです。それができるかどうかは、われわれの正常な感覚の発動次第ということになりますね。
ぶっといマジック (2014年6月19日)
ここのところ、梅雨のあい間のお日様が出ています。さて、学部の『建築構造力学1』の授業ですが、120人近い学生諸君を収容できる大教室でやっていることは以前に書きました。
で、白板にマジックで板書するのですが、後ろのほうの学生さんが見えるように大きく太い線で字とか図とかを描かないといけません。これが予想以上に大変です。このことを同僚の高木次郎さんに話したところ、事務室でぶっといマジックを買うように手配してくれました。というわけで、今はそのぶっといマジック(黒、赤、青および緑色の4本)を講義のときに毎回握りしめて教室に向かいます。
ところがぶっといのでインクの消費量も想像以上に早いということが分かりました。具体的にいうと常用する黒マジックは約1時間板書するとインクが無くなっちゃいます。ええっ?、もうなくなったの!っと感じるくらい早いです。カートリッジ交換式のマジックですが、さすがに授業中にそれを換えている時間はありませんので、仕方なく黒色は2本常備しています。
マジック本体とインク・カートリッジをもっとでかくして欲しいと思いますが、多分、私のようなハード・ユーザーはいないんでしょうね。なんといっても、講義で使うのはパソコン経由のパワーポイントに移行しつつあり、白板(黒板)を使っている先生は減って来ているでしょうから。
こころ考 (2014年6月17日)
朝日新聞の朝刊に夏目漱石の「こころ」が連載されています。なんでも百年振りの再登場らしいです。「こころ」は中学校のときの教科書に一部が掲載されていて、それに触発されて全部読みました。でもその内容は全く憶えていません。
そこでせっかくですから、その連載を読んでいます。今日は「先生の遺書」というセクションの41回目でした。で、ここまで読んできましたが、はっきり言っておもろーないです。「先生」というのがどうやら帝大出のインテリらしいのですが、何の仕事もせずのらくらと暮らしていて、なんだろうこのひとは?っていう感じで、とってもイライラしますね。
明治時代の帝大出は今とは比べものにならない超エリートですから、そんな人物がお国のお役にもたたずにブラブラしているっていう設定がわたしにとっては理解の外です。それともそういう生き方が当時のインテリの粋と考えられていたのでしょうか。あるいはインテリが内面に抱える憂鬱をあらわしているのでしょうか。
また主人公の「私」も同じく帝大の学生のようですが、その「先生」に腰巾着のようにベタベタと付きまとっているのです。その理由がまた(小説を始めから読んでいるにもかかわらず)全く理解不能なので、読んでいてさらに欲求不満は募ります。
もちろん大部の小説ですから、壮大な構想のもとに登場人物が配されてそれぞれ描写されているのでしょうが(なんたって文豪の作品ですからね)、ここまで読むのは相当に苦痛でした。百年前の読者がどのように感じていたのか、知りたいものです。でもこんな感じの小説じゃあ、一日ごとに読者が減って行ったのではないかと思うんですね。とにかく「こころ」は新聞小説向きでないことを確信いたしました。
かように不満タラタラなのに翌日になるとまた読んでいる、これってどういうメカニズムでしょうか。ここまで読んだんだから、絶対最後まで読んでやる!みたいな意地でしょうか。もっと面白い小説ならごまんとあるでしょうから、いやならやめていいんだよと漱石先生にささやいて貰いたい気分ですぜ。
今年の飯盒炊さん (2014年6月16日)
この日曜日、子供の学校で恒例の飯盒炊さんがありました。本当は先週末の予定でしたが、ものすごい雨降りでしたのでこの日に延期になりました。でも皆さんご承知のようにこの日の朝はサッカー・ワールドカップの初戦(対コートジボワール)があって、それを見たいなあとは思いましたが、まあ仕方がないので小学校へ行きました。
で、行ってみてビックリしたのですが欠席者が続出で、グループ編成が急きょ変更になったりしていました。私のグループもある一家4名が結局姿を見せず、今年もまたお父さんは私ひとりと相成りました。多分皆さん、エアコンの効いた涼しい室内でワールドカップを見ていたんでしょうな。結局わたしのグループは三家族七名プラス先生一名の計八名という小所帯となりました。
父親はかまどの組み立てから、火の管理やご飯の炊き具合のチェックなどを任されますから、ひとりだととてもつらいんですねえ。特にこの日のような炎天下だと、火のそばはそりゃもう炎熱地獄といった様相を呈します。本当だったらそのときの写真をとってこのページに貼り付けたかったのですが、そんな余裕はありゃしません。
そんなふうに苦労してご飯を炊きましたが、今年は上手くゆきませんでした。三つの飯盒のうちひとつは火に掛けているうちにちゃんと水蒸気が噴き出してきて、うまい具合に炊けました。ただ残りの二つは蓋がかたかったせいか、蓋がカタカタいう合図もなかったし、水蒸気も噴きまけてこなかったのでおかしいなと思っているうちに結構な時間が過ぎていたので、これはまずいかもと思って飯盒を火から降ろしましたが、結局はあとの祭りでした。下のほうは真っ黒焦げに炭化していて、八合炊いたご飯の二合くらいは食べることができずに捨てるハメになったのはとても残念でした。昨年はご飯をうまく炊けたのはビギナーズ・ラックだったんでしょうか?
便利な現代では普段はスイッチひとつで美味しいご飯が炊けるわけですが、人間の経験とカンとが頼りの飯盒では(素人のわたしには当然ながら)そんなに上手くゆくはずもありません。家内は普段食べている「ゆめぴりか」というお米を持ってきたのですが、勿体ないことをしたなあと悔やんでいました(所帯臭いうえに、みみっちくてすみません)。
そのかわりといっては何ですが、カレーのほうは今年は美味しくできました。水分の量とカレー粉の量とがよいあんばいだったみたいです。そんな飯盒炊さんでしたが、汗だくになって皆さんで協力してつくったカレーライスですから、それなりにおいしくいただくことができました。
そうやって一所懸命に飯盒炊さんに格闘していたので、ワールドカップのことなどすっかり忘れていました。その場に参加したひとのどなたもサッカーの話しなど全くしていませんでしたから、そもそもワールドカップに興味のない人びとが集まったということなのかも知れません。
帰宅して、どうなったかなあ、日本は勝ったかなあとワクワクしながらニュースを見ると1−2で負けたことを知りました。残念だったね、でも、ああそうか、というくらいで特段の感慨もなく、火照って疲れたからだを休めたのでした。
大学のなまえ (2014年6月13日)
私のいる大学のなまえですが、2005年に都立四大学が統合されたときに、I原S太郎・元東京都知事によってなかば強引に決められてしまったことは以前にこのページに書きました。われわれ教員へのアンケートでは従前の「東京都立大学」を継続する案が多数でしたが、いつのまにか「首都大学東京」となったのです。
で、この新しい大学名を学生がどう思っているのか、昨日の全学・教務委員会で配布された「平成25年度 学生生活実態調査報告書」という180ページにわたる大部の報告書のなかに記載がありました。
それによると約3900名の回答者のうち、このなまえを気に入っていないと答えたのは51%で、「気に入っている」と答えた14%を大きく上回っていました。その理由は学生さんらしく「知名度が低い」、「就職活動に不利」などで、「大学のうしろに東京があって不便」というのもありました。これについては私も同感です。
たとえばこのなまえに「大学院」を続けてみて下さい。そうすると「首都大学東京大学院」となりますが、はじめて見る人は「ああ、東京大学院か、東大だな」と誤解したりする訳です。そもそも一般のひとにとっては「首都大学」のあとに「東京」がくっついているとは予想しませんから、そもそもピンと来ないんでしょうな。
実際、わたし自身が自分の所属をいうときにも「首都大学東京の北山です」というのですが(仕方ありませんね)、この「東京」というのがどうにも言い難いんですねえ。首都?、東京?、なんだろうって、これを聞いたひとたちが首を傾げているようなときには、さらに「昔の都立大学です」などと付け加えるハメになったりします。
こんな感じですが、学生諸君の80%以上(「どちらともいえない」を含む)もこのなまえを気に入っていないのですから、この際、再度アンケートでもなんでもやって、わが大学として相応しいなまえに改めてはどうでしょうか。東京都知事も替わったことですし、よいタイミングかもしれません。
基礎ゼミナール通信 2 (2014年6月11日)
毎度ですが、全1年生対象の必修科目である『基礎ゼミナール』のおはなしです。この日は第9回の授業がありました。課題図書の読み込みが終わって、本格的にテーマを設定してこれからの調査・探訪へと向かう第一歩の授業です。
学生諸君にこれからやりたいテーマをパワーポイント二枚で説明してもらったのですが、それだけでは盛り上がらないこと必定でしたので、この日は三グループに分かれて課題設定マッピングにトライしてもらいました。学会のWGでも先日、たまたま石川裕次さんがこのマッピングを企画してくれましたが、細かい小道具の準備などは面倒でしたね。
二次元のデカルト座標を設定して、横軸および縦軸の評価軸としてなにを設定するべきか、まず各グループで議論して決めました。この段階でいろいろなアイディアが出てきて面白かったです。評価軸として「建築ー都市」はまあ、あるだろうなと予想していましたが、「形あるものー形なきもの」とか「アウトドアーインドア」などという、大丈夫かなあという設定もありました。「コンクリートー木」という軸を見るに及んで、そんな限定的なモノが評価軸になるかなあと心配になりましたが、まあモノは試しですからそのまま進めました。
その後、各人の発表を聞きながら、それぞれのテーマを各グループのマップ上にプロットしてもらって、最後に三枚のマップを見ながらいろいろと意見交換をすることができました。まあ、発表の質疑応答だけよりは活発な授業になったと思います(相当ムリして言ってますけど、あははっ)。
でも、こんな具合に(教員が)相当知恵を出しても学生諸君の反応はこの程度ですから、Active Learning ってつくづく難しいと思いましたね。専門科目の『構造力学』のように講義と演習という授業構成がわたくしにとってはいかにやり易いかということがよく分かりました。
この授業を履修している学生諸君も大変でしょうが、わたくしにとっても毎回が新しい試みみたいなもので先が読めないので気疲れするし、ハラハラどきどきのしどうしです。それでも、今期の授業がひと通り終わった段階でこの半年の授業全体を再度見直せば、来年度以降はもっと上手にできるような気はします。授業はあと6回です、がんばろう!(学生諸君も私も)。
耳ねた June (2014年6月10日)
月曜日、ちょっとだけ晴れたと思ったら、午後には凄まじい土砂降りになりました。雨の歌については以前にいくつかあげましたが、この雨音を聞いていてアリスの『雨降りは大好き』という歌が突然蘇ってきました。あっめ〜ふ〜りは大好き〜です、ちっちゃなときから、なんとなく〜、という歌詞です。例によって高校生の頃に聴いていました。アリスの歌は谷村新司か堀内孝雄のどちらかがボーカルをとるのですが、この歌はヒジョーに珍しくドラマーの矢沢透がちょっと舌足らずの感じで唄っていました。
で、そんな雨音をBGMにして伊藤銀次のネット・ラジオを聴いていたら、彼がギター一本でNick Loweの『Cruel To Be Kind』という歌を唄っていました。調べてみると1979年にアメリカでヒットしたポップスでした。
この頃は受験勉強真っ盛りで、なおかつ私は洋楽にはとんと興味がなく、オフコース、Hi-Fi Set とか風とかを聴いていましたので、このニック・ロウの曲を聴いた記憶はありませんでした。伊藤銀次のアコギ一本だけではどんな曲か、はっきり言ってよく分かりませんでしたので(でも、なんだか良さそうなメロディだったので)、ネットで探して聴いてみたのです(たとえばこちら)。
うーん、なかなかいい Vibration ですね〜。これが今から35年まえの曲かというのが率直な感想です。そうしてその曲を何度かきいているうちに、脳裏にピーンと来たのです、これに似た曲を聴いたことがあるゾと。
それはなんと佐野元春の『Do What You Like(勝手にしなよ)』でした(佐野のデビューアルバム「Back to the Street」の最後に納められた曲です)。ニック・ロウの『Cruel To Be Kind』のサビの部分ではなく、冒頭の部分のコード進行がよく似ていたのです。1979年は佐野がデビューする直前ですから、この曲から刺激を受けたとしても不思議ではないでしょう。実際、伊藤銀次はニック・ロウのこの曲に大いに触発されたらしいですから、彼らのつながりを考えれば大いにあり得ることです。まあ、私が勝手に想像しているだけですけど,,,。
この『Cruel To Be Kind』の当時の邦題は『恋するふたり』というそうですが、例によって英語の題名(直訳すると“わざと冷たくする”)とは全く違っていますな。そうそう、伊藤銀次も言っていましたが、この曲は唄おうとすると結構難しくて、そう簡単には口ずさめません。少なくとも音痴のわたくしにはとても無理ですな。
あめ降り (2014年6月9日)
この週末はものすごい雨降りでしたね。まあ季節は梅雨なので当たり前と言えばそれまでですが、この週末だけで6月ひと月分の雨が降ったそうですから、やっぱり尋常な降り様ではないんでしょうな。
野川は普段は深さ20cmもないような小流れなのですが、今回は川床の両脇の遊歩道(道路面からは3メートルくらい下がったレベルにあります)が完全に水没して、川幅一杯に水が滔々と流れていました。それくらいの水量になるとちょっと恐ろしく感じられます。
この野川は国分寺崖線の湧水を集めて多摩川まで流れる一級河川ですが、このHPで最近話題にしている立川断層もひと昔前は多摩川のつくった段丘崖と考えられていたそうです。それが今では(研究が進んだお陰で)マグニチュード7程度の地震を引き起こす可能性のある活断層と見なされました。そういう事実が分かれば、都市の防災計画として放っておくこともできず、地方自治体が頭を悩ますことになるのは周知の通りです。
でも日本ってこれだけの地震国ですから、(想像ですけど)人間が知らないだけで地下には活断層だらけということも大いにあり得ます。そうだとすればこの日本という国土に住む限り、どこに行こうと地震の脅威から逃れることはできず、ときとして牙をむく自然とうまく共存してゆくほかはありません。過去の日本人の処世観とか住形式とかは、このようなわが国の風土に根ざしたものであったのは確かでしょう。
しかし雨もやがてはやんで太陽が顔を出します。泥濘と化した道も乾いてまた固まります。そのうえを何事もなかったかのようにひとびとはまた歩き始めます。大地震のあとも様相としては全く同じです。人間の営みは力強く、そして脈々と続いてきましたから、これからもそうあり続けることでしょう。
玉電の思い出 (2014年6月4日)
昨日の朝日新聞に渋谷駅の東急百貨店の解体現場から玉電が通っていたらしいアーチが現れたという記事がありました。デパートは1934年に開業とのことですから、建物は竣工後約80年を経過したことになります。写真を見る限り鉄筋コンクリート構造みたいです。1923年の関東大地震後に市街地建築物法が改正され、水平震度0.1(重力加速度の約1/10の加速度が建物の横から作用する、という意味です)で耐震設計することが定められましたから、この建物も多分それくらいの地震力で設計されたのだと推察します。
写真を見ますとこのアーチ状のモノはハンチがついた梁として機能していたようです。鉄筋コンクリートの柱はそれほど細くはなさそうでした。どんな鉄筋やコンクリートが使われていたのか、鉄筋の定着等のディテールはどのようなものであったのか等を是非、調べて公表して欲しいと思います。
さて玉電ですが、わたしにはある強烈な思い出が脳裏に焼き付いています。玉電に乗った記憶は全くないのですが、その光景だけをはっきりと憶えているのです。私は子供の頃、中目黒に住んでいました。早稲田の祖父母の家に遊びに行って、晩ご飯を食べたあとはだいたい祖母が「じゃあ、これでタクシーに乗ってお帰り」と言ってはお金をくれたものでした(もちろん母も一緒ですが)。
小さい子供ですから、タクシー(というか車)に乗るのが嬉しくて仕方ありませんでした。当時はマイカーなど夢の時代でしたからね。で、タクシーに乗ると中目黒までのルートはだいたい決まっていて、必ず渋谷駅前を通るのです。そこには当時はまだトロリーバスがたくさん走っていましたし、件の玉電もたくさん停まっていたのです。
そこを通過するときはもう夜ですから、ほの暗い、うすいオレンジ色の灯りにその玉電たちが照らされていました。子供だったわたしは眠たかったのかもしれません。ですからわたくしの玉電の記憶はまさにセピア色に染まっているのです。タクシーの窓にもたれかかってぼんやりと眺めていた玉電、これが私の思い出です。
でも、これって結局は祖母につながる記憶なのですね。わたしを可愛がってくれたその祖母は、私が大学に入る前にこの世を去りました。
日々雑感 六月を迎えて(2014年6月3日)
わが母校の都立A高校が来年度以降も進学指導重点校の指定を継続されることになりました。なにはともあれ、よかったですね。日比谷、西、戸山、八王子東、国立および立川の六校に続く七番手としてぎりぎりすべり込んだという感じです。でも2014年度の難関国立大学等(東大、京大、一橋大、東工大および国公立大学医学部医学科)の現役合格者数は2013年度の三倍に躍進しましたから、現役の生徒さんや先生がたの努力は大変なものだっただろうと推察します。
高校生諸君にとっては勉強はもちろん大切で、前途洋々たる未来を切り拓くための準備期間として有効に使って欲しいとは思います。でもそれにも増して、体育祭や外苑祭(A高校自慢の文化祭のこと)でクラスの仲間と協力してひとつのものを仕上げる喜びを味わうとか、クラブ活動に打ち込むとか、多くの得難い経験も大切にして下さい。
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ついに我が家でも子供にゲーム機を買い与えました。どう考えても弊害のほうが多いと感じるゲーム機ですが、ほとんどの友達が持っているので買ってくれと。今までは友達から貸してもらってやっていて、遊ぶときに肩身が狭いとのこと。ひと様のお子さんに迷惑をかけるわけにも行かず、やむなく買ったというのが実情です。多分、ほかのご家庭でも同じような状況だとは思いますが。でもいざ買うとなると結構なお値段だということが分かりました。子供のオモチャとは思えません。
で、任天堂なんとかという新書サイズのゲーム機を初めて見ましたが、今のマシンには加速度計?や傾斜計もついているらしくて、ゲーム機本体を両手でもって車のハンドルみたいに回しています。もうビックリ!です。でも小さな画面が目まぐるしく動くので、集中してやっていると気持ち悪くなったり、目が悪くなったりしないか心配です。
我が家では時間制および貸し出し制にしましたが、さっそくそれがもとで母親とトラブルになったみたいです。ホント、予想どおりです。マシン本体だけでは動きませんから、新しいソフトを買ってくれとせがまれるのが目に見えます。これから先が思いやられますな。
しかしこんなコンピュータ仕掛けの機械で遊んだって工夫の余地などありませんから、こどもの脳の発育によいとは思えません。友達が集まってもそれぞれが無言で自分のマシンに向き合って遊んでいるそうです。それでは子供同士の協調性なども養われず、社会のルールを学ぶなんてこともあり得ません。そんな仮想空間にどっぷり浸かったまま大人になって大丈夫なのか、とても大丈夫とは思えないんですけど,,,。
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いま『ケプラー予想 四百年の難問が解けるまで』(ジョージ・G・スピーロ著、青木薫訳、新潮文庫、2014年1月)という一般向け数学書を電車内で読んでいるのですが、読めば読むほど数学者という人種が一般人とは相当に異なった頭脳をもっている、あるいは想像力が一般人(少なくともわたし)には想像できないくらい豊かである、ということに気づかされます。
普通のひとは三次元でさえ理解するのが容易でないのに、彼らときたらn次元を苦もなく扱い、彼ら同士ではあたかもそれが目に見えるかの如くに議論できるのです(私たちのように理解するために図を書いたりはしないそうです)。どうやったらそういう才能を身につけられるのでしょうか。本人の努力もあるでしょうが、わたしには先天的な要素が大きいような気がします。そんなこというと、努力して数学を究めようとしている若者には申し訳ないですけど。
そうそう、以前にこのページでも紹介したジョージ・ガモフの『1、2、3、無限大』ですが、こちらは単行本なので家のなかでチビチビと読んでいます。難しいところに来ると途端に読み進めなくなって頓挫してしまいますが。
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研究室で大切に使っていたデジタル一眼レフ・カメラ(ニコンのD80)がついに壊れました。試験体の全景を撮ろうとしてシャッターを切ったら、目の前がまっ暗になったまま復帰しなかったのです。その後、シャッターが切れなくなったので、多分壊れたんでしょうな。でも実はそうなるちょっと前に、このカメラを買ったのは2006年だったな、そろそろ壊れる頃かもなあ、などと大型実験棟での実験を見ながら思っていたのです。全くイヤな予感が的中しちゃって、気分が悪いったらありゃしませんぜ。
八年前の電子機器(まあカメラには違いありませんが)を修理できるのか不安ですが、結構気にいっていたので修理センターから完治して戻ってくることを期待しています。
そろそろ、つゆ (2014年5月29日 その2)
このところ蒸し暑くなってきましたね。街行くひとたちの服装もまちまちですが、わたしは今年はじめて半袖のポロシャツに腕を通しました。大学校内のシャクナゲも盛りを過ぎてしおれてきましたが、それにかわってアジサイのつぼみが大きくなってきました。
この頃になると寝苦しくてなかなか寝付けないのが例年ですが、今年はまだのようです。以前に建築家・小林克弘先生と話していて、季節の変わり目にはホルモンのバランスが崩れるからそういうことになるんだよとおっしゃっていましたが、本当でしょうか?
我が社では昨日から単発の実験を割り込ませて実施しています。アンボンドのPC鋼材でプレキャスト・コンクリート製の柱および梁を圧着接合させたスラブ付きの柱梁部分骨組試験体です(担当は宋性勳さんと晋沂雄さんです)。いろいろな事情があって、川嶋くんの実験の途中に差し込んだ次第です。今年も実験が立て込んでいるので担当する学生諸君にとっては大変だと思いますが、気をつけて作業をして下さい。
そうそう、先ほど書いた基礎ゼミのことですが、授業における工夫や仕掛けをいろいろと考え始めました。でも笛吹けど踊らずということにならないか、相変らず心配ですけど,,,。
基礎ゼミナール通信 (2014年5月29日)
全1年生対象の必修科目である『基礎ゼミナール』のその後ですが、しばらく報告しなかったので書いておきます(毎週水曜日が授業日です)。課題図書を選択してもらって、その要約を発表させました。そして前回から二回にわたって、その本を読んで興味を持ったこと、疑問に思ったことなどをパワーポイントで発表してもらいました。ひとりあたり発表5分、討論3分としました。
でも(予想したことではありましたが)だ〜れも質問をしませんし、コメントもありません。もうお通夜のようで、その沈黙には慣れることはないでしょう。仕方がないので司会をお願いしたTAの星野くん(北山研M1)に指名してもらって、討論に参加させようとするのですが、ボソボソと何をいっているのか分からないような小さい声しか返ってこないのです。
この日は少し早めに教室に行って、机の配置をコの字形に変えて討論し易いようにしてみました(涙ぐましい努力ですね)。そうすると全員が顔を見合わすことができるので、その配置自体はGoodだったと思います。でも前述のように討論は盛り上がりませんでした、というか討論自体が成り立ちませんでした。
星野くんは、質問したひとには加点しますと宣言して討論を促したらどうかと言います。でもそうすると点数欲しさに質問したと友人に思われるのがイヤで、さらに輪をかけて質問が出ないのではないかと私は危惧します(まあ、やってみる価値はありそうですが)。
これからまたしばらくは作業とか調査とかが続きますので、次の討論は7月になってからの予定ですが、なにか新しい仕掛けとか、エサ撒きとかを考えないとダメかと思うとちょっと気が重いです。
私の基礎ゼミの目的として「討論によって協調性を高め、議論するための能力を磨く」とシラバスには謳ってありますので、何らかの指導をしないといけません。このままだと学生から授業評価されたときに、今度はこちらがダメ出しされること請け合いですから(って自慢することじゃありませんけど,,,)、どうしたものでしょうかね。
あの頃、英語の授業 (2014年5月28日)
週末の高校クラス会の続きです。テーブルを囲む仲間とひとしきり内藤先生の英語の授業の思い出話をしていたのですが、林さんが「the の付く名詞を三個言え、とかよく質問されたよね」と言い出しました。すっかり忘れていましたがそういえばそうだったなあと、あの頃のことを懐かしく思い出しました。
皆さん、分かりますか。私が思い出したのは ” The University of Tokyo ” だけです。 university にthe が付くのは日本では東京大学だけで、例えば明治大学を ” The University of Meiji ” などとは決していわない、というふうに教わりました。そういえば、The tube(ロンドンの地下鉄)もそうだったかな?
