トップページ > 北山研ヒストリー> 北山研での研究:1994年

 この年、吉田格英くんが修士課程に進学して北山研究室の一員となった。また、唯独りの卒論生として香山恆毅くんが入室した。彼はそれまでも西川研究室でアルバイトをしており、実験を手伝ってもらったりしたこともあり、人柄を含めてよく知っていた。ただ卒業研究となると実験をやってもバイト代は出ないよ、ということは予めクギを刺しておいた(そうしないと研究室が破産しますから)。これで北山研の陣容は以下のようになった。一応、フル・ラインナップの完成です、最小人数ですが。

 M2 池田浩一郎

 M1 吉田格英(よしだ かくひで)

 卒論 香山恆毅(こうやま こうき)


1. ふたつの大地震

 1994年度は地震工学に携わるものにとって(いや、日本人全てにとってだろうが)、忘れられない一年となった。と言うのも、暮れも押し迫った1994年12月28日に三陸はるか沖地震が発生してかなりのRC建物が被害を受け、その約三週間後の1995年1月17日には兵庫県南部地震が発生して未曾有の大災害となったからである。


 1.1三陸はるか沖地震(1994)

 三陸はるか沖地震は年末に発生したが、その被害調査に出掛ける相談のために、明けて1月2日(世間は正月気分真っ盛りの時分ですが)に東大11号館7階の青山研究室輪講室に集合した。そしてその翌日の3日には八戸(青森県)入りして、午後には被害調査を行った。私にとっては、1987年の岩手県南西地震?の被害調査で訪問して以来、二度目の八戸である。

 このとき一緒に調査に行ったのは、小谷俊介先生、中埜良昭さん(当時東大生研助教授)、李祥浩さん(い さんほ、当時東大大学院D3在籍で、1995年4月から北山研の助手として本学に着任)、前田匡樹さん(当時横浜国大助手)などで、現地では狩野芳一先生(当時明治大学教授)、大久保全陸先生(当時九州芸術工科大学教授)、和田章先生(東工大教授)などにお会いして、晩には情報交換を行ったりした。また現地では被害調査であわただしいなか、建設省のキャリア役人である越海興一さん(私の中学校のときの親友・越海敏裕くん(東大法学部を経て、現三菱東京UFJ銀行)の兄上で、東大岸谷研出身)にお会いして、とても懐かしかった。

 このときの調査では、1968年の十勝沖地震で大きな被害を受けたいくつかのRC建物を見ることができた。八戸市庁舎、八戸市立図書館、青森県立八戸東高校、八戸高専などである。いずれも十勝沖地震のときに、梅村・青山研の先輩達が被害調査してその原因を詳細に分析した建物であり、青研では有名な建物たちであった。

 私はこのうち、青森県立八戸東高校管理棟の詳細調査を李さんおよび前田さんと担当した。この建物は十勝沖地震で中破したのちも補修して継続使用されてきたが、1994年の地震では1階のほとんどの柱がせん断破壊して、崩壊と判定された。建物のなかで被害状況を調べているときに余震がやって来てぐらぐらっときたときには、慌てて外に飛び出したことを憶えている。北山研究室ではこのときの被害調査を契機として、この建物の耐震診断や各種の地震応答解析を実施して、四半世紀を経た二つの地震による被害の差異(中破と崩壊)の原因を探る研究に取り組むことになる。


 八戸高専MN棟2階の短柱のせん断破壊

 八戸東高校1階柱のせん断破壊


 1.2兵庫県南部地震(1995)

 1995年1月17日、運命の日がやって来た。午前5時46分である。夜が明けて情報が集まってくるとともに、燃え盛る炎の向こうに未曾有の災害の現実が輪郭をあらわした。刻々と増えてゆく死者の数を報道するアナウンサーは涙を流していた。全くひどいことになった。それまで日本の耐震構造は世界一と言っていたのに、いったいどうしたというのか。