内藤先生の授業はそのほかにも、SVOCの文型をとる動詞を5個あげろとか、SVOOとなる例文を3つあげろとか、単語の最後が “ee “で終わる名詞を3つあげろ(例えば、refugee[亡命者])とか、万事につけてこんな感じでそれまで受けたことのないような内容でした。われわれ高校生もきっと度肝を抜かれたんだと思います。
でも、結果として先生の英語の教育のお陰でわたしは大学に合格できたし、現在もその英語の教えを仕事に活かすことができているわけです。ありがたいことではあります。
そうそう、英語が達者な尾身さんが(生徒の分際で)内藤先生の英語の発音がおかしいとかなんとか授業中に言い出して、それに対して内藤先生が英語で怒り出したということもあったそうです。そのとき、もちろんわたくしもその教室にいたのでしょうが、当事者ではなかったせいか全然憶えておりません。いやあ、今思えばすごいクラスだったんですなあ。
うるさいオヤジ (2014年5月27日)
先週末に高校の頃の同窓会がありました。1、2年のときのクラスで、独特の英語の授業を行う内藤尤二先生が担任でした。この日はご都合が急に悪くなってお出でにならなかったことがとても残念でしたが、ご本人はお元気だということですのでよかったです。
で、同窓会のお店はどうやらカクテルがウリだったみたいですが、このページでも書いているように最近のわたくしはビールや洋酒は全く飲みません。日本酒オンリーです。う〜ん困ったなあ、日本酒ないかなあとひとりごちたところ、向かいにいた伊東正明が「日本酒ベースのカクテルある?、あっあるの?、じゃあそれの日本酒だけもって来て!」とお店のひとに言ったのです。
お店のひとも困ったでしょうけど、しばらくしてカクテル・グラスに氷が浮いた日本酒(だけ)が出てきました。いやあよかったなあ、と思いながらチビチビ飲んでいると、実は伊東も飲みたかったみたいで、自分の分も注文し始めました。なんだ、伊東も日本酒が好きだったんだあ、それならそうと最初からいえばいいのに,,,。でもお店のひとは、こいつらうるさいオヤジだなあと困惑したでしょうね。
ちなみに伊東は(以前に書きましたが)一念発起して脱サラして弁護士になった変わり種です。法学部出身の友人はかなりいますが、弁護士になったのは彼だけです。今のところ(幸いにも)お世話になることはありませんが、「北山からの依頼は高いぞ」と脅かされていますので気をつけようと思います、あははっ。
結局、二次会の店でも三次会の店でも伊東と一緒に日本酒を飲み続けました。わたしはお燗で飲みたかったのですが、彼は冷や酒がいいと言い張って、最後のほうは(もう相当に酔っぱらっていて)冷やになってしまったのが、ちょっとした誤算でした。そのせいか翌日は相当の二日酔いで、久しぶりに女房に怒られたのでした。
地霊が泣いている 新国立競技場異見(2014年5月23日)
2020年に東京でオリンピックが開催されます。それを迎えるために、東京・千駄ヶ谷にある国立競技場が建て替えられるということです。でも、その改築設計のコンペで最優秀賞をとったザハという建築家の案に対して、相当な異議申し立てがなされています(槙文彦先生がはじめに声をあげられたと記憶します)。ちなみに私はそのザハという建築家をそれまで知りませんでした、どんなひとなのでしょうか? まあ三十年前の建築家はよく知っていますが、最近のひとはトンと知りませんので仕方ありませんな。
千駄ヶ谷の地はわたしの母校のあるところですからよく知っています。近くには明治天皇を顕彰する絵画館を始めとして、神宮球場や秩父宮ラグビー場などもあって神宮外苑としての歴史があるところです。
そのような都市のコンテクストを全く無視しているとしかいいようのない、ザハ案がなぜ1等に選ばれたのか、そのあたりの経緯を知らないわたしには不思議でなりません。パース(したの絵です[日本スポーツ振興センターのサイトから])を見る限り、千駄ヶ谷の地を覆い尽くすようにベターっと広がっています。
なによりも(報道によれば)メイン施設の高さは70メートルもあるそうです。これは階高3.5メートルとすれば20階建てのビルに相当します。すなわちこのパースではベターっと広がっているように見えますが、近くに寄ると見上げるような威圧感を覚える構造物なわけです。
これってどう考えても、建物の密集する都市のなかのこの地にとってはスケール・アウトしています。東京の神宮外苑という都市のコンテクストを無視するようなこの構造物を都民は歓迎するでしょうか。このような巨大なモノが建ったりしたら、その地の地霊(故・鈴木博之先生のいうところのゲニウス・ロキ)は悲しむのではないでしょうか。
伊東豊雄さんが提案する既存競技場の改修でもいいのですが、とにかく今の神宮外苑にふさわしい競技場をつくることが21世紀の日本にとっては重要だと思います。なによりも1964年の東京オリンピックの記憶としての現競技場を省みることなく取り壊すという発想自体が過去の遺物のような気がしてなりません。皆さんはいかがお考えでしょうか。わたしはザハ案には生理的な拒絶反応をいだきますね(ぬめっとした質感が気色悪いし,,,)。
新歓バーベキュー2014 (2014年5月22日)
先週金曜日に実験棟ヤードで我が社の新歓バーベキュー・パーティを開きました。新年度がスタートして1ヶ月以上が経ちましたが、いろいろあってこの日になりました。今年度は卒論や修論のテーマとして、プロジェクト研究と基盤研究との区分をして担当者を募集しました。報告書作成等のオブリゲーションが課される研究課題については既に担当学生も決まりましたので、これから順調に研究が進んでいくことを期待しています。
さて2014年度は新たに6名の新人が加入しました。これで我が社の社員は教員3名を含めて16名になりました。居室も二部屋になって、それもパンパンの満員という様子です。でも人数としては今年がピークだと思っています。
というのも今年の卒論生4名はすでに就職が内定していて内部からの大学院進学者がいないため、来年度の大学院進学者はどうみても減少すると予想されます。さらに卒論生も志望者数は読めませんから、昔のように不人気研究室に逆戻りするかもしれません。
そんなことを考えると賑やかに研究室ライフをおくることのできる時間は意外と少ないかも、と思ったりします。でも今のメンバーはわたしが抱く危惧とは無縁ですから、自分自身を磨くようにこの一年を有益に過ごすようにしてください。
メディアの選択 (2014年5月21日)
昨日の朝日新聞の一面に、東京電力福島第一原発事故のときに所長の命令に反して所員たちが原発から撤退していた、というニュースが載っていました。他の主要紙にはそのような報道は見かけませんでしたから、朝日新聞にとっては一種のスクープなのかも知れません。
でも、私はそれを読んで首を傾げざるを得ませんでした。強い違和感を抱いたといってもよいでしょう。確かに原発を管理し維持すべき要員たちが職場から一時退避したことで、原子炉の暴走のリスクはより高まったとは思います。でも、その避難が無駄になったのは(それは原発に勤める東電の人々にとっては幸いなことだったのですが)結果としてそうなったに過ぎません。
もしも原子炉のメルトダウンがもっと進んで、今よりもさらにひどい事故になっていたら、そうした(命令無視?の)避難をしていなければ人員の大量被爆を防げなかったかもしれません。その場にいたひと達が自分の身を守る行為を優先させたとして、それを誰が非難できるのでしょうか。身を挺して原発事故を防げとでも言いたいのでしょうか。
朝日新聞の記事を読んでわたくしはそのような憤りを感じたのです。原発の所長だって判断ミスを犯すかも知れません。生きるか死ぬかのギリギリのところでは個人が別個に判断して行動するのは当然でしょう。
新聞社側の意図は分かりませんが、今までの朝日新聞の態度から忖度すると、原発の事故はそれくらい恐ろしいから、原発は即刻廃止すべきだということを強調することにあるように思います。多様な考え方がありますから、それならそれでいいのです。でも「所長命令に違反」などといかにも悪いことをしたかのように指弾するのはやめていただきたい、それは究極の選択であったのだと国民のひとりとして強く思います。
東京トリップ もしくは瑞穂町と立川断層 (2014年5月20日)
昨日はとても忙しくて、東京の東西を行ったり来たりしました。ざっくり書くと、朝、東京都瑞穂町の箱根ケ崎へ行き、午後には有楽町にいました。そこから南大沢の大学に行って所用をこなしてから帰宅するという一日でしたが、電車に乗った総延長距離はなんと136.4 kmに達しました。
電車の経路でいうと京王線、南武線、青梅線そして八高線と乗り継いで箱根ケ崎駅に至る、というあんばいです。青梅線と八高線では自分でドア脇のボタンを押して扉を開閉するという体験をしました。冬は寒かったり、夏は暑かったりするためでしょうけど、東京でこんな経験をするとは思いませんでした。でもよく考えたら、京王線だって夏の多摩丘陵はものすごく暑いのだから、冷房の効きをよくするために通過待ちの鈍行電車なんかは扉を閉めたら相当の省エネになると思いますけどね。
で、そんな電車に乗り降りするひとたちを興味深く観察したのですが、ある駅で乗ってきた人がその扉を内側からご丁寧にも閉めたのです。そのひとにとってはいつもの習慣なのでしょうか、開けたら閉めろという一般常識?を至極フツーに実践しただけなのかも知れませんし、丁寧な方なのかも知れません。
ところが電車内の他のひとがそこから降りようとしていたのに、目の前で扉を閉められたものだからたまりません。なんで閉めるんだよ〜ってな感じでその閉めたひとを睨んでムッとしながら、またまた自分で扉を開けて降りてゆきました。ふ〜ん、そんな不便なこともあるのだということが、ほんの短い乗車時間のうちでも体験できるという幸運?にわたくしは巡り合えたのでした(どうでもいいか)。
ずいぶん前書きが長くなりました。この春、ご縁のできた瑞穂町ですが、新庁舎建設に関する庁内委員会にアドバイザーとして呼ばれて伺いました。昔、師匠の青山博之先生からいただいた「芸者と学者は呼ばれたらどこにでも行かなければなりません」という教えを実行したに過ぎません。JRの駅舎は思いのほか立派で、京王線の飛田給駅をちょっと彷佛とさせます(少し褒め過ぎかも?)。
その瑞穂町の現有の庁舎(複数あります)を耐震診断したら一部の庁舎では点数が足りずに、この際だから新築しようということらしいです。ただ他の自治体と異なるのは、その敷地の直近を立川断層が通っているということです。東京地方では最近とみに注目されるようになった活断層のひとつですね。それを考慮するとどのような構造がこれからの庁舎建築には望ましいのか、ということを問われて私見を披露してきたという次第でした。
せっかく現地に来たのだから、役場の企画部長の田辺健さんにお願いして立川断層があると言われているところに案内していただきました(といっても役場の目の前ですけど、あははっ)。それが上の写真です。正面の2階建てのRC建物(消防署です)のところから写真を撮っている私に向かって断層が走っているとの想定でした。右手の緑が生い茂った鬱蒼としたところはもう狭山丘陵の辺縁部とのことでした。
その会議の前に、町長さんにお目にかかってお話しするという機会に恵まれました。町長は石塚幸右衛門といういかめしいお名前(由来をうかがったところ、その家の当主に代々引き継がれたお名前だそうです)のご年配のかたでしたが、いかにも地元の名士といった趣の、話し好きの為政者ではありました。東京とはいえ瑞穂町はいまでも地縁・血縁が重きをなす土地柄であろうと少しばかり感じました。瑞穂町の地誌・歴史や横田基地との関係など、とても興味深いお話しを伺うことができたのは思いのほかの収穫でした。
瑞穂町って、言っちゃ悪いのですが東京都内での存在感は希薄ですよね。ほとんど知られていないと言ってもよいかも知れません。しいて特徴をあげれば東京都内の唯一の町ということくらいでしょうか。でも行ってみて分かったことは、住むにはなかなかよいところみたいだということでした(電車の便が悪いことが難点ですが)。
そこでハタと気がついたのですが、瑞穂町在住だった大滝詠一師匠も隣の市の福生のことは歌にして唄ったくらいなのに、地元の瑞穂町については口を閉ざして何もいわなかったんですね〜。もし彼が「誘いの瑞穂町音頭」みたいな曲でも書いていれば、瑞穂町も一躍有名になっていたかも知れないのにと今更ながら悔やまれます(って、なんだかもう瑞穂町関係みたいな口ぶりですけど)。
ということで瑞穂町でのミッションを終えて、有楽町の電気ビルでの会議に臨みました。経路は青梅線、中央線快速そして山の手線です。ここでは久保哲夫先生を主査とする原子力発電建屋の耐震設計に関する検討会に出席しました。ちなみに幹事は青研の同級生の今村晃くんです。JEAG4601-2008年版の改訂が議題ですが、例によって大手ゼネコンのエースがてきぱきと案件をさばいてくれるので安心です。とは言うもののコメントをつけたり文句を言ったりするのが私のお役目ですので、憎まれ役を果たしてきました。
それから大学に戻ってのっぴきならない会議に出て、それが終わって研究室に戻ったらもうどっと疲れがでてきましたな。早々に退散して帰宅すると、昨日のアサリちゃんたちが変わり果てた姿で(すなわち、美味しそうに見えるということですけど)私を出迎えてくれました。こうして長かった東京トリップが完結したのでした。
潮干狩り2014 および、ヒヤッとしたはなし(2014年5月19日)
昨年に続いて今年も海の公園に潮干狩りに行きました。横浜・八景島のわきにある人工砂浜です。今年は昨年よりも三週間くらい遅かったこともあって、結論からいえばちっこい貝ばかりで、あまり大きな貝は採れませんでした。
朝4時半に起きて6時過ぎには並木インターチェンジを降りていました。そこから江戸清(横浜中華街で売っているブタまんのメーカー)の工場(?)がある交差点を右折するのですが、そこの右折車線は広くて二車線あります。で、私の車はそのうちの左側の車線上を右折したのですが、右車線を並走していたワンボックス・カーがどういうわけか右折しながら私の車線のほうに膨らんできます(右折中なのでそんなにスピードは出ていませんから、遠心力のせいってことはないと思います)。ええっ、なんだあ〜と思ううちに相手の車のボンネットが明らかに私の車のボンネットめがけて突っ込んできました。
私が軽く左にハンドルを当てて(といっても左は歩道ですが)あわててクラクションを鳴らすとギリギリで相手もやっと気がついたみたいで、間一髪で衝突を免れました。でも私も子供ももうぶつかった!と思ったくらいのギリギリ・マスターぶりでした。ただ、エマージェンシー・ブレーキを踏むことはできなかったので、反射神経が衰えたか、瞬間的な判断能力が低下したか、とにかく年をとったということを否応なく実感させられました。
この事件で一気に血圧が上がって眠気も吹っ飛びました。これが朝の6時5分くらいです。いやあ、危なかったなあ〜。そんな早朝ですが、回りには(多分)潮干狩りに向かう家族連れの車がたくさん走っていました。
ホッと安堵のため息をついてからすぐに駐車場に着きました。相変わらず既に1/3くらいは埋まっていました。そこでカセット・コンロと手鍋をおもむろに取り出して、お湯を沸かしてみんなでカップ麺を食べました。昨年、そういう家族連れがいて羨ましかったのでマネしたのです。二年目なので少しは勝手が分かってきたという感じでしょうか。
で、今年は砂浜用の簡易テントも用意してそこに寝そべったりして待つこと約6時間、お昼になってやっと潮が引いて目の前に広大な干潟が出現しました。もうものすごい人出です。これじゃあ貝が多いか人間が多いか、いい勝負ってところですな。でも冒頭に書いたように潮干狩りのピークは過ぎたせいか、お店サイズのアサリちゃんは数えるほどしかゲットできませんでした。まあ多少小さくても味噌汁の出汁くらいにはなるだろうと思って採ってきました。
うちの子供は午前中、浜辺で待っているあいだにはしゃぎ過ぎたみたいで、せっかく潮干狩りができるという段になって、もう疲れたからテントで待っているなどと言い出す始末です。結局、親ばっかりが潮干狩りに精を出す羽目に立ち至りました。なんだかなあ、と思った休日でした。
翌日は(予想通りでしたが)全身が筋肉痛になって、しばらくはつらい日々が続きそうです。少しばかり憂鬱になった月曜日です(この月曜日のはなしは次に続く予定です)。
ひとの名前 内藤多仲先生と大橋雄二さん (2014年5月16日)
またまた、先日の「鉄筋コンクリート構造の設計」の講習会のときのはなしです。ジャスト12時に私の講演が終わったあと、教壇のところにひとりの受講者の方がやってきて、やおら一冊の本のあるページを開いたのです。なんだろう、何か間違ったことを言ったかな、と一瞬ギクッとしました。
しかしその方が開いたページに内藤多仲先生の写真が載っているのを見て、その本が大橋雄二さん(故人、芳村学先生の同級生でした/間違いでした、壁先生と同級でした[2014年6月16日])の『日本建築構造基準変遷史』(日本建築センター、1993年)であることにすぐに気がつきました。この本は私のように建築構造の発展の歴史に興味ある人間にとっては必読の書といってもよい名著だと思います。
ちなみに内藤多仲先生は早稲田大学に建築学科をつくった方で、関東大地震の前に鉄筋コンクリート造耐震壁を「発明」したひととしてわれわれ耐震工学者にとっては有名です。一般のみなさんには東京タワーの設計者といったほうが分かり易いかも知れませんね。
で、その方が内藤多仲先生のお名前を指さすに及んで、ああそういうことかと合点がゆきました。そこにたどり着くまでには結構長い経緯があったのです。私は大昔にその本を読んで、内藤多仲先生のお名前が「たなか(多仲)」であることを知りました。大橋さんのその御本にそのようにふりがなが振ってあったからです。
その後、十年くらい前でしょうか。JCIのある委員会の席上、内藤多仲先生のお名前を「たなか」と言ったところ、鈴木計夫先生(阪大名誉教授)からその読み方は間違いである、正しくは「たちゅう(多仲)」である、と注意されました。でも大橋さんの御本に「たなか」って書いてあるのになあ、とは思いましたが、大先輩の鈴木先生がそう仰るのだからあえて反論はしませんでした。ひとの名前を間違えるのは大変な失礼に当たるのだ、とおしかりを受けました。
そうは言っても大橋さんの著書の影響からなかなか脱することはできません。あるとき師匠の小谷俊介先生から、内藤多仲先生が1927年6月に執筆した英文論文を紹介していただく機会がありました。そうしてその論文のPDFをゲットすることができたのです。以下はそのタイトル部分の写真です。
そうです、著者名として紛れもなく「たちゅう」と書いてありますね。この論文はご本人が書いたのですから、ご自分の名前を「たちゅう」であると言っている以上、それが正しい読み方であると判断するのが普通でしょうな。
うーん、でもそうするとなぜ大橋さんは「たなか」とわざわざふりがなを振ったのでしょうか。あれだけ緻密な御本を書いた方ですから、何の根拠もなく「たなか」と書くわけがない、とこういうふうに迂拙は思ったりするわけです。ただ、上記の論文はかなり重い証拠かなと思ってそれ以来、内藤多仲先生のお名前を「たちゅう」と読むようにしたのです。
はなしを元に戻すと講習会で私に質問しにきた方は、私が内藤多仲先生のお名前を「たちゅう」と呼んだことから、大橋さんの御本と違うということを指摘されにきたのでした。そこで以上のようにご本人が「たちゅう」と書いていた旨を説明いたしました。
余談ですが、その方が大橋雄二さんのその御本を大事そうに持っていらしたことのほうにわたしは感動したのです。すごく良い本なのに、ご本人が故人となったせいもあって、忘れられかけているような気がしていたからです。質問された方は誠実そうにお見受けしましたし、青山博之先生のこともご存知のようでしたから、立派な構造設計者なんだろうと思いました(お名前はあえて伺いませんでした)。
余談は続きます。2000年に建設省建築研究所のさる方が『でも、ユウジは生きていた』(東銀座出版社)という御本を送って下さいました。その著者は大橋雄二さんのお父様でした。その御本には大橋雄二さんの長く苦しい闘病生活と死に至るまでの記録が綴られていました。私は大橋雄二さんとは面識はありませんでしたが、その生と死とを拝読して大学の先輩でもある大橋さんが身近に生きていたひとのように感じたものです。
それは、大橋さんが通っていた病院が東京専売病院だったということもあります。この病院は赤羽橋(建築会館のある三田からは綱坂を登った台地の向こう側に当たります)にあるのですが、私が小さい頃からよく通った病院であったこと、その建物は私が子供の頃に建て替えられたのですが、その営繕担当者が私の父親であったこと、といった接点があったからです。
いずれにせよ『でも、ユウジは生きていた』という御本は涙なくしては読むことのできない本でした。いまでも大切に私の本棚にしまってあります。
しょっぱな 〜講習会の講師をつとめる〜(2014年5月15日)
昨日、建築学会・関東支部が主催する「鉄筋コンクリート構造の設計」という講習会がありました。これは同名の書籍の改訂が終わったことを契機として関東各地で開かれることになっており、この日の東京会場が最初の講習会でした。その栄えある(?)トップ・バッター(講師のことです)を勤めるように塩原兄貴から指令があって、粛々とその任を勤めたという次第です。ちなみに改訂作業は東京大学・塩原等教授をチーフとする若手の委員の皆さんのご尽力によって成りました。皆さんのご苦労に感謝いたします。
で、私の講習の持ち時間は2時間でした。当該書籍では第1章から第4章にあたります。まあ、もとから盛りだくさんの内容でしたから全てを説明することはできないのは当たり前です。いろいろと取捨選択して150枚のスライドを作りました。通常、スライド1枚当たり所用1分の見当ですが、簡単な図や写真も多かったので、まあ何とか120分に納まるかなあ、と目論んだのです。
でも、やっぱり何ともなりませんでした(あちゃ〜ってな感じですな)。1時間半を経過した段階でまだ70枚程しか消費していません。これはまずい!と判断して、それ以降は大幅に端折りながら結局百枚程度を説明したところでTime! となりました(もちろん、お話しとしては完結するように持ってゆきました、まあプロですから当たり前ですけど)。
結局、用意した150枚をちゃんと説明するためには多分3時間近くが必要だったのだろう、ということが分かりましたが、説明するほうとしてはしゃべり足りなくてちょっと欲求不満になりそうな感じでした。もっとも、聞いて下さったひと達にとっては迷惑な話しでしょうけど,,,。
でも2時間びっちり話し続けて、とても疲れたのも事実です。ですから3時間話すには途中で休憩を入れないとダメでしょうね。またマイクを使っているのですが、最後には声がかすれてきて、おまけにあとのほうは結構な早口になったので、息まで上がってしまって(ちょっとした呼吸困難状況です)、終わったときにはゼイゼイ言ってしまいました。ですので私にとっては、体力的には2時間が限界かも知れません。
こうして疲労困憊して大学に戻りましたが、この日は基礎ゼミナールの授業があったので、またまたパワーポイントで(この日はプレゼン・コンテンツの作り方を説明することになっていたので)今度は本学の学生諸君に向かってハアハア言いながら説明したのでした。あ〜あ、疲れたぜよ〜。
話しが元に戻りますが、この日は百名を超える方が講習会に参加して下さいました。これだけのひとに聴いていただけると、こちらも大いにやりがいを感じます。聴講して下さったギャラリーの皆さまに御礼申し上げます。