 耐震構造や地震工学に携わる研究者として、被害状況をこの目で見ておかなければならない、と思った。関西方面の研究者や建研の研究者が困難ななかを現地に入って、貴重な情報を発信してくれた。現地へ入る交通手段や個別建物の被害状況などの情報は、この頃やっと普及し始めた電子メールによってもたらされた。

 地震発生から十日後、西川孝夫先生、芳村学先生、山村一繁さんとともに新幹線で新大阪まで行き、それから阪神電鉄で行けるところ(青木(おおぎ)駅)まで行ってから、40分ほど歩いて前田匡樹さんの実家へ向かった。彼の実家はRC造の集合住宅であったが、幸い耐震壁にひび割れが入った程度の被害で済んだ。

 前田さんのお宅で自転車を借りて、国道沿いに三宮駅付近まで走った。そこで中間層が層崩壊した中層建物(Santicaビル)を始めて目にして、こんな被害が日本でも起こるのか、という衝撃を受けた。翌日は尼崎、伊丹、甲子園口、西宮、芦屋、本山、青木と移動しながら被害の状況を記録した。お昼過ぎ、国道43号線を歩いていると、向こうから山崎真司先生(現首都大学東京名誉教授)が歩いてくるのに出会った。

 三日目には西宮市の要請を受けて、一般家庭を巡って被害程度を判定し、説明する仕事に就いた。私は柴田明徳先生(当時東北大学教授)とご一緒して、二人で西宮市北部の住宅を自転車で見て回った。背後に六甲の山並みを控えているためアップダウンがきつく、自転車での移動はとても堪えた。しかし自分の父親ほどの年齢である柴田先生がそんなことに苦痛を漏らすこともなく、一所懸命に住民の方に説明されるお姿を拝見して、えらいもんだなあと感嘆したことを今でも憶えている。

 

 

 そんななか夕方近く、あるお宅の調査を終えたとき、暖かい一室に招かれてお茶をご馳走になった。その日は小雪の散らつくような凍てつく寒い日で、いただいた一杯のお茶がどんなに美味しかったことか。さらにそこのご主人は我々の次の調査先を訊ね、地図を出してその場所を教えて下さり、感謝の言葉を口にされながら、ご家族全員が外に出て手を振りながら我々を見送って下さった。私はそれまでの苦労を忘れ、満ち足りた暖かい気持ちになった。

 その日、朝から晩まで西宮市街を走り回って住宅を調査しひとびとに説明したが、このお宅の方々のような感謝の言葉を聞くことはほとんどなく、いわんやお茶をどうぞ、などとはついぞ言われなかった。もちろん、被災されたひとびとのご苦労は他所ものには想像もできないことであり、私のように外から来たものをねぎらって欲しいとは思わなかった。

 しかし我々は研究とは無関係なボランティアとしてご家庭を回っていたので、そのことを理解していただければ幸いかな、とも思っていた(身勝手だが、こちらも人間だから当然でしょう)。今までの経験から、被災地のひとびとが私たちのように外部から来た調査者に対して冷淡であったり、ときには「おまえら何やってんだ。見せもんじゃねーぞ」のような罵声を浴びせたりするのは、日本の震災地ではごく普通のことのような気がする。

 ところが1999年にトルコへ地震被害調査に行ったときには、これとは全く逆で、どこへ行っても見知らぬ人々から「メルハバ(こんにちは)」と声をかけられ、チャイ(お茶)を飲んでいけ、果物を食べてゆけ、と身振り手振りで誘われたのである。それ以来、私はこのような日本人の態度は、日本人の気質あるいは国民性であると考えるようになった。ひとことで言えば日本人の島国根性あるいは排他主義、もっと言えば独善主義がその根底にあるのではないか。

 はなしが皮相な日本人論に向いてしまった。閑話休題(この科白、私の世代には懐かしいのではないか。NHKの人形劇「新八犬伝」でナレーターの坂本九がよく使っていた言葉です)、兵庫県南部地震に戻ろう。一月末に被災地に入ったときには、地震災害の概況をつかめればよかろう、ということで特に目的もなく歩き回った。

 その後、文部省が学校建物の被害状況の調査を日本建築学会へ委託したことから、われわれRC構造の研究者は組織的に学校建物の被害調査を行うことになった。その実務的な中心となったのが壁谷澤寿海先生(当時横浜国立大学助教授)であった。

 壁先生の指令に基づいて割り当てられた学校を訪ね、校舎や体育館を短時間のうちに要領よく調査した。その結果を現場で手書きでA4用紙一枚にまとめ、中破とか大破などの被災度ランクを付した「指導書」を学校の担当者に交付するのである。これらの調査は山村さん、見波進さんのほか、姜柱さん、呉誠さん(西川研博士課程)、池田浩一郎君、香山恆毅君の学生さんにも手伝って貰った。被害調査したのは以下の建物である。

・西宮市立西宮高校(1995年2/20,21)

・甲陵中学校(1995年2/21)

・ 兵庫県立西宮高校(1995年2/21)

・ 兵庫県立御影高校(1995年2/22)

・ 東灘区民センター(1995年3/2)

・ 青い鳥第2幼稚園(1995年3/2)

・ 親和学園中学校(1995年3/3)

・ 烏帽子中学校(1995年3/3)

・ 御影幼稚園(1995年3/3)

・ 兵庫県立近代美術館(1995年3/4)

・ 灘区民ホール(1995年3/4)

 どの建物もそれぞれに特徴があって記憶にあるが、市立西宮高校のA棟では建物の一部が1階で層崩壊していたこと、県立御影高校特別教室棟では耐震壁の偏在によるねじれ振動によって2階が大破したこと、が特に印象深い。御影高校特別教室棟については現地調査の結果と入手図面を基にして、1997年度に高塚慶則くんが卒論として耐震診断を実施し、翌1998年度には横尾一知くんが修論として立体骨組解析を実施して、建物の振動性状や被害の原因を究明した。


 市立西宮高校A棟 全景 右2スパンが層崩壊した

 
    県立御影高校特別教室棟 全景          同左 2階柱のせん断破壊

 兵庫県立西宮高校では、純フレーム構造における柱梁接合部に明瞭に生じたせん断ひび割れを目の当たりにして、今まで実験室でしか見たことが無かった柱梁接合部のせん断による被害が実際に生じるという、当たり前のことの認識を新たにした。

 この建物は1階の柱のほとんどが曲げ破壊して、地震後も建物はちゃんと建っていたものの残留変形が大きくて、大破(あるいは層崩壊?)と判定された。教科書的には、柱のせん断破壊は発生せずに、(梁降伏ではなさそうだったが)靭性に富んでいて良かったね、と言うことだろうが、残留変形が大きいとその後の継続使用は困難になる、という典型例であった。

 この高校ではそのほかに、柱の主筋に沿った付着割裂ひび割れも観察した。私立の親和学園中学校では、校舎は新耐震以降に建設された立派なものであったが、崖地に杭打ちで建っていたために、地震動による地盤流動によって地中の杭が途中で折れて、上部建物が傾斜して使用できなくなった。1964年の新潟地震以来、地中杭が折損したために上屋が傾斜(あるいは転倒)して使えなくなるという事例がいくつか報告されているが、兵庫県南部地震でもそのような例がかなり生じたようである。


                        県立西宮高校E棟 柱梁接合部のせん断ひび割れ

 余談であるが、リファイン建築家の青木茂先生(本学の戦略研究センター教授)に誘われて、六甲道の現場見学に伺った際(2009年3月17日です)、新神戸駅からタクシーに乗って走っていると、兵庫県立近代美術館(現在は違う名前になっていたような気がする)が修復されて使われ続けているのに出会った。

 この建物はRC柱の上にピン接合で鉄骨2階部分を乗せるという混合構造であったが、地震の際、RC柱頭と鉄骨ピンとを接合するベースプレートのボルトが破断したりして、上部鉄骨部分が相当にずれて大きな被害を蒙った。私が被害調査をしたときには、上部構造物が脱落しないようにチェーン・ブロックで引張って応急補強していたが、きれいに修復されて使われていたので嬉しかった。