がっかり (2014年5月13日)
午前中に大学院の講義がありました。先週このページに書いたように例題を入れるとともに、なるべく学生諸君を指して答えてもらうようにやってみました。が、結果は散々でした。数式を説明しても、その記号がなんなのかさえ答えられないような状況でした。
構造力学でよく出てくるEA(部材の軸剛性のことです)ってなんですか、と聞いたのですが、返事がありません。そこでEやAの記号の意味を問うたところ全滅だったのです。もうほんとうにがっかりしましたね、からだから力が抜けてゆく感覚です。彼らも知らないわけはないと思うのですが、理解しながら講義を聞いていないということが図らずも明らかになったのでした。
さて明日は建築学会・関東支部のRC設計講習会です。東大の塩原等先生から講師を頼まれて一度は渋ったのですが、再度頼まれるにおよんで大恩ある塩原兄貴の要請を断れるはずもなく、お引き受けしました。
なにが大変といって、説明用のパワーポイント作りです。塩原兄貴がひな形を作って下さったのですが文章ばっかりで、私にはちょっと説明しにくいなあと感じました。そこでいちから作り始めたのですが、予想通りそれに多大な時間を要しました。
今までに作り貯めたコンテンツを流用できるところはそうしましたが、新しく作らないといけないところも多々あって、学校でも家でもずーっとコンテンツ作りに励みました。講義は二時間ですので、百枚以上のスライドを用意しました。例によって手抜きせず万全を期して作りましたので、聴講される皆さんには多分ご理解いただけるんじゃないでしょうか(なんて思っていますが、どうだか)。とにかく自分としては納得のゆく準備ができましたので、明日は安心して臨むことができそうです、ああよかった。
プールで泳ぐ (2014年5月12日)
久しぶりにプールで泳ぎました。子供が近所の小学校で開放しているプールに行きたい、というのでその付き添いです。近所とはいっても隣の市の学校ですけど、十年くらい前に建てられた新しい学校です。確かそれまでの二校を統合して建てられたと記憶します(調和小学校という名前です)。
そこは公立の小学校とは思えない、屋内プールでおまけに温水です。そういう立派なプールなのでさすがにタダではなく、基本料金はおとな400円、子供150円でした。切符を自販機で買って駅の改札口のようなマシンにその切符を入れると、扉が開いて中に入れます。
子供は毎週、スイミング・スクールに行って泳いでいるので慣れたもんです。でも私のほうはホントーに久しぶりな上に、五十肩になってしまって左腕が上がりません。そのため、かろうじて平泳ぎはできましたが、腕を大きく回すクロールとか背泳ぎは左腕が痛くてとてもじゃありませんが泳げませんでした。
スイミング・スクールで見ていた子供のクロールはとろいし、半分溺れているんじゃないかと思うくらい下半身が沈んでいたのですが、まじかで見ると結構ちゃんと泳げていました。
子供が競争しようというので、そんなへなちょこクロールなら平泳ぎでも楽勝だぜと思って受けて立ちました。ところがいざやってみると、どんどん引き離されてあっさり負けてしまったのです(といってもたったの25mですけど)。まあ私が老いぼれたということもありますが、思ったよりも子供が成長していたということでもあり、嬉しかったですね。
車の運転を満喫する (2014年5月8日)
ことしのゴールデン・ウィークはあっさり終わりました。ことしは日の並びが悪くて前半と後半とのふたつに分割されたうえ、4月29日は授業日だったりしたこともあって、あ〜あっ休みを満喫した!という感じにはあんまりなりませんでした。
それでも四月末には那須高原に日帰りでドライブに出かけました。下りの東北道は交通量は比較的多かったですが快適に走れました。ただ那須街道の渋滞はすさまじいと言われていますのでそれを避けるために、那須高原スマートICというところで初めて降りました。そこは休憩のためのサービス・エリアの脇にある、とってつけたような出口で、小型の車しか通れないようなある意味ちんけなICでした。そのため完璧に徐行しないと危ないようなしろものでした。
ちなみに帰りもここから東北道に乗ったのですが、スマートICをくぐるといきなり広大な駐車スペースになっていて(サービス・エリアに入るので当たり前ですけど)、いったいどっちに進めばいいんだか、どこが本線なんだかすぐには分かりませんでした。とってつけたとはいえ高速道への入り口なのですから、もう少しサイン計画をしっかりやってほしいですな。
四月末とはいえ那須はまだ寒いようで、間近に仰ぎ見る那須連山には雪が多く残っていました。また桜がちょうど満開でしたが、そのそばでは鯉のぼりが泳いでいるという感じで、東京とはずいぶん趣が異なっていました。
せっかく那須まで来たので那須牛でも食べようということになって、家内がガイドブックで調べたステーキ・ハウスに行ってみました。そのお店は狭い道に入って奥まったところにあるうえ、ランチの時間も午後1時半までということでした。商売っけのない店だなあと思いながらメニューを見ると、那須牛のステーキは7500円から、と書いてあるではありませんか。そうして気がついたのですが、このお店はどうやら観光客などは相手にしていなくて、那須に別荘を持つ上流階級の常連さんたち御用達ではなかろうかと。
ランチにそんな高額を費やす気はさらさらありません。でもお腹もすいていたし、せっかく入ったことでもあるので、那須牛の切り落としを使ったサイコロ・ステーキが手頃な値段でしたので、それをいただきました。さすがにハイソ相手(?)のお店らしく、シェフが目の前で焼いてくれました。シェフが「それではフランベしますよ〜、写真の用意はいいですかあ」というので撮影したのがしたの写真です。
瞬間的ですが炎がシェフの顔の高さまで上がって、子供は度肝を抜かれたように見つめていました。まあそんなパフォーマンスもあって、楽しくおいしく那須牛(の切り落としですが)をいただくことができました。
このあと那須の温泉につかって汗を流してから、家路につきました。帰りの東北道は夕方だったこともあってさすがに渋滞していました。温泉でひと風呂浴びたので、体がだるくて車の運転はちょっとつらかったです。若い頃は車の運転は全く苦ではなかったですが、年をとるとそれ相応に億劫になるということですな。
こうして午後十時頃に帰宅しました。一日で500キロ・メートルちかく走っていました。こんなに走ったのはいつ以来か思い出せませんでしたが、いずれにせよ疲れるわけだとは思いました。
集団的とは 〜ことしも憲法を考えた〜 (2014年5月3日)
年に一度の憲法記念日です。自民党政権に戻ってから、改憲を目指すという彼らの党是に従った行動が目につくようになりました。それはある意味彼らの存在理由そのものですから、そのこと自体は特段目新しいことではありません。終戦後にGHQから押し付けられて日本にはそぐわない憲法なので改正すべきという主張ですが、その本質は日本を再び戦争ができる国家にして軍需産業でがっぽり儲けたい、という非常に不純な理由であると私は思っています。なんとなれば自民党はほんのひとにぎりの資産家階層の利益を守るための政党ですから。
で、今は集団的自衛権とやらを発動するために憲法の解釈を自分たちの都合のよいようにねじ曲げようと画策しているみたいですね。しかし私はその「集団的」という修飾語がそもそもよく分かりません(もちろん語のもつ本来の意味は分かりますよ)。自衛とは自分自身(この場合は日本国)の身を守ることですから、そのような行為に「集団」も「個別」もないことは誰でも理解できるはずです。
それにもかかわらずあえて「集団的」という語を冠するのはなぜなのか。そのように胡散臭い用語を振り回して、他国に対して武力を行使しようと目論むことに非常な危うさを感じます。他国による脅威に対しては武力で対抗するというパラダイム(それは二十世紀に世界を席巻したわけですが)はすでに終焉していると私は思っていますから。
そういう観点からいえば、我が国の憲法前文は大変にすばらしい。だって武力による負の連鎖を断ち切って、周辺の人々の公正と信義に全幅の信頼をおきましょうと宣言しているのですから、ある意味次元を超えた態度表明になっています。確かに理想だけでは国は守れないかも知れませんが、世界のなかでひとつくらいはそんな夢物語みたいなものを掲げて存立する国家があってもいいんじゃないでしょうか。そういうずば抜けた平和主義を標榜していたからこそ、世界の人々はそれなりに日本という国を尊敬してくれたのだし、戦争に巻き込まれることもなかったのだと思います。
日本が戦後ここまで発展して来られたのも、現行の憲法が日本国の根幹を支えてくれたからにほかなりません。そのような非常な恩恵に浴しておきながら、その恩人たる「憲法」がフツゴーだから変えようと言うとは、なんたる恩知らずと言わざるを得ない、そのようにわたくしは思いますが如何でしょうか。
見直す (2014年5月2日)
全学休講日となった二日間、久しぶりになんのオブリゲーションもなく終日大学で過ごしました。きのう書いたように大型実験棟の整理・清掃をしたり、授業の内容を見直してコンテンツを追加したり、今までやりたくてもできなかったことに時間を費やすことができました。
特に学部講義の『建築構造力学1』の講義ノートを見直して、教える内容は従来通りですが、教え方を変えて説明のための時間を短縮するように工夫し始めました。具体的に言えば、説明の流れから同じような図や式を二回板書していたのを一回ですむように改めました。それだけで5分〜10分は短縮できました。
この講義では二学年分をまとめて授業するので120人から130人の学生さんが出席します。これまで3回授業がありましたが、これだけの人数の出欠をとるのにだいたい15分は必要であることが判明いたしました。ということは、授業は90分ですからその日のコンテンツを説明し、演習を配ってさらに演習のヒントとか注意とかに費やせる時間は正味75分となります。
というわけで、効率的に講義する必要に迫られたのでした。このような外圧(?)がなければ説明の仕方を改めることもなかったわけでして、内心忸怩たる思いはありますけど,,,。ただ、効率的に説明しても分かり易さを犠牲にはできませんから、そこのところはやはり今までの経験と知恵とが必要になります。
いっぽう大学院講義の『RC構造特論』はパワーポイントでやっています。先日このページで書いたように画面をず〜っと見ていると、そのうちぼ〜っとしてきて眠たくなります。そこで学生諸君にも考えてもらう時間をとるべく、ところどころに例題を加えることにしました。そのあいだ私は一息入れられるので、こいつぁ一石二鳥だぜ、などという思惑です。ただ、例題ですからあんまり難しくするわけにはいきませんし、あまりにも単純では考える必要もないのでそこのところの塩梅が難しいですね。
幸い我が社では今までに数多くの実験を行ってきましたので、そこで得られた実験結果を材料にして問題を作りました(われながらGood Idea だと自画自賛)。ただ二十年前に吉田格英くんが実施したRC柱の逆対称曲げ載荷実験の写真がどうしても見つからず、しかたがないので彼の修論に載っていたひび割れ図で代用しました。また、そのときの生データの一部も探し出したのですが、それが荷重なのか変位なのか分からず、それも結局使うのを断念しました。
ここのところSTAP細胞事件などで世間を賑わせている“実験のデータ”ですが、さすがに二十年前のデジタル・データはフロッピー・ディスクに格納されていたでしょうから、手元にないものも多いような気がします(全てを調べたわけではありませんので精確には分かりませんけど)。幸いわたしは有名でもなんでもありませんから、吉田くんの生データが見つからなくても誰からも断罪されず、ホントーによかったです。もちろんこのときの実験研究の成果は論文として発表されていて、疑義をもたれるような作為もありませんから、その点はご安心下さい(言わずもがな、か)。
ちなみにフロッピー・ディスクですが、特に5インチのディスクは今では読み取り装置もないですから、2011年の地震を契機として(このとき、棚のなかのものがしこたま落下したので)思い切ってどっさり廃棄しました。これで棚とか抽き出しのなかがすっきり片付きました。ただ実験データというラベルが貼ってあるものはさすがに捨てられず、今でも手元にありますけどね。
整理する (2014年5月1日)
風薫る五月になりました。しかし朝起きると、きのうまでの荒れた天気はおさまったものの、もやっとしたなま暖かい風が吹いていて、風薫るという感じではありませんでしたね。我が家の鯉のぼりは雨に濡れてしょんぼりしているように見えました。
さて昨日、大型構造物実験棟の整理整頓を実施しました。新しい梁端治具を導入したのはよいのですが、そのときに一緒に搬入したもろもろの鉄骨治具や今まで使っていたクレビスや治具が反力床上に乱雑に置かれていて、文字通り足の踏み場がありませんでした(したの写真です)。そのままでは大変に危険です。
なんといっても全ての安全はまず整理整頓から始まります。そこで川嶋裕司くんのお尻を叩いて、私も一緒になって総勢七名で整理をしました。歴代の学生さんが残したアルミ・アングルやボルト類がたくさんあって、なおかつ何に使うのか分からないものも(今となっては)多くて、そういうものは思い切って捨てるように頼みました。
とにかく実験では安全が第一です。そのような心構えがあれば、実験棟の整理整頓は安全への第一歩であることにすぐに気がつくはずです。そのような心持ちで実験するように、学生諸君が自分の意識を変革するようにして下さい。とにかく実験棟は危険がいっぱいですからね(でも、過剰に怖がる必要はもちろんありません)。
ある帰還 (2014年4月30日)
昨日の新聞の地方欄に、一枚の日章旗が70年ぶりに持ち主の親族のもとに戻ったという記事が載っていました。それを読んで私は落涙を禁じ得ませんでした。持ち主は太平洋戦争でビルマにて戦死したということです。その日章旗は出征する兵士の武運長久を祈って寄せ書きがされた日の丸で、戦場ではそのような「記念品」を持ち帰る行為が敵味方を問わず行われていたそうです。
その旗は多分連合軍側の兵士が故国に持ち帰ったのでしょう。その後、その旗がどのような経緯をたどったのか分かりませんが、イギリスの古物市で売られていたのを見つけたひとが持ち主を捜して渡してくれたということでした。全くひどい話しではないですか、その旗は持ち主やその家族にとっては大切なのものなのに、70年ものあいだ異国の地で寂しく埋もれていたのです。その旗が持つ価値など西洋人は気がつかなかったのでしょうか。
日本人は先の戦争のことを反省していないと非難されます。それはその通りであるとわたしは思います(このページでいつも書いている通りです)。しかし連合国側は戦争で勝ったからといってなんら批判されるようなことはしなかったのか、もっといえば植民地支配のような非人道的な行為を反省しなくてもよいのか、そういった疑問が沸々と湧き上がってきます。ただそんなことをいうと憎悪の連鎖を加速させるだけで得るものは何もありませんから、言わないにこしたことはないだけです。
戦争に勝ったほうの人間が負けた側の悲哀には気がつかない、ということはいかにもありそうなことではあります。しかし70年ものあいだ、その旗が持つ価値について考えたり、気がついたりした西洋人がひとりもいなかったということを知って、わたくしは悲しくなりました。
いや、そのことに気がついたひとがひとりだけいました。その旗を古物市で見いだしたのはアメリカのひとだったのです。そのひとは多分膨大な時間とお金とを費やして持ち主を捜し出し、あまつさえ日本まで届けてくれたのです。そのひとは戦場で日本兵が身につけていた日章旗の持つ意味を知っていたのでしょうが、彼の行動のおかげで日の丸はそれを待っていたひとのもとに戻ることができました。
そういう心あるひとは洋の東西を問わずいるわけで、世の中捨てたものではないということでしょう。その日の丸の旗が遺族のもとに戻れて、本当によかったと思います。旗とともに亡くなった兵士の御霊も戻ってきたのだと思いました。
授業をする (2014年4月29日)
今日は「昭和の日」というそうですね。私にとっては「天皇誕生日」というほうが馴染み深いですが、昭和が終わって平成の世となって久しいですから、そんなことを言うひとも減ってきたのでしょうか。なんだか明治生まれのおじいちゃんと同じような心境になってきました。
というわけで今日は国民の祝日ですが、わが大学ではどういうわけか全学授業日となっていて、大学院の講義を終わって帰ってきたところです。このあと午後からは学部の講義があります。でも、明日とあさってとは全学休講日になっていて、5月2日はまた講義日になっているので、どうなってるの?っていう感じです。多分、夏休みまでに15週の講義日を確保するためにこんなことになっているのでしょうけど,,,。
大学院の講義で久しぶりに90分近くしゃべり続けたので、だいぶ疲れました。大学院の講義ではパワーポイントで説明するので、どんどん進んでゆきます。基本的にこちらも坐って講義しますが、ときどき立ち上がって画面を手で指したりしながら間合いをとっています。それでも学生諸君にとってはものすごいスピードで講義が進んだという感じでしょうか。ついて来れたのかちょっと心配です、大丈夫かな。
90分ぎっちりしゃべり続けるのはこちらも大変だし、学生さんは何が何だかわからないまま過ぎていってしまうということにもなりかねませんから、ちょっとした質問を投げかけるとか、ミニ演習をやってもらうとか、ちょっと工夫したほうがよいかもなあ、とチラッと思いました(でも、すぐに忘れちゃうんですけどね、あははっ)。
重いしごと (2014年4月28日)
先週、建築学域の2013年度責任者としての非常に重要な仕事を仕上げました。詳しくは書けませんがとにかく、大学運営にとって最も重要な案件のひとつであることは間違いないでしょう。
その成果物を西村和夫・都市環境学部長に提出して、こころからホッとしたのです。これでやっと名実ともに責任者から解放されるという安堵感とともに脱力感すら抱きました。それほどのストレスだとは自覚していませんでしたが、やっぱり大変だったということでしょうな。
しかし、そのボーッとした時間を通り越してから、今度は大いなる疑問が湧き上がって来たのです。それは今まで封印していたものが、責任という重石がなくなると同時に再びあらわれ出たという感じです。
その仕事のことですが、毎年同じようなルーチン・ワークとして繰り返されるのですが、そこには膨大な人的資源が投入されます。一般の教員、学域長、学部長と上がっていって、最後は学長をヘッドとする大学執行部がそれをチェックするわけで、そこに至るまでに多くの事務方をも含めて多大なマン・パワーを費やしているのです。
公立大学の運営が明解かつ公正に行われていることを社会に対して自ら示すことは重要な活動には違いありません。税金によって運営されているので後ろ指をさされるようなことがあってはなりません。その点は重々承知しています。それでも、そのための手段をもう少し簡素化できないものでしょうか。
一年を通してそういった類いの(すなわち、エビデンスとして残す)書類づくりがわれわれ教員に押し寄せて来ます。一日中、書類を作っていることもよくあります。でも、そのための時間を教育や研究に費やしたほうが教員はもとより大学としてもハッピーだと思うのですが、だめなのでしょうか。社会がアングロ・サクソン流の契約尊重主義に染まり、そのうえ何事につけ不寛容な様相を呈するにつれて、どんどんと余裕のないぎすぎすとした世の中になってゆくようでやりきれません。
しかしそれもこれも大学に対する尊敬の念が社会から失われてしまったことが原因だとすれば、それは身から出た錆というもので、自業自得ということなのかも知れません。大学教員の悩みは深いといわざるを得ません。
基礎ゼミナール 二回め (2014年4月24日)
1年生を対象とした『基礎ゼミナール』の二回めの授業がありました。先週の初回の授業では18名の履修者にそれぞれ自己紹介をしてもらいましたが、東京出身のひとはひとりだけで、北海道から九州まで、さらには韓国の学生さんもいるなど、多様性に富んだ集団構成になりました。私の研究室なんかでも一都三県の出身者が多いですから、この多様性にはちょっとばかり驚きました。
で、二回めの授業ではとりあえず各自が選んだ課題図書を申告してもらってから(予め設定した十冊のなかから一冊を選んでもらう)、そのあとは南大沢キャンパスの散策に費やしました。これは昨年春の『建築学概論』のときにやったのと基本的には同じです。そのときは若手の建築家三人に説明をお願いしましたが、今回は私がひとりでやらないといけない、というのが違います。
私にとっては二十年以上過ごしてきたキャンパスですから、初めて来たような人たちに対しては、いくらでも説明ができます(もちろん、建築家が言うような訳にはゆきませんが)。他言すればそれくらい見所がたくさんあるということでしょうか。幸いきのうはお天気もよく、青葉の眩しいキャンパス内を散策するにはよい日和となりました。
大学のキャンパスは都市の縮図ともいえますから、その構成手法やおもだった建物についての解説を聞くことによって、この基礎ゼミのお題である「建築・都市を考究する」に取りかかるよすがにしてくれたらいいと思います。まあ、例によってあんまり手応えはありませんでしたけど、あははっ。したの写真はティーチング・アシスタント(TA)の星野和也くんに撮ってもらいました。
どこまで (2014年4月23日)
東京六大学野球の春のリーグ戦が始まっていますが、東大がついに70連敗を喫してワースト記録に並んだそうです。といっても自身が持つ記録らしいので、そんなに騒ぐ?こともないかなとも(自虐的に)思います。
今まで4試合を闘って合計14安打で2得点というのが打撃成績です。これではいくらピッチャーが頑張ったとしても勝てないですよね。試合の序盤では互角に投げ合っていたこともありますので、もっと打線が奮起しないと勝利はまだまだ遠いような気がします。
でも東大チームのサイトを見ると選手諸君の崇高な?こころざしが書かれているので、そんなに悲観したものでもなさそうです。皆さん野球に燃えているみたいだし。時々書いていますが相手はどこも甲子園出身の野球エリートみたいな学生ばかりですから、打てなくても勝てなくてもある程度は仕方ないと思いませんか?(なんて、相当弱気ですけど,,,)。
とにかく早いところ神宮の森に淡青の応援旗をはためかせて、「ただひとつ」の歌声を轟かせて欲しいと思います。かげながら選手諸君の健闘を期待しています。たまにはわが母校の向かいにある神宮球場にも行きたいな〜。
ひとの幸せ (2014年4月22日)
学士会会報の『U7』(2014年3月)に、『婚学』〜幸せな結婚をするために必要なこと〜という文章が載っていました。『婚学』とは聞き慣れない言葉ですが、最近では婚活という用語も使われているようですから、こうなったら何でもありなのかもしれません。
で、この文章を書いたのは九州大学の農学博士で佐藤剛史先生というまだお若そうな研究者です。そもそもは家庭での食育に関心がおありだったそうですが、楽しく食事をするためには家族揃って食卓を囲むような幸せな家庭が必要で、その根本は幸せな結婚から始まるというところから、九州大学で「婚学」という授業をやっておいでだそうです。一年生が対象ということですから、多分、基礎教養のようなジャンルでの講義だと推察します。
その内容は結婚のためのテクニックなどではもちろんなくて、結婚をテーマにして総合的な人間力を身につけ、自分の人生を自分自身で実現する力を体得する授業ということです。その到達目標は、自分の人生を幸せに生きる考え方とそれを実現するための力を身につけることとなっていました。
もちろん結婚しなくても幸せにはなれるでしょうし、それはひとえにそのひとの価値観に依存します。上野千鶴子先生の「おひとりさま」じゃないですけど、所詮ひとは死ぬときはひとりきりですから、別に結婚などしなくてよいよというひとはそれでよいでしょう。
でもわたくしは結婚したことによって、そして子供がいることによって、今まで知らなかったこととか気づかなかったことなどが目の前に広がるのをたびたび経験してきました。家族といえどもひとりひとりが違った人格ですから、そこに価値観の衝突が頻発します。それは子供といえども同様です。そういった衝突をどうやって乗り切るのか、そのたびに苦労しながら乗り越えてきました。
そういう経験を重ねることによって人生が豊かになり、そのことが幸せに生きるということにつながると思います。ひとりでいるときの経験とひとつの家族としての経験とは、多分かなり異なっているのでしょう。いちにちが無事に過ぎ、晩ご飯を食べてみんなで寝るころになると、ああ今日も幸せでよかったなあとしみじみ思うのです。
都立高校のはなし (2014年4月21日)
いまの都立高校の入試は都内どこからでも受験できるそうで、私が高校に入学した大昔(?)とは随分変わりました。極論すれば雲取山の麓からでも日比谷高校を受験できるわけで、自分の好きな高校を志望できるというのは受験生の自由意志が尊重されてよいことだと思います。こんなこと当たり前だと思われるかもしれませんが、以下のように昔は違っていたのです。
私の頃は学校群制度がありましたので、居住地によって学区が決まっていました。またその学区のなかに幾つかの群があって、そのなかに二校から三校くらいの学校がグルーピングされていました。受験はその学校群を志望して行われ、合格するとその群のなかのどこかに勝手に配属されました(勿論、各自の意思など聞いてもくれませんでした)。このように二重に制限されていたのです。
私が住んでいたのは第二学区でした。ちなみに第二学区は新宿区、渋谷区、目黒区および世田谷区だったと思います。で、私が受験したのは22群でこのなかにはT山高校とA山高校との二校がありました。わたしの自宅のそばにはT山高校があったこともあり、合格すれば当然T山高校に行けるものと信じ込んでいました(って、全く根拠はなかったのですが,,,)。
しかし結果は逆で、私はA山高校に配属になったのでした。A山高校なんてそれまで意識したこともなければ、行ったこともありませんでした。すごくガッカリした記憶しかありません。その高校で三年間を過ごすことなど想像できなかったのです。
おまけに親友の越海敏裕くんはT山高校に配属になったので、とても羨ましく思ったものです。彼とは中学1年のときから三年間、ともに切磋琢磨して勉強してきましたから別々の高校生活を送るのを残念に思いました(もっとも、大学でまた再会しましたけど)。
そうしてA山高校が“われらが母校”になったのですが、そこで私は人生のなかで最も楽しく、お気楽で責任のない三年間を過ごしたのはことあるごとに書いている通りです。そこで出会った恩師や友人たちはわたしの貴重な財産となりました。
話しがそれましたが、このような学校群制度はとても評判が悪くて、なおかつそれが都立高校凋落の一大要因として非難されるにおよんで、東京都が都立高校入試を改革してきたのはご承知の通りです。私の母校について見ると、私が卒業したときの東大合格者は33名でランキング16位でしたが、その後徐々に減ってゆき、1991年度入試を最後に合格者数は一桁となり、ランキングもベスト100圏外に去ってゆきました。ちなみに2014年度入試における東大合格者数は3名でした。
それでも中学生たちのA山高校に対する人気は高かったのか、あるいはそれまでの実績で凌いだのか知りませんが、東京都の指定する進学指導重点校に選定されました。そのお陰でこれでも進学実績は盛り返してきたのだと思います。ただ平成25年度の指定校見直しによって、A山高校はその基準を満たしていないとされました。そこで今後二年間の実績によって進学指導重点校の適否を判断する、ということになったそうです。そのウオッチ期間が2014年3月で終わりました。どのような判断がくだされるのか興味のあるところです。
この進学指導重点校ですが、いくつか基準がありますが分かり易いところでは、難関国立大学等現役合格者数というのがあって、その人数として15人をあげています。現役合格というところがまたまたハードルの高いところですね。浪人合格では高校の指導力を発揮したとはみなせないということでしょうけど、それってちょっと厳しすぎるような気もします。
ちなみに「難関国立大学等」というのは東大、京大、一橋大、東工大および国公立大学医学部医学科となっています。こんなところにも学校間格差は如実にあらわれていて大いに驚かされます。旧帝大のうち残りの5校は眼中にないっていうことでしょうか。4大学のほかに国公立大学の医学部ならどこでもいいからカウントしましょう、っていうのもなんだかなあ〜っていう気がしますね。
今どき大学名だけで実績を判断するというのも時代に逆行するような気がします。そもそも現在では大学に入ることよりも、大学でいかに勉強し、スキルを身につけて大学を出るかということに社会の興味や重点がシフトしつつあります。それにもかかわらず高校の側では、依然として入試の実績や合格大学名で都立高校をランク分けしているわけで、その妥当性は問われて然るべきだと思います。
大学教員からみればこんな具合に突っ込みどころ満載の進学指導重点校ですが、少なくとも日比谷高校や西高校はその恩恵に浴して進学実績が明らかに復活して来ました(もちろん各校の先生がたや生徒諸君の努力の賜物でしょう)。そんなことからも都立高校の復権が少しづつですがあらわれているみたいなので、都立高校OBとしては素直に嬉しいです。
ちなみにわが建築都市コースにはここのところほぼ毎年、わが母校から入学者を迎えています。「早緑匂う神宮の 森にそびゆる学び舎よ」という校歌を知っているひとがいることがちょっとばかり嬉しいですね。
新しい実験装置 (2014年4月17日)
トップページに書いたように、実験用の新しい治具の使い方を学ぶ講習会を大型構造物実験棟で開催しました。具体的には、柱梁部分架構の実験で使う梁端支持用の治具です。今までは私が学生の頃に青山・小谷研究室で使っていたものと基本的には同じ機構の装置を作って使っていました。
今までの装置は簡単で堅牢であるという利点はありましたが、それを試験体にセットする際にはほとんどを人力に依存していて、おまけにクレビスがくにゃくにゃ動いて危険きわまりないという欠点がありました。
そこで新しい治具はそれまでの機構とは全く別のシステムで組み上げました。具体的な設計は(株)巴技研の内木学さんにお願いしました。その特徴をひと言でいえば、荷重を支える部分にジャッキを組み込んで、そのジャッキを油圧で上下させることによって試験体にセットできるようにしたのです。上下のピンを鋼球がグリグリ動く完全球座としたことや、ねじ部分のガタを抑えるなど精度を高めるための工夫ももちろんなされています。
いつも書いていますが、実験では安全が第一です(当たり前です)。大型構造物実験棟での実験を続けてゆくにあたって、今まで以上に安全に気を配りたいと思ってここ数年、いろいろと工夫を凝らしてきました。今回の治具の更新でそれが一段落します。今後、これらの装置を使って実験する学生諸君が、その使い方や原理を正しく理解して安全に実験してくれることを望んでいます。
M2の川嶋裕司くんがこれからスラブ付きPRC十字形柱梁部分架構実験を行いますので、さしあたっては使い勝手とか想定通りに動作するかどうか等を慎重に確認しながら実験を進めて欲しいと思います。
ヤマボウシ (2014年4月16日)
一年ほど前に移植したハナミズキですが、結局枯れてしまいました。もともと樹勢が悪くて淡いピンクの花もあんまり咲かなかったのですが、冬の時期に移植したのがダメだったようです。一時は新しい芽が出たこともあったのですが、かわいそうなことをしました。せっかく玄関脇のシンボル・ツリーにしようと思ったのですが,,,。
そこでよく晴れた週末の午前中に、そのハナミズキを掘り返しました。そして午後にはユニディで常緑ヤマボウシ(ホンコン・エンシスとも呼ぶそうです)というハナミズキの仲間を買ってきて、そこに植えました。高さは1.5メートルくらいで3580円でした。車には乗らないので、自転車で行ってカゴに載せて帰ってきました。ハナミズキは可愛らしくていいのですが、秋の落葉が大変なので避けたのです。
今度はぜひとも根付いてもらってシンボル・ツリーとして育って欲しいので、ネットでいろいろ調べて植え付けました。大きめの穴を掘って、そこに腐葉土と化成肥料を混ぜ込み、そこに苗木を植えて水をたっぷりやってユサユサ揺らして、水ぎめしました。う〜ん、我ながらいい感じです。最後に腐葉土をのせて足で土を締め固めました。幾つか花芽もついていますので、これからが楽しみです。
ちなみにトキワマンサクのピンクの花がことしはモジャモジャ咲きました。こちらも数株が何度も枯れて、その都度、植木屋さんに植え替えてもらったのですが、なんとか根付いたようで今年はきれいに咲いています。
基礎ゼミナールの受講者 (2014年4月15日)
トップページにも記しましたが、4月16日からスタートする『基礎ゼミナール』の受講者が決まりました。今はWeb申請なのでネットを介して名簿を見ることができます、ホント便利ですね〜。受講者数は結局18名になりました。ちょっと多いですけど、最大22名程度までという予定でしたので、まあちょうどよいくらいの人数かなと思っています。
この18名のうち建築都市コースの学生諸君は半分の9名でした。そのほかの学生さんも都市基盤環境(昔の用語でいうと土木です)とかシステムデザインとかの理工系の人たちで、文科系の学生さんはひとりもいませんでした。ちょっと残念ですが、テーマが「建築・都市を考究しよう」というタイトルだったせいで敬遠されたのでしょうか、よくは分かりませんけど,,,。
ティーチング・アシスタント(TA)をお願いしたM1・星野和也くんに聞いたところ、彼は土木の上野敦先生の基礎ゼミナールを履修したそうです。これは結構好都合です。なぜなら私が自分の基礎ゼミナールのシラバスを考えるとき、上野さんからヒアリングをしてそのノウハウを十分に聞いておいたからです。上野さんは土木とはいえコンクリート工学が専門なので、私とはJCIの若手会21で一緒に活動していた仲間です。
ということで明日から基礎ゼミナールが始まりますが、どんな学生さんたちが来てくれるのか今から楽しみです。授業自体は毎回修正しながら手探りで進めてゆくことになるでしょうが、いろいろな分野の学生諸君に大学で学ぶということとは、ということについてじっくり考えてもらえるような授業にしたいと考えています(まあ、実際にどうなるかは分かりませんけどね)。
横田基地から 〜立川断層と大滝詠一〜(2014年4月14日)
先週、縁もゆかりもない西多摩郡の瑞穂町から町役場のかたが大学に相談においでになりました。どうやって私を調べ出したのか、本当に不思議です。瑞穂町がどんなところなのか知りませんでしたが(いや、ひとつだけ知っていました、我が社のM2の片江拡くんゆかりの地でした)、お話を伺って結構大変な場所かも知れないと思いました。
というのも、立川断層が町の中心を北西から南東に向かって縦断しているからです。活断層の存在は1995年の兵庫県南部地震から注目されるようになって、この十年くらいで格段に調査が進んだように記憶します。で、活断層であると言われている立川断層のすぐ脇に町役場が建っているということを知って私の驚きは倍加しました。
さて町役場のかたは瑞穂町の特徴もはなして下さいましたが、そのときに大滝詠一師匠のことも出てきました(いやあ、嬉しかったですね〜)。そのまえに横田基地の話しをして、南大沢から米軍機に乗ることができるならば瑞穂町にはすぐに着きますね、なんて言っていました(瑞穂町は横田基地に隣接しています)。ですから、町役場のかたから大滝師匠の名前が出て、思わず「銀色のジェット」ですね、なんて言いそうになってしまいました、相当にマニアックですから通じないでしょうな。
ちなみに私は大滝師匠は福生市在住だと思っていたのですが、町役場のかたのお話しで瑞穂町だったことを知りました。2014年1月31日の記述は間違っていたことになりますので、ここで訂正しておきます。
こうしてはなしはまた大滝サウンド(我々はナイアガラ・サウンドと呼びますけど)に移ってゆきます。実は瑞穂町のかたがお見えになったあと、生協に行って頼んでいたCDをゲットしたのですが、それは大瀧詠一の『Song Book I(1980-1998)』(ソニー・ミュージック、2010年)だったのです。その絶妙なタイミングの良さにひとりでのけぞっていました。
このアルバムのほぼ同名タイトルで『Song Book I(1980-1985)』というのが同じソニーから1991年にCD選書の一枚として出ていて(当時1500円でした)、これは持っていましたが、CDが古くなったせいか何となく音が悪いような気がしていたので、リ・マスタリングされたこの2010年版を聴いてみようと思い立ったのでした。
この2010年版のほうは前作にさらに5曲が追加されていました。「夢で逢えたら」はラッツ&スターのバージョンでしたが、なかなかいいですね。ちびまる子ちゃんのテーマ・ソングだった「うれしい予感」(渡辺満里奈)や「いちご畑でつかまえて」(松田聖子)なんかもあって、懐かしかったです。
そしてラストは大滝自身の「幸せな結末」でした。久しぶりに聴きましたが、彼の「恋するカレン」によく似ていますね。まあナイアガラ・サウンドはどれも大滝師匠の遊び心の表徴なので、多かれ少なかれ似たところがあるのは当然ですけど。出だしの二拍のところが名曲「Tonight」に聞こえる、と彼自身が解説に書いていましたが、言われてみると確かにそう聞こえてきます。
瑞穂町では大滝詠一グッヅを展示する恒久的な施設を計画しているそうなので、それが実現したら是非とも現地に行って見学したいと思います。そのときには片江くんに案内を頼みましょうか(ということで、じゃ、よろしく)。
桜 (2014年4月10日)
南大沢の桜は満開の時期を少し過ぎたところです。現在のように日本人が群棲して咲くソメイヨシノを花見の対象としたのは明治以来ですから、たかだか百四十年くらいの歴史しかありません。パッと咲いてあっというまに散ってしまう桜は昭和初期には軍国主義の象徴のように扱われました(「同期の桜」という軍歌を思い出して下さい)。しかし現代の日本人にとっても、その儚さゆえに一種独特の思い入れのある花ではあるでしょう。
桜並木のしたに立つと確かに綺麗だとは思います。しかしそれはほんの一瞬の生命の爆発のようにも感じられて、視界に広がったうす淡い桃色の向こうには幽明界を異にするあの世とやらが茫漠と口をあけているように思えてなりません。私はそこに黄泉の国の住人となった人たちを確かに見たように感じて、軽い眩暈を覚えたのです。
刹那を生きる桜花は現世と異界とを繋いでいるもの、そんなふうに思って見る桜には今までとは違っておどろおどろしいものを感じるのでした。
ワイパー事件 (2014年4月9日)
春休みに北関東の温泉地に行ってきました。私はかつて宇都宮におりましたので、よく知っているところです。さてその朝、出発するときに雨がパラパラ降っていたので車のワイパーをサッと動かしたのですが、そのときにわが目を疑うような事象が出来いたしました。
なんと左側のワイパーのブレードが引きちぎれかかっていて、本体から分離したそのゴムがフロントガラスの表面を蛇のようにベロベロッとなめたのです。なんじゃこりゃ〜。これじゃワイパーじゃなくて、フロントガラスに傷をつけているだけじゃありませんか。
最近のわたくしは普段は車に乗っていないサンデー・ドライバーと化していましたので、そんなことになっているとはつゆ知りません。女房に聞いてみると、あれ?そういえばそうだったかな、なんて余裕のよっちゃんです。う〜ん、どうするか。まだディーラーはやっていない時間だし、雨はちょっとだからまあ走れるかなあとか思って、きっと大丈夫だよね(って、なにが?)とか根拠のない理由で自分自身を納得させて出発しました。
しかし結果として、やはりそれは間違っていたのです。天気予報も終日雨で強く降るかも、と言っていました。都内はなんとか走り抜けたのですが、東北自動車道を走るうちに雨が強くなってきました。小降りならワイパーがなくても運転できましたが、少し強くなるともうダメです。そんなことは分かりきっていたのですが、仕方がないのでビビっているワイパーを少しずつ動かしながら、ヒヤヒヤしながら走りました。
いやあ、怖かったですね。ワイパーのありがたみをしみじみ感じました。もうダメなので、高速を降りて近くのディーラーを探して飛び込みました。右側のワイパーブレードも切れかかっていたので、結局そこで二本ともブレードを交換してもらいました。約6000円の出費でしたが、綺麗にガラスを拭いてくれるワイパーをみて、ああよかったワイパーちゃんありがとう、と心から安堵したのでした(女房は高い!といって文句を言ってましたけど)。
わたしは三十年以上マイカーに乗っていますが、ワイパーブレードが引きちぎれて使い物にならなくなったのは初めてです。半年前に車検に出したときに点検してくれなかったのでしょうか。今度馴染みのセールスさんに会ったときには文句をいってやらないと,,,。
こうして随分と回り道をして時間をくったし、なによりもすごい雨降りになったのでこの日は早々に目的地の温泉につかったのでした。翌日は前日の荒天がうそのようによく晴れて、行楽日和になりました。ワイパーはもう必要ありません。あれはいったい何だったんだ、というひとこまではありました。
途中の宇都宮で石焼きラーメンというのを食べました。べつにそれを目当てにしたわけではなくて、ワイパーが直って余裕ができたらお腹がすいたのでロード・サイドのお店に飛び込んだだけです。野菜たっぷりだし、味は悪くなかったのですが如何せん、熱すぎてなかなか食べられません。鍋焼きうどんを想像していただければよいかと思いますが、食べるのに時間がかかるので、麺がスープを吸って太くなっていきます。それが我が家では不評でした。でも宇都宮では流行っているのでしょうか、何軒か同じような石焼きラーメンのお店を見かけました。
『ツインリンクもてぎ』というサーキット&遊びの森に行きました。ここはサーキットを走るレーシング・カーのグォーンというエンジン音が時おり聞こえてくる里山といった感じでちょっと不思議な雰囲気でした。静かな自然が好き、という方には不向きでしょうね。
子供がゴーカートに乗りたがりましたが、年齢制限があって残念ながら乗れませんでした。でも、そのほかに子供用の電動バイクとか、悪路を進む電気自動車などがあって(ちょっとした遊園地を想像してください)、大喜びでした。遊びの森はできたばかりのようで、よく整備されていましたが、芝生とか植栽とかがまだ根付いていないようでした。
森の頂上は標高220メートルで、なかなかに眺めがよかったです。北関東の山並みが遠くに見えて大パノラマでした。さて、帰りは真岡ICから東北自動車道に出ようと思ったのですが、ナビは水戸ICから常磐道で帰れと指示してきました。え〜ホントかあ? そこで地図を見ると、確かに常磐道でも良さそうです。それで茂木(もてぎ)が水戸よりも北にあるということに気がつきました。途中、大泉ICから環八のあいだが渋滞しましたが、比較的スムーズに走れて約三時間で帰り着きました。
ちなみに2013年度の卒論で我が社の林輝輝くんが宇都宮市立清原東小学校のRC校舎の地震応答解析をやってくれましたが、そのときに使用した地震波のひとつが茂木で観測されたものでした。ここかあってな具合で感慨もひとしおでした(って、家族の知ったこっちゃないですけど)。
このK-net茂木で観測された水平動の最大値は1205ガルでした。ひと昔前だったら、皆さん目を剥いて驚くような大きな数値です(重力加速度が980ガルですから、物体が落下する加速度よりも二割方大きかったわけです)。最後はまた研究の話しになってしまいました。
大会の梗概2014 (2014年4月8日 その2)
きょうの正午が日本建築学会大会の梗概の提出締め切りでした。我が社では結局、7編を投稿いたしました。昨年度は10編でしたので三割減で踏みとどまったわけです。以前に書いたように、梗概を出したいひとが自主的に取り組むというふうに方針を今年から転換したわけですが、まあこれくらいの減少で済んでよかったなあというのが最初の感想です。
さすがに以前のようにお昼ギリギリまで梗概を書いているという状況は回避できましたが、それでも今朝も梗概をチェックしたり投稿分野を確認したりで結構あわただしく過ぎてゆきました。卒業した島哲也くんや林輝輝くんは三月末には提出して巣立っていったので、もっと早くやろうと思えば出来るんだと思いますけど,,,。でもまあ、提出しただけでえらい!と褒めてあげるべきなんでしょうね。
昨年度のアニュアル・レポートも先週提出したし、これで昨年度の研究のとりまとめはほぼ終わったことになります。来週早々には新年度最初の研究室会議が開かれます。徐々に新年度モードに移行できるように意識を切り替えてゆこうと思います。
PS(2014年4月16日); その後、もう1編投稿していたことが判明して(内部ですったもんだがありましたが,,,)投稿梗概数は8編となりました。
また、はじまる (2014年4月8日)
今週からいよいよ授業が始まります。四月早々新入生のガイダンスをやりましたが、入学式はそのあとの四月八日です。どうも調子が狂ってしまいますが、前期の授業日程を考えるとそうしないと間に合わないそうです。
今年から一般教養の『基礎ゼミナール』を担当しますが、これは一年生全員が履修する必修科目です。たくさん開講されるゼミのなかから学生諸君が自分の好きなテーマを選んで受講するもので、人気のあるものは抽選になります。べつに大勢集まってくれなくてもいいですが、あんまり人気がないのもちょっとガッカリですな(って、いったいどっちなんじゃ〜)。とにかくどれくらい集まるか楽しみです。
『基礎ゼミナール』がどんな具合で進むのか、ちょっと予想ができないので、出たとこ勝負って感じでしょうか。ティーチング・アシスタントとして我が社のM1の星野和也くんを雇いましたが、彼は基礎ゼミの経験者ですから意外と役に立つかもしれません(まあ、どうでしょうかね、あははっ)。
それから初歩的な静定構造を教授する『構造力学1』ですが、今まで二年生用だったものを今年度から一年生用に降ろして来ました(カリキュラムの大改定を実施しました)。そのため今年だけは一年生および二年生の二学年分を一緒に授業することにしました。
受講者は合わせて130名くらいです。こんな大人数に講義をするのは本学では経験がなくて、明治大学で非常勤講師を務めたとき以来でしょうか。教える内容は従前の通りですが、教室の雰囲気がどうなるかとか、出席をとるのにどれくらい時間がかかるかとか(私は古典的にひとりづつ名前を呼んで手を上げさせています)、マイクの具合はどうだろうかとか、白板(黒のマジックで板書するので黒板ではない)の字は見えるだろうかとか、演習は大丈夫かとか、いろいろと考えますな。具体的に講義が始まったら、折に触れて報告しようと思います。どうかお楽しみに!(って、楽しくないって?)