2. サ形骨組の静的載荷実験

 「サ形骨組」とは一般には聞き慣れない用語だろう。これは十字形柱梁部分架構が二つくっついて、カタカナのサの字形をした部分骨組のことである。つまり二本の柱のあいだにFull-span梁があって逆対称曲げモーメントを受け、左右の柱の左および右にそれぞれ片持ち梁が取り付いているわけである。

 このような、実験としては複雑な形状の部分骨組を用いて実験しようと思い立った理由は、梁内を通し配筋される主筋の付着性状を知るために必要である、と考えたからだ。つまり、こう言うことである。

 柱梁接合部内を通し配筋される梁主筋の付着性状を検討するためには、十字形柱梁部分架構を用いて実験する。この場合、梁主筋は左右の梁の端部に鉄板などを用いて定着される。いっぽう、梁部材の付着割裂破壊などを検討するためには、梁部材に逆対称曲げせん断加力する実験を行う。この場合、梁主筋は梁の左右に取り付けたコンクリート・スタブ内に定着される。すなわち、実験の目的に応じて梁主筋はどこかで強制的に定着されている(これは実験のテクニックとしては至極自然である)。

 ところが現実の骨組の内柱のあいだでは、梁主筋は通し配筋されている限り強制定着されてはいない。そうすると現実には、柱梁接合部内での付着劣化(付着すべりとか主筋の抜け出しを想像して欲しい)と梁スパン中央における付着劣化(付着割裂破壊を想像して下さい)とは独立に生じる事象ではなく、相互に影響を与え合うのではないか、という疑問が湧いてくる。もっと言うと、一方での付着劣化が生じれば、他方での付着劣化は生じない、すなわち通し配筋される梁主筋に沿った付着劣化には部位によってヒエラルキーが存在するのではないか、という仮説を立てたのである。

 このような「付着劣化のヒエラルキー」を実験で検証するためには、上記のようなサ形骨組を用いるとともに、比較のために十字形部分架構および両側にスタブを有する梁形も実験することが必要になった。これは大規模な実験である。となると、お金もかかる。ところが科研費も獲得できず、予算はない。

 こんなときである、古田智基さん(芝浦工大の梅村研究室出身で、私がドクターの院生のときに青研に卒論を書きに来たので知己であった)が共同研究のお話を持ってきてくれたのは。彼はこの当時、名古屋にある矢作建設工業に勤めており、業績が順調であったためか相当な予算を用意してくれた。

 なおサ形骨組の実験については、1993年4月から真剣に考え始めたようで、既往研究のサーベイ・メモや姜柱氏との打ち合わせメモが残っている。また1993年5月には本学の特別研究奨励費にこのテーマでアプライした(その採否については記憶がないが、後の論文を見ると謝辞にこのことが載っているので多分採択されたのだろう)。

 さらに前田記念工学振興財団の平成6年(1994)度研究助成に応募したところ、幸いにも採択された(この審査委員会には青山博之先生が加わっておられたので、先生のお陰であろう)。以上のように経済的なサポートを得ることができて大変にありがたかったことは、忘れることのできない良い思い出である。

 かくして試験体作製や実験治具作製の当てはついた。あとは研究体制である。チーフは西川研究室の姜柱氏にお願いして、これを彼の博士論文の主要なテーマとすることにした。彼はもともとRCを研究したいと考えて来日したそうで、西川先生と相談して私と一緒に研究しよう、ということになったのだろう。また卒論生の香山恆毅くんを担当とし、試験体の作製では池田君の献身的な協力を得た。

 試験体は名古屋郊外の矢作建設工業のPC工場で作製した。名古屋駅から地下鉄に乗って小一時間くらいの所にあった。しかしながら、はっきり言ってわれわれは歓迎されざる客と言った感じで、工場長さんに名刺を渡して挨拶をしたときも、ろくに返事もしてくれなかった記憶がある。多分、古田さんが強引に頼み込んでくれたのだろう。