うた声 (2014年4月6日)
きょうはちょっと肌寒くて、雷が鳴ったり雨が降ったりする荒れた天気になりました。こんな日に外に出かける気もしないので、久しぶりにスピーカーから音楽を聴いています。いま聴いているのは須藤薫の『Tender Love』です。調べたら1989年の作品でした。彼女は昨年亡くなりました。ふんわりとしてゆらゆらと揺らいでいるようなうた声がいいですね。昨年末には大滝詠一師匠がこの世を去って鬼籍に入りました。
そしてこの三月末にハイ・ファイ・セットの一員だった山本俊彦さんが亡くなりました。まだそんなお年ではなかったので本当に残念です。ときどき書いていますが、ハイ・ファイ・セットは私が買った和製ポップスの最初のアルバムです。高校生の頃ですが当時はもちろんレコードです。したの写真の『The Diary』(1977年)というタイトルです。レコード・プレイヤーも既になくてもはや聞くことはできませんが、このアルバムはCDにもなっていませんので、とってあります。
山本俊彦さんはボーカルの山本潤子さんの旦那ですが、作曲家として傑出していただけでなくて、そのファルセットの裏声が飛びきり素晴らしかったですね。そのお顔からは想像ができないようなうた声でした(うえの写真をご覧下さい、これは『Quarter Rest』というアルバムのレコード・ジャケットの裏面です)。
彼がリード・ボーカルをとった「夕空にハング・グライダー」という曲がそのファルセットを堪能するには最もよいとわたしは思っています。ハイ・ファイ・セットのヒット曲としては「卒業写真」(ユーミンのカヴァー)や「Feeling」が有名でしょうが、私が一番好きなのは「ファッショナブル・ラヴァー」ですね。ハイ・ファイ・セットの再結成は無理だろうと思っていましたが、それでも山本俊彦さんのそのうた声をもう永遠に聞くことはできないというのが寂しいです。ご冥福をお祈りします。
残 る (2014年4月4日)
コース長の仕事は名目上は終わりましたが、まだ残っている仕事もずいぶんとあります。その最たるものは2013年度の教員評価でしょうね。いつも書いているように、私はひと様を評価することも評価されることも嫌いですが、わが大学の制度として教員評価を行うことが厳然として決まっています。ですから、組織の構成員としてはそれに従わざるを得ません。
で、実は昨日、そのほかにも仕事が降ってきました。それは学生諸君の就職活動に関わる事柄です。最近では学校推薦などの効き目はほとんどなくなりましたが、それでも幾つかの企業からは学校推薦を求められることがあります。そうすると就職担当の教員(今回は鳥海基樹准教授[都市計画学])が、コース長あるいは学域長名義の推薦状を発行して先方に渡します。
その推薦状を渡したある企業から、推薦状を書いた人間であるわたくしに連絡があったのです。詳しくは書けませんが、それはよい知らせではあったのですが、実はその企業に対してそのまえに志望学生の無礼な振る舞いがあって、そちらに対しては相当に先方が憤っていることが判明していました。そこで、前コース長たるわたくしが、ひらにご容赦をとお詫びしたというわけです。
なんで私が学生の代わりに謝らなければならないのか。それは、コースや学域の管理者としての仕事がこんなところにもあるからです。というか、そうだということを認識した次第です。学生諸君の仕出かした不始末のあと処理をするのもコース長の仕事なんだあ、と感じ入りました。
大学での活動から (2014年4月3日)
コース長を一年間勤めたことを契機として、大学の自治について再度考えたことをこのページに書いてきました。大学の根本を支える制度としてそれは空気のような存在であるために、ともすれば忘れられ勝ちであることに危惧を抱いたせいです。
それに同意して下さった境有紀先生(筑波大学教授)が、別の視点から大学の自治の重要性についてご自分のページ内で説いて下さいました。自分で考えることの大切さを教育する最後の砦として大学があるのだというその論旨には、なるほどそういう見方もあるのかととても感心しました。しかしなによりも、同じ危機感を共有する大学人がいるということが分かったことが、とても嬉しかったですね。
昨日、本学では「研究費の不正使用防止のための研修」があって全員参加と言われたので出席しました(でも行ってみたら、どうみても"全員参加"ではありませんでしたが,,,)。そこで伺ったはなしは、例え悪意がなくても納税者である世間一般から見たらあなたのしたことは不正に当たりますよ、という事例の説明でした。そしていったん不正と認定されると、さまざまな罰則が適用されて、研究活動を続けることが困難になることが縷々説明されました。
幸い本学では事務方の厳しいチェック・システムのお陰で(普段はそれにブツブツ文句を言ったりするのですが)、そのような事例は生じないと分かってホッとしました。しかし文科省の罰則規定が強化されて、不正を犯した研究者だけではなくてその所属する機関までがペナルティを科されることになったというのは、なんだか戦前の連帯責任みたいな感じでいかがなものでしょうか。一握りの不心得者のせいで、まじめにやっている大多数のひとたちまで巻き添えを喰らうというのはどう考えても合理的ではないと思うのですが,,,。
とはいえ現実には不正事例があとを断たないことから、研究者といえども性悪説に従って律していかなければならないというのが残念ながらお上のくだした結論らしいです。そのような現実を前にすれば、個々人の倫理感に期待して合理性を云々しても詮無いことかもしれません。
ここのところ、学生の執筆した建築学会・大会梗概を見ているのですが、実験データの取り扱いとかその処理方法とかに無頓着な学生が立て続けにあらわれて正直なところ驚いています。そのデータがどうやって得られたのか、その数値がデータをどのように処理して出てきたのか、答えられないのです。それはどうやら、実験の経緯や計算の過程をちゃんとノートに書き付けていないということに起因していることが分かりました。
それって現在、世間を騒がせている理研のSTAP細胞事件と根本的には同じじゃないですか。そういう風に言って彼らに注意すると、エヘヘっとか笑っているんですけど、一歩間違えばその事件と同じように断罪されることになるのが分かっているのでしょうか。相当に心配ですね。
まもなく研究室のKick-off Meeting を開いて、研究テーマとか研究室生活の心得とかを説明することになります。しかし今年は例えば論文の書き方の作法とマナー、初歩的な材料試験のやり方、実験記録のつけ方、などの基本的な事柄を説明しなければいけないかなと思っています。
若いひとたちに研究遂行上の倫理を教育しないといけないという論調を最近よく新聞等で見かけるのですが、本当を言えばそんなことは一般常識を駆使すれば容易に分かろうというものばかりです。役に立つ研究ばかり求められるとか、短期間で成果を出さないといけないとか、現在の研究活動を取り巻く状況は確かに昔よりも過酷かもしれません。でもだからと言って、やってよいことと悪いこととの区別がつかない、ということの理由にはならないんじゃないでしょうか。
立ち止まってちょっと考えればわかることなのに考えない、あるいは考えようとしない、もっと言えば考えることを面倒がる、これが残念ながら現在の若者たちの姿勢のような気がしてなりません。だって私が情理を尽くして彼らに説明すれば、それに対しては分かったと言うのが常なのですから。オッサンの言うことは違うよ、という反論を是非とも聞きたいものです。
大学の制度的基盤 (2014年4月2日)
昨日、大学の自治について書きました。大学紛争の頃ならいざ知らず、今どき大学の自治なんかを唱えるなんて時代錯誤のアナクロニズムと思われるかもしれません。でもそれは、なにも角材を振り回してバリケードを築くような"武闘派"に限った話しでは全くないのです。
現在の大学における主要な関心事は、人口減少にともなう学生数の低下を受けていかに優秀な学生を確保して生き残るか、ということ(らしい)です。実際、研究専門の附置研究所のような研究機関を除けば、およそ大学というところには学生がいる訳ですから、学生なくして大学なしというのはまあ当然と言えばその通りです。
しかし、その学生諸君に対して個々の教員が、これは大切だと思う内容を自由に講義できるのはまさに大学における自治が確立されているためです。たとえ時の権力に楯突くような講義を行っても、大学の自治が正常に機能する限り、それをさまたげようとする権力の介入を防ぐことができるのです。あるいは大学における研究が教員個人の自由な発想においてなされ得るのもそのお陰なわけですね。
このような大学における制度的基盤の恩恵に浴してこそ、私たちは自由に教育・研究活動を行うことができるのです。そのことは重々承知しないといけないよ、ということを私は言っているのです。しかし大学における日々の営みがあまりにもすんなりと実行され平穏無事に過ぎてゆくと、大学の自治のありがたみをつい忘れてしまいます。あるいは大学の自治が現在のかたちに確立されるまでに、いかに多くの大学人たる先輩がたがご苦労を重ね、時の権力と闘ってきたかについても同前です。
ここまで来るとそれは平和ボケした日本人と同じで、大学人が自分たちの境遇がいかに恵まれているかということを忘れ果てていると言わねばなりません。だからと言って一教授である私が何かをできるというわけでもありませんが、少なくとも私はその空気のような「大学の自治」を忘れずに、それに感謝しながら毎日の大学生活をおくっているのです(ここまで書くとじゃあ本学の状況はどうなのよ、と言いたくなってしまいますが、今日はやめておきます)。
消費税 (2014年4月1日 その2)
今日から消費税が5%から8%にあがりました。で、増税後の最初の買い物はお昼ご飯を食べた大学生協でした。まだ授業は始まっていないというのに、カフェテリア方式のレジは長蛇の列になっていました。その理由はよく分かりませんが、消費税が8%になって1円単位のおつりが増えたことが一因であることは確かでしょうね。
ところで今日からその生協食堂でPASMOとかSuicaといったカードでも支払いができるようになりました。これなら小銭をジャラジャラやり取りしなくてよいのでとても便利です。そう思って、それならPASMOで払おうとしたのですが、読み取り器がなかなか反応しなくて結局イライラしました。レシートにはカード番号の一部が印刷されますので、今までのようにポイッと捨てるのも憚られて、それもちょっと面倒に思いました。
大学人 (2014年4月1日)
新年度を穏やかな陽気のなかで迎えました。南大沢の桜はまだ満開ではありませんが、七分咲きといったところでしょうか。今朝は、今日からはまたフツーの教員に戻ったんだという事実をかみしめながら登校いたしました(でも、それほどの感慨はありませんでしたけど、あははっ)。
さて、この3月31日をもって学部・建築都市コース長および大学院・建築学域長の職務を解かれました。これでまた当分は好き勝手にできるかと思うと、いやあ本当に嬉しいですね。でも先日書いたように、このお役目を勤めることによって大学の自治について思い至ることができたのが最大の収穫だったかもしれません。
大学の自治については今までも折に触れて書いてきましたが、その多くは書物から得られた知識をもとにしていて、字面の表面をサラッと撫でているようなものだった気がします。しかしコース長のような下級管理職の仕事に従事して汗をかくことによって、大学の自治を自らの手によって実践していることがよく理解できたのです。
すなわち教授の持ち回りで(私のところでは一年間)この業務に就くわけですが、その本義は教室の教授全員がこの職を勤めることによって大学の自治を守ることの重要さと大変さとを身をもって知るということにあるのだと私は思いました。
ところがこのような重大な使命があることはほとんど忘れ去られて、コース長は単なる雑用係に成り果てているというのが残念ながら実体であるように感じます。そうではなくて、教室の管理職を勤めることが大学の自治を保持することに直結するのです。しかしながら最近の大学人たちは、自分たちのことは自分たちで決めるという至極単純な原理をちゃんと認識しているのか、はなはだ疑問ですね。それは大学の内部にいる限り、空気のようなものですから通常は意識しないで過ごせます。でもそのことを忘却すると、知らないうちに自分たちの存立基盤を危うくすることになりかねません。
そのようなことに立ち至らないように、大学人は自分たちの手で自分自身を律さなければならないのです。これが私が一年間の「労働」を通して「肉体的」に知り得た総括的な事実です。別の言い方をお許しいただけるならば(不遜な物言いかも知れませんが)、この職を経験した者は大学の命運に対して大いにコミットすることを許容されるべきであると考えます。
花が咲く (2014年3月28日)
三月も末になって、南大沢キャンパスでもいろいろな花がやっと咲き始めました。ここのところ急に暖かくなったせいで、ハクモクレンが満開になりました。国際交流会館前の桜(品種は不明ですが、例年、三月中頃に咲き始めます)もほぼ満開です。ただソメイヨシノはまだつぼみのままでした。この分だと来週早々くらいに開花が予想されますね。
光の塔の中庭のスイセンは日当りの良いところでは咲いていますが、日陰ではまだのようです。いずれにせよ、いのちが燃え上がる春本番まであとわずかといったところでしょうか。
休日雑感 〜ある春の日の大学にて〜 (2014年3月27日)
(以下の文章は3月21日[春分の日]に記したものです)
ことしの春分の日はよく晴れて、いいお天気でした。教授会と代議員会とがあったので登校しました。情報処理施設の脇のハクモクレンの上のほうが朝陽に照らされていて、白いつぼみがもう少しで咲きそうなところまで来ていました。だんだん春らしくなってきた感じです。
今年度最後の代議員会を終えて、コースおよび学域の管理業務から一応は解放されました。でも思っていたほどのウキウキ感は湧き上がってきませんでしたね。なぜでしょうか。この三月になって大学再編計画が急展開したため、それに関連する臨時の会議が開かれたりして、宙吊りの状態のせいかもしれません。
せっかく休日出勤したので今年度のアニュアル・レポート作りに精を出しました。例年この時期に同じことを書いているので恐縮ですが、それでも書かずにはいられないってな感じです。特に今年は1月から3月にかけて実験が続いたので、日本語でさえその結果を記述するのは困難なのに、いわんや英文おや、です。ということで例によって英作文には苦労します。英文なんて誰も読まないので適当でいいやと時々チラッと思うのですが、その度にいやいやここで苦労しておくと後でよいことがあるぞと考え直して頑張っています。
そろそろ建築学会大会の梗概のことを考える時期になりました。我が社では例年、各自の割り振りを決めて必ず執筆するように言ってきました。しかし以前にこのページで吐露したように(こちらです)、研究する気のないひとにまで首に縄を付けるような格好で論文を書かせる元気がどうしても湧いてきませんでした。そこで今年はその方針を大きく変更して、やる気のあるひとだけ投稿するように学生諸君に伝えました。これが吉と出るか凶と出るか、ちょっとした賭けですな。もちろん十分な研究成果をあげたひとには是非梗概を書いて提出するようにというエールを送っておきました。
こういう状況ですので来年度早々のKick-off Meeting の際には例年のように研究テーマを提示するだけでなくて、その研究が「基礎研究」なのか「プロジェクト研究」なのかを明示しようと思っています。科研費をはじめとして外部から資金を得て行う研究(これをプロジェクト研究と呼びます)では、必ず成果を論文等にして発表することを求められますので、それに取り組む人にはそれなりのやる気と責任とを自覚してもらうためです。そうでないとあとが大変ですから,,,。
そういうオブリゲーションはイヤだし、気楽にやりたいというひとには基礎研究を担当してもらいます。ここでいう基礎研究とはスポンサーのない自主的な研究で、興味のおもむくままに研究してみようという感じですね。もちろん基礎研究も熱心に取り組めば立派な成果が得られるはずですので、それを論文としてまとめてくれればVery Good ですな。
などと来年度の研究の進め方についてはあれこれ考えているところです。なので上述したのは一例であって、どうなるかはまだ分かりません。ただ研究室の所帯が今までになく大きくなったのは確かなので(来年度は学生13名、教員は私を入れて3名です)、運営のやり方を変えないといけないなとは思っています。
追いコン2014 (2014年3月25日)
昨晩、研究室の追いコンがありました。今年度はM2がひとり、卒論生三名が巣立って行きます。毎年この時期に馴染みとなった学生諸君と別れ、そのすぐ一週間後には新しい学生さんを迎える、こういう一年間をもうどれくらい過ごしてきたのでしょうか。研究室を出て行った人たちが社会で活躍している様子を聞くとすごく嬉しく思いますが、卒業後に全く音信不通のひともいて元気でやっているのだろうかとふと思い出したりもします。
毎年、私はひとつづつ年齢を重ねてゆきますが、四月になって入ってくるのは二十歳をちょっと過ぎた若者諸君です。そんなことを考えると、私の周囲だけ時間がものすごい早さで流れているかのように錯覚して、軽い眩暈を感じるのでした。若い頃はこんなことを思いもしませんでしたが、人生の黄昏が視界にはいってくるようになってから、こんなことを考えるようになりました。人間の脳がそう感じさせるわけですが、これって一体どういうメカニズムなのでしょうか。それとも長いあいだ大学教員をやっているマンネリズムなんでしょうか。そのうちゆっくり思索してみたいと思います。
研究室をあとにしてゆく諸君の新天地でのいっそうの活躍を期待しています。
駆け込み (2014年3月24日)
よく晴れた日曜日、家族で買い物に出かけた。4月からの消費増税を控えて世間は駆け込み需要で沸き立っているようで、お店の賑わいが報道されている。そんなニュースを横目に見て、我が家ではそんなことはないだろうと思っていたのだが、たんなる幻想だったようである。
今まで使っていたプリンタの具合が悪くなって、いくら掃除等をしても綺麗に印刷できなくなっていた。そして昨晩、ヘア・ドライヤーを使っていた女房が焦げ臭い!と言い出すに及んで、じゃあ仕方ないから家電製品の買い物に出かけるか、ということになったのである。
で、安売り量販店(東八道路沿いのジョーシン電機)に行ってインクジェット・プリンタとヘア・ドライヤーを買って来た。プリンタ専用機が欲しかったのだが最近はそんな単機能の製品はないみたいで、ほとんど使わないだろうスキャナとかコピーとかの機能がついている製品を買った。キャノン製だが7,000円ジャストである。最近のプリンタは本体の価格は抑えてインクで商売するそうだが、なるほどと思った。ほぼ同じ機能でHPの製品のほうが安かったのだが、HPのプリンタは今までの経験からあまり信用できないのであっさり却下した。
ヘア・ドライヤーのほうは家内しか使わないので(だって私には必要ないでしょ、あははっ)、製品選びを任せたところ壊れたヤツと全く同じものを選んできた。こちらのお値段は6,300円である。マイナス・イオン?が出るということだが(なんじゃそりゃ〜)、結構お高い。高機能のプリンタとほとんど変わらないことに大いに驚いたのである。まあモノによってビジネス・モデルが異なるのでしょうな、よくは知りませんが。
さらに余談だが、子供がゲーム機を買ってくれという。友達はみんな持っているという(本当か〜?)。でもこちらはさすがに、じゃあ消費税が上がる前に買いましょうということにはならず、これからの生活態度をよく見てから考えてあげるね、ということで帰って来たのであった。
卒業式2014 (2014年3月20日)
今日は本学の卒業式・修了式でした。今年はなにかの都合でいつもの東京フォーラムが使えなかったので、午前中の卒業式・修了式は千駄ヶ谷駅前の東京体育館で開かれました。この建物は槙文彦先生の作品です。私は行きませんでしたが学長のほかに舛添要一・東京都知事も来たそうです。今年は寒かったせいでしょうか、例年三月中旬過ぎには開花する、国際交流会館前の桜もまだ咲いていません。
で、午後から南大沢の大学で卒業証書等の授与式があって、こちらは学部ごとに行われました。都市環境学部の式は講堂大ホールです。学部長を始めコース長たちは正面の舞台の上に坐らされました。照明がまぶしく照りつけるので結構熱かったですね、冷たい雨の降る寒い日でしたけど。そこでは各コースあるいは学域の代表1名が卒業証書や修了書を受け取るという儀式が行われました。そのあと西村和夫学部長の祝辞があったのはもちろんです。
それが終わるとコース・学域ごとに分かれて別々の部屋で個別に証書の授与が行われます。だんだんと末端に降りてくるっていう感じですね。で、学部・建築都市コースは64名、大学院・建築学域は36名、合計ジャスト100名の氏名を読み上げて、ひとりひとりに証書を手渡しました。それが私の仕事です。さすがに疲れました。
それで終わりにしてもよかったのですが(だって私はひとに話しをするのは苦手なものなので)、さすがにおめでたい席で贈る言葉を言わないのもなんだし、こんな機会は滅多にないので、二つのことだけ彼ら・彼女らに伝えました。それは端的に言えば、エリートたれ、ということと自分自身で考えて判断しろ、ということですが、このページでときどき書いて来た事柄ですので詳細は省きます。でも短いあいだの訓話で皆さんに私の真意が伝わったかどうかは定かではありません。
翻って自分が卒業のときはどうだったのか思い出そうとしたのですが、さっぱり憶えていなくて結構愕然としました。当時はまだ大学紛争の名残だったのか、工学部全体の卒業式というものはなくて、いきなり1号館の製図室のラウンジで卒業証書を渡されたように記憶します(間違っているかもしれません)。唯一おぼえているのは、そのあと謝恩会を白金台あたりのホテルでやったのですが、そこへ行くのに青山博之先生といっしょに正門前からタクシーに乗ったことだけです(どうでもいいことだけ憶えているのだから不思議)。
自分がそんなあり様だったので、卒業生に向かって私が何を言ったところで多分なにも憶えていないんだろうなとチラッと思いました。まあ、因果は廻る糸車、なのでそれでいいんですけどね。
そうそう謝恩会ですが、本学でも建築系の卒業生諸君は例年盛大な会を催してくれるようですが、ここ数年わたくしは参加していません。とくに理由はないのですがあえて言えば、学生諸君がかなりの額の費用を負担しているらしいことが気の毒に思うことと、実体は彼ら自身が楽しむための会に教員が刺身のツマのように呼ばれて出向くのもなんだかなあ、と感じるためかな。でももちろん招待してくれる卒業生諸君の気持ちはありがたく受け取っていますのでご安心を。
長寿命建築プロジェクトの実験 (2014年3月18日)
今日の午後、長寿命建築プロジェクトの実験がとりあえず一段落しました。ちょっと歯切れが悪いのですが、事情があって“完了”というわけにはいきませんでした。まあ仕方ありませんな。怪我などがなく終えることができて、なによりです。
担当の宋性勳さん、晋沂雄さん、田島祐之さん(アシス株式会社)をはじめ、プロジェクト・リーダーの金本清臣さん(清水建設技研)や北山研究室の諸君の協力に感謝します。三月になって急に暖かくなり、こんな陽気だと実験も楽だなあと話していました。実験終了直後の記念写真を載せておきます。
2013年度最後の教室会議 (2014年3月17日)
今年度最後の教室会議が先日、終わりました。この日は議題がほとんどなかったこともあって、所要時間は学部・建築都市コース会議と大学院・建築学域会議との二つ合わせて40分でした。この一年、会議の時間をできるだけ減らすべく努力してきましたが、その目標は達成できたと自負しています。
教室会議の構成員の皆さんには多分ご理解いただいていると思いますが、私は議論は好きなほうではありません。私の差配する会議を深尾精一先生がご覧になったら多分、なんて議論の嫌いなヤツなんだろうと言われたに違いありません。もちろん議論を要する議題では皆さんの意見をおおいに伺って、大勢に従うようにしました。
しかしそうでないような多くの場面では、私自身が決めました。コース長(および学域長)にはそれくらいの決定権は委ねられているだろうし、むしろ皆さんから期待されていると思ったからです。言わずもがなですが、個々の問題についてしっかりと考えて判断し、場合によっては数名の教授の先生のご意見を伺ったりしながら注意深く決めていったのはもちろんです。
そんな管理的な仕事を一年間勤めました(まだ半月あって、終わったわけではありません)が、結論からいえばよい経験になったと思います。大学の自治を守るためには、まずは自分たち自身を律することが不可欠です。そのためには教員の代表がそれなりに汗を流して、後ろ指をさされないように自分たちのことを合理的に決めるとともに、権力の介入を防ぐべく努力する必要があります。コース長とはそのような役割を果たす機関であるということを、身をもって認識することができたのです。大学人としてこれは得難い経験であったと今は思いますね(もちろん、そのような仕事をしているときにはブツブツと文句を言ったりしていますけど)。
という具合で、一年が過ぎようとしています。今となっては結構早く過ぎていったという感じでしょうか。残すは卒業式・修了式くらいでその儀式が終わったとき、名実共にコース長のお役目から解放されるような気がします。次にこのお仕事が巡ってくるのは四、五年後のことだと推量しますので、それまではまた今まで通りに勝手気ままに研究・教育に従事しようと思っています。その解放感を思うとワクワクしますな〜。
国際交流 (2014年3月14日)
昨日、マレーシアとインドネシアから短期交換留学制度を利用して本学を訪問した学生さんたちに、大型構造物実験棟を見学してもらいました。先週、急に言われてあわただしく決まったため、私自身が説明することになりました。まあ、幸いなことに長寿命建築プロジェクトの実験中で、載荷が終わった試験体も置いてあったので説明のための材料には困りませんでした。
ただ私の英語が分かりにくかったためかもしれませんが、正直言って彼ら・彼女らの反応は芳しいものではありませんでしたね(彼らは農業土木を学んでいると言っていました)。海外から来たとはいえ相手は学部学生ですから、自分の大学の三年生なんかも実験の説明をしていても半分以上はそっぽを向いているような状況であることを思い出せば、まあ、ある程度予想されたことではありましたが。
しかしそんなふうな突然(のように私には思えましたが)の訪問に対してテキパキと対応していた事務方の人々はホント大変だと思いました。仕事は増える一方なのに人員は減らされるという日常のなかで、いかに効率よく仕事をするかということを真剣に考えないといけないような気がしますね(もっとも既にしぼられきっていて鼻血も出ない、という状況だとは思いますけど,,,)。
ただ教育というものはそういった効率とは対極に位置する活動です。手間ひまかければそれだけのものは得られるし、結局は人と人との結び付きである、というのが教育の本質だと思います。さっとやって来て、さっと帰っていってしまう外国の学生さんにまで手間ひまかけて対応するのか、という気もしますが、情けは人のためならず、です。そうやって面倒を見ておけば、こちらの学生があっちへ留学したときに厚遇してもらえるかも知れないし、本学のサポーターになってくれるかもしれません。
でも国際交流とは、そんな下心を持って臨むものなのでしょうか。本来、上述のような損得なんかを考えてはいけないのかもしれません。そんなことを考えさせられた見学会でした。
三年の日月 (2014年3月11日 その2)
東北地方太平洋沖地震が発生してちょうど三年が経ちました。被害を受けた方にとってはそのときから時間が止まったように感じられるのかも知れません。そのような皆さんには改めて心からお見舞い申し上げます。
わが大学でも地震発生時刻に校内放送があって一分間の黙祷を捧げました。私は7階の研究室にいましたが、北を向いて静かに手を合わせました。ただ私のように建物の耐震構造を研究しているものにとっては、この三年間はあっという間に過ぎてしまったというのが実感です。これはもちろん自分自身が年をとってきて、時間の流れが加速的に感じられるというだけかも知れません。
しかしそれでも折に触れて書いてきたように、社会に対して工学の果たすべき役割とか、人間自身の幸福の増進に寄与するための「血のかよった工学」の実践とかを常に考えてきました。私のやれる範囲でそれらを考えて可能であれば実践すること、これが私に課された使命だと考えます。そのなかには既存建物の耐震補強や新築建物のための新しい設計法の構築や、そして安全で安心できる原発建屋のための耐震性能評価手法の確立ももちろん含まれます。
自分自身の関心のおもむくところに従って研究を進めてゆくのは普段通りですが、世間の皆さまへのご恩返しの意味でもその成果が社会のお役に立つように工夫したいと思っています。そんなことをしっかりと意識した“三年目”です。
散策・神宮前 〜塔の家との邂逅〜 (2014年3月11日)
先日、日本免震構造協会の会議に出席するため神宮前に行った。何度か書いたように(例えばこちらとかこちら)、高校時代には馴染み深かったエリアである。この日は地下鉄・銀座線の外苑前駅ではなくて、総武線各駅停車の千駄ヶ谷駅で下車した。理由は特にないが、明大前駅で井の頭線に乗り換えるのが面倒だったことは確かである。東京体育館の脇を通り抜け、急な坂を下って外苑西通りに出て、その通りを南下した。途中の明治公園やビクターのレコーディング・スタジオなどは昔のままでとても懐かしい。
さらに少し歩くと会議室のあるビルに着く。だが会議までにはまだ三十分くらいあったし、天気もよかったので久しぶりに「キラー通り」を歩いてみるか、という気になった。通常ならば外苑前駅で降りて青山通りをちょっと行き、ベルコモンズの脇を右折してこの通りに入るというのが普通のルートだろうが、今日はその逆をたどったわけである。
坂を上ってゆき、緩やかに左にカーブした道の先にワタリウム美術館が見えてきた。これはマリオ・ボッタの設計である。建物のファサード全体がキャンバスのように使われて、へんてこなインスタレーションが施されていた。あんまりよいとは思えなかったが,,,。
しかし私の目を引いたのはワタリウム美術館ではなかった。くだんの建物は私が歩いてきた歩道の脇に建っていたのだが、はじめはあまりにも近すぎて建物の全体がつかめなかったのである。だが、コンクリート打放しの細長く聳えている外形が視界の端に入ったとき、私の脳裏にビビッとひらめくものがあった。あれっ、これってもしかして「塔の家」じゃなかろうか、と。
これは東孝光氏の設計になる都市型狭小住宅で、建築界において最も有名な住宅のひとつであろう。日本の近代建築DOCOMOMO百選にも入っている。築後約半世紀を経ているのでコンクリートの地肌はさすがにそれなりの年輪を感じさせたが、そのエッジが効いた先鋭的で衝撃的な姿は私が学生のときに感じたものと全く変わりないままであった。こんなところに建っていたのかというのが最初の感慨である。
この住宅をこの目で直接見たのは実は初めてであった。こんなに身近なところに建っていたのに、学生時代には足を運ばなかったのである。その理由は今となっては分かるはずもないが、当時は東京都内をはじめとして日本各所に建築を見に行っていたので、そこまでの熱意はなかったということだろうか。
現在の「塔の家」の周辺にはそれよりも高いビルが立ち並んで、相当に肩身が狭く感じられる。とても“塔”とは形容し難い。だが手元にあった写真集(『現代建築家全集 24現代作家集II』(栗田勇監修、三一書房、1973年8月)を見ると、この「塔の家」周辺に高い建物はまだ建っていなくて、文字どおり塔のようだったことがわかる。こんなところにも歳月の重みが感じられて、そのことがまたこの建物の風格を強くしているのかもしれない。この家のアクソメ図(こちらより)があったので、下につけておく。
選択と集中 (2014年3月6日)
「選択と集中」というのは、わが大学の学長先生が本学の将来に向かって掲げるスローガンである。資源(端的に言えば、お金と人材)は有限なのだから、研究テーマを取捨選択してその部分に優先的に集中して注ぎ込むことによって、鋭いピークが複数あるような特色ある大学を目指す、ということだそうだ。以前にお話しした"ノーベル賞受賞をあと押しする"というのもその一環なのだろう。
で、そのような"選ばれし者"のなかにわれわれ建築学教室も数えられているらしい(深尾精一先生をチーフとしたプロジェクトが以前に文科省COEプログラムに採択されたことが大きかった)。しかしそんなふうに言われても、少なくとも私は別に嬉しくもない。もちろん厄介者みたいに思われてはいないということに安堵するし、"選択"された結果として予算措置でもされればそれは素直に嬉しい。
しかしながらいつも書いているように、研究はひとのためにやっているわけではなくて(もちろん、結果として他人さまのお役に立てば幸いなのだが)、ましてや大学の名前を売るためにやっているわけではない。自分の知的欲求を満足できて、さらに欲を言えばなにがしかの問題を解決できたというささやかな喜びを研究室のチームみんなで共有できれば、これにまさることはない。
確かにこれからさらに加速する少子化社会を目の前にして、大学も安穏としていては若者に入学してもらえなくなる。現に大学全入の時代を迎えて、本学の学生のレベルも少しずつだが確実に下がっているように感じる。志望する大学として若者から選択してもらうためには、それなりのプレゼンスを示さないといけないということは理屈としては分かる。
しかしそのために常に改革を求められ落ち着く暇がないというのも、いかがなものだろうか。出て行くものばかりで入ってくるものが少なければバランスがくずれて疲弊するのは目に見えている。それがボディ・ブローのように効いてきて、ある日立ち木が枯れるようにバッタリ倒れてしまっては本末転倒も甚だしい。
心底ではこのように考えていても、建築都市コースのコース長として大学執行部の管理体制の末端に坐っていると、コースの教員たちの「座布団」がかかっているので自分勝手なことも言えない。精神衛生上、あまりよろしくないのである。だがそれもこの三月末までの我慢かと思えば、まあ辛抱しなくっちゃなあと自分に言い聞かせる今日この頃なのであ〜る。
草創のころ (2014年3月5日)
学士会からメールマガジンが毎月始めに送られてくるのだが、そのなかに「学士会アーカイブス」というコーナーがある。これは過去に学士会報に掲載されたコンテンツをデジタル化したもので、時代を反映した興味深い内容のものが多い。
で、今月号を見たら武藤清先生の『超高層ビルと地震・風』という昭和49年1月号の小文が紹介されていた(こちらをどうぞ)。それを読むと日本における超高層建物の誕生(霞ヶ関ビルのこと)やちょっとした弊害?についてコメントされていて、なかなか面白かった(なんて、文化勲章受賞の大先生に向かってえらそーですみません)。
そのなかに幻となった東京駅超高層化計画についても触れられていた。このときに為された検討等が日本における超高層建物の設計・建設に向けて実用化のめどをつけたとして、私のように建築耐震構造学を学ぶものにとってはよく知られた事実である。しかし一般の人びとは今となっては多分ご存じないだろう。
だが、このときのこの計画が実施されていれば、辰野金吾の鉄骨レンガ造の駅舎は取り壊されていただろうことを思うと、なかなかに複雑な気分である。日本の表玄関にはやはり辰野建築が相応しいような気がするからである。壮大な計画に向けて日本の叡智が結集されて、超高層建物の実現に向けて一気に技術が進歩したこの計画は、今思えば計画だったからこそ意義があった、ということだろうか。武藤清先生がこの計画の中止に対してどのような感慨を持たれたかは、この小文には書かれていなかった。ひとこと「この国鉄の計画は実現しなかったのですが、,,,」と述べられているだけである。
こんなところにも歴史の機微が感じられておもむきがある。
外国の名作を読む (2014年3月4日)
唐突だが、私は子供の頃から海外の名作と言われる文学をほとんど読んだことがない(もちろん自慢することじゃないが,,,)。その理由は簡単である。海外の文化を基底として海外の言語で書かれたものを日本語に訳したって、奥深い本当のところは理解できないはずだと思っているからだ。まあこれが正しいかどうかはここでは議論しないでおこう。
さて年が明けてから、シーズンも終わったというのに子供の祖母がどういうわけか『クリスマス・キャロル』(チャールズ・ディケンズ著、R.インノチェンティ絵、もきかずこ訳、西村書店新装版、2013年11月)という絵本?を置いていったのである。その理由は伺っていないのだが、女房も子供の頃に同じ小説を渡されて読まされたということなので、どうやらこの小説がお好きなようである。
ただ、いくら絵がたくさんあるとはいえ、小学校低学年が読むにはまだちょっと早い。そこで子供が読んで聞かせてくれという。ということで150ページの本を1週間くらいかけて読み聞かせたのである。『クリスマス・キャロル』を読むのはもちろん初めてである。
そうして読み進むうちにやはり、冒頭に書いたように私の考えていた通りとなった。われわれ日本人の多くにとってキリスト教とは極めて不思議な宗教である。三位一体という言葉は知っていても、その本質については何も理解していない。クリスマスはわれわれ日本人にとっても馴染みは深いが、それは表面的なことだけで宗教的な行事としての意義など知る由もない。
そういったキリスト教観を持ち合わせないので、『クリスマス・キャロル』の字面は理解できるし、人間として他人に優しくしないといけないという倫理観は共有できるのだが、それ以上の奥深い思想などは全く分からなかった。
「パパ〜、精霊ってなあに?」と聞かれても、うーんと首を傾げることしかできなかった(このお話しには精霊が三人[精霊はヒトではないだろうから、“人”は不適切か?]登場する)。この本の絵では幽霊のようにも描かれ、天使のようでもあったが、多分そのどれでもないのであろう。そんな基本的なことさえ分からないのだから(もしかしたらキリスト教をちゃんと理解しなさい、ということかも知れないが)、これでは『クリスマス・キャロル』を読んだ、と胸をはって他人さまに豪語できようはずもない。
ということで海外の名作を否定するものでは全くないが、それを読んでちゃんと理解しようとするにはそれ相応の学習が必要で、それなりの覚悟が必要なのである、もっと言えばその作品が書かれた風土というものを自身で追体験しないとダメ、ということを再認識したのであった。正直言ってハードルは高い。皆さんは如何お考えでしょうか?
ひな祭り (2014年3月3日)
いつのまにか三月になったが、まだまだ寒い。私は先週中盤に風邪を引いてしまい、途中、教室会議や外での大切な会議があって無理をして登校したのがたたって、また寝込んでしまった。それゆえ外界の様子はよく分からない。毎年一回は風邪を引いて休むことが多く、そろそろ春なので今年度は大丈夫かなあと思っていたのだが、やっぱりそうは問屋が卸してくれなかったな。
無理をして仕事をしてもそのツケは自分で払わないといけないのだからよいことはない。そうは分かっていても、責任ある立場だとそうも言ってられない。やっぱりお気楽な生活が一番ですなあ。
雪が消えた玄関脇の小さな花壇にチューリップの芽が出ているのを見つけて、家族一同大いに喜んだ。かなり長いあいだ雪に閉ざされていたので大丈夫かと心配したのだが自然の営みは偉大である、ちゃんと春をキャッチして発芽したのだから。なんとなく花粉は飛んでいるようだが、まだそれほどムズムズすることはない。春本番はもう少し先、ということであろうか。
科学の徒 (2014年2月25日)
先日、日本学術会議である会議があった。私にとっては二度目の参加である。昨年11月に書いたが福島第一原発の汚染水処理問題を議論して、その解決のための叡智を提供しようという趣旨の会議である。私は日本建築学会から派遣された専門委員という位置づけで参加している。正式な名称は「東日本大震災復興支援委員会」のなかの「汚染水問題対応検討分科会」(委員長:和田章東工大名誉教授・日本建築学会前会長)というそうだ。
この分科会には日本学術会議会長の大西隆先生のような工学分野の先生方だけでなく、文系や理系の先生も多数参加されている。これらの先生方の発言を伺っていると、仰ることはもっともなことばかりで理解はできるのだが、わたしのような工学分野の人間にとってはともすれば違和感を抱くことが多々あった。
その根源がどこにあるのかというと、人間の役に立つモノを作り上げようという意思の欠除ではないのかと考えるに至った。私たち工学に携わる者は、たとえ分からないことがあってもいろいろと傍証を積み重ねることによって、現在得られている最高の知見に基づいてモノを作って社会のお役に立てようとする。
ところが理学分野の方はそうではなさそうだ。分からない、確認できないという障害にぶつかるとそれ以上は前進できずに、モノの構築を否定する方向にむかうようだ。あるいは理論的には正しくとも、現実にそれを実現することは不可能に近いようなことを平気で主張される(仰る通りだが、そんなこと実際には無理でしょう、という内容で、言っていることは正しいだけに始末が悪い)。
ここに大きな溝が横たわっているわけだ。この分科会は汚染水問題の解決のために協力しようというのが本来の趣旨なのだろうが、ともすれば東京電力への批判や政府への注文の声が大きくなって、そこから逸脱するように私には感じた。
科学を信奉するものとして、いろいろな主義主張を持つ人たちと多種多様な議論をすることは大切だし有意義だと思う。しかし実際に作業をしている東京電力の関係者や日本国のお役人さま達にとって、それがどのくらい役に立つのかは正直いって私には疑問に思える。外野であれこれ文句をいうよりも、極論すればサイトに行ってがれきの処理でも手伝ったほうがずっと役に立つのではないか。
私は折に触れて人間のための血の通った工学を主張してきた。しかしそれを実現するためには、工学の特質やモノを作るとはどういうことなのかを他分野の有識者の方々に理解してもらうことが先決であるということに気がついた。逆に言えば、私のようになんとかしてモノを作りましょうという考え方は、必ずしも多くの賛同を得る主張ではないということだ。そういうことに気が付かせてくれたという点でこの会議は、私にとって有益だと思うようになったのである。
ちなみにこの分科会で私は建築構造学の研究者としての意見は一度も言ったことがない(自慢することじゃないけど,,,)。何のために出席しているのか今のところは不明だが、そのうちお役に立つこともあるのかもしれないな。
スラブ付き試験体の搬入 (2014年2月24日 その2)
トップ・ページに記載したように、先週末にスラブ付き試験体を大型構造物実験棟に搬入しました。校内にはまだ雪がかなり残っていて、道路の両脇には雪がうずたかくかき上げられていました。写真のように左手の大型実験棟の脇にも雪が積まれていますが、これはトラックが入れるようにこの朝に雪かきしたものです。
トラックがロング・ボディだったせいもあり、道路の雪が邪魔になって大型実験棟への搬入は大変でした。おまけに(この写真には写っていませんが)大型実験棟の隣は新しい研究棟の建設現場なので、そちらの出入り車両とひっきりなしに干渉してしまい、やりにくくてかなわないと田島祐之さんがボヤいていました。
この実験とは関係ありませんが、隣に造っている新しい建物はノーベル賞候補者と言われている本学・教授のかたのための研究施設で、全学をあげてその受賞を後押ししようということだそうです。大学のプレゼンスのためにはそこまでやるということで、ホントすごいですね〜。
おっと話が脱線しました。私たちの実験は国土交通省の長寿命建築プロジェクトの一環として実施するもので、プレキャストの柱および梁部材をアンボンドのPC鋼材を通して緊張することによって圧着して一体化させる、という構法で造られています。今回はより実情に即したものとするために、この柱梁部分骨組にさらにスラブを付けて実験します。担当のD1・宋性勳さん、晋沂雄・特任助教および田島祐之さんの健闘を期待しています。怪我や事故のないように慎重な作業をお願いします。
知っちゃいない 〜五輪異見〜 (2014年2月24日)
ロシアで開かれていた冬期オリンピックが終了したそうですね。私は特に興味もないのでライブで見ることもなく、朝のニュースでチョコッと結果を聞くだけで終わりました。そういったテレビや新聞の報道だけしか知りませんが、メダルを取ればとったで注目され、期待されていたひとがメダルを取れなければそれはそれで注目されるという、はたから見ていると本当に気の毒な様子でした。
われわれ市井の住人はその選手がどんな経緯の末に五輪の場に至ったのか、そんなことは知りはしません。ものすごく苦労したのかもしれませんし、運に恵まれただけなのかもしれません。そんなことは分かりません。それなのに結果だけポッと聞いて、なんだよダメじゃないか、みたいな感想を言われては、当事者として遣る瀬ないのではないかと同情を禁じ得ないわけです。
そういう世情を目の当たりにすると、オリンピックに出場するような一流のスポーツ競技者も大変だなあと思います。突然褒めそやされたり、その逆の立場になったりと目まぐるしく世評は転変するわけですから、心休まる暇がないのではないでしょうか。それともそんなことを気にするようなひとは、そもそも一流にはなれないということでしょうか。
かつて五輪は参加することに意義があるなどと言われましたが、そのような牧歌的な時代はとうに過ぎ去り、今やメダル至上主義の世のなかに至ったようです。でもスポーツってそういうものなのでしょうか、甚だ疑問です。ときどき書いていますがスポーツ競技の際に日の丸を背負っているとか、日本国を代表するとか、そんなことを意識するのはもう止めにしたほうがよいと思います。
南大沢たより (2014年2月20日)
寒い日々が続きますね。おかげで雪がなかなか溶けません。大学構内のインフォメーション・ギャラリーはガラス屋根なのですが、降雪から三、四日経ってから落雪によってそのガラスが次々に割れ始めました。山形トラスですが、その両脇の黒々したところが積もったままの雪です。この雪がそのすぐ脇にある下屋状部分のガラス屋根に落ちて、それが割れているのです。こんなことは1991年に大学が南大沢に移転して以来、初めてではないかと思います。
網入りガラスなのにそれが紙のようにめくれていて、ぞっとしました。まだ大量の雪が残っているようなので、さらに被害が拡大しないかと心配です。キャンパス内も下の写真のようなあんばいで、昨日も職員の方々が雪かきをしていました。ホントに大変です。
近づく (2014年2月19日)
葉室鱗著『蜩ノ記(ひぐらしのき)』(祥伝社文庫、2013年11月)を電車内で読み終わりました。今までこの著者の本は五冊読んでいて、『秋月記』については2012年3月14日のこのページにちょっと辛口の感想を書いています。この五冊のなかでは『銀漢の賦』(文春文庫、2010年2月)がよかったと記憶しています。
さて直木賞受賞作の『蜩ノ記』ですが、さすがに著名な賞をとっただけあってなかなかよく出来ていました。物語に厚みがあって、手に汗握るような場面も所々に配されていて一気に読んでしまいました。ただラストは予想通りの悲しい結末なのですが、その悲しみのなかにも一服の清涼感のようなものをうまく盛り込んでくれたなら、読後の印象が爽やかになったのになあと惜しまれます。
そうは言うものの優れた時代小説であることは間違いありません。以前の作品に較べれば明らかによくなっています。その意味で藤沢周平の境地に少しづつ近づいているのは確かだと思いました。司馬遼太郎あるいは山本周五郎のテイストとは明らかに違って来ていると感じます。葉室鱗の小説はこれからも読んでいきたいですね。
雪の南大沢2014 (2014年2月17日)
雪の話題はまだまだ続きます。道路の閉鎖や大渋滞で世間では物流が滞ったままのようですが、今朝南大沢駅を降りてまたまた驚きました。雪がやんで丸二日経ったのですが、南大沢駅前の様子は下の写真のようにまだ大量の雪が残ったままでした。
駅のペデステリアン・デッキの下を通るアンダー・パスは未だ除雪が不十分らしくて、車はノロノロ運転で渋滞していました。大学へと続くペデもひとが僅かに通れるくらいしか除雪されておらず、おまけに(八王子は寒かったらしくて)凍結していてみなさんそろそろと歩いていました。
大学構内は上の写真です。屋根付きの通路はさすがにきれいに除雪して下さったみたいで歩き易かったですが、キャンパスにもどっちゃりと雪が残っています。これは大変ですねえ。来週の入試までには溶けて消えてくれることを祈ります。
ものすごい雪 (2014年2月15日)
いやあ、すごい雪でしたね。昨日の夜帰るときのキャンパスの写真です。文字通り吹雪でした。京王線は予想とおりダイヤが滅茶苦茶になっていて、おまけに速度制限されていてノロノロ運転でした。もっと早く帰ればよかったと思いましたが、あとの祭りです。駅で停まって扉が開くと満員電車にもかかわらず雪が吹き込んできました。
さて一夜が明けて我が家の周辺を見ると、先週よりもずーっと積もっていて、もう驚愕しました。屋根からの落雪の音がそこかしこからとどろいてきます。我が家の北側の狭い通路には屋根からの落雪が積み重なって圧雪状態になっていました。空調の室外機がほとんど埋もれていてまずいことになりそうだったので、苦労してその部分だけ除雪しました(下の写真です)。雪かき用のスコップが写っているのでお分かりになると思いますが、局所的には80cm近く積もっていました。
東京でのこんなものすごい雪は多分生まれて初めてだと思います。実は所用があって朝、駅まで歩いて行こうとしたのですが、子供を連れていたこともあってとても無理で断念して引き返しました。こんなに雪が残っていては仕事に行くのも大変ですから、週末で良かったです。
東京吹雪 2 (2014年2月14日 その2)
先週末の雪がまだ溶けずに根雪になっていましたが、今日もまた結構な雪が降っています。朝から電車は遅れていましたが、夕方以降はどうなるかちょっと心配です。東京で吹雪を体験することは滅多にないと思います。もちろん雪国のかたから見ればたいしたことはないのでしょうが、私たち東京者にとっては雪はやっぱり物珍しいですから。住宅街の狭い道をチェーンも付けずに走る車が怖いですね。明日はまた雪かきをやらなきゃいけないかと思うと、ちょっとげんなりです。