 試験体を作製するための鋼製ベッドのレベル出しから自分たちでやらなければならず、古田さんと一緒に床に這いつくばって作業した。そうした実作業となると大学の助教授と言っても何の技能もなく、このときほど情けない思いをしたことはない。

 こうして姜さんと池田君は矢作建設の寮に寝泊まりして、試験体の作製に取り組むことになった。しかし作業は真冬であったので、寒くて大変だったようだ。工場が仕出し弁当をとってくれるのだが、食べる頃にはご飯が凍っている、という状態だったらしい。

 講義担当があるので私は週に1回くらい作業しに行くだけであったが、そのときに彼らが泣く泣く語る苦労談にびっくりして、せめて私が行ったときだけでもうまいものを食べさせようと、工場の外のファミレスに連れて行ったりした。外食するにしても車がないと不便、ということで私が横浜から車で東名を飛ばして行ったこともあった。東名のインターを降りてPC工場のそばまでくると、そこかしこに雪が根雪となって残っていたことをよく憶えている(それくらい寒かった)。

 先日、研究室の本棚の古い資料を整理しながら捨てていたら、池田君が矢作建設のPC工場から私宛に送ったファックスが出てきた。それはなんと、私の大学院の講義のレポートであった。名古屋で試験体を作っている合間にこのレポートを書いたが講義に出席できないので、苦肉の策としてファックスで送付したものだろう。この頃はほんとに大変だったんだなあ、とつくづく思った。

 試験体の形状が今までやったことがないもので、梁の長さが5m以上もあるため、梁の鉄筋を地組みしてそれを二本の柱の鉄筋カゴに貫入させようとしても、重くて人間では持ち上げられない。PC工場なので天井には立派なクレーンが走っているのだが、何せ我々は居候であり、本業のPC版作製が優先されるので、なかなかクレーンを使うことができない。

 もちろん我々はクレーンを操作することはできないので、工場のオペレータの方にお願いするのである。古田さんも自分の仕事があるのでそうそう我々に付き合ってもいられない。それでも彼は大変によくやってくれたと思う。この当時、彼はまだ20代だったのではなかろうか。その若さで会社のいろいろな部署に手配りして試験体を作ってくれたのだから、彼の好意には本当に感謝している。


 鉄筋組み立てが完了したところ(矢作建設工業のPC工場にて)


 コンクリート打設(矢作建設工業のPC工場にて)

 実験は大型構造物実験棟で実施した。まだ三軸一点クレビスはなかったので、二本の柱には軸力を載荷できなかった。柱脚はピン支持、左右の梁端はローラー支持して、二本の柱の頭部にそれぞれ水平ジャッキをピンを介して取り付けて水平力を正負繰り返して与えた。この力学系は実は不静定構造であり、二本の柱脚はクレビスを介して反力床に固定したので、中央のFull-span Beamの軸変形が拘束される。そのため、この中央梁には圧縮軸力が作用する。

 言われてみれば当たり前であるが、実験が始まってしばらくして「左右の上柱に作用する水平力の大きさがずいぶん違います」と姜柱さんが報告したことから、このことに初めて気がついたのである(みっともないことなので、こっそり書いた次第です)。


 サ形骨組の実験(本学・大型構造物実験棟にて)


 サ形骨組の実験担当者(左から姜柱氏、北山、香山君)

 試験体の規模が大きいので、実験は結構大変であった。姜柱さんが鉄骨治具に指を挟まれて救急車を呼んだり(結果としてはたいしたことはなくホッとしたが、私はあと始末として古川勇二工学部長に呼ばれて報告し、反省することになった)、

 梁端の定着鋼板と梁主筋とのあいだの溶接が切れて実験続行できなくなったり、といろんなことが出来した。加力のときには、古田さんから命令されて矢作建設工業の伴幸雄くん(私が宇都宮大学にいるときの構造研の卒業生で、まあ教え子と言っていいだろう)がわざわざ名古屋から手伝いに来てくれたりした。