写真は現在の南大沢キャンパスです(正面の建物は国際交流会館)。先週積もった富士見坂の雪はやっと消えかかっていたのに、またこんな感じで積もり始めました。
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午後になってから、すごい降りになってきました。7階にある私の研究室からは普段は京王線の高架が見えるのですが、今は真っ白でなにも見えません。これじゃあ、ホントに遭難するんじゃないかと心配になってきました。どうするかなあ〜。
やっと一段落,,,か? (2014年2月14日)
先週の金曜日の晩に非常勤講師懇親会があって超多忙だった一週間が終わりました(もう一週間が経ったんですね)。その懇親会の場で数人のプロフェッサーから、これでコース長もだいたい終わりですね、と言われました。でも私は正直そんな気はしません。まだ入試もあるし、年度末に要求される様々な行事とか書類とかがたくさん待っています。
昨日は大学で一日中会議でした。代議員会では今年度末のいろいろな締め切りが列記されたペーパーを西村和夫学部長が用意して下さったので、思い出せてよかったですけど、逆に言えばまだまだやることがたくさんある、ということにもなって、ちょっとげんなりしました。
また今まで大過なくコース長のお役目を勤めてきたと思っていたのですが、人事にかかわるちょっと大事なことをすっかり忘却していたことに気がつきました(詳しくは書けません)。我ながらなぜ忘れてしまったのか、どうしても分かりませんでしたがそうも言ってはおられず、リカバリーのために必死になって諸方にお願いしているのが現状です。執行部の方々は仕方がないなあと半分あきれながらもご尽力くださっているみたいで、今はそのお情けにすがるばかりです(とほほ、情けなや〜)。
こんな状況ですので、とてもひと段落という気分ではありません。しばらく研究室のことは放りっぱなしでしたので、実験や試験体作製についてしっかりウオッチしないといけないなあと思っています。ですから年度末恒例の芝浦工大・岸田研究室との合同ゼミナールも今年はどうなるか分かりません(来週、岸田さんと相談する予定です)。
実験について言うと、M1・片江拡くんが担当の立体隅柱梁部分架構実験は2体の加力が終わって、残りは平面外柱梁部分架構(ト形)試験体1体となりました。これが終わり次第、長寿命建築プロジェクトのPCaPCスラブ付き柱梁部分架構実験が始まります。こちらはアジア人材育成基金で来日したD1・宋性勳さんが担当で、特任助教・晋沂雄さんが補佐役を務め、さらにアシスから田島祐之さんが助っ人で来る予定です。
さらにM1・川嶋裕司くんが1月末にやっとPRCスラブ付き十字形柱梁部分架構試験体の設計を終えて作製にとりかかり始めました。3月には試験体を搬入して実験する予定でいます。これが我が社の現況ですから、研究のほうもひと段落というわけには全くいきませんな。
東京に吹く風 (2014年2月9日 その2)
東京都知事選挙の結果が出ました。政策の実現可能性や今までの実績、そして消去法によっても舛添要一氏が妥当だという市井の人々の審判でしょうね。原発政策だけに焦点が当たるような選挙にならずに本当によかったと思います。ただでさえ前都知事のときには都政が停滞して“失われた一年”となったので、絵空事みたいなことを唱えられては大変なことになるところでした。
福島第一原発の事故からほぼ三年が経ち、状況は未だに予断を許さないとは言え、東京都民は冷静さを取り戻したという感じを受けました。自分たちの生活や社会活動において電力は必須であり、その恩恵を今まで潤沢に蒙ってきました。その事実の持つ重みは忘れてはいけないでしょう。電気のありがたさが身にしみましたから無駄使いはしませんが、必要な電気は使ってよいと思います。さらに言えば原発が立地する地域のひとびとにとっては突然に原発を廃止されると明日の暮らしに困る、という現実も直視すべきです。これを要するに、東京に住む人たちが即時原発ゼロというのはきわめて感情的なアーバン・センチメントなんだろうと思います。
2020年の東京オリンピックには私はほとんど期待していませんが、それでも東京の都市環境がさらに良いものになるならばそれはそれで歓迎です。少なくとも建設業の人々には強い期待感があって追い風になっていますから。
私の勤める大学は東京都が設置する公立大学ですから、知事が何をいうかということには結構敏感です(私が、というのではなくて大学執行部が、という意味ですけど)。新しい都知事が本学に対してどのような施策あるいは運営方針を抱いているのかは今のところ不明ですが、元々は大学人だったのだからそんなにおかしなことは言わないだろうと期待しています。願わくば、2005年の新大学開設以来の非常事態を解消するためのエンジン役を務めていただければ嬉しいですね。
東京吹雪 (2014年2月9日)
すごい雪でした。昨日の夕方に玄関回りだけでもやっておこうと思って雪かきを始めたのですが、スキー場みたいな猛吹雪でもう目を開けていられません。外を歩いている人などおらず視界全体がホワイト・アウト状態で、東京郊外で遭難するんじゃないかと思ったくらいです。実際、夜になってから帰って来た女房は、周囲が真っ白で道路が分からなかったとその恐怖を語っていたくらいです。
で、一夜明けると一面の銀世界でした。我が家の回りの積雪は30cmをゆうに超えていて、40cmくらいはあったのではないでしょうか。車は半分埋まっていました。午前中一杯は子供と一緒に雪かきです。小学生の子供でも結構役に立って助かりました。ご近所じゅうが総出で雪かきをやっていて、お年寄りのお家の前もうちの子供を含めて皆さん助け合ってやっていました。そのお陰で、我が家の周囲の道路はすっかり除雪ができて綺麗になりました。でも腰とか背中とかが痛くてたまりません。
今日は東京都知事選挙です。陽が射してきましたので、もう少し雪が溶けて歩き易くなってから投票に行こうと思います。誰に投票しようか、ずっと考えていました。はじめは前回知事選と同じく弁護士のかたにしようかと思っていましたが、このひとは(代替案もないままに)脱原発を掲げているし、あまりにも共産党色が濃いのでやめようと思います。死票になるのもイヤだしなあ。元首相や元軍人は論外です。
元東大助教授だったかたは個人的にはあまり好きではありません、自民党だし。でも、好き嫌いで政治を決めてはいけないと女房から言われて、確かにその通りなので考え込んでいます。まあ投票所に行くまでどうなるかは分かりませんねえ。私のように投票用紙の前でうーん、どうしようかなあと迷っているひとって、結構多いんじゃないでしょうか。
建築への優しいまなざし 鈴木博之先生の訃報に接して (2014年2月7日)
私が建築のもつ魅力とか奥深さとかを深く考えたのは、今から三十年以上前の大学3年生だった約一年間であったような気がする。当時、工学部1号館の最上階にあった建築図書室でいろいろな単行本や写真集をむさぼるように読んでいた。その頃はまだ自分が将来どのような分野に進むべきか、特段に考えてはいなかった。ただ、建築デザインの歴史的な潮流とそのよって立つべき思想に興味があったので、それに関する書籍が中心だった。鉄筋コンクリート造はおろか構造設計や構造デザインには全く興味がなかったのである。
そんななかでも鈴木博之先生が書いた『建築の世紀末』(1977年5月、晶文社)はとても興味深く、未だに私の手元にある数少ないその種の分野の本である。当時、博之先生は新進気鋭の建築評論家・建築史家として有名になりつつあり、そのような先生が身近にお出でになるのが誇らしく思ったものである。
三年生が終わる春休みに大学の行事として奈良・京都の見学旅行に行ったが、そのときの引率者が博之先生であった(そのほかに当時助手だった藤井恵介先生もお出でだった記憶している)。毎晩、旅館でお酒を飲みながらの会話は楽しいものだった。後藤治(現・工学院大学教授)がフィッシャー・フォン・エルラッハのことを持ち出すと、どういうわけか博之先生はブハっとお酒を噴き出して笑い出されたことをよく憶えている。
その鈴木博之先生の研究室で卒論を書こうとしたが、結局断念した経緯は既に書いたので繰り返さない(こちら)。その後、大学を卒業しても博之先生は私のことを覚えていてくださったようで、建築学科OBが自分の職場を現役学生に向けて紹介する小文を書くようにとの依頼が二回ほどあった。そうして博之先生にお会いするたびに懐かしく思い出していただいたものであった。
昨日の修士設計発表会でも、ある学生が鈴木博之先生の言説を紹介したので、博之先生の『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』(1990年5月、文芸春秋)なんかを思い出していた。それがその晩に鈴木博之先生の訃報に接することになろうとは、思ってもいなかったのである。
まだ70歳にすら到達しないうちの死は先生にとってもちょっと早過ぎたのではないか。建築に対する深い愛情と優しい眼差しを持っておられた博之先生、私は先生の直接の弟子ではありませんが、先生の薫陶を受けた学生のひとりとして、今日もまた現在の学生達を指導してゆくでしょう。先生のご指導に深く感謝しながら、ご冥福をお祈りします(合掌)。
修士設計発表会 (2014年2月6日)
“発表会ウィーク”の最終日は修士設計の発表会であった。わが建築学域(大学院の専攻のことを本学ではこう呼ぶ)では修士論文の替わりとして修士設計で学位を取得できるようになっており、2013年度は12名の大学院生が発表を行った。
私は自慢じゃないが修士設計発表会にはほとんど参加したことがなかった。しかし今日、全ての発表を聞いたが、どの研究も最後には設計という具体の行為に結実しているため、個別の細かい研究よりも数段、分かり易かった。建築とは結局、多数の知を動員し組み合わせることによって構築することが可能になるので、そういう総合的な能力の発揮という点では修士設計もまたなかなかよいと思った。
ただ個別の設計を見てみると、せっかく構築した理論によって提案した建築がどう考えても妥当でなさそうなものや(それって、理論が間違っているということでしょう)、どう控えめに見ても独善に陥っている提案など、大丈夫かなあと思わせる設計もあったりした。
しかしなによりもパワーポイントによる表現がデザイン系の学生さん達は下手ですな。昨日の修士論文発表会のときにも同じことを書いたが、もう少し他人に理解してもらうという視点を持ったほうがいいですよ。本当はこのことを発表会最後の学域長挨拶のときに言いたかったのだが、計画・意匠系の先生方がずらっと並んでいる前ではちょっと言えませんでした、気が弱いですから,,,。
こうして四日間の発表が終わった。その全てをもれなく聞いたのは多分、初めてだったと思う(ちょっと問題発言か?)。どの発表会でもはじめの挨拶と最後の締めの挨拶をしないといけないし、もう相当に疲れました。明日は学域会議とそのあとの夕方から非常勤講師の先生方をお招きした懇親会があって、長かった一週間を締めくくる予定であ〜る。
修士論文発表会 〜プレゼン小話〜 (2014年2月5日)
“発表会ウィーク”の三日目は修士論文の発表会でした。全ての発表を聞きましたが、これはいいねというハイ・レベルな内容でかつ分かり易いプレゼンは今年はあまり無かったように感じました。以前にも書きましたが、エンジニアリング系の研究をしている学生諸君の多くは要点を押さえた分かり易い発表をしてくれましたが、計画・意匠系では原稿棒読みみたいな、何を言いたいのか分からない一方的な発表が目につきました。
あまりにも細かすぎて読み取れない表とか、小さい字で文章をダラダラ書いているスライドとか、説明もないまま次々と現れる写真の群れとか、なんでこんなものを流し続けるのか、私には理解できません。そういう発表を見るたびに、私に厳しくプレゼンテーション技法を指導して下さった師匠・小谷俊介先生をありがたく思い出します。
小谷先生のプレゼン指導はホントに厳しくて辛いものでした。「北山くんさ〜、君はいったい何が言いたいの?」、「なんか全然分かんないけどさ〜、そんなんでいいんだろうか?って言うかさ〜,,,」とか、辛辣なコメントを次々といただきました。そんな具合にスライド一枚ごとに細かく注意を受けるので1時間以上を要することもザラでした。そのたびにスライド(当時はOHPシートでしたが)を作り直して、また練習します。それを何度も繰り返すのです。今思えば小谷先生もものすごい時間を費やしてくださった訳ですから、本当に感謝しないといけません。
さらに小谷先生のほかにも、田才晃助手や塩原等さんのような先輩方も発表練習を見て下さって、いろいろとアドバイスをしてくださいました。それを学部・大学院に在籍した5年間、繰り返したのです。
何にも知らない他人に自分の研究を分かってもらおうと思ったら、それくらいはやってプレゼン技法に磨きをかけないとダメということですよ。ということで、わが研究室では小谷一刀流?直伝のやり方でプレゼン教育を実践しています。でも小谷先生に較べたら私って甘いなあ、とは我ながら思いますけど。やっぱり、物わかりのいい先生になっちゃお仕舞いですよね、長期的に見れば学生さんのためにはならないでしょうから。そんなことを感じた今年の修論発表会でした。
卒業設計の採点と講評会 (2014年2月4日)
節分のこの日はとても暖かな一日でした。わが建築都市コースでは今週一週間は卒業設計、卒論、修論、修士設計の各発表会が連日行われる、学事てんこ盛りの最も多忙な日々となります。私は建築都市コース長なので、例年のようにテキトーにサボりながら思いのまま気の向くままに好き勝手に会場に出向いて発表を聞く、という訳にはいかず、朝から晩まで会場で発表を聞かないといけません。発表する個々の学生諸君には申し訳ないですが、これだけ拘束されるのは結構気が重いです。
で、昨日は朝9時から卒業設計の発表会がポスター・セッション形式で行われました。会場は国際交流会館です。今年は22名の学生さんが作品を提出しました。昨年は32名でしたから、2/3に減ったわけです。今年度の出来は明らかに昨年度よりはレベル・アップしていました。ただ図面の枚数は多くのひとが6枚程度で、なかには4枚なんてひともいて、そのことは不満でした。卒業設計なのだからやっぱり10枚以上は描かないとね、と思います。
ひとつひとつの作品を見ながら作者と議論し、あれこれコメントしながら、約3時間かけて採点をしました。ことし私が最高点をつけたのは銀座の再開発で、次点が山間の小学校でした。ここまでで午前中の部が終了しました。
そのあとほぼ全ての教員の採点結果を集計して、平均点の上位10名が午後の講評会に勝ち進みました。三十人以上の教員がそれぞれ各人の判断基準に従って採点しますから、マニアックな設計とか、一部の玄人受け?するような設計は平均としては点が下がる傾向にあります。私が次点の成績を付けた学生くんも残念ながら講評会には進めませんでした、いい設計だと思ったんですけどね。
この講評会には学内の先生方が出席するほかに、学外から建築設計等にたずさわるゲスト・クリティークお三方をお呼びして、非常に多岐に渡る議論が展開されました。いやあ、おもしろかったですね。お三方がとても熱心にコメントして下さいましたが、発表者である学生諸君はもっぱら受けに回らざるを得ず、いやむしろ学生さんに語る暇を与えずにポンポンと批評を加えてゆかれたのが、はたから聞いているとべらぼうに面白かったです。
建築ってやはり経験工学ですから、年若い学生諸君よりも百戦錬磨のオジさんのほうに分があるのはある意味、当たり前です。ですが、そのようなオジさんがたの機関銃のような批評に対して(それも結構オジ達にしか分からないようなことで盛り上がっていたのが、それはまたそれで楽しかったのですが)、若々しい知性と感性とでもっと反論してくれるとよかったと思います。ちょっと贅沢な要求かな。
こうして午後7時近くまで講評会が続きました。パワーポイントと模型によるプレゼンテーションはA1サイズの図面よりも分かり易くてよかったと思います。並みいるオジさん達を楽しませてくれた学生諸君には感謝したいと思います。ご苦労様でした。今後の益々の発展を期待いたします。
その自信は? (2014年2月3日)
大阪市のH下市長が大阪都構想が進まないことに業を煮やしたのか、辞職して再度市長選挙をする意向というニュースが流れました。全くもって不思議です。確かに直接民意を問うというと聞こえはよいですが、別の見方をすると我が儘坊主がダダをこねている、というふうにも感じます。
だって議会は市民の代表が集まっているところですから、議員さん達もまた民意を代表しているはずです。議会の多数が反対しているということは、市民の多数もまた同意見であるということを受け入れるのが民主主義でしょう?
もちろん市長が自ら辞めることにはなんら問題ありません。ただ、自らの主張が受け入れられないという事態のたびにそんなことをやっていたのでは、政治が前に進みません。第一、選挙の実施にはどのくらいの費用と労力とがかかるのか、現在進行中の都知事選挙で指摘されたばかりです。
しかしそれにも増して、ご本人が再選挙しても必ず当選すると思っているらしいところがちょっと怖いですね。そんなに市民に支持されているのでしょうか、大阪のことですから私には分かりませんけど。
ところで彼が声高に主張する、大阪が東京に並ぶ、ということがそんなに大切なことなのでしょうか。大阪は大阪で独自の文化や商圏を確立しているので、東京がどうのこうのと言う必要はそもそもないのではないでしょうか。大阪には大阪の風が吹く、っていうことでよろしいのではないでしょうか。
銀色の影 (2014年1月31日)
今年最初のひと月も今日で終わりです。今朝はかなり暖かくて、雨上がりのキャンパスは水蒸気でもやっとしていました。登校するときに頭のうえを銀色の4発ジェット輸送機が轟音とともに通り過ぎてゆきました。
これは福生市の横田基地に着陸する米軍機です。その銀色の影を見送りながら、大滝詠一の「銀色のジェット」という曲を思い出しました。彼は福生の仙人とも言われたように福生在住でしたが、私の見た銀色のジェットはその福生に行く飛行機でした。不思議な縁を感じました。
先日の伊藤銀次の大滝詠一追悼ネット・ラジオを聞いたところでは、大滝師匠は自宅に併設した離れのスタジオ(といっても畳の部屋だったそうです)でラジオ番組とか曲を作っていたそうです。もしかしたら大滝詠一は横田基地の米軍機を見ながらこの曲を作ったのかも知れません。
人生スクールへの転換 (2014年1月29日)
このところ研究活動がスムーズに進まないことをつい最近書きました(こちら)。私としてはわが大学は研究主体大学であり(大学の執行部もそのような方針で舵取りしていると思います)、我が社も最先端の研究に取り組み、社会に貢献しているという自負を持っていました。それがだんだんと怪しくなってきたというのが実感です。
で、わが大学のことを考えると、学生に対して相当に甘いのではないかという風に思うんですね。少人数で面倒見のよい大学というと聞こえはよいのですが、裏を返せば居心地のよいぬるま湯のような環境でぬくぬくと培養されている状況です。そんななかで四年間とか六年間を過ごした学生諸君が社会に出たときにどうなるのか。ただでさえ打たれ弱い最近の若者なので相当に不安なわけです。
さて研究のことですが、我が社では学生さんに出来るだけ勉学に専念してもらうために、例えば試験体を作製するときに必要となるこまごまとした事務手続きとか段取りとかは私自身がやって来ました。私は大学の職員でもあるので、それは当たり前と言えばその通りです。お金のこともなるべく言わないようにしてきました。我が社のように大掛かりな鉄筋コンクリート製の試験体を作るには一体百万円からの費用が必要なのですが、そんなことは学生さんが知る必要はないと思っていました。
でもそれは上述の“ぬるま湯体質”を助長するだけではないかと思い始めたのです。例えば試験体を作る際に大学の事務方と折衝して予算執行の許可を得たり(実はこれにもの凄い労力を取られるんですよ)、試験体作製業者と打ち合わせして金額を詰めたり工程を作成したりというのは、小なりと言えども社会活動の一端です。いろいろなひとが関わって、そしてそれらの人たちがちゃんと仕事をしてこそ、試験体を作ることができるので、これはまさに社会活動の縮図ですよね。ですからそれに関わるのであれば学生さんといえども応分の責任が発生するわけですが、今までの彼らはそんなことは知らないで済んだのです。
このような現状を改めて、研究室を先端研究に専心する場ではなく、研究活動を通して社会人として必要なことを学んでもらう場に変えてはどうでしょうか。言ってみれば、研究室を人生スクールに衣替えするのです。むかし戸塚ヨットスクールというのがあって(調べたら今もありました)、刑事事件を起こしたりして社会問題になりましたが、熱烈な支持者もいたということです。まあそこまでは言いませんが、社会へ出てゆくための準備装置として研究室を使って彼らを厳しく指導しようというのです。
しかしながらそうすればもう、最先端の研究に取り組み成果を出して社会に貢献する、という今までのスタイルは放棄せざるを得ません。でも彼らがそんなに研究をしたくない、というのならばそれも仕方がないことかなと思います。
幸い我が社は創設以来二十年以上を経過して、それぞれの時代の学生諸君の協力のもと多数の実験を行いましたし、解析研究のノウハウも蓄積されました。まだしばらくは実験をやるつもりですが、その後はそれらの蓄積されたデータや知識を使って私自身が主体となって研究すればいいでしょう。これは実は二十数年前の若い頃の研究スタイルに戻るということなので、その気になりさえすれば難しいことではありません。学生諸君と知的活動を共有できなくなることは寂しいですし、私自身が望んでいることではありませんが、それも全ては学生諸君の意欲に依存するのです。
でもなかには(北山研究室の先輩方のように)最先端の研究活動の一翼を担いたいという学生さんも現れるかも知れません。そうであれば嬉しい限りですね。ですからここまで書いてきて、研究室を人生スクール班と先端研究班とに分ければいいんじゃないかと思い至りました。そうすれば個々の学生さんのやる気と意思とが反映されて、お互いに悲しい思いをしなくて済むのです。
むだの一例 (2014年1月28日)
コース長をやっているといろいろなお仕事が降ってきます。そんななかでも目を剥くような(ビックリする)お仕事がときどきありますが、そうではないようなお仕事でも、よくよく考えるとすごい無駄な労力を不必要にかけているものがあることに気がつきます。
先日、学費未納者への注意喚起の要請が事務方からやって来ました(それがまた結構な人数なんですよ)。大学の学費を期日までに納入しないと、除籍のうえ退学になってしまいます。まあ、当たり前ですな。でもそういう事態はできるだけ避けたいと(根が親切な)大学人は皆思っているのです。
そこで上述の通達を作るために、どれだけの人たちがお仕事をしているのか、書き出してみました。事務方が学生諸君の学費納入状況をチェックしてリストを作り、それが各学部の担当者に渡されて、それを事務担当者が切り貼りして代議員会の資料を作り、学部長がそれを配布して各コース長に注意を喚起します。それを私のようなコース長が見て、滞納学生の氏名を書き写した上で、3年生以下は各学年の担任の先生に連絡し、4年生以上は個々の滞納学生の指導教員に連絡して注意を促す、という流れです。
もう書いているだけでイヤになりますな。この一連の作業にどれくらいの教職員が関わっているのか私には正確には分かりませんが、相当な人数であるのは確実でしょう。もう相当な量の資源の消費、いや浪費ですな。
しかしながら、学生諸君ひとりひとりが学費の滞納などないように気を配れば(もちろん家庭の事情などで納められないひともいるでしょうけど)、そのような通達はそもそも不要です。あえて言えばやらなくてもよい仕事をしている、ということになります(大学はそれくらいのサービスはすべきである、という主張はこの際無視します)。なんだかなあ〜ってな感じです(最近、このセリフが多くなってきました)が、皆さんいかがお考えでしょうか。大学生はもう大人なんだから、自分のことくらい自分でちゃんと処理しなさい、というのではダメなんでしょうか。
ブランドに弱い (2014年1月27日)
突然ですが日本人ってブランドに弱いと思いませんか。政治家でいうと小泉ブランドとか石原ブランドとかです。駐日大使になったケネディ家というのもブランドの最たるものですね。でも、それらの人たちがどんなひとなのか、本当のところはよく知らないのが大多数の一般大衆だと思います。
でもなんだってあんなに政治家のブランドをありがたがるのか、そのメカニズムが私には分かりません。政治の手腕とか唱導する施策とか以前に、単にフツーの有名人という感覚で皆さんがワーワー言っているように思います。
小泉さんが首相のときのことです。私はたまたま女房が演奏するオペラを見に行ったのです(題目は忘れました)が、開幕直前に急にホール内が騒がしくなりました。で、よく見ると小泉さんが数人のSPを従えて前のほうの席に座ったのですね。オペラが終わって彼が帰る時なんかも、もうものすごい歓声でした。いったい何なんだっていう感じです。オペラの演目は忘れてもこのできごとは覚えているのですから、私もひとのことは言えないかも知れませんけど,,,。
さて大使のケネディ氏ですが、和歌山のイルカ漁を非人道的といって非難したというニュースが伝わっています(非人道的って、そもそもイルカってヒトなんでしょうか?)。それに対して安倍首相は「イルカ漁は文化であり慣習」と反論したそうです。いつもは批判していますが、このときだけは安倍首相のいう通りだと思います。
このページでも折に触れ書いていますが、彼ら欧米人のアングロサクソン主流主義には本当に閉口します。彼らの考え方や慣習とは相容れないものに対して、なぜこんなに不寛容なのでしょうか。生物多様性とか地球環境の多様性とか(最近では男女の区別をなくすことも多様性とか言っているみたいです)を声高に主張するくせに、他の民族・人種のもつ文化や言語に対しては驚くほど狭量な態度しか示しません。
自慢じゃありませんが、私だって和歌山でイルカ漁をやっていることは知りませんでした(いや知っていたかも知れませんが、意識にのぼることなどありませんでした)。日本人でさえそうなのに、突然日本にやってきた異邦人が見知らぬ国の生活を非難する、その思考回路を私は不思議に思います。
すなわち、表面的にはヒトの多様性を尊重し人間はみな平等とか言ってはいても、内実は自分たちがこの地球上で最も正統であり正しい思想を有していると思い込んでいる、そういう(彼らにとっては当たり前の)ことをかいま見せた出来事に過ぎないわけです。
こんなふうに思っていることが計らずも露わになったブランド駐日大使ですから、日本人も今までのように“崇拝”するのではなくて、これからは少しは冷静な目で見ることもできるようになるんじゃないですかね。でも、そうではないとすると、ちょっと救いようのない呑気さですな。
研究室の配属 承前 (2014年1月23日 その2)
研究室配属のはなしの続きです。例年とは大きく異なった事柄がもうひとつありました。それは建築デザインを志望する学生さんが今までになく少なかった(らしい)ということです。
建築家・小林克弘先生の研究室は3名の定員が埋まりましたが、もうひとりの建築家・小泉雅生先生の研究室は2名しか希望者がいなくて1名の空き枠がでたのです。いやあ、驚きましたね。教室会議を差配していた私は思わず「えっ、三名採ってくれよ」って言っちゃいましたが、小泉さんは「だってふたりしか来なかったんだもん」とちょっと憮然として言ってました。
設計系の研究室は例年大量の希望者があって、そこを落とされた学生さんが(設計系の研究室のある8階から)7階に降りてきて私のところのような不人気研究室に拾われるのですが、今年はどうもそうではなかったということです。いやあ、まったく驚きましたな。
景気が良くなって建設系の求人が大幅に増えているようなので、大学院志望者は少なくなっているかも知れません。事実、私の研究室に配属になった4名は全員就職活動中らしいです。それはそれで結構なことだと思います。ただ優秀なひとが大学院に進んでくれなくなると、我が社の研究ポテンシャルは明らかに低下しますから、そのあたりは痛し痒しですね。どうするかなあ〜。
研究室の配属 (2014年1月23日)
トップページにも記載しましたが、2014年度の特別研究のための研究室配属が決まりました。昨年末のこのページに今年はいつもとちょっと様子が違うということを書きましたが(こちら)、その感触が正しかったことが分かりました。というのも我が社の定員は4名だったのですが、それを上回る5名の学生諸君が第一志望としてくれたのです。ありがたいことではあるのですが、以下に記すように複雑な心境です。
我が社では学生さん同士で相談して、お互いに不幸なひとが出ないようにお願いしていたのですが、度重なる(かどうか知りませんが)調整の末に決裂したらしく、かくなる仕儀とあい成りました。正直なところ私は気が重くなりましたが、いた仕方ありませんので、泣く泣く4名を選びました。
今までにも定員以上の希望者がいたことはあったのですが、いつも調整がうまく行っていたようなので、今回のような“ガチンコ勝負”は初めてです。以前は定員割れするどころか、ひとりも志望者がいないなんてことも多々あったので、今回は贅沢な悩みだったわけです。でもそういう立場になって、これは全然嬉しくない事態であると感じましたね(何度も書きますが、ホント贅沢ですみません)。
来年度の特別研究履修希望者(三年生)は62名で、そのうちの54名は多分第一志望の研究室に配属になったのだと思います。でも残りの8名の学生諸君は残念ながら、第二次募集に回ってもらうことになりました。それでもべつに建築や都市を勉強出来なくなるわけではありませんから前向きに考えて、ことにあたって欲しいと思います。
激励のことば (2014年1月22日)
昨年度のコース長だった角田誠さんがやってきて、「北山さん、受験生への激励の言葉を例年、コースのHPに載せてるんだけど,,,」という。私はそのことは知っていたのだがいろいろあったので忘れたふりをしていた。だが「随分まえからやっているんだけどな〜」と言われるに及んで、じゃあ書くか、という気になった。こういうわけで以下の小文を建築都市コースのHPに掲載した。
(以下、転載)
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受験生の皆さんへ
2013年度 建築都市コース長 北山 和宏
受験生の皆さん、大学入試センター試験の手応えはいかがでしたか。私も試験問題を見てみましたが、時間内にとても解ける気がしませんでした。皆さんの若さをベースとしたやる気と熱意とがそれを可能にしているのだと実感します。
入学試験は多くのひとが人生のなかで迎える最も苦しいイベントのひとつであることは今も変わりありません。しかし、そのような試練を乗り越えれば大学では様々な領域の学問が知への扉をあけて皆さんを待っています。そこからもれ出る一条の光に導かれて皆さんが希望する未来をきり開いて下さい。期待していますよ。
わが建築都市コースでは入学してくる皆さんのために、建築や都市を今まで以上に魅力的に教授できるように4年間のカリキュラムを全般的に見直して、新しい教育体系を整えました。ぜひこの南大沢の学び舎でともに学びましょう。
この四月に桜の花びらの舞う南大沢のキャンパスで皆さんの元気な笑顔にお会いできることを楽しみにしています。あとひと息です。こころから皆さんのご健闘を祈っています。
センター試験の問題 (2014年1月21日)
この週末は日本全国で大学入試センター試験が行なわれました。受験生の皆さんはさぞ大変なことだと思います。でもそういう私だって、なにを隠そう第二回の共通一次試験を受けて大学に入学しましたので、まあ大学に入るひとは一度は通るみちですな。マークシートをHBの鉛筆でグリグリやったという意味では、今の受験生と同類なんですよ。なので冒頭に書いたほど、大変だとも気の毒だとも思っていません(あははっ)。
その入試センター試験の問題が新聞に載っていたのでちょっと見てみました。案の定、問題量は相当に多いので、これを数時間で解かないといけないというのはやはりそれ相応に大変には違いありません。国語の問題には岡本かの子の文章が出題されましたが、その末尾にあった注を見て時代を感じましたね。こんな感じです;
銀ぶら、多摩川、秩父の連山、女学校、パンツ、天佑、長火鉢、鉄瓶
ほかにもありましたが割愛します。今の若い人は「銀ぶら」とか「鉄瓶」とか知らないのでしょうか。「多摩川」と「秩父の連山」とはローカルな名称なので注が附されたものと思われます。ちなみに多摩川の注釈は以下のようでした;
多摩川 — 山梨県に発し、南東へ流れて東京湾に注ぐ川。
東京や神奈川のひとにしか分からないと他の地域の受験生には不利になる、という配慮でしょうけど、多摩川は相当に有名だと思います。信濃川とか大井川とかと同一レベルじゃないでしょうか。
「パンツ」の注は「運動用のズボン。」とありましたが、これだって本文を読めばだいたい分かるはずだと思います。いずれにせよ出題者が相当に苦労して気を使ったんだなあ、ということは理解しました。いやあ、ホントご苦労様でございます。
ついでに日本史Bという科目も見ましたが、こちらもなかなか工夫されていて良問だと思いました。単発の知識ではなくて、いろいろな時代の流れとか繋がりや因果を理解していないと解けない問題ですね。
古文書の例として足利直義の花押のある裁許状が取り上げられていました。足利直義自体がそもそも歴史の主流ではなくて、敗者として忘れ去られた人物です。室町初期の「観応の擾乱」と言われてもピンと来るひとは少ないんじゃないでしょうか。それとも受験生はこれくらい知っているのでしょうか。違う問題では第三代将軍・足利義満や第四代将軍・足利義持が登場していました。室町時代って日本史のなかではちょっと影が薄いという印象ですので、それをしっかり把握しないといけない受験生はやっぱり大変ですなあ。
あれから19年 (2014年1月17日)
1995年の兵庫県南部地震の発生からちょうど19年が経ちました。この地震による建物への被害を教訓として、耐震診断および耐震補強が国家施策として強力に推進されることになったのは皆さまご承知の通りです。そのかいあって、公立学校建物の耐震化は1995年と較べて相当に進みました。ただ民間の建物は個々人が所有するものなので、オーナーの考え方と資力とに大いに依存します。そのせいで耐震診断さえ実施されていない民間建物は未だに多いと想像します。
1995年の地震のときに北山研究室では、私や学生諸君が主として公共建物の被害調査に携わりました。そのときのことはこちらに記載しましたが、以下にそのページには載せなかった写真を置いておきます。本当に悲しい出来事でした。
阪神高速の橋脚のせん断破壊
阪急伊丹駅の崩壊
市営本山第一住宅の傾斜と渡り廊下の脱落
阪神電鉄高架橋の崩壊
大義を考える (2014年1月16日 その2)
政治家が大義という言葉を口にするときには、多くの場合に胡散臭さとかいかがわしさとかを感じさせるのはなぜでしょうか。たぶんそれは、彼らの主張する“大義”というものが一般民衆のそれとは甚だしく乖離していて、永田町での政争のなかでしか理解されない類いのモノだからではないでしょうか。
まもなく公示される東京都知事選挙ですが、ビックリするような方が立候補するみたいです。小泉元首相は都知事選挙を脱原発グループが勝つか、原発推進グループが勝つかの争いと位置づけると言ったそうですが、なぜそんなに単純に決めつけるのか、理解不能です。国民の大多数は脱原発であるというのも、いったい本当なのでしょうか。彼一流のアジテーションでしょうが、日本の国を今のようなぎすぎすとして殺伐な世の中にした張本人の言うことを誰が聞くのでしょうか。
で、大義ですが、小泉ジュニアが他の某立候補予定者には大義がない、ということを言ったようです。彼の大義とはなんなのかは分かりませんが、到底一般民衆が納得する類いのモノとも思われません。以前にCO2削減を声高に叫んでいたときにもそうでしたが、脱原発を実行するのは結構なことですが、それでは経済活動を支える基盤であるエネルギー調達をどうするのか、それと合わせて構想を主張しなければ、なんの意味もないでしょう。
小泉元首相が以前にやったような劇場形の政治とか、二者択一方式でそれ以外には選択肢はない、というようなやり方はもうやめていただきたい、と強く思います。それがいかに不毛な世の中を作ったかは厳然として目の前にあるのですから。
そもそも小泉元首相が脱原発を叫び始めたのは北欧で処理施設を見たから、ということらしいですが、そのような現実をちょこっと見たからと言って従来の主張を180度転換させるということ自体、そのひとを信頼できないということの証(あかし)だと思いますけどね。
清 冽 (2014年1月16日)
今日は身を切るようなという表現がぴったりの、スキー場のような清冽な寒さの日ですね。大型実験棟での実験チームは皆さん防寒着を着込んで、ストーブも燃やしていますが、そんなくらいでは効き目がないほど冷え冷えとしています。
そんなうそ寒いなか、研究室OBの中沼弘貴さんが上司の羽場崎淳さんとともに来校しました。N工務店にお勤めですが、このたび柏崎刈羽の任地から東京に戻って来たそうです。何度かこのページに書いていますが、彼はどんな仕事でも常に意欲をもって臨むことができ、そして周囲のひとに感謝しながら仕事することができるという、現代の若者としては極めて希有な気質を持った人柄です(ときどき、トンチンカンなことも言いますけど、あははっ)。東京でのさらなる活躍を期待していますよ。大型実験棟で撮影した記念写真を以下に載せておきます。
写真 右から中沼くん、羽場崎さん、北山
Eiichi Time (2014年1月14日)
大滝詠一もののつづきです。1984年に発表され、その20年後に再発売されたアルバム『Each Time』を聴いてみました(十年振りくらいです)。稲垣潤一が歌った「Bachelor Girl」をこのアルバムのなかでは大滝自身が歌っています。最も典型的な大滝サウンドは「ペパーミント・ブルー」でしょうか。
このアルバムのタイトルはちょっと考えれば、彼自身の名前(Eiichi)と”Each”とがダブっているらしいということに気が付きます。つねに遊び心を忘れなかった大滝詠一らしい、という感じですな。
それから先日紹介した『Song Book II』ですが、このアルバムは吉田美奈子が歌う「夢で逢えたら」という名曲で始まっています。この曲はいろいろな歌手にカヴァーされていますが、私は鈴木雅之が歌ったアルバムを持っています。
で、『Song Book II』の二曲目は「すこしだけやさしく」、三曲目は「怪盗ルビイ」という曲なのですが(私自身、そんな曲は全く知りませんでした)、クレジットをよくよく見たら歌っているのはそれぞれ薬師丸ひろ子と小泉今日子だったのです。これって、ピンときませんか?
そうです、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』のお二人だったのです。このアルバムは今から約二十年前のものですが、脚本家のなんとか官九郎という方はもしかしたらこのアルバムを知っていたんじゃなかろうか、と思ったくらいです。大滝師匠の影響力はそれくらいあったって不思議じゃありませんから。
ただ、初期のアルバム『大瀧詠一』もCDラックから取り出してきて聴いてみましたが(こちらも全く忘れていました)、そんなに素晴らしい出来という感じはしませんでしたね。クラシックの巨匠と言われるひとでも駄作はあったらしいですから(例えば、ラフマニノフの交響曲第2番はよく演奏されますが、第1番は誰も知らないと思います)、いわんや大滝詠一おや、ということかも知れません。
なんのために研究室にいるのか? (2014年1月10日)
今日はとても寒いですね。さて、年始の恒例となった日本コンクリート工学会の年次論文ですが、我が社の今年の成果はM2・島哲也くんが執筆している論文1編に終わりそうです。提出締め切りは1月14日ですが、私はもうすぐ建築学会に出かけますので、今日が北山チェックの実質的な最終日ということになります。なので投稿できる論文は確実に1編だけ、ということです。これはここ数年では極めて低調なレベルと言わざるを得ません。とても残念です。
研究室のメンバーが今までにないくらい増えたことは嬉しいことですが、それに比例して研究成果の発信も増加するというのが本来の姿でしょう。いつも皆さんにお話ししているように、どんなに素晴らしい研究でも、その成果を広く発表して多くの研究者の意見・批評をいただかなければ、研究をしなかったことと同義です。それはホントにもったいないことだと私は思います。
一年間あるいはそれ以上、検討して来た成果をまとめる作業は忍耐を必要としますし、そのような作業を積み重ねることによってはじめて深い熟考が可能になるのです。皆さんはなんのために大学院に進学したのですか。それが就職のためであるというのならば、研究する必要はなくなります。そうであれば、そのように申告していただくことを私は希望します。
研究したくない、あるいは研究しても成果をまとめることができない、というのであれば、非常な資源を費やして研究を担当していただく価値はありません。我が社ではご存知のように、いろいろなプロジェクトの一環として最先端かつ世の中の役に立つような研究に取り組んでいます。そのようなプロジェクトに加わって一流の研究者・実務者たちと一緒に活動することに知的好奇心や喜びを感じない、というのであれば、我が社で研究する意義はありません。
そこのところをよく考えて下さい。そして、私の言うことに同意できなければ(それはそれで構いませんので)、その旨を申告して下さい。そうすれば、お互いに不幸な気分を味わわずに済みますから。皆さんの考え方を聞かせて下さい。とにかく今は情けない気分でいっぱいです。
スケート (2014年1月9日)
先週末のどんよりと曇ってとても寒い一日、スケートをやりました。子供がスケートをしたいというので、横浜市緑区にあるこどもの国のスケート・リンクに行ったのです。こどもの国は都立A高校の卒業生なら思い出深い場所になっているでしょう。毎年冬にここでマラソン大会が開かれたからです。私は短距離は早かったのですが、持久力はないのでマラソンは苦手でした。それに輪をかけて伊東正明くん(いまは弁護士)はマラソンが苦手だったようで、私に抜かれたのがよっぽど悔しかったらしくて、クラス解体記念文集にそのことを書いたくらいでした。
おっと脱線しました。スケートですが、私はかれこれ三十年ぶりくらいにやりました。大学生の頃、大学の運動会が池袋のスケートリンクを借り切ってオールナイトで大会を開くことがあり、それに何度か参加した記憶がありますが、それ以来、やっていませんでした。
その当時はかなり滑れて、バックで滑ったり、急ターンも出来ましたので、スケートなんてチョロいもんだよ、お父さんが教えてやるぜ、みたいなノリでスケート・リンクに乗り込んだのです。
ところがスケート靴を履いていざ氷の上に乗ってみると、もう、ツルツルとすべって(って当たり前ですけど)手すりから離れられません。麗しき乙女なら壁の花(使い方が間違っていますけど)でも絵になりますが、中年の親父じゃさまになりません。しばらくウダウダやっているうちに、だんだんと思い出してきて、少し滑れるようになりましたが、若い頃のようにビュンビュン滑るというわけにはいきませんでした。
こんな具合に氷の上で緊張しっ放しだったせいでしょうか、普段使わないような筋肉が軒並み痛くなって、しばらくはぎこちなく歩くはめになりました。
寒い冬の実験 (2014年1月8日)
北山研究室恒例(?)の大寒のなかでの実験がいよいよ始まりました。大型実験棟は分厚い鉄筋コンクリート製の床と壁で囲まれていますので、真冬は足元から心底冷えますね。
この実験は塩原等先生(東大教授)を研究代表者とする科学研究費補助金・基盤研究Bによる研究の一環です。担当はM1・片江拡くんとB4・佐藤宏一くんです。卒論の梗概提出が迫っているのにこれから実験するのも大変です。ただ私自身が卒論生のときも全く同じ境遇でしたから、まあなんとかなると思います。なので正直なところそんなに心配していません。
今回は、立体試験体を実験フレーム内にセットするための治具(吊ってある青い鉄骨類)を初めて使うので、以前よりは安全かつスムーズに設置できることを期待しました。ただ、試験体は直交する二方向に梁の取り付く隅柱梁部分架構なので、もともと重量バランスが悪いためにきっちりセットするのはやっぱり大変だったみたいです。
またト形試験体用のパンタグラフ(頭より上にある水平の黄色い鉄骨)を田島祐之さんにモディファイしてもらいましたが、取り付け孔の位置があわなかったりして、その取り付けにも苦労したようです。このようにはじめて尽くしのことどもが多々あったため、年が明けての加力となりました。ご苦労さまです。寒い中での実験は大変ですが、怪我や事故のないように気をつけて実験して下さい。
三が日2014 (2014年1月3日)
穏やかだったお正月も終わりました。今年は二日に我が家で昼食会を開きましたが、そのほかはどこに出かけるでもなく、家でダラダラと過ごしました。まったりと日本酒をチビリチビリやりながら、ゴロゴロしていました。八連休なのにどこにも出かけないでよく飽きないわね〜と女房が呆れていましたが、私は全く苦ではありません。
三日には箱根駅伝の復路があって、大手町のゴール地点の中継をたまたま見ましたが、二位になった大学のチーム構成員たちが揃ってお通夜のような顔をしていたのには驚きましたね。そりゃ優勝は逃したかも知れませんが、二位なんだから立派なモンだとフツーは思うでしょう? それなのにそんなに悲しそうな顔をしなさんな、と思いました、二番じゃダメなんですか〜なんて。以前、事業仕分けで活躍した民主党のどこかの方のセリフみたいなことを思わず言いたくなりました。
お正月の最後の晩には、我が家に転がっていた、さくらももこの『あのころ』(1996年、集英社)という本を子供に読み聞かせてやりました。自分で読めよと言ったのですが、漢字が多くてまだ無理みたいです。女房が大昔に買った本ですが、読んでみるとアニメの「チビまる子ちゃん」そのまんまで、子供と二人で大笑いして過ごしました。笑う門には福来る、ということで、こいつぁ春から縁起がいいや〜というあんばいで、ことしのお正月が過ぎていったのでした。
ポップス体験の源流 大滝詠一へのレクイエム (2014年1月2日)
おせち料理のための買い物を終えて一服していた2013年最後の大晦日の午後、大滝詠一氏が急逝したという訃報が流れた。とても驚いた。それまでも彼の近況についての情報は格段なかったが、彼のことだから多分世の中を斜に眺めながら次の機会を伺っているのだろう、などと勝手に思っていた。テレビなどのメディアに露出することはなく、最近は作品を発表することもなかった大滝詠一というひとを若い人びとは多分知らないと思う(はっぴいえんど、とかシュガー・ベイブっていわれてもねえ)。
1980年代の初頭、私が大学生だった頃、『A Long Vacation』と『Niagara Triangle Vol.2』というアルバムで彼のことを知った。そうして彼に連なる多くのアーティスト(山下達郎、伊藤銀次、大貫妙子、村松邦男、佐野元春、杉真理、須藤薫など)の音楽を聴くようになった。「君は天然色」でそれまで聴いたことのないポップスを届けてくれた大滝詠一は、私にとってはポップス体験の源流ともいうことができる。
65歳での突然の死は少し早かったように思う。それが彼にとって「幸せな結末」だったのかどうか、誰にも分からない。彼が今後の日本のMusic scene になにを投げかけようとしていたのか、それを知る機会は永遠に失われた。そのことを私はとても残念に思う。大滝詠一氏の冥福を祈る(合掌)。
港の カフェーの椅子で
ぼくはふと
眉を翳らせ
優しさを破く
‥‥ 大滝詠一「白い港」より(作詞:松本隆)
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大滝詠一氏への供養として久しぶりに彼のアルバムを取り出して聴いてみました。『Song Book II』というビクターから1995年に出た彼の作品集です。「夢で逢えたら」(吉田美奈子)、「冬のリヴィエラ」(森進一)、「熱き心に」(小林旭)などの有名曲に混じって、「うなづきマーチ」や「イエロー・サブマリン音頭」などのいわゆる“音頭もの”もあって、一緒に聴いていた我が家の子供がゲラゲラ笑っていました。大滝師匠の素晴らしさは幼い子供にも分かるってことですかね。
こういうコミック・ソング系も大滝詠一の一方の看板になっていて、「カナリア諸島にて」や「恋するカレン」に代表されるようなメロディ系楽曲と双璧をなすものですが、コミック・ソング系にこそ彼の真骨頂があるような気もします。このような二面性は彼自身の深い音楽体験と理論とに根ざした本質であると論じられることが多いようですが、私はそんなところまでは分かりません。
このアルバムについている彼自身による解説を読んでみると(多分、一度も読んだことはなかったのだと思いますが)、その時代やその曲の生い立ちが分かってとても興味深かったです。
賀正2014 (2014年1月1日)
ちょっと風がありますが、よく晴れたまずまずのお正月になりました。皆さん、明けましておめでとうございます。我が家でもお雑煮をいただいて、ちょっぴり正月らしい気分を味わっております。
昨年四月から務めてきた建築都市コース長も残すところあと三ヶ月となりました。この激務(雑用係?)から解放されると思うとホント嬉しいですね。でもそれまでに卒論、修論、卒業設計の発表会とか、大学入試とかのビッグ・イヴェントがぞろぞろ控えていますので、気を引き締めて臨まないとね。
お買い初めはイトーヨーカ堂で、鳥もも肉とカブでした。散歩がてら子供と歩いて行きました(子供はサンタさんにもらったキック・スクーターです)。さすがに大晦日の大混雑に較べればすいていましたが、それでもフツーに賑わってました。女房曰く子供はおせち料理を食べないだろうから、鶏カラを作るんだそうです。
それから子供と将棋をして昼下がりのひとときを過ごしましたが、(相変わらず)負けると泣きわめくのには閉口しました。そのあと、出来立てのおせち料理をいただいて、正月第一日めは暮れてゆきました。こんな感じの我が家ですが、今年もどうぞよろしくお願いします。
P.S. 昨日の大晦日に大滝詠一氏の訃報が流れて、そのショックが尾を引いたまま年明けしてしまった、というのが正直なところです。
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