 実験の結果は、おおむね当初の予想通りであった。その成果はコンクリート工学年次論文報告集、構造工学論文集、AIJ構造系論文集、1996年の世界地震工学会議などで発表した。何よりも私にとっては、それまで菅野式によって経験的に求めていた梁部材の降伏変形を、ほぼ理論的に計算する考え方の道筋を提案できた、という点で大変に意義深い研究であった。そしてこの研究は約10年後に、日本建築学会から出版された「RC造建物の耐震性能評価指針(案)・同解説」(2004年1月)に結実した。


3. せん断破壊したRC柱梁接合部の非線形FEM解析

 この研究は前年度の吉田格英くんの卒論を引き継いだものである。このとき使ったFEM解析プログラムは千葉大学・野口研の内田さんが単調載荷用に改良したものだったが、ボンド・リンク、コンクリート、鉄筋等の構成則に除荷および再載荷のルールが抜けていることに気がついた。そのため、あるコンクリート要素が軟化域に入って他の要素が除荷状態になった場合には、以降の解析結果は正しくない、ということになる。

 そこでこれらのルールをプログラムに追加した。また解析対象には、私が宇都宮大学時代に東大で実験した平面十字形試験体A1を当てることにした。この試験体では、柱梁接合部パネルが明瞭にせん断圧縮破壊した。解析対象は十字形全体として、コンクリート要素は全て四角形になるように要素分割を行った。また接合部横補強筋は積層要素とはせずに、線材要素としてモデル化した。これらの作業はM2の池田君に担当して貰った。この仕事は残念ながら池田君の修士論文にはまとめられなかったが、翌1995年度の桐山千香子さんの卒論につながることになる。


4. 拘束筋を有するひび割れたコンクリートの圧縮性能劣化に関する検討

 池田浩一郎君担当の実験は1993年度の記録で述べたように1994年になってから実施したので、その実験結果の分析と考察を引き続いて行った。ひび割れの屈曲によってコンクリート圧縮強度の低減が明瞭に現れたので、これを定量的に評価することができた。材料の構成則をこのように地道に実験によって検討するという研究はやっていて楽しかったし、得られた知的満足の度合いも高かったような気がする。

 しかしこれ以降は、建物や部分架構の地震時挙動とか耐震性能評価といった(言ってみれば)本道の研究に戻っていったので、このようなprimitiveな研究を行う時間や余裕は無くなった。ちょっと残念なことではある。ただ、このような研究をやりたいと思っても、現在の学生さんがついて来てくれるかどうかは甚だ疑問である。


5. 引張り軸力を受ける鉄筋コンクリート柱の逆対称曲げせん断実験

 この研究は西川先生の科研費・一般研究(B)によって実施したもので、担当はM1の吉田格英くんである。またアルバイトとして学部生の萬造寺学くんを雇った(彼はのちに卒論生として北山研に入ることになる)。

 建物の外柱では地震時に引張り軸力を受けることがあるが、このときのせん断強度についての実験研究は多くはなかった。そこで引張り軸力の大きさを変数として、RC柱の逆対称曲げせん断実験をBRIフレームを用いて行うことにした。予算の制約から試験体は全4体である。柱の断面サイズは300mm角で、せん断スパン比は1とした。試験体は後述するPCa柱と一緒に、大成建設技術研究所で作製した。鉄筋組み立てからゲージ貼り、リード線の養生、そしてコンクリート打設まで全てを外注した初めての実験である。

 この実験では、はじめてBRI式載荷装置に組み込まれたアクチュエータを使用した。だが実験で最も苦労したのは、試験体をBRIフレームの所定の位置に設置することだったような気がする。当時建築学科で保有していたフォークリフトは、その容量が小さかったために使用できなかった。

 そこで特殊な石鹸を銅板に塗布してツルツルにして滑り易くした上に試験体を乗せて、ゆっくり滑らせてセットする、という方法を採用した。しかし、試験体の上下には重たいコンクリート・スタブが付いているため、ゆっくり滑らせても試験体の頭がフラフラして、あまり気持ちのよいものではなかった。

 さらに、試験体は寝かせて大学に搬入したので、実験する際には立て起こさなければならない。その作業がひと苦労であった。天井クレーンを親として、そこに子となるチェーン・ブロックを引っ掛けて、寝ている試験体を立て起こすのだが、そのための鉄骨治具を大成建設の伊藤一男さんが設計してくれた。しかし3 tonf近い試験体を人力でチェーン・ブロックを引張って起こすためには結構な力が必要で、相当にくたびれた。

 

 実験では軸力を変数とし、引張り軸力が増大するほどせん断強度は低下するが靭性は向上する、という既往の研究と同様の結果を得た。引張り軸力を受ける場合でも、軸変形は伸びから縮みへと転じており、圧縮軸力下でのせん断破壊と定性的には同じ性状であった。

 しかしここでひとつの疑問が涌き上がった。引張り軸力が大きいほど縮み量は大きかったのに、せん断強度後のせん断耐力の低下は小さかったのである。圧縮軸力を受ける場合には、主対角を結ぶ斜め圧縮ストラットが圧壊してせん断耐力が低下し、軸変形も縮みへと転じると理解される。しかしのちのFEM解析によって、引張り軸力が大きくなるほど主対角を結ぶアーチ機構は形成されにくいことが分かった。

 そうすると、大きな引張り軸力を受ける柱部材のなかのコンクリートで圧壊するのは、危険断面近傍のコンクリートのみ(すなわち曲げモーメントによるコンクリートの圧壊)ということになる。それなのになぜ縮み量が大きくなったのか、この謎は未だに解明できずにいる(というか、この文章を書くために古い研究ノートを見直していて、この疑問点を見つけ出した、というのが実情ですが)。

 この研究が契機となって、のちに複雑な変動軸力を受けるRC柱のせん断抵抗機構に関する実験研究や、BhideとCollinsのModified Compression Field Theory (略してMCFT、修正圧縮場理論)を利用したRC柱のせん断挙動のマクロ解析に取り組むことになる。


6. 引張り軸力を受けるPCa柱の逆対称曲げせん断実験

 このプロジェクトは、西川孝夫先生が大成建設のプレハブ部門(?)との共同研究として企画されたものである。詳しい経緯は私は知らないが、前述の引張り軸力を受けるRC柱の実験研究と抱き合わせで計画し、実験した。実験担当は西川研M1の高橋裕幸くん(現東京電力)にお願いした。大成建設の担当者は伊藤一男さんと技研の吉崎征二さんであった。

 対象は高層RC建物で用いられるプレキャストRC柱で、その接合面における力学特性を逆対称曲げモーメントと引張り軸力が作用する状況下で実験によって検討するという研究であった。この実験では、せん断力を一定に保持した状態で引張り軸力を漸増させる、という特殊な加力経路を採用した。この載荷経路では、引張り軸力をどんどん大きくしてゆくと、水平力を保持するために層間変位は増大することになる。

 接合面でのすべり性状や摩擦係数、Mohr-Coulombによる破壊メカニズムの検討、主筋のダボ作用の定量評価、などを行ったが、何せ通常の地震時を模擬した加力履歴ではないため、実験での物理現象を理解するのに相当苦労した記憶がある。ひとつ例を挙げてみる。柱頭、柱脚の危険断面に作用する曲げモーメントMは両者とも等しいとすると、

 M = (Ph - )/2

ここで、P:アクチュエータで与えた水平力、h:柱の内法階高、N:引張り軸力(正)、δ:層間変位、である。

 実験では水平力を一定に保持して、引張り軸力を増大させる。そうすると上式において、第1項のPhは一定だが、引張り軸力Nは増加し、層間変位δも実験結果から増加したので、第2項のは増大する。すなわち柱危険断面における曲げモーメントは減少するのである。




